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高嶋たかしま米峰べいほう

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高嶋たかしま 米峰べいほう
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん (1875-01-15) 1875ねん1がつ15にち
日本の旗 日本にっぽん新潟にいがたけん
死没しぼつ 1949ねん10月25にち(1949-10-25)(74さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう三鷹みたか
出身しゅっしんこう 哲学てつがくかん
子供こども 高嶋たかしま雄三郎ゆうさぶろう(文筆ぶんぴつ)
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや 仏教ぶっきょうがく宗教しゅうきょうがく
研究けんきゅう機関きかん 東洋大学とうようだいがく
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高嶋たかしま 米峰べいほう高島たかしま、たかしま べいほう、1875ねん1がつ15にち - 1949ねん10月25にち)は、日本にっぽん社会しゃかい教育きょういくいえ仏教ぶっきょう学者がくしゃ宗教しゅうきょう東洋大学とうようだいがくだい12だい学長がくちょうごう大圓だいえん[1]聖徳太子しょうとくたいし奉賛ほうさんかい理事りじつと[2]、『聖徳太子しょうとくたいし正伝せいでん』(明治めいじ書院しょいん)が天皇てんのう皇后こうごう皇太后こうたいごう皇太子こうたいし献上けんじょうされるなど[3]皇室こうしつともふかかかわりがあった。

経歴けいれき

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丙午ひのえうま出版しゅっぱんしゃ左下ひだりした)と東洋大学とうようだいがく
高嶋たかしま米峰べいほうびかけにより結成けっせいされた東洋大学とうようだいがくはいしゅ同盟どうめい[4]

1875ねん新潟にいがたけんちゅう頸城ぐん竹直たけなおむら現在げんざい上越じょうえつ吉川よしかわまれ。高田たかだきょうじんきょうこう西本願寺にしほんがんじ文学ぶんがくりょう1893ねん明治めいじ26ねん)に上京じょうきょうして哲学てつがくかん東洋大学とうようだいがく)に入学にゅうがくし、1896ねん明治めいじ29ねん卒業そつぎょう[5]井上いのうえ円了えんりょう助手じょしゅとなり、『東洋とうよう哲学てつがく』の編集へんしゅう従事じゅうじする[2]。その北國きたぐに新聞しんぶん記者きしゃ[2]きょうはな尋常じんじょう中学校ちゅうがっこう講師こうし[6]中央公論ちゅうおうこうろん』の評論ひょうろん担当たんとうする[7]1902ねん明治めいじ35ねん)に哲学てつがくかん中等ちゅうとう教員きょういん無試験むしけん検定けんてい認可にんかされたさいには『中央公論ちゅうおうこうろんだいじゅうはちねんだいさんごうに「哲学てつがくかん事件じけんとはぞや」とだいする一文いちぶんあらわして文部省もんぶしょう対応たいおうきびしく批判ひはんした[8]

哲学てつがくかん時代じだいからユニテリアン教会きょうかいかよう。キリスト教きりすときょう影響えいきょうけ、しん仏教ぶっきょう運動うんどう提唱ていしょうし、境野さかいのあきら渡辺わたなべうみあさひ加藤かとうげんさとしみちとおるげん田中たなかおさむろく安藤あんどうひろし杉村すぎむら縦横じゅうおうしん仏教ぶっきょう同志どうしかい創立そうりつし、禁酒きんしゅ禁煙きんえんはい運動うんどうなどを展開てんかい機関きかん雑誌ざっしとして『しん仏教ぶっきょう』を創刊そうかんした。

1901ねん明治めいじ34ねん)にはしょう石川原いしかわらまちにわとりごえどう書店しょてんひらき、さらに丙午ひのえうま出版しゅっぱんしゃおこしておおくの哲学てつがく宗教しゅうきょうしょ出版しゅっぱんした[5]

1926ねん大正たいしょう15ねん)6がつ国際こくさい連盟れんめいしたに、国内こくないはい運動うんどう推進すいしん国民こくみん委員いいんかい発足ほっそくどうかい委員いいん指名しめいされる[9]

1924ねん大正たいしょう13ねん)から1926ねん大正たいしょう15ねん)まで東洋大学とうようだいがく校友こうゆうかい委員いいんちょう、1931ねん昭和しょうわ6ねん)から東洋大学とうようだいがく財団ざいだん維持いじいんつと[5]1936ねん昭和しょうわ11ねん)には東洋大学とうようだいがく講師こうし(のち教授きょうじゅ)となったが、1938ねん昭和しょうわ13ねん)10がつ辞任じにん[5]1943ねん昭和しょうわ18ねん)7がつ東洋大学とうようだいがくだい12だい学長がくちょうとなったが、石原産業いしはらさんぎょう鉱山こうざんでの勤労きんろう動員どういん問題もんだいにより1ねんはんらずで辞任じにん[5]

戦時せんじちゅう日本にっぽん文学ぶんがくほう国会こっかい評論ひょうろん随筆ずいひつ部会ぶかいちょうであった。

1945ねん昭和しょうわ20ねん)4がつ14にち未明みめい空襲くうしゅう本郷ほんごうあけぼのまち自宅じたく焼失しょうしつしたため、三島みしま海雲かいうんカルピス社長しゃちょう)の好意こういにより北多摩きたたまぐん三鷹みたかまち北野きたののカルピス牧場ぼくじょうあといえうつんだ[10]1949ねん昭和しょうわ24ねん)10がつ25にちかん嚢胞のうほうのためさんたか自宅じたく死去しきょ[11]法名ほうみょうずみいんしゃく米峰べいほう[12]はか文京ぶんきょうきよしてらにある。

人物じんぶつ

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受賞じゅしょう栄典えいてん

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家族かぞく親族しんぞく

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著書ちょしょ

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仏教ぶっきょう図書としょ出版しゅっぱんにも尽力じんりょくし、その著書ちょしょは60さつにのぼる。

  • 一休いっきゅう和尚おしょうつて』(文明ぶんめいどう、1904ねん
  • 理想りそうてき商業しょうぎょう』(ぶんろくどう、1906ねん丙午ひのえうま出版しゅっぱんしゃ、1910ねん
  • 広長ひろながした』(丙午ひのえうま出版しゅっぱんしゃ、1910ねん
  • 悪戦あくせん』(丙午ひのえうま出版しゅっぱんしゃ、1911ねん
  • 現代げんだい青年せいねんろん』(丙午ひのえうま出版しゅっぱんしゃ、1912ねん
  • 噴火口ふんかこう』(丙午ひのえうま出版しゅっぱんしゃ、1913ねん
  • 店頭てんとうぜん』(日月じつげつしゃ、1914ねん
  • 廿にじゅうとし前後ぜんこう主義しゅぎ』(丙午ひのえうま出版しゅっぱんしゃ、1916ねん
  • 仏説ぶっせつよんじゅうしょうけい講話こうわ』(丙午ひのえうま出版しゅっぱんしゃ、1918ねん
  • 仏心ほとけごころおに』(丙午ひのえうま出版しゅっぱんしゃ、1918ねん
  • よんじゅうしょうけい講話こうわ』(丙午ひのえうま出版しゅっぱんしゃ、1919ねん
  • 聖徳太子しょうとくたいし逆臣ぎゃくしん馬子まご』(丙午ひのえうま出版しゅっぱんしゃ、1920ねん
  • のこきょうけい講話こうわ』(丙午ひのえうま出版しゅっぱんしゃ、1921ねん明治めいじ書院しょいん、1934ねん学風がくふう書院しょいん、1957ねん
  • じゅうななじょう憲法けんぽう略解りゃっかい』(聖徳太子しょうとくたいしいちせんさんひゃくねん御忌ごき奉賛ほうさんかい、1921ねん
  • よこにらんだ人生じんせい』(丙午ひのえうま出版しゅっぱんしゃ、1923ねん
  • 人生じんせいしょうかん』(丙午ひのえうま出版しゅっぱんしゃ、1926ねん
  • おんな』(中外ちゅうがい出版しゅっぱん、1926ねん
  • 婦人ふじん問題もんだい婦人ふじん運動うんどう』(大東だいとう出版しゅっぱんしゃ、1927ねん
  • 宗教しゅうきょう人生じんせい』(帝国ていこく教育きょういくかい出版しゅっぱん、1929ねん
  • べいほう曰はく』(丙午ひのえうま出版しゅっぱんしゃ、1930ねん
  • 本願寺ほんがんじ物語ものがたり』(実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ、1931ねん増田ますださださんへん学風がくふう書院しょいん、1957ねん
  • ものちからしんちから』(実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ、1934ねん
  • しんずるちから』(明治めいじ書院しょいん、1936ねん
  • どう方向ほうこうへ』(明治めいじ書院しょいん、1937ねん
  • 仏法ぶっぽうせいほう』(春潮しゅんちょうしゃ、1938ねん
  • ひと - 現代げんだいじゅう人物じんぶつかた随筆ずいひつ』(大東だいとう出版しゅっぱんしゃ、1939ねん
  • 権兵衛ごんべえがらす』(高山たかやま書院しょいん、1940ねん
  • 聖徳太子しょうとくたいし』(しおぶんかく、1942ねん
  • 処世しょせい青年せいねん』(しおぶんかく、1944ねん
  • しんかて』(金尾かなお文淵ぶんえんどう、1946ねん
  • 仏教ぶっきょう全貌ぜんぼう』(りゅうこうしゃ、1948ねん
  • 聖徳太子しょうとくたいし正伝せいでん』(明治めいじ書院しょいん、1948ねん
  • 仏教ぶっきょうとはどんなものか』(学風がくふう書院しょいん、1955ねん
  • 修養しゅうようよんじゅうにち』(学風がくふう書院しょいん、1956ねん
  • 仏教ぶっきょう入門にゅうもん』(学風がくふう書院しょいん、1956ねん
  • 毎日まいにち修養しゅうよう』(増田ますだ貞三ていぞうへん学風がくふう書院しょいん、1957ねん
  • 仏教ぶっきょう全貌ぜんぼう』(学風がくふう書院しょいん、1957ねん
  • 高嶋たかしま米峰べいほう自叙伝じじょでんべいほう回顧かいこだん-ぞく高嶋たかしま米峰べいほう自叙伝じじょでん - 伝記でんき高嶋たかしま米峰べいほう』(学風がくふう書院しょいん、1950ねん大空おおぞらしゃ、1993ねん

共著きょうちょ

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へんしょ

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選集せんしゅう

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論文ろんぶん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 理想りそうてき商業しょうぎょう奥付おくづけより
  2. ^ a b c 真宗しんしゅう人名じんめい辞典じてん弘文こうぶんどう、1990ねん、216ぺーじ
  3. ^ 高嶋たかしま米峰べいほう自叙伝じじょでん』 259ぺーじ
  4. ^ 東洋大学とうようだいがくひゃくねん通史つうしへんⅠ、951-953ぺーじ
  5. ^ a b c d e 東洋大学とうようだいがくひゃくねん通史つうしへんⅠ、1296-1298ぺーじ
  6. ^ 高嶋たかしま米峰べいほう自叙伝じじょでん』 223-224ぺーじ
  7. ^ 高嶋たかしま米峰べいほう自叙伝じじょでん』 226ぺーじ
  8. ^ 東洋大学とうようだいがくひゃくねん通史つうしへんⅠ、524-525ぺーじ
  9. ^ はい運動うんどう推進すいしん国民こくみん委員いいんかい発会はっかい」『中外ちゅうがい商業しょうぎょう新報しんぽう』1926ねん9がつ17にち大正たいしょうニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい大正たいしょうニュース事典じてんだい7かん 大正たいしょう14ねん-大正たいしょう15ねん本編ほんぺんp.600 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  10. ^ 高嶋たかしま米峰べいほう自叙伝じじょでん』 255-256ぺーじ
  11. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』 1949ねん10がつ26にち
  12. ^ 高嶋たかしま米峰べいほう自叙伝じじょでん』 263ぺーじ
  13. ^ 高嶋たかしま米峰べいほう自叙伝じじょでん』 234ぺーじ
  14. ^ 高嶋たかしま米峰べいほう自叙伝じじょでん』 247ぺーじ
  15. ^ 坪内つぼうち祐三ゆうぞう高島たかしま平三郎へいさぶろう」『20世紀せいきニッポンのう偉才いさい100にん朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1993ねん11月5にち、192-193ぺーじ 
  16. ^ 高嶋たかしま米峰べいほう自叙伝じじょでん』 253ぺーじ

関係かんけい文献ぶんけん

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  • CiNii>高嶋たかしま米峰べいほう
  • 高嶋たかしま米峰べいほう』(高嶋たかしま米峰べいほうぼつねん記念きねん顕彰けんしょう書籍しょせき刊行かんこうかいへんピーマンハウス、2000ねん
  • 東洋大学とうようだいがく東洋大学とうようだいがく創立そうりつじゅうねん東洋大学とうようだいがく、1937ねんdoi:10.11501/1441580NCID BN05738471NDLJP:1441580https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1441580 
  • 東洋大学とうようだいがく通史つうしへん東洋大学とうようだいがく創立そうりつ百年史編纂委員会東洋大学井上円了記念学術センター、sep 1993https://toyo.repo.nii.ac.jp/records/7940 

外部がいぶリンク

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