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1973ねんのル・マン24あいだレース

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1973としル・マン24あいだレース
前年ぜんねん: 1972 翌年よくねん: 1974
1973ねんのコース

1973ねんのル・マン24あいだレース24 Heures du Mans 1973 )は、41かい[1]ル・マン24あいだレースおよ世界せかいメーカー選手権せんしゅけんだい8せんであり、1973ねん6月9にちから6がつ10日とおかにかけてフランスのサルト・サーキットおこなわれた。

概要がいよう[編集へんしゅう]

国際こくさい自動車じどうしゃ連盟れんめいは、スポーツカーシリーズは6あいだまたは1000kmのレースにかけられるものとしてル・マン24あいだレースを世界せかい選手権せんしゅけんからはず方向ほうこうしたがフランス西部せいぶ自動車じどうしゃクラブこごめせず伝統でんとうまも決意けついしめし、結果けっかとして1973ねんのル・マン24あいだレースにも世界せかい選手権せんしゅけんがかけられた[2]

設立せつりつからわずか1年余ねんよのシグマ・オートモーティブ(げんサード)がシグマ・MC73作成さくせいして26号車ごうしゃとして参戦さんせんした。ル・マン24あいだレースに日本にっぽんしゃ参加さんかしたのはこれがはじめてである[2][注釈ちゅうしゃく 1]オイルショック影響えいきょうけてほとんどの日本にっぽん自動車じどうしゃメーカーがレースに興味きょうみうしなっていたころで、国内こくないでレース活動かつどうつづけるのですら困難こんなん時代じだいであり、オーナー加藤かとうしん情熱じょうねつによるプライベート参戦さんせんであった[3]

日本にっぽんからのはつ参戦さんせんということで主催しゅさいしゃからだい歓迎かんげいけ、サーキットにはまるかかげられた。参加さんかこくちゅうふつ大使たいし招待しょうたいする恒例こうれいにより日本にっぽんちゅうふつ大使たいしもル・マンにはじめて招待しょうたいされ、加藤かとうしんちゅうふつ大使たいし感謝かんしゃされたという[3][注釈ちゅうしゃく 2]。シグマはトヨタとの関係かんけいふかかったので当初とうしょトヨタエンジンを前提ぜんていでエントリーしたが突然とつぜん入手にゅうしゅできなくなった[4]

なお、1972ねんのル・マン24あいだレース鈴木すずき鈑金がエントリーしながら参加さんかしていなかったため[4]、「ここで参戦さんせんすと日本人にっぽんじん信用しんようがなくなり永久えいきゅう日本にっぽんチームが参加さんかできなくなる」とかんが[4]加藤かとうしんまよったすえマツダをつけ、」衆議院しゅうぎいん議員ぎいん石原いしはら慎太郎しんたろうあいだはいってもらい、当時とうじ社長しゃちょう松田まつだ耕平こうへい紹介しょうかいしてもらい[4]、マツダはマツダオート東京とうきょうチューン[4]12Aがた[3]ワークスエンジン2を50まんえん貸与たいよするむね約束やくそく[4]正月しょうがつ返上へんじょうでル・マン仕様しよう作成さくせい筑波つくばサーキットを10しゅうさせただけでフランスにおくった[4]

富士ふじグランチャンピオンレース参加さんかしながらだったので殺人さつじんてき日程にっていであった[3]。シグマのエースだった高橋たかはしはれくにトヨタ契約けいやくドライバーだったのでマツダのエンジンをんだ車両しゃりょうにはれず[3]、ドライバーはなまさわとおる[3][5]ふなひろし[3][5]、フランスじんフォーミュラ2[4]ドライバーパトリック・ダル・ボ(Patrick Dal Bo[4][3][5]となった[4]。ドライバー契約けいやくきんふくめたすべての経費けいひは1000まんえん、メインスポンサーとしてパンアメリカン航空こうくうがつき、さらに現地げんちりしてからソニーが500まんえん提供ていきょうした[4]自動車じどうしゃ製作せいさくは200まんえん遠征えんせいメンバーは3にん現地げんち採用さいようぶんふくめても総勢そうぜい10めいたないちいさなチームだった[4]

予選よせん[編集へんしゅう]

フェラーリ312PBで1、2はやさをアピールした[2]

シグマ26号車ごうしゃはル・マンようのセッティングなど皆目かいもくからず不安ふあんかかえて予選よせんのぞんだ[3]が、軽量けいりょうであったため俊足しゅんそく[4]、4ふん11びょう1、14意外いがい好成績こうせいせきであった[3]。しかし予選よせん2にちにクラッチが故障こしょうし、加藤かとう6月8にち午前ごぜんにマツダオート東京とうきょう電話でんわけ、大橋おおはしたかしいたりにクラッチを依頼いらいした。大橋おおはしただちにクラッチを自動車じどうしゃせて羽田はたパンアメリカン航空こうくう事務所じむしょかいパリきの飛行機ひこうき搭乗とうじょういんわたした[4]加藤かとうはこれと並行へいこうしてフランスでやとったディアメールというメカニックの「パリに6あいだでクラッチをつくってくれる業者ぎょうしゃがある」むね進言しんげんけて注文ちゅうもん製作せいさくしてもらい、徹夜てつや装着そうちゃくして決勝けっしょうあいだわせた[4]

決勝けっしょう[編集へんしゅう]

出走しゅっそうしたのは55だい[1][5]

フェラーリは、決勝けっしょうではトラブルが発生はっせいしておくれた[2]

シグマ26号車ごうしゃ耐久たいきゅうせいがなく、またル・マン仕様しようは300kmほどしか走行そうこうテストをしておらず、そこでたトラブルの対策たいさくすら現地げんちおこなうというのが実情じつじょうで、そのうえル・マンの決勝けっしょうほどわる路面ろめん高速こうそく長時間ちょうじかん連続れんぞく走行そうこうする場面ばめん日本にっぽんではまった再現さいげんできなかったため、およそ想像そうぞうもつかないトラブルが続出ぞくしゅつした[3]。サスペンションボルトの脱落だつらくフェラーリからボルトをりてしのいだ[4]が、10あいだ30ふん[4][5]79しゅう[5]クラッチトラブル[4][5]でコースじょう停車ていしゃして[4]しまいリタイヤ[4][5][3]となった。

結果けっか[編集へんしゅう]

完走かんそうしたのは21だい[1][3]

アンリ・ペスカロロ/ジェラール・ラルースくみマトラシムカ・MS670B[1]の11号車ごうしゃが24あいだで4,853.945km[1][5]平均へいきん速度そくど202.247km/h[1]はしって1972ねんつづいて優勝ゆうしょう[2][1]した。

シグマはソニーからった500まんえんぶん黒字くろじとなり、1974ねんのル・マン24あいだレースへの参加さんかのメドがった[4]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 日本にっぽんせいエンジンとしては1970ねんにリーバイス・レーシングのシェブロンB16マツダ48号車ごうしゃ搭載とうさいしたマツダ・10Aがたエンジンれいがある。
  2. ^ 時期じきからるにちゅう山賀やまがひろし

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g 『ルマン 伝統でんとう日本にっぽんチームのたたかい』p.223「資料しりょう1」。
  2. ^ a b c d e 『ルマン 伝統でんとう日本にっぽんチームのたたかい』pp.27-154「ルマン24あいだレースの歴史れきし」。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 『ルマン 伝統でんとう日本にっぽんチームのたたかい』pp.155-220「ルマン24あいだレース挑戦ちょうせん 日本にっぽんチーム」。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『ル・マン 偉大いだいなるくさレースの挑戦ちょうせんしゃたち』pp.5-28。
  5. ^ a b c d e f g h i 『ル・マン 偉大いだいなるくさレースの挑戦ちょうせんしゃたち』pp.298-303。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 『ルマン 伝統でんとう日本にっぽんチームのたたかい』グランプリ出版しゅっぱん ISBN 4-87687-161-2
  • 黒井くろい尚志ひさし『ル・マン 偉大いだいなるくさレースの挑戦ちょうせんしゃたち』集英社しゅうえいしゃ ISBN 4-08-780158-6