2月 がつ 内乱 ないらん (ドイツ語 ご : Februarkämpfe )、若 も しくはオーストリア内戦 ないせん (ドイツ語 ご : Österreichischer Bürgerkrieg )は、1934年 ねん の2月 がつ 12日 にち から16日 にち にかけて、エンゲルベルト・ドルフース 首相 しゅしょう のオーストリア第 だい 一 いち 共和 きょうわ 国 こく 政府 せいふ および護国 ごこく 団 だん 等 ひとし のファシスト 勢力 せいりょく とオーストリア社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう およびその武力 ぶりょく 組織 そしき であった共和 きょうわ 国 こく 保護 ほご 同盟 どうめい (de:Republikanischer Schutzbund )をはじめとする社会 しゃかい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく との間 あいだ で行 おこな われた小 しょう 戦闘 せんとう である。衝突 しょうとつ はリンツ で始 はじ まり、ウィーン 、グラーツ 、ブルック・アン・デア・ムア 、ユーデンブルク 、ウィーナー・ノイシュタット 、そしてシュタイアー で繰 く り広 ひろ げられた。さらに、東部 とうぶ や中央 ちゅうおう 部 ぶ の他 ほか の都市 とし でも幾 いく つかの衝突 しょうとつ があった。
オーストリア社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう はオーストリアにおける二 に 大 だい 政党 せいとう の内 うち の一 ひと つであったが、内戦 ないせん を引 ひ き起 お こしたとして解散 かいさん させられ、ドルフースの「祖国 そこく 戦線 せんせん 」(de:Vaterländische Front 、略 りゃく してVF)が唯一 ゆいいつ の合法 ごうほう 的 てき な政治 せいじ 勢力 せいりょく となり、「オーストロファシズム 」体制 たいせい が固 かた まる決定的 けっていてき なきっかけになった。
ウィーン市 し のフロリズドルフ区 く にある大型 おおがた 公営 こうえい 住宅 じゅうたく (ゲマインデバウ)「Schlingerhof」。多数 たすう の武器 ぶき が備 そな えられており、共和 きょうわ 国 こく 保護 ほご 同盟 どうめい によって要塞 ようさい として使用 しよう された
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 のち にオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく が崩壊 ほうかい すると、ドイツ・オーストリア国 こく (かつての大 だい 帝国 ていこく のうちのドイツ語 どいつご 圏 けん の部分 ぶぶん によって作 つく られた、妥協 だきょう によって成立 せいりつ した国民 こくみん 国家 こっか )は議院 ぎいん 内 ない 閣 かく 制 せい の国家 こっか として成立 せいりつ した。
新 あたら しい国家 こっか では2つの主要 しゅよう な党派 とうは が優位 ゆうい を占 し めた。つまり社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ (政治 せいじ 的 てき にはオーストリア社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう によって代表 だいひょう された)と、保守 ほしゅ 主義 しゅぎ 者 しゃ (政治 せいじ 的 てき にはキリスト教 きりすときょう 社会党 しゃかいとう によって代表 だいひょう された)である。保守 ほしゅ 主義 しゅぎ 者 しゃ 達 たち が地方 ちほう 部 ぶ の人口 じんこう や上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう の大半 たいはん に支持 しじ 者 しゃ を見出 みいだ していた一方 いっぽう 、社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ 達 たち は都市 とし 部 ぶ の労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう に支持 しじ 層 そう を築 きず いた。保守 ほしゅ 主義 しゅぎ 者 しゃ は同様 どうよう にカトリック教会 きょうかい との連携 れんけい を維持 いじ し、指導 しどう 的 てき 立場 たちば にある何人 なんにん かの聖職 せいしょく 者 しゃ を自分 じぶん 達 たち の味方 みかた に引 ひ き入 い れる事 こと に成功 せいこう していた。
当時 とうじ の他 ほか の初期 しょき ヨーロッパ民主 みんしゅ 主義 しゅぎ と同様 どうよう に、オーストリアでの政争 せいそう は高度 こうど にイデオロギッシュに行 おこな われた。社会 しゃかい 主義 しゅぎ と保守 ほしゅ 主義 しゅぎ 双方 そうほう の陣営 じんえい は、ただ単 たん に政党 せいとう を成立 せいりつ させただけではなかった。彼 かれ らは政党 せいとう 所有 しょゆう の準 じゅん 軍事 ぐんじ 組織 そしき を含 ふく め、はるかに強力 きょうりょく な権力 けんりょく を持 も った構造 こうぞう を占有 せんゆう した。保守 ほしゅ 派 は は、「護国 ごこく 団 だん 」(Heimwehr)と呼 よ ばれる準 じゅん 軍事 ぐんじ 組織 そしき を1921年 ねん から1923年 ねん にかけて組織 そしき した。一方 いっぽう 社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう は、1923年 ねん に「共和 きょうわ 国 こく 保護 ほご 同盟 どうめい 」(Schutzbund)と呼 よ ばれる準 じゅん 軍事 ぐんじ 組織 そしき を作 つく った。これら2つの組織 そしき の間 あいだ では、政治 せいじ 的 てき 大会 たいかい などにおいて、激論 げきろん や武力 ぶりょく 衝突 しょうとつ が頻繁 ひんぱん に起 お こるようになった。
最初 さいしょ の大 おお きな事件 じけん は、1927年 ねん 初頭 しょとう に勃発 ぼっぱつ した、ヘルマン・ヒルトゥル の民兵 みんぺい 組織 そしき Frontkämpfervereinigung (「前線 ぜんせん 闘争 とうそう 連盟 れんめい 」、保守 ほしゅ 派 は と連携 れんけい を取 と っていた集団 しゅうだん )のメンバーが、ブルゲンラント州 しゅう のシャッテンドルフ で、対抗 たいこう デモの為 ため に共和 きょうわ 国 こく 保護 ほご 同盟 どうめい と共 とも にパレード行進 こうしん していた退役 たいえき 軍人 ぐんじん と8歳 さい の少年 しょうねん とを射殺 しゃさつ した事件 じけん である。7月にこの事件 じけん の3人 にん の被告人 ひこくにん が無罪 むざい となった。左翼 さよく 陣営 じんえい の怒 いか りに火 ひ を付 つ けたこの判決 はんけつ は、オーストリアでも最初 さいしょ 期 き の、独立 どくりつ した陪審 ばいしん 制 せい システムのもとで行 おこな われた陪審 ばいしん 法廷 ほうてい の1つによって下 くだ されたものだった(皮肉 ひにく なことに、独立 どくりつ した陪審 ばいしん 制 せい の導入 どうにゅう は、長期 ちょうき にわたる社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ の要求 ようきゅう であった)。1927年 ねん 7月 がつ 15日 にち にはゼネラル・ストライキ が発生 はっせい し、デモは首都 しゅと に飛 と び火 ひ した。警察 けいさつ 署 しょ が襲撃 しゅうげき された後 のち 、治安 ちあん 部隊 ぶたい がデモ参加 さんか 者 しゃ に向 む かって銃 じゅう を撃 う ち始 はじ めた。その後 ご に怒 いか り狂 くる った群衆 ぐんしゅう が、欠点 けってん のある部分 ぶぶん 的 てき な司法 しほう 制度 せいど の象徴 しょうちょう でしかないと見 み られていたユスティーツパラスト に火 ひ を放 はな った。89人 にん がこの1927年 ねん 7月 がつ 暴動 ぼうどう で死亡 しぼう し(彼 かれ らの内 うち の85人 にん がデモ参加 さんか 者 しゃ )、数 すう 百 ひゃく 人 にん が負傷 ふしょう した。しかし驚 おどろ くべき事 こと に、この事件 じけん での暴力 ぼうりょく は直 す ぐに沈静 ちんせい 化 か し、両 りょう 党 とう は戦 たたか いを街頭 がいとう から政治 せいじ システム内部 ないぶ へと移 うつ したのだった。
しかしながら、オーストリア第 だい 一 いち 共和 きょうわ 国 こく の苦 くる しみはその後 ご の数 すう 年 ねん ますます悪化 あっか するばかりだった。大 だい 恐慌 きょうこう の影響 えいきょう がオーストリアにも現 あらわ れており、失業 しつぎょう 率 りつ の高騰 こうとう 、大 だい 規模 きぼ なインフレーション という結果 けっか が残 のこ った。それに加 くわ えて、アドルフ・ヒトラー がドイツの首相 しゅしょう になった1933年 ねん 、ナチズム への共鳴 きょうめい 者 しゃ (後 のち にオーストリアとナチス・ドイツとの統合 とうごう を求 もと めることになる人々 ひとびと )が内部 ないぶ からオーストリア国家 こっか の存立 そんりつ を脅 おど かしていた。
1933年 ねん 3月4日 にち に、キリスト教 きりすときょう 社会党 しゃかいとう の首相 しゅしょう エンゲルベルト・ドルフース がオーストリア議会 ぎかい を停止 ていし し、事実 じじつ 上 じょう 廃止 はいし した。その直前 ちょくぜん まで、鉄道 てつどう 従業 じゅうぎょう 員 いん の賃金 ちんぎん を巡 めぐ っての国民 こくみん 議会 ぎかい の議決 ぎけつ が行 おこな われようとしていたが、3人 にん の議長 ぎちょう (カール・レンナー 、ルドルフ・ラメク、ゼップ・シュトラーフナー)は自 みずか らも投票 とうひょう するために、一切 いっさい の後任 こうにん 議長 ぎちょう を決 き めないまま相次 あいつ いで辞任 じにん し、議長 ぎちょう 不在 ふざい の異常 いじょう 事態 じたい になった。内部 ないぶ 規定 きてい でこの難局 なんきょく を解決 かいけつ し得 え る方法 ほうほう は残 のこ っていたが、ドルフース首相 しゅしょう は「議会 ぎかい が職務 しょくむ を果 は たさなくなった」と宣言 せんげん する為 ため にこの機会 きかい を利用 りよう した。さらに、議会 ぎかい 内部 ないぶ の和解 わかい させる試 こころ みをも全 すべ て妨害 ぼうがい した。これにより社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう は政治 せいじ 的 てき 行動 こうどう の為 ため の主要 しゅよう な舞台 ぶたい を失 うしな った。 5月20日 にち にはドルフースによって祖国 そこく 戦線 せんせん が結成 けっせい され、すべての公務員 こうむいん に加入 かにゅう が義務 ぎむ づけられた。
保守 ほしゅ 派 は が議会 ぎかい を停止 ていし させようとした背景 はいけい には、左翼 さよく だけでなく、ドイツから浸透 しんとう していたナチズムの圧力 あつりょく や暴力 ぼうりょく にも直面 ちょくめん していたことがある。ドルフースらは1917年 ねん の非常 ひじょう 事態 じたい 法 ほう に基 もとづ いた命令 めいれい によって市民 しみん の自由 じゆう を停止 ていし し、権力 けんりょく を振 ふ るい始 はじ めた。3月31日 にち には社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう の準 じゅん 軍事 ぐんじ 組織 そしき ・共和 きょうわ 国 こく 防衛 ぼうえい 同盟 どうめい (保護 ほご 同盟 どうめい )を全国 ぜんこく で禁止 きんし し、そのメンバーを逮捕 たいほ して刑務所 けいむしょ に入 い れた。5月26日 にち にオーストリア共産党 きょうさんとう が、6月 がつ 20日 はつか に起 お きたテロによってオーストリア・ナチス も禁止 きんし された[7] 。しかし共和 きょうわ 国 こく 保護 ほご 同盟 どうめい やナチスの禁止 きんし は徹底 てってい されず、両者 りょうしゃ は地下 ちか 活動 かつどう を続 つづ けた[8] 。9月17日 にち に社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう 指導 しどう 部 ぶ と自由 じゆう 労働 ろうどう 組合 くみあい の幹部 かんぶ はファシズム憲法 けんぽう の強制 きょうせい や社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう の禁止 きんし など許容 きょよう できない4点 てん を上 あ げ、それが実行 じっこう された場合 ばあい には武力 ぶりょく 蜂起 ほうき すると決定 けってい した。この決定 けってい は10月14日 にち から16日 にち にかけて行 おこな われた秘密 ひみつ 党 とう 大会 たいかい で社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう に批准 ひじゅん された[9] 。11月10日 にち には戒厳 かいげん 令 れい が敷 し かれて死刑 しけい 制度 せいど が復活 ふっかつ した。また11月12日 にち の社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう による共和 きょうわ 国 こく 成立 せいりつ 記念 きねん 日 び 式典 しきてん も禁止 きんし された。
「赤 あか いウィーン 」の市営 しえい 労働 ろうどう 者 しゃ 住宅 じゅうたく カール・マルクス・ホーフ 。2月内乱 ないらん の衝突 しょうとつ の舞台 ぶたい となり、軍 ぐん による砲撃 ほうげき を受 う けた。
ドルフースは当初 とうしょ 社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう を徐々 じょじょ に禁止 きんし するつもりであったが、1934年 ねん 1月 がつ 18日 にち にイタリアのムッソリーニ首相 しゅしょう が外務 がいむ 次官 じかん を派遣 はけん して圧力 あつりょく をかけた。2月 がつ 9日 にち にウィーン にいた共和 きょうわ 国 こく 保護 ほご 同盟 どうめい の幹部 かんぶ が逮捕 たいほ され、2月 がつ 11日 にち にはドルフースも社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう への最終 さいしゅう 措置 そち を執 と る決断 けつだん を下 くだ した[11] 。
2月 がつ 12日 にち 、警察 けいさつ がリンツ にある社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう の所有 しょゆう 資産 しさん で、共和 きょうわ 国 こく 保護 ほご 同盟 どうめい のリンツ支部 しぶ だったホテル・シッフを家宅 かたく 捜索 そうさく した。リンツにおける共和 きょうわ 国 こく 保護 ほご 同盟 どうめい の指揮 しき 官 かん リヒャルト・ベルナシェックはこの捜索 そうさく に対 たい して武力 ぶりょく で抵抗 ていこう した。ドルフース側 がわ の警察 けいさつ ・軍隊 ぐんたい が10万 まん 人 にん 、共和 きょうわ 国 こく 防衛 ぼうえい 同盟 どうめい は3-4万 まん 人 にん の軍事 ぐんじ 力 りょく を所持 しょじ していた。攻撃 こうげき に驚 おどろ いた警察 けいさつ は連邦 れんぽう 軍 ぐん に協力 きょうりょく を依頼 いらい し、衝突 しょうとつ が始 はじ まった。社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう の指導 しどう 者 しゃ ドイッチュは、この抵抗 ていこう が党 とう の指導 しどう 部 ぶ の許可 きょか を得 え ていないものだったとしている。しかし一度 いちど 発生 はっせい した蜂起 ほうき を見捨 みす てることは出来 でき ず、全土 ぜんど におけるゼネスト を指令 しれい した。しかし指令 しれい はほとんど届 とど かず、電車 でんしゃ の一部 いちぶ が停止 ていし したのみであり、その他 た の鉄道 てつどう ・郵便 ゆうびん などは業務 ぎょうむ を続 つづ けた[11] 。戦闘 せんとう は組織 そしき 的 てき にではなく、散発 さんぱつ 的 てき になされたもので、3日 にち 後 ご に共和 きょうわ 国 こく 防衛 ぼうえい 同盟 どうめい は降伏 ごうぶく した。
これ以降 いこう オーストリアの各地 かくち で同様 どうよう の衝突 しょうとつ が発生 はっせい した。ウィーンではオッタクリング (de:Ottakring )の労働 ろうどう 者 しゃ ハイムが激戦 げきせん 地 ち となり、13日 にち の早朝 そうちょう から14日 にち まで近隣 きんりん で戦 たたか った。またジンメリング ではハイリゲンシュタット のデープリング にある巨大 きょだい な集合 しゅうごう 住宅 じゅうたく カール・マルクス・ホーフ (en:Karl-Marx-Hof )が12日 にち から軍 ぐん による砲火 ほうか を浴 あ び、何 なん 千 せん 人 にん もの民間 みんかん 人 じん の命 いのち が危険 きけん に晒 さら され、多 おお くの住宅 じゅうたく 区画 くかく が破壊 はかい された末 すえ [12] 、15日 にち の昼 ひる に降伏 ごうぶく した。これらの拠点 きょてん は社会 しゃかい 主義 しゅぎ 運動 うんどう の象徴 しょうちょう であり拠 よ り所 どころ でもあったゲマインデバウ(en:Gemeindebau 、大型 おおがた の公営 こうえい 集合 しゅうごう 住宅 じゅうたく の一種 いっしゅ )であった。ザンクトマルクスの中央 ちゅうおう 家畜 かちく 市場 いちば は13日 にち に降伏 ごうぶく した。ドゥロリーツドルフでは13日 にち に激 はげ しい戦闘 せんとう が起 お きたが、国防 こくぼう 軍 ぐん や郷土 きょうど 防衛 ぼうえい 隊 たい が大量 たいりょう 動員 どういん されたため、残存 ざんそん した共和 きょうわ 国 こく 保護 ほご 同盟 どうめい の兵員 へいいん はチェコスロバキアに亡命 ぼうめい することになった。
また同様 どうよう に地方 ちほう 都市 とし 、例 たと えばシュタイアー 、ザンクト・ペルテン 、ヴァイツ 、エッゲンベルク 、カッフェンベルク 、ブルック・アン・デア・ムア 、グラーツ 、エーベンゼー そしてヴェルグル でも衝突 しょうとつ が発生 はっせい した。
シュタイアーマルク州 しゅう の都市 とし 、特 とく にブルック・アン・デア・ムア 、そしてユーデンブルク では2月 がつ 14日 にち または2月 がつ 15日 にち まで、深刻 しんこく な戦闘 せんとう が続 つづ いていた。その後 ご 、軍隊 ぐんたい と戦 たたか っているか、或 ある いはそれから逃 に げている社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ の小 ちい さなグループだけが残 のこ った。1934年 ねん 2月 がつ 16日 にち までには、オーストリア内戦 ないせん は収束 しゅうそく した。
この2月 がつ 内乱 ないらん で社民党 しゃみんとう 側 がわ は196人 にん 、政府 せいふ 側 がわ は118人 にん が死亡 しぼう し、社民党 しゃみんとう 指導 しどう 者 しゃ 10人 にん は処刑 しょけい され、バウアー とドイッチュはチェコに亡命 ぼうめい した。
内戦 ないせん 中 ちゅう のリンツで1934年 ねん 2月 がつ 12日 にち に死亡 しぼう した警察官 けいさつかん の記念 きねん 碑 ひ
民兵 みんぺい や治安 ちあん 部隊 ぶたい 、民間 みんかん 人 じん を含 ふく めて数 すう 百 ひゃく 人 にん が武力 ぶりょく 衝突 しょうとつ で死亡 しぼう し、1000人 にん 以上 いじょう が負傷 ふしょう した。当局 とうきょく は戒厳 かいげん 令 れい に基 もとづ き、共和 きょうわ 国 こく 保護 ほご 同盟 どうめい や社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう の指導 しどう 者 しゃ を即決 そっけつ 裁判 さいばん にかけ、コロマン・ヴァリッシュ(de:Koloman Wallisch )を含 ふく む9人 にん を処刑 しょけい した。このほかに1500人 にん が逮捕 たいほ された。社会 しゃかい 主義 しゅぎ の指導 しどう 的 てき 立場 たちば にあった政治 せいじ 家 か オットー・バウアー 外務 がいむ 大臣 だいじん やドイッチュも亡命 ぼうめい を余儀 よぎ なくされた[13] 。
1934年 ねん 2月 がつ に起 お きた一連 いちれん の出来事 できごと は、政府 せいふ によって、社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう やそれと連携 れんけい していた労働 ろうどう 組合 くみあい を完全 かんぜん に禁止 きんし する口実 こうじつ として使 つか われた。5月になると、保守 ほしゅ 派 は は民主 みんしゅ 的 てき な憲法 けんぽう をファシスト・イタリア のベニート・ムッソリーニ の方針 ほうしん を手本 てほん としたコーポラティズム 的 てき な憲法 けんぽう へと改正 かいせい した。この権威 けんい 主義 しゅぎ 的 てき な独裁 どくさい 体制 たいせい を名 な づけるべく、社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ はオーストロファシズム という用語 ようご を発明 はつめい した。ただし、オーストリアの保守 ほしゅ 派 は の基本 きほん 的 てき なイデオロギーは、オーストリアのカトリック教会 きょうかい 聖職 せいしょく 者 しゃ の間 あいだ で共有 きょうゆう されていた最 もっと も保守 ほしゅ 主義 しゅぎ 的 てき な要素 ようそ と本質 ほんしつ 的 てき には同 おな じものであり、イタリアやドイツの実際 じっさい のファシズム やナチズム とは矛盾 むじゅん する特徴 とくちょう を有 ゆう していた。
1934年 ねん 5月 がつ に新 しん 憲法 けんぽう が制定 せいてい され、祖国 そこく 戦線 せんせん が唯一 ゆいいつ の政治 せいじ 的 てき 組織 そしき となった。
リンツのホテル・シッフに置 お かれた、内乱 ないらん の犠牲 ぎせい 者 しゃ や自由 じゆう や正義 せいぎ の為 ため に戦 たたか った人々 ひとびと を讃 たた える記念 きねん 物 ぶつ 。ここで内乱 ないらん が始 はじ まった
国際 こくさい 的 てき な比較 ひかく の中 なか では小 ちい さい事件 じけん であるが(その後 ご すぐに発生 はっせい した第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の恐 おそ ろしい出来事 できごと と見比 みくら べれば特 とく にそうだが)、オーストリア内戦 ないせん は共和 きょうわ 国 こく の歴史 れきし の中 なか で決定的 けっていてき な瞬間 しゅんかん であった。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、オーストリアが再 ふたた び主権 しゅけん 国家 こっか として形成 けいせい された時 とき 、政治 せいじ は再 ふたた び社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう と保守 ほしゅ 派 は (オーストリア国民党 こくみんとう として改組 かいそ された)双方 そうほう の二 に 大 だい 政党 せいとう 制 せい となった。しかしながら、第 だい 一 いち 共和 きょうわ 国 こく の苦 にが い国民 こくみん 分裂 ぶんれつ の繰 く り返 かえ しを避 さ ける為 ため に、第 だい 二 に 共和 きょうわ 国 こく の指導 しどう 者 しゃ 達 たち は幅広 はばひろ い共通 きょうつう 認識 にんしき に基 もと づく新 あたら しい政治 せいじ 制度 せいど の導入 どうにゅう を余儀 よぎ なくされた。(社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう と国民党 こくみんとう とによる)2つの主要 しゅよう な政党 せいとう によって政権 せいけん を共有 きょうゆう し、武力 ぶりょく を含 ふく む対立 たいりつ を防 ふせ ぐために「大 だい 連立 れんりつ 」の概念 がいねん が導入 どうにゅう された。この制度 せいど は安定 あんてい 性 せい と連続 れんぞく 性 せい をもたらしたが、最終 さいしゅう 的 てき に他 た の政治 せいじ 的 てき な影響 えいきょう に繋 つな がった(en:proporz も参照 さんしょう )。オーストリア内戦 ないせん の出来事 できごと は、政治 せいじ 改革 かいかく の速度 そくど の遅 おそ さ・慎重 しんちょう さは、社会 しゃかい 的 てき 安定 あんてい の為 ため に払 はら う費用 ひよう だと考 かんが えれば安 やす いものだと、政治 せいじ 的 てき 有力 ゆうりょく 者 しゃ 達 たち (実際 じっさい には不 ふ 特定 とくてい 多数 たすう の一般人 いっぱんじん )を説得 せっとく する材料 ざいりょう にもなっている。
しかしながら、オーストリアの政党 せいとう は過去 かこ に於 お いて屡々 しばしば 殆 ほとん ど何 なに もしなかったと非難 ひなん される。21世紀 せいき の初 はじ めでさえ、オーストリア社会 しゃかい は第 だい 一 いち 共和 きょうわ 国 こく や内戦 ないせん の時代 じだい からの影響 えいきょう で、「赤 あか 」(社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ )と「黒 くろ 」(保守 ほしゅ 主義 しゅぎ 者 しゃ )との明確 めいかく な断絶 だんぜつ を背負 せお っている。この断絶 だんぜつ は、政治 せいじ イデオロギーは一切 いっさい 関係 かんけい 無 な い筈 はず の領域 りょういき 、例 たと えば応急 おうきゅう 手当 てあて や自動車 じどうしゃ 組合 くみあい 、自然 しぜん 科学 かがく の分野 ぶんや でも広範囲 こうはんい な平行 へいこう 線 せん を引 ひ き続 つづ けている。
This article includes information translated from the German-language Wikipedia article de:Österreichischer Bürgerkrieg . The German-language article cites the following sources:
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