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2がつ内乱ないらん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
2がつ内乱ないらん
オーストリアの旗 オーストリアせんあいだなか

1934ねん2がつ12にちにウィーンで撮影さつえいされた兵士へいしたち
とき1934ねん2がつ12にち - 2がつ16にち
場所ばしょオーストリア各地かくち
結果けっか ドルフース勝利しょうり
複数ふくすう政党せいとうせい消滅しょうめつ
祖国そこく戦線せんせんによる権力けんりょく強固きょうこにされる
衝突しょうとつした勢力せいりょく
共和きょうわこく保護ほご同盟どうめいオーストリア社会しゃかい民主党みんしゅとう

祖国そこく戦線せんせん

指揮しきかん
リヒャルト・ベルマシェック
その
エンゲルベルト・ドルフース
エミール・ファイ
戦力せんりょく
オーストリア全土ぜんどで80000にん[1]
ウィーンに17500にん戦闘せんとういん[2]
en:Floridsdorf cache:
over 2500小銃しょうじゅう
250回転かいてんしき拳銃けんじゅう
1,500手榴弾しゅりゅうだん
およそ10000弾薬だんやく[3]
連邦れんぽうぐん全体ぜんたい警察けいさつ国家こっか憲兵けんぺい、そしてじゅん軍事ぐんじ組織そしき護国ごこくだん
被害ひがいしゃすう
概算がいさんで137にん[2]
196にん[4] から1000にんおそらく死亡しぼう[5]
399にん怪我人けがにん[2]
10にんのち処刑しょけいされる[4]
105にん[2] から118にん戦死せんし[4]見積みつもられる
319にん負傷ふしょう[2]

2がつ内乱ないらんドイツ: Februarkämpfe)、しくはオーストリア内戦ないせんドイツ: Österreichischer Bürgerkrieg)は、1934ねん2がつ12にちから16にちにかけて、エンゲルベルト・ドルフース首相しゅしょうオーストリアだいいち共和きょうわこく政府せいふおよび護国ごこくだんひとしファシスト勢力せいりょくオーストリア社会しゃかい民主党みんしゅとうおよびその武力ぶりょく組織そしきであった共和きょうわこく保護ほご同盟どうめいde:Republikanischer Schutzbund)をはじめとする社会しゃかい民主みんしゅ主義しゅぎ勢力せいりょくとのあいだおこなわれたしょう戦闘せんとうである。衝突しょうとつリンツはじまり、ウィーングラーツブルック・アン・デア・ムアユーデンブルクウィーナー・ノイシュタット、そしてシュタイアーひろげられた。さらに、東部とうぶ中央ちゅうおうほか都市としでもいくつかの衝突しょうとつがあった。

オーストリア社会しゃかい民主党みんしゅとうはオーストリアにおけるだい政党せいとううちひとつであったが、内戦ないせんこしたとして解散かいさんさせられ、ドルフースの「祖国そこく戦線せんせん」(de:Vaterländische FrontりゃくしてVF)が唯一ゆいいつ合法ごうほうてき政治せいじ勢力せいりょくとなり、「オーストロファシズム体制たいせいかたまる決定的けっていてきなきっかけになった。

紛争ふんそう原因げんいん

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ウィーンのフロリズドルフにある大型おおがた公営こうえい住宅じゅうたく(ゲマインデバウ)「Schlingerhof」。多数たすう武器ぶきそなえられており、共和きょうわこく保護ほご同盟どうめいによって要塞ようさいとして使用しようされた

だいいち世界せかい大戦たいせんのちオーストリア=ハンガリー帝国ていこく崩壊ほうかいすると、ドイツ・オーストリアこく(かつてのだい帝国ていこくのうちのドイツ語どいつごけん部分ぶぶんによってつくられた、妥協だきょうによって成立せいりつした国民こくみん国家こっか)は議院ぎいんないかくせい国家こっかとして成立せいりつした。

あたらしい国家こっかでは2つの主要しゅよう党派とうは優位ゆういめた。つまり社会しゃかい主義しゅぎしゃ政治せいじてきにはオーストリア社会しゃかい民主党みんしゅとうによって代表だいひょうされた)と、保守ほしゅ主義しゅぎしゃ政治せいじてきにはキリスト教きりすときょう社会党しゃかいとうによって代表だいひょうされた)である。保守ほしゅ主義しゅぎしゃたち地方ちほう人口じんこう上流じょうりゅう階級かいきゅう大半たいはん支持しじしゃ見出みいだしていた一方いっぽう社会しゃかい主義しゅぎしゃたち都市とし労働ろうどうしゃ階級かいきゅう支持しじそうきずいた。保守ほしゅ主義しゅぎしゃ同様どうようカトリック教会きょうかいとの連携れんけい維持いじし、指導しどうてき立場たちばにある何人なんにんかの聖職せいしょくしゃ自分じぶんたち味方みかたれること成功せいこうしていた。

当時とうじほか初期しょきヨーロッパ民主みんしゅ主義しゅぎ同様どうように、オーストリアでの政争せいそう高度こうどにイデオロギッシュにおこなわれた。社会しゃかい主義しゅぎ保守ほしゅ主義しゅぎ双方そうほう陣営じんえいは、ただたん政党せいとう成立せいりつさせただけではなかった。かれらは政党せいとう所有しょゆうじゅん軍事ぐんじ組織そしきふくめ、はるかに強力きょうりょく権力けんりょくった構造こうぞう占有せんゆうした。保守ほしゅは、「護国ごこくだん」(Heimwehr)とばれるじゅん軍事ぐんじ組織そしき1921ねんから1923ねんにかけて組織そしきした。一方いっぽう社会しゃかい民主党みんしゅとうは、1923ねんに「共和きょうわこく保護ほご同盟どうめい」(Schutzbund)とばれるじゅん軍事ぐんじ組織そしきつくった。これら2つの組織そしきあいだでは、政治せいじてき大会たいかいなどにおいて、激論げきろん武力ぶりょく衝突しょうとつ頻繁ひんぱんこるようになった。

最初さいしょおおきな事件じけんは、1927ねん初頭しょとう勃発ぼっぱつした、ヘルマン・ヒルトゥル民兵みんぺい組織そしきFrontkämpfervereinigung(「前線ぜんせん闘争とうそう連盟れんめい」、保守ほしゅ連携れんけいっていた集団しゅうだん)のメンバーが、ブルゲンラントしゅうシャッテンドルフで、対抗たいこうデモのため共和きょうわこく保護ほご同盟どうめいともにパレード行進こうしんしていた退役たいえき軍人ぐんじんと8さい少年しょうねんとを射殺しゃさつした事件じけんである。7月にこの事件じけんの3にん被告人ひこくにん無罪むざいとなった。左翼さよく陣営じんえいいかりにけたこの判決はんけつは、オーストリアでも最初さいしょの、独立どくりつした陪審ばいしんせいシステムのもとでおこなわれた陪審ばいしん法廷ほうていの1つによってくだされたものだった(皮肉ひにくなことに、独立どくりつした陪審ばいしんせい導入どうにゅうは、長期ちょうきにわたる社会しゃかい主義しゅぎしゃ要求ようきゅうであった)。1927ねん7がつ15にちにはゼネラル・ストライキ発生はっせいし、デモは首都しゅとした。警察けいさつしょ襲撃しゅうげきされたのち治安ちあん部隊ぶたいがデモ参加さんかしゃかってじゅうはじめた。そのいかくるった群衆ぐんしゅうが、欠点けってんのある部分ぶぶんてき司法しほう制度せいど象徴しょうちょうでしかないとられていたユスティーツパラストはなった。89にんがこの1927ねん7がつ暴動ぼうどう死亡しぼうし(かれらのうちの85にんがデモ参加さんかしゃ)、すうひゃくにん負傷ふしょうした。しかしおどろくべきことに、この事件じけんでの暴力ぼうりょくぐに沈静ちんせいし、りょうとうたたかいを街頭がいとうから政治せいじシステム内部ないぶへとうつしたのだった。

しかしながら、オーストリアだいいち共和きょうわこくくるしみはそのすうねんますます悪化あっかするばかりだった。だい恐慌きょうこう影響えいきょうがオーストリアにもあらわれており、失業しつぎょうりつ高騰こうとうだい規模きぼインフレーションという結果けっかのこった。それにくわえて、アドルフ・ヒトラードイツの首相しゅしょうになった1933ねんナチズムへの共鳴きょうめいしゃのちにオーストリアとナチス・ドイツとの統合とうごうもとめることになる人々ひとびと)が内部ないぶからオーストリア国家こっか存立そんりつおどかしていた。

内戦ないせん

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1933ねん

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1933ねん3月4にちに、キリスト教きりすときょう社会党しゃかいとう首相しゅしょうエンゲルベルト・ドルフースオーストリア議会ぎかい停止ていしし、事実じじつじょう廃止はいしした[6]。その直前ちょくぜんまで、鉄道てつどう従業じゅうぎょういん賃金ちんぎんめぐっての国民こくみん議会ぎかい議決ぎけつおこなわれようとしていたが、3にん議長ぎちょうカール・レンナー、ルドルフ・ラメク、ゼップ・シュトラーフナー)はみずからも投票とうひょうするために、一切いっさい後任こうにん議長ぎちょうめないまま相次あいついで辞任じにんし、議長ぎちょう不在ふざい異常いじょう事態じたいになった。内部ないぶ規定きていでこの難局なんきょく解決かいけつ方法ほうほうのこっていたが、ドルフース首相しゅしょうは「議会ぎかい職務しょくむたさなくなった」と宣言せんげんするためにこの機会きかい利用りようした。さらに、議会ぎかい内部ないぶ和解わかいさせるこころみをもすべ妨害ぼうがいした。これにより社会しゃかい民主党みんしゅとう政治せいじてき行動こうどうため主要しゅよう舞台ぶたいうしなった。 5月20にちにはドルフースによって祖国そこく戦線せんせん結成けっせいされ、すべての公務員こうむいん加入かにゅう義務ぎむづけられた。

保守ほしゅ議会ぎかい停止ていしさせようとした背景はいけいには、左翼さよくだけでなく、ドイツから浸透しんとうしていたナチズムの圧力あつりょく暴力ぼうりょくにも直面ちょくめんしていたことがある。ドルフースらは1917ねん非常ひじょう事態じたいほうもとづいた命令めいれいによって市民しみん自由じゆう停止ていしし、権力けんりょくるいはじめた。3月31にちには社会しゃかい民主党みんしゅとうじゅん軍事ぐんじ組織そしき共和きょうわこく防衛ぼうえい同盟どうめい(保護ほご同盟どうめい)を全国ぜんこく禁止きんしし、そのメンバーを逮捕たいほして刑務所けいむしょれた。5月26にちオーストリア共産党きょうさんとうが、6がつ20日はつかきたテロによってオーストリア・ナチス禁止きんしされた[7]。しかし共和きょうわこく保護ほご同盟どうめいやナチスの禁止きんし徹底てっていされず、両者りょうしゃ地下ちか活動かつどうつづけた[8]。9月17にち社会しゃかい民主党みんしゅとう指導しどう自由じゆう労働ろうどう組合くみあい幹部かんぶはファシズム憲法けんぽう強制きょうせい社会しゃかい民主党みんしゅとう禁止きんしなど許容きょようできない4てんげ、それが実行じっこうされた場合ばあいには武力ぶりょく蜂起ほうきすると決定けっていした。この決定けっていは10月14にちから16にちにかけておこなわれた秘密ひみつとう大会たいかい社会しゃかい民主党みんしゅとう批准ひじゅんされた[9]。11月10にちには戒厳かいげんれいかれて死刑しけい制度せいど復活ふっかつした。また11月12にち社会しゃかい民主党みんしゅとうによる共和きょうわこく成立せいりつ記念きねん式典しきてん禁止きんしされた。

1934ねん

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あかいウィーン」の市営しえい労働ろうどうしゃ住宅じゅうたくカール・マルクス・ホーフ[10]。2月内乱ないらん衝突しょうとつ舞台ぶたいとなり、ぐんによる砲撃ほうげきけた。

ドルフースは当初とうしょ社会しゃかい民主党みんしゅとう徐々じょじょ禁止きんしするつもりであったが、1934ねん1がつ18にちにイタリアのムッソリーニ首相しゅしょう外務がいむ次官じかん派遣はけんして圧力あつりょくをかけた。2がつ9にちウィーンにいた共和きょうわこく保護ほご同盟どうめい幹部かんぶ逮捕たいほされ、2がつ11にちにはドルフースも社会しゃかい民主党みんしゅとうへの最終さいしゅう措置そち決断けつだんくだした[11]

2がつ12にち警察けいさつリンツにある社会しゃかい民主党みんしゅとう所有しょゆう資産しさんで、共和きょうわこく保護ほご同盟どうめいのリンツ支部しぶだったホテル・シッフを家宅かたく捜索そうさくした。リンツにおける共和きょうわこく保護ほご同盟どうめい指揮しきかんリヒャルト・ベルナシェックはこの捜索そうさくたいして武力ぶりょく抵抗ていこうした[6]。ドルフースがわ警察けいさつ軍隊ぐんたいが10まんにん共和きょうわこく防衛ぼうえい同盟どうめいは3-4まんにん軍事ぐんじりょく所持しょじしていた[6]攻撃こうげきおどろいた警察けいさつ連邦れんぽうぐん協力きょうりょく依頼いらいし、衝突しょうとつはじまった。社会しゃかい民主党みんしゅとう指導しどうしゃドイッチュは、この抵抗ていこうとう指導しどう許可きょかていないものだったとしている。しかし一度いちど発生はっせいした蜂起ほうき見捨みすてることは出来できず、全土ぜんどにおけるゼネスト指令しれいした。しかし指令しれいはほとんどとどかず、電車でんしゃ一部いちぶ停止ていししたのみであり、その鉄道てつどう郵便ゆうびんなどは業務ぎょうむつづけた[11]戦闘せんとう組織そしきてきにではなく、散発さんぱつてきになされたもので、3にち共和きょうわこく防衛ぼうえい同盟どうめい降伏ごうぶくした[6]

これ以降いこうオーストリアの各地かくち同様どうよう衝突しょうとつ発生はっせいした。ウィーンではオッタクリングde:Ottakring)の労働ろうどうしゃハイムが激戦げきせんとなり、13にち早朝そうちょうから14にちまで近隣きんりんたたかった。またジンメリングではハイリゲンシュタットデープリングにある巨大きょだい集合しゅうごう住宅じゅうたくカール・マルクス・ホーフen:Karl-Marx-Hof)が12にちからぐんによる砲火ほうかび、なんせんにんもの民間みんかんじんいのち危険きけんさらされ、おおくの住宅じゅうたく区画くかく破壊はかいされたすえ[12]、15にちひる降伏ごうぶくした。これらの拠点きょてん社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどう象徴しょうちょうでありどころでもあったゲマインデバウ(en:Gemeindebau大型おおがた公営こうえい集合しゅうごう住宅じゅうたく一種いっしゅ)であった。ザンクトマルクスの中央ちゅうおう家畜かちく市場いちばは13にち降伏ごうぶくした。ドゥロリーツドルフでは13にちはげしい戦闘せんとうきたが、国防こくぼうぐん郷土きょうど防衛ぼうえいたい大量たいりょう動員どういんされたため、残存ざんそんした共和きょうわこく保護ほご同盟どうめい兵員へいいんはチェコスロバキアに亡命ぼうめいすることになった。

また同様どうよう地方ちほう都市としたとえばシュタイアーザンクト・ペルテンヴァイツエッゲンベルクカッフェンベルクブルック・アン・デア・ムアグラーツエーベンゼーそしてヴェルグルでも衝突しょうとつ発生はっせいした。 シュタイアーマルクしゅう都市としとくブルック・アン・デア・ムア、そしてユーデンブルクでは2がつ14にちまたは2がつ15にちまで、深刻しんこく戦闘せんとうつづいていた。その軍隊ぐんたいたたかっているか、あるいはそれからげている社会しゃかい主義しゅぎしゃちいさなグループだけがのこった。1934ねん2がつ16にちまでには、オーストリア内戦ないせん収束しゅうそくした。

この2がつ内乱ないらん社民党しゃみんとうがわは196にん政府せいふがわは118にん死亡しぼうし、社民党しゃみんとう指導しどうしゃ10にん処刑しょけいされ、バウアーとドイッチュはチェコに亡命ぼうめいした[6]

内戦ないせん結果けっか

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内戦ないせんちゅうのリンツで1934ねん2がつ12にち死亡しぼうした警察官けいさつかん記念きねん

民兵みんぺい治安ちあん部隊ぶたい民間みんかんじんふくめてすうひゃくにん武力ぶりょく衝突しょうとつ死亡しぼうし、1000にん以上いじょう負傷ふしょうした。当局とうきょく戒厳かいげんれいもとづき、共和きょうわこく保護ほご同盟どうめい社会しゃかい民主党みんしゅとう指導しどうしゃ即決そっけつ裁判さいばんにかけ、コロマン・ヴァリッシュ(de:Koloman Wallisch)をふくむ9にん処刑しょけいした。このほかに1500にん逮捕たいほされた。社会しゃかい主義しゅぎ指導しどうてき立場たちばにあった政治せいじオットー・バウアー外務がいむ大臣だいじんやドイッチュも亡命ぼうめい余儀よぎなくされた[13]

1934ねん2がつきた一連いちれん出来事できごとは、政府せいふによって、社会しゃかい民主党みんしゅとうやそれと連携れんけいしていた労働ろうどう組合くみあい完全かんぜん禁止きんしする口実こうじつとして使つかわれた。5月になると、保守ほしゅ民主みんしゅてき憲法けんぽうファシスト・イタリアベニート・ムッソリーニ方針ほうしん手本てほんとしたコーポラティズムてき憲法けんぽうへと改正かいせいした。この権威けんい主義しゅぎてき独裁どくさい体制たいせいづけるべく、社会しゃかい主義しゅぎしゃオーストロファシズムという用語ようご発明はつめいした。ただし、オーストリアの保守ほしゅ基本きほんてきなイデオロギーは、オーストリアのカトリック教会きょうかい聖職せいしょくしゃあいだ共有きょうゆうされていたもっと保守ほしゅ主義しゅぎてき要素ようそ本質ほんしつてきにはおなじものであり、イタリアやドイツの実際じっさいファシズムナチズムとは矛盾むじゅんする特徴とくちょうゆうしていた。

1934ねん5がつしん憲法けんぽう制定せいていされ、祖国そこく戦線せんせん唯一ゆいいつ政治せいじてき組織そしきとなった。

長期ちょうきてき余波よは

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リンツのホテル・シッフにかれた、内乱ないらん犠牲ぎせいしゃ自由じゆう正義せいぎためたたかった人々ひとびとたたえる記念きねんぶつ。ここで内乱ないらんはじまった

国際こくさいてき比較ひかくなかではちいさい事件じけんであるが(そのすぐに発生はっせいしただい世界せかい大戦たいせんおそろしい出来事できごと見比みくらべればとくにそうだが)、オーストリア内戦ないせん共和きょうわこく歴史れきしなか決定的けっていてき瞬間しゅんかんであった。

だい世界せかい大戦たいせん、オーストリアがふたた主権しゅけん国家こっかとして形成けいせいされたとき政治せいじふたた社会しゃかい民主党みんしゅとう保守ほしゅオーストリア国民党こくみんとうとして改組かいそされた)双方そうほうだい政党せいとうせいとなった。しかしながら、だいいち共和きょうわこくにが国民こくみん分裂ぶんれつかえしをけるために、だい共和きょうわこく指導しどうしゃたち幅広はばひろ共通きょうつう認識にんしきもとづくあたらしい政治せいじ制度せいど導入どうにゅう余儀よぎなくされた。(社会しゃかい民主党みんしゅとう国民党こくみんとうとによる)2つの主要しゅよう政党せいとうによって政権せいけん共有きょうゆうし、武力ぶりょくふく対立たいりつふせぐために「だい連立れんりつ」の概念がいねん導入どうにゅうされた。この制度せいど安定あんていせい連続れんぞくせいをもたらしたが、最終さいしゅうてき政治せいじてき影響えいきょうつながった(en:proporz参照さんしょう)。オーストリア内戦ないせん出来事できごとは、政治せいじ改革かいかく速度そくどおそさ・慎重しんちょうさは、社会しゃかいてき安定あんていためはら費用ひようだとかんがえればやすいものだと、政治せいじてき有力ゆうりょくしゃたち実際じっさいには特定とくてい多数たすう一般人いっぱんじん)を説得せっとくする材料ざいりょうにもなっている。

しかしながら、オーストリアの政党せいとう過去かこいて屡々しばしばほとんなにもしなかったと非難ひなんされる。21世紀せいきはじめでさえ、オーストリア社会しゃかいだいいち共和きょうわこく内戦ないせん時代じだいからの影響えいきょうで、「あか」(社会しゃかい主義しゅぎしゃ)と「くろ」(保守ほしゅ主義しゅぎしゃ)との明確めいかく断絶だんぜつ背負せおっている。この断絶だんぜつは、政治せいじイデオロギーは一切いっさい関係かんけいはず領域りょういきたとえば応急おうきゅう手当てあて自動車じどうしゃ組合くみあい自然しぜん科学かがく分野ぶんやでも広範囲こうはんい平行へいこうせんつづけている。

関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • Brook-Shepherd, Gordon (December 1996). The Austrians: a thousand-year odyssey. HarperCollins. ISBN 0 00 638255 X 
  • Jelavich, Barbara (December 1989). Modern Austria: Empire & Republic 1815–1986. Cambridge University Press. ISBN 0 521 31625 1 
  • Lehne, Inge; Lonnie Johnson (December 1985). Vienna- The Past in the Present. Österreichischer Bundesverlag Gesellschaft. ISBN 3-215-05758-1 
  • Reppe, Susanne (December 1993). Der Karl-Marx-Hof. Picus Verlag Wien. ISBN 3-85452-118-9 
This article includes information translated from the German-language Wikipedia article de:Österreichischer Bürgerkrieg. The German-language article cites the following sources:
  • Erika Weinzierl: Der Februar 1934 und die Folgen für Österreich. Picus Verlag, Wien 1994, ISBN 3-85452-331-9
  • Irene Etzersdorfer / Hans Schafranek (Hrsg.): Der Februar 1934 in Wien. Erzählte Geschichte. Verlag Autorenkollektiv. Wien 1984, ISBN 3-85442-030-7
  • Hans Schafranek, "Die Führung waren wir selber" — Militanz und Resignation im Februar 1934 am Beispiel Kaisermühlen, in: Helmut Konrad/Wolfgang Maderthaner (Hrsg.), Neuere Studien zur Arbeitergeschichte, Bd.II: Beiträge zur politischen Geschichte, Wien 1984, S.439–69.
  • Stephan Neuhäuser (Hrsg.): “Wir werden ganze Arbeit leisten“ — Der austrofaschistische Staatsstreich 1934. Books on Demand, Norderstedt 2004, ISBN 3-8334-0873-1
  • Emmerich Tálos, Wolfgang Neugebauer (Hrsg.): Austrofaschismus. Politik, Ökonomie, Kultur. 1933–1938. 5. Auflage. Lit, Wien 2005, ISBN 3-8258-7712-4
  • Robert Streibel: Februar in der Provinz. Eine Spurensicherung zum 12. Februar 1934 in Niederösterreich, Grünbach Edition Geschichte der Heimat 1994, ISBN 3-900943-20-6.
  • Strohal, Eberhard (1988). Die Erste Republik (series title: kurz & bündig). Vienna: hpt-Verlag.
  • 伊藤いとう富雄とみお「オーストリアにおける1934ねん2がつ蜂起ほうきとコロマン・ヴァリッシュ」『たていのちかん経営けいえいがくだい47かん立命館大学りつめいかんだいがく経営けいえい学会がっかい、2008ねん9がつ、31-49ぺーじNAID 40016266115 
  • ミュラー, ヤン=ヴェルナー  板橋いたばしたく田口たぐちあきらやく (2019), ためされる民主みんしゅ主義しゅぎ 20世紀せいきヨーロッパの政治せいじ思想しそう (原著げんちょ2011), 岩波書店いわなみしょてん 

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Jelavich 183.
  2. ^ a b c d e Brook-Shepherd 281.
  3. ^ Brook-Shepherd 282.
  4. ^ a b c Jelavich 202.
  5. ^ Lehne 136.
  6. ^ a b c d e ミュラー 2019, p. うえ113.
  7. ^ 伊藤いとう富雄とみお「オーストリアにおける1934ねん2がつ蜂起ほうきとコロマン・ヴァリッシュ」『たていのちかん経営けいえいがくだい47かん立命館大学りつめいかんだいがく経営けいえい学会がっかい、2008ねん9がつ、31-49ぺーじNAID 40016266115 
  8. ^ 伊藤いとう、39-40p
  9. ^ 伊藤いとう、40p
  10. ^ ミュラー 2019, p. 111.
  11. ^ a b 伊藤いとう、41p
  12. ^ Reppe 79.
  13. ^ Brook-Shepherd 283.