飯高 寺
(飯高 檀林 から転送 )
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1580 | |
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2040005011821 | |
概要
[歴史
[日 統 は飯塚 生 まれで地元 光福寺 で出家 、比叡山 延暦寺 に学 んだ後 、天正 元年 (1573年 )飯塚 檀林 を開 檀 する。天正 5年 (1577年 )日 統 の後輩 にあたる延暦寺 学僧 日生 [要 曖昧 さ回避 ]、日 尊 [要 曖昧 さ回避 ]ら30余 名 が学 室 に加 わる。日 統 没後 は日生 が講 主 となり、内山 ・妙 広 寺 を経 て妙見山 妙福寺 に移 る。この妙福寺 学 室 が妙 雲山 法輪寺 に発展 し飯高 壇 林 となる。天正 8年 (1580年 )帰京 した日生 に後 を託 された日 尊 が講 主 となってからは学僧 も多 く集 まり益 々盛大 になる。天正 19年 (1591年 )豊臣 秀吉 の関東 制圧 後 、飯高 城 主 平山 刑部 常 時 は野 に下 りその城 地 全域 を寄進 する。徳川 家康 が朱印 地 30石 を与 え、飯高 寺 と公称 する。慶長 元年 (1596年 )飯高 寺 ・日 尊 は飯高 檀林 を開 檀 する。慶長 13年 (1608年 )江戸城 徳川 家康 面前 にて日蓮宗 日経 と浄土宗 増上寺 源 誉 の間 で宗論 が行 われ、日蓮宗 が浄土宗 に詫 び証文 を出 すことになった時 、対応 をしたのが檀林 第 3世 講 主 日 遠 である。日 遠 が家康 からの処罰 を受 けるところを仲裁 したのが日 遠 を師事 していたお万 の方 であり、後 の講堂 焼失 の際 に多額 の寄付 が送 られるきっかけともなった。慶安 3年 (1650年 )火災 により、講堂 を焼失 する。慶安 4年 (1651年 )養 寿 院 は講堂 焼失 に際 し見舞 いとして米 、金 、袈裟 、材木 などを送 る。明治 5年 (1872年 )学制 発布 により、飯高 檀林 は廃 檀 となり、以後 立正大学 として今日 に至 る。残 された施設 は、講堂 、庫裏 、鐘楼 、鼓 楼 、題目 堂 、経蔵 、惣門 で、破棄 されたのは北 丈 、食堂 、衆 寮 、所化 部屋 、妙見 堂 、七 面 社 などである。平成 14年 (2002年 ) 6年 越 しの講堂 修理 が終 わり焼失 後 再建 時 の姿 が甦 った。
文化財
[重要 文化財 (国 指定 )
[講堂 -慶安 4年 (1651年 )の建立 。桁行 26.7m、梁間 18.2m、一 重 、入母屋 造 、とち葺。昭和 55年 (1980年 )05月 31日 指定 。鐘楼 -承 応 3年 (1654年 )以前 の建立 。桁行 一 間 、梁間 一 間 、一 重 、入母屋 造 、こけら葺。昭和 55年 (1980年 )05月 31日 指定 。鼓 楼 -享 保 5年 (1720年 )の建立 。桁行 一 間 、梁間 一 間 、袴 腰 付 、入母屋 造 、茅 葺。昭和 55年 (1980年 )05月 31日 指定 。総門 -延 宝 8年 (1680年 )の建立 。高麗 門 、銅 板葺 。昭和 55年 (1980年 )05月 31日 指定 。
千葉 県 指定 史跡
[飯高 檀林 跡 附 :経蔵 、題目 堂 、庫裡
匝瑳 市 指定 文化財
[飯高 寺 の天蓋 (匝瑳 市 指定 有形 文化財 )黄門 桜 (匝瑳 市 指定 天然記念物 )千葉 県 匝瑳 市 飯高 2088-4
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鐘楼 -
鼓 楼 -
一切 経蔵 -
題目 堂 -
総門
脚注
[参考 文献
[- ふるさとの
歴史 (飯高 地区 のむかし)編 :石渡 治雄 発行 :飯高 地区 の歴史 を守 る会 飯高 教育 振興 会 八日市場 の村 々編 :八日市場 市 史 編 さん委員 会
交通 アクセス
[道路 千葉 県 道 16号 佐原 八日市場 線 佐原 市街 から約 30分 、匝瑳 市街 から約 10分 千葉 県 道 74号 多古 笹本 線 飯高 交差点 を匝瑳 市街 方面 へ約 1分 東総 広域 農道 県道 16号 佐原 八日市場 線 との交差点 を佐原 方面 へ約 1分
鉄道
外部 リンク
[飯高 寺 (はんこうじ) -匝瑳 市