むね

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むね
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん (1610-09-04) 1610ねん9月4にち
きよし 紹興しょうこう姚県
死没しぼつ 1695ねん8がつ12にち(1695-08-12)(84さい
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや 儒学じゅがく陽明学ようめいがく
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むね(こう そうぎ、まんれき38ねん8がつ8にち1610ねん9月24にち) - かん34ねん7がつ3にち1695ねん8がつ12にち))は、中国ちゅうごくあきら末清すえきよはつ儒学じゅがくしゃは「ふとしおき」。ごうは「みなみかみなり」・「なししゅう」。紹興しょうこう姚県出身しゅっしんあかり滅亡めつぼうさいしてはんきよし運動うんどう参加さんかするがのち故郷こきょう隠棲いんせいして学術がくじゅつ没頭ぼっとう陽明学ようめいがく右派うは立場たちばから実証じっしょうてき思想しそうき、考証こうしょうがくしょうされた。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

おう陽明ようめいとは同郷どうきょうにあたる。ちちみこともとあかりまつひがしりんとう指導しどうしゃ一人ひとりとしてられ、1626ねん天啓てんけい6)にとき権力けんりょくしゃで、ひがしりんとう対抗たいこうする閹党をしたがえていたちゅうけん弾圧だんあつ獄死ごくしした。

むね羲はひがしりんとう精神せいしんいだ政治せいじ結社けっしゃふくしゃ参加さんか1644ねんなりによってあかりほろび、せい中国ちゅうごく本土ほんど侵入しんにゅうしてくると郷里きょうり子弟してい組織そしきして義勇軍ぎゆうぐん結成けっせい清朝せいちょう支配しはい抵抗ていこうした。かれは魯王しゅ以海政権せいけん協力きょうりょくし、1649ねんには長崎ながさきおとず日本にっぽん江戸えど幕府ばくふはんきよし援軍えんぐん要請ようせいしている(このとき一部始終いちぶしじゅうは『日本にっぽん乞師』にまとめられている)。このとき要請ようせいたせず、結局けっきょくはんきよしふくあかり運動うんどうたれてしまい、以後いご故郷こきょう著述ちょじゅつれる日々ひびおくった。

きよからは博学はくがくおおとりこもきょけたがかれはこれを固辞こじした。ただし、きよしあかり編纂へんさん事業じぎょうにあたっては、自身じしんわりに息子むすこひゃくいえ弟子でしまん斯同おもむかせている。これはあかり国難こくなんじゅんじた諸氏しょし歴史れきし後世こうせいのこすという意図いとがあったといわれる。のちだい往生おうじょうした。享年きょうねんは85。

その著書ちょしょ思想しそう[編集へんしゅう]

むね羲はいちだい陽明学ようめいがくものであるりゅうそうあまね師事しじしていた。自身じしん陽明学ようめいがくしゃであったが、あきらまつ陽明学ようめいがく左派さはおちいった観念かんねんだけで事物じぶつろんじる空疎くうそ学問がくもんには否定ひていてきであった。実証じっしょうてき学問がくもん、すなわち実践じっせんたっと事実じじつそくした学問がくもんいた。その学問がくもんたん歴史れきしがくまらず経学けいがく地学ちがく数学すうがくなどのかく分野ぶんやにわたり考証こうしょうがくなかでも浙東学派がくはしょうされる。

代表だいひょうてき著述ちょじゅつをみていくと、たとえば1663ねんに『あかりえびすまちおとずれろく中国語ちゅうごくごばん』をあらわしている。ひがしりんとうおよふくしゃ影響えいきょうつよけた政治せいじ思想しそうなかから、政治せいじ制度せいど経済けいざい軍事ぐんじ学問がくもんなどあらゆる角度かくどから理想りそう国家こっかかたいた。かれあききよしにみられるような皇帝こうてい独裁どくさい専制せんせい政治せいじ批判ひはんし、『孟子もうし』にもとづくような皇帝こうてい臣下しんか国家こっか人民じんみん存在そんざいろんじた。

1676ねんには『あかり儒学じゅがくあん中国語ちゅうごくごばん』をあらわした。あかり代表だいひょうする数多すうた学者がくしゃ列伝れつでん思想しそう批評ひひょう体系たいけいしたもので、中国ちゅうごくにおいて最初さいしょ体系たいけいてき学術がくじゅつしょしょうされる。さらにかれあかり前史ぜんしであるそうもと思想しそうである『そう元学もとがくあん』の著述ちょじゅつかるが完成かんせいたずに病没びょうぼつ門人もんじんぜんもちらがついおこない、さらにみちこう年間ねんかん補遺ほいおこなわれている。

このほか、『明文あきふみうみ』『あかりあん』『だいすべれき推法』『よん明山めいさんこころざし』など、かれ博学はくがくはその多数たすう著書ちょしょにあらわれている。

後世こうせいへの影響えいきょう[編集へんしゅう]

かれの『あきらえびすまちおとずれろく』は儒学じゅがく範疇はんちゅうべられた、現実げんじつ政治せいじシステムの改革かいかくあんであり、専制せんせい政治せいじ批判ひはんしてもけっしてそれが君主くんしゅせいぜん否定ひていにつながるわけではない。しかしながら当時とうじとしては革新かくしんてき思想しそうおよはんきよし運動うんどう前歴ぜんれきから、きよしいぬいたかしみかどによって『あきらえびすまちおとずれろく』などの著書ちょしょ禁書きんしょとなるなどの迫害はくがいけている。

きよしまつになって、革命かくめいにより『あきらえびすまちおとずれろく』は革命かくめい思想しそう宣伝せんでん民主みんしゅ主義しゅぎ経典きょうてんとして利用りようされ、むね羲は「中国ちゅうごくルソー」としょうされるようになる[1]。その中華民国ちゅうかみんこくにおいて、よん運動うんどうなどの学生がくせい運動うんどうでこの著書ちょしょはよく引用いんようされた。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]