吴稚晖 (1865年 ねん 3月 がつ 25日 にち [1] :78 —1953年 ねん 10月 がつ 30日 にち ),原名 げんめい 脁 (一作 いっさく 眺 ながめ ),学名 がくめい 纪灵 (又 また 作 つく 寄 よせ 蛉 ),后 きさき 改名 かいめい 敬 けい 恒 つね ,字 じ 稚 やや 暉 あきら ,号 ごう 朏盦 、朏庵 ,笔名燃 もえ 、夷 えびす 、吴朏 等 ひとし [2] ,以字行 ぎょう ,男 おとこ ,江 こう 苏武 たけ 进人 ひと ,中華民國 ちゅうかみんこく 政治 せいじ 人物 じんぶつ ,開國 かいこく 元老 げんろう 。
吳 ご 稚 やや 暉 あきら 工 こう 書法 しょほう ,著作 ちょさく 有 ゆう 《荒古 あらこ 原人 げんじん 史 し 》、《天 てん 演 えんじ 圖解 ずかい 》、《上下 じょうげ 古今 ここん 談 だん 》、《朏盦[註 1] 客 きゃく 座談 ざだん 話 ばなし 》等 とう [3]
。
孫 まご 中山 ちゅうざん 與 あずか 吳 くれ 稚 やや 暉 あきら 父子 ふし 於1909年 ねん 合 ごう 影 かげ 。
吳 ご 稚 やや 暉 あきら 原籍 げんせき 江蘇 ちぁんすー 省 しょう 常 つね 州 しゅう 府 ふ 武 たけ 進 すすむ 縣 けん ,出生 しゅっしょう 於江蘇 ちぁんすー 武 たけ 進 すすむ 和 わ 无锡 交界處 しょ 的 てき 雪 ゆき 堰 せき 橋 きょう 。早年 そうねん 曾在南 みなみ 菁書院 いん 黃 き 以周門下 もんか 學習 がくしゅう 過 か 。光 ひかり 緒 いとぐち 十 じゅう 七 なな 年 ねん (1891年 ねん )中 ちゅう 試 ためし 舉人 。接觸 せっしょく 西方 せいほう 文化 ぶんか 後 ご ,追求 ついきゅう 無 む 政府 せいふ 主義 しゅぎ ,後來 こうらい 參與 さんよ 孫 まご 文 ぶん 主導 しゅどう 的 てき 國民 こくみん 革命 かくめい ,孫 まご 文 ぶん 信仰 しんこう 太平 たいへい 天國 てんごく 老兵 ろうへい 故事 こじ 即 そく 是 ぜ 出自 しゅつじ 吳 ご 敬 たかし 恆 つね 所 しょ 述 じゅつ 。曾在蘇 そ 報 ほう 案 あん 中 ちゅう 被 ひ 認 みとめ 為 ため 是 ぜ 可能 かのう 的 てき 告 つげ 密 みつ 者 しゃ ,在 ざい 蘇 そ 報 ほう 案 あん 入獄 にゅうごく 的 てき 章 あきら 太 たい 炎 えん 出獄 しゅつごく 後 ご 即 そく 批評 ひひょう 吳 ご 稚 やや 暉 あきら 曾密會 かい 清 きよし 廷官員 いん 俞明震 ふるえ ;也是早期 そうき 國民黨 こくみんとう 右派 うは 西山 にしやま 會議 かいぎ 派 は 成員 せいいん 之 の 一 いち 。
1898年 ねん 到 いた 南洋 なんよう 公 おおやけ 学 がく 任 にん 教 きょう ,1901年 ねん 时曾出 で 任 にん 南洋 なんよう 公 おおやけ 学 がく 附属 ふぞく 小学 しょうがく 堂 どう (今 いま 上海 しゃんはい 市 し 南洋 なんよう 模 も 范中学 ちゅうがく )堂 どう 长[4] 。
1903年 ねん 在 ざい 《苏报 》撰文 せんぶん 抨击清 きよし 廷 ,痛罵 つうば 當時 とうじ 執政 しっせい 的 てき 慈禧太 ふとし 后 きさき 是 ぜ 「娼妓 しょうぎ 淫婦 いんぷ 」。《苏报》案 あん 发後经香港 ほんこん 去 さ 伦敦 ,后 きさき 1904年 ねん 前 まえ 往爱丁堡大学 がく 学 がく 习英文 えいぶん [5] 。當時 とうじ 在 ざい 巡 めぐ 捕 ど 捉人時 じ 鄒容 可 か 以逃跑,然 しか 而在吳 くれ 稚 やや 暉 あきら 慫恿愛國 あいこく 學 がく 社 しゃ 的 てき 人 じん ,在 ざい 鄒容家 か 門口 かどぐち 丟磚塊 かたまり 叫 さけべ 罵 ののし 「不 ふ 入獄 にゅうごく 為 ため 無恥 むち 」下 した ,與 あずか 愛國 あいこく 學 がく 社 しゃ 不 ふ 合 ごう 的 てき 鄒容憤 いきどお 而投 とう 案 あん ,最後 さいご 病死 びょうし 獄中 ごくちゅう 。[6] 同案 どうあん 入獄 にゅうごく 後 ご 的 てき 章 あきら 太 たい 炎 えん 出獄 しゅつごく 後 ご ,於1907年 ねん 在日 ざいにち 本 ほん 《革命 かくめい 評論 ひょうろん 》第 だい 十 じゅう 號 ごう 中 ちゅう ,登 のぼり 出 いずる 《鄒容傳 でん 》,批評 ひひょう 吳 ご 稚 やや 暉 あきら 出 で 賣 うり 同志 どうし 。引起吳 ご 在 ざい 1908年 ねん 《新 しん 世紀 せいき 》第 だい 二 に 十 じゅう 八 はち 號 ごう 上 じょう 抗辯 こうべん 。使 つかい 章 あきら 太 たい 炎 えん 回 かい 信 しんじ 吳 ご 稚 やや 暉 あきら 在 ざい 探 さがせ 視 し 時 じ 親 おや 口 こう 承認 しょうにん 密會 みっかい 俞明震 ふるえ 。「...案 あん 僕 ぼく 入獄 にゅうごく 數日 すうじつ ,足下 あしもと 來 らい 視 し ,自 じ 述 じゅつ 見 み 俞明震 ふるえ 屈 こごめ 膝 ひざ 請安及賜麵事。又 また 述 じゅつ 俞明震 ふるえ 語 ご ,謂 いい 奉 たてまつ 上官 じょうかん 條 じょう 教 きょう 來 らい 捕 と 足下 あしもと ,但 ただし 吾輩 わがはい 辦事,不可 ふか 野蠻 やばん ,有 ゆう 釋 しゃく 足 あし 下意 かい ,願 ねがい 足下 あしもと 善 よ 為 ため 謀 はかりごと 。時 とき 慰丹 在 ざい 傍 はた 問 とい 曰,何 なに 以有我 わが 與 あずか 章 あきら 先生 せんせい ?足下 あしもと 即 そく 面 めん 色 しょく 青 あお 黃 き ,嚅囁不 ふ 語 かたり ,須臾 しゅゆ 引去 ひきさ 。此非僕 ぼく 與 あずか 足 あし 下知 げじ 之 の ,同 どう 繫者上 じょう 有 ゆう 錢 ぜに 葆仁、程 ほど 吉 よし 甫 はじめ 輩 やから ,可 か 覆 くつがえ 問 とい 也。」[7]
1905年 ねん 冬 ふゆ 参加 さんか 同盟 どうめい 会 かい 。1906年 ねん 在 ざい 巴 ともえ 黎 はじむ 参与 さんよ 组织世界 せかい 社 しゃ ,1907年 ねん 刊行 かんこう 《新 しん 世紀 せいき 》周 しゅう 刊 かん 及《世界 せかい 画 が 刊 かん 》,宣傳 せんでん 無 む 政府 せいふ 主義 しゅぎ 。這是最早 もはや 傳 つて 入 にゅう 中國 ちゅうごく 的 てき 社會 しゃかい 主義 しゅぎ 思想 しそう 之 の 一 いち ,後來 こうらい 在中 ざいちゅう 國 こく 影響 えいきょう 很大,中國共產黨 ちゅうごくきょうさんとう 崛起以後 いご 漸 やや 漸 やや 被 ひ 排 はい 擠、衰 おとろえ 落。
1911年 ねん 後 ご ,多 た 從事 じゅうじ 文化 ぶんか 運動 うんどう 。
1912年 ねん ,與 あずか 李 り 石 いし 曾 、汪 ひろし 精 せい 衛 まもる 、蔡元培 つちかえ 等 とう 人 ひと 開 ひらき 辦留 とめ 法 ほう 儉學會 がっかい ,開 ひらき 展 てん 留 とめ 法 ほう 勤 つとむ 工 こう 儉學[8] ,後來 こうらい 最 さい 鼎 かなえ 盛 もり 的 てき 時候 じこう 1919-1920年間 ねんかん 送出 そうしゅつ 1600-2000名 めい 學生 がくせい 赴法,許多 きょた 人 じん 後來 こうらい 成 なり 爲 ため 中國共產黨 ちゅうごくきょうさんとう 高級 こうきゅう 領 りょう 導 みちびけ ,包括 ほうかつ 周 しゅう 恩來 おんらい 、鄧小平 ひらた 、陳 ちん 毅 あつし 等 ひとし 。
1913年 ねん 任 にん 教育 きょういく 部 ぶ 读音统一会 かい 议长,提 つつみ 倡國語 こくご 注 ちゅう 音 おと 與 あずか 國語 こくご 運動 うんどう 。他 た 積極 せっきょく 投入 とうにゅう 的 てき 國語 こくご 注 ちゅう 音 おと ,今 こん 稱 しょう 「注 ちゅう 音符 おんぷ 號 ごう 」,仍於臺灣 たいわん 及海外 かいがい 老 ろう 華僑 かきょう 間 あいだ 通行 つうこう 。除 じょ 了 りょう 文化 ぶんか 運動 うんどう 外 がい ,他 た 更 さら 被 かむ 蔣中正 ちゅうせい 之子 ゆきこ 蔣經國 こく 視 み 為 ため 老師 ろうし 。
1913年 ねん 6月 がつ 参与 さんよ 创办《公 おおやけ 论》日刊 にっかん 。1913年 ねん 參與 さんよ 孫 まご 文 ぶん 發起 ほっき 的 てき 反 はん 袁世凱政權 せいけん 的 てき 二 に 次 じ 革命 かくめい ,8月 がつ 失 しつ 败后於9月 がつ 再 さい 赴欧 おう 洲 しゅう [9] 。
1920年初 ねんしょ 與 あずか 李 り 石 いし 曾、蔡元培 つちかえ 等 とう 在 ざい 北京 ぺきん 成立 せいりつ 中 ちゅう 法 ほう 大學 だいがく ,蔡元培 つちかえ 任 にん 校長 こうちょう ,李 り 石 いし 曾任董 ただし 事 こと 長 ちょう 。1920年 ねん 冬 ふゆ 在 ざい 里 さと 昂 のぼる 設立 せつりつ 分 ぶん 部 ぶ ,里 さと 昂 のぼる 中 ちゅう 法 ほう 大學 だいがく (法語 ほうご :Institut Franco-Chinois de Lyon ),吳 ご 稚 やや 暉 あきら 任 にん 校長 こうちょう ,資金 しきん 由 ゆかり 中 ちゅう 法 ほう 雙方 そうほう 共同 きょうどう 籌集,後來 こうらい 1924年 ねん 獲得 かくとく 法 ほう 國 こく 以庚子 こ 賠款退款捐助 すけ ,此校到 いた 1946年 ねん 結束 けっそく ,前後 ぜんご 有 ゆう 131人 にん 獲得 かくとく 博士 はかせ 學位 がくい ,60人 にん 獲得 かくとく 工程 こうてい 師 し 文 ぶん 憑。
1924年 ねん ,吳 ご 稚 やや 暉 あきら 等 とう 人 じん 在 ざい 上海 しゃんはい 創 そう 辦中華 はな 粥 かゆ 會 かい 。至 いたり 今中 いまなか 華 はな 粥 かゆ 會 かい 仍在臺灣 たいわん 運 うん 作 さく ,秉持著 ちょ 每月 まいつき 集會 しゅうかい 吃 ども 粥 かゆ ,以紀念 ねん 吳 くれ 稚 やや 暉 あきら 。1925年 ねん ,蔣經國 こく 向 こう 吳 くれ 稚 やや 暉 あきら 推薦 すいせん 自己 じこ 為 ため 可 か 以前 いぜん 往中國 ちゅうごく 國民黨 こくみんとう 候 こう 選 せん 成員 せいいん ,並 なみ 且認為 ため 自己 じこ 能 のう 通過 つうか 中國共產黨 ちゅうごくきょうさんとう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 會 かい 同意 どうい 而前往蘇 そ 聯 れん 就讀。雖然吳 くれ 稚 やや 暉 あきら 在 ざい 中國 ちゅうごく 國民黨 こくみんとう 內是西山 にしやま 會議 かいぎ 派 は 重要 じゅうよう 人物 じんぶつ ,反對 はんたい 中國共產黨 ちゅうごくきょうさんとう 之 の 主張 しゅちょう ,後來 こうらい 促成 そくせい 中國 ちゅうごく 國民黨 こくみんとう 決定 けってい 發起 ほっき 四 よん ·一 いち 二 に 事件 じけん 與 あずか 蘇 そ 聯 れん 決裂 けつれつ ,但 ただし 吳 ご 稚 やや 暉 あきら 並 なみ 沒 ぼつ 有 ゆう 嘗試勸 すすむ 阻蔣經國 けいこく 前 ぜん 往莫斯科 か 之 これ 念頭 ねんとう 。
1927年 ねん ,任 にん 中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう 中央 ちゅうおう 监察委 い 员。他 た 認 みとめ 為 ため 中國共產黨 ちゅうごくきょうさんとう 與 あずか 蘇 そ 俄 にわか 的 てき 密 みつ 切 きり 聯 れん 繫危害 きがい 中國 ちゅうごく 未來 みらい 發展 はってん ,並 なみ 有 ゆう 破壞 はかい 中華 ちゅうか 文化 ぶんか 之 これ 嫌 いや ,因 いん 此力倡清 きよし 黨 とう 。之 これ 後 ご ,他 た 反 はん 对中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう 内 ない 一切反对蒋中正的力量,成 なり 为蒋的 てき 御用 ごよう 心腹 しんぷく 智 さとし 囊;在 ざい 1927年 ねん -1950年 ねん 間 あいだ 的 てき 國共 こっきょう 鬥争中 ちゅう ,扮 ふん 演 えんじ 積極 せっきょく 反共 はんきょう 的 てき 角 かく 色 しょく ,并参与 さんよ 杀害共 ども 产党员陈延年 ねん (陈独秀 しゅう 之子 ゆきこ )。
1937年 ねん ,他 た 在 ざい 重 じゅう 庆上清 きよし 寺 てら 向 むかい 汪 ひろし 精 せい 卫下跪,恳劝汪 ひろし 精 せい 卫“救 すくい 救 すくい 中国 ちゅうごく ”,“悬崖勒马”,“结束战事”,“不 ふ 应为一己求自全自保”而“袖手 しゅうしゅ 旁 つくり 观”,汪 ひろし 精 せい 卫之后 きさき 开始发表亲日言 げん 论,主 しゅ 张“和平 わへい 运动”,并最终出走 しゅっそう 越 えつ 南 みなみ ,投 とう 靠 もたれ 日本 にっぽん 。
1943年 ねん ,國民 こくみん 政府 せいふ 主席 しゅせき 林 はやし 森 もり 病 やまい 逝陪都 重慶 たーちん ,蔣中正力 しょうりき 邀吳稚 やや 暉 あきら 為 ため 新 しん 主席 しゅせき ,但 ただし 被 ひ 其推辭 やめ ,按其原 ばら 話 ばなし ,吳 ご 稚 やや 暉 あきら 的 てき 推辭理由 りゆう 是 ぜ 這麼「三 さん 不 ふ 」:
“
我 わが 平常 へいじょう 的 てき 衣服 いふく 穿 ほじ 得 う 很隨便 びん 很簡單 かんたん ,做元首 げんしゅ 要 よう 穿 ほじ 燕尾服 えんびふく 、打 だ 領 りょう 結 ゆい 領 りょう 帶 たい ,我 わが 覺 さとし 得 とく 不 ふ 自在 じざい ;
我 わが 臉長得 とく 很醜,不 ふ 像 ぞう 一 いち 個 こ 大人 おとな 物的 ぶってき 模樣 もよう ;
我 わが 這個人 こじん 愛 あい 笑 わらい ,看 み 到 いた 什麼 いんも 會 かい 不 ふ 自主 じしゅ 地 ち 笑 わらい 起 おこり 來 らい ,哪天外國 がいこく 使節 しせつ 來 らい 遞國書 こくしょ ,會 かい 不 ふ 由 よし 得 とく 笑 わらい 起 おこり 來 らい ,不 ふ 雅 みやび 。
”
以後 いご ,吳 ご 稚 やや 暉 あきら 也基於此三 さん 點 てん ,不 ふ 任 にん 任 にん 何 なん 官職 かんしょく 。
制憲 せいけん 國民 こくみん 大會 たいかい 主席 しゅせき 吳 ご 敬 たかし 恆 つね (右 みぎ )將 しょう 《中華民國 ちゅうかみんこく 憲法 けんぽう 》交給國民 こくみん 政府 せいふ 主席 しゅせき 蔣中正 ちゅうせい (左 ひだり )
1946年 ねん ,國民 こくみん 政府 せいふ 宣 せん 佈結束 けっそく 訓 くん 政 せい 階段 かいだん ,在 ざい 南京 なんきん 召開的 てき 制憲 せいけん 國民 こくみん 大會 たいかい 確立 かくりつ 了 りょう 《中華民國 ちゅうかみんこく 憲法 けんぽう 》,吳 ご 稚 やや 暉 あきら 擔任 たんにん 制憲 せいけん 代表 だいひょう 主席 しゅせき ,將 はた 《中華民國 ちゅうかみんこく 憲法 けんぽう 》遞交給 きゅう 蔣中正 ちゅうせい 。這個歷史 れきし 時刻 じこく 所 しょ 拍 はく 攝 と 下 した 的 てき 照 あきら 片 へん ,至 いたり 今 こん 仍然是 ぜ 臺灣 たいわん 歷史 れきし 教科書 きょうかしょ 裡 うら 的 てき 重要 じゅうよう 圖 ず 片 へん 。因 よし 此,很多臺灣 たいわん 人 じん 對 たい 他 た 的 てき 印象 いんしょう 是 ぜ 「制憲 せいけん 大老 たいろう 」。隨 ずい 後 ご 蔣中正 せい 當選 とうせん 中華民國 ちゅうかみんこく 第 だい 一任 いちにん 總統 そうとう 。
1947年 ねん 3月 がつ 17日 にち ,三民主義青年團團部聘定第二屆指導員吳稚暉、戴季陶 すえ 等 とう 25人 にん ,評議 ひょうぎ 員 いん 周 しゅう 鯁生等 とう 49人 にん [10] :8314 。3月23日 にち ,中國 ちゅうごく 國民黨 こくみんとう 第 だい 六屆中央監察委員會舉行第三次全體會議,通過 つうか 《各 かく 級 きゅう 監察 かんさつ 委員 いいん 會 かい 考 こう 核 かく 員 いん 政治 せいじ 活動 かつどう 辦法》,並 なみ 改選 かいせん 常務 じょうむ 委員 いいん ,張 ちょう 繼 つぎ 、吳 ご 敬 たかし 恒 つね 、王 おう 寵 ちょう 惠 めぐみ 、邵力子 こ 等 とう 12人 にん 當選 とうせん [10] :8319 。1947年 ねん ,在 ざい 原籍 げんせき 江蘇 ちぁんすー 省 しょう 武 たけ 進 すすむ 縣 けん 當選 とうせん 為 ため 第 だい 一 いち 屆 とどけ 國民 こくみん 大會 たいかい 代表 だいひょう 。1948年 ねん ,當選 とうせん 為 ため 中央 ちゅうおう 研究 けんきゅう 院 いん 第 だい 一 いち 屆 とどけ 院 いん 士 し ,並 なみ 被 ひ 蔣中正 ちゅうせい 聘為首 くび 批總統 そうとう 府 ふ 資 し 政 せい 。
1949年 ねん ,蔣中正 ちゅうせい 派 は 專 せん 機 き 「美 び 齡 よわい 號 ごう 」將 はた 吳 ご 稚 やや 暉 あきら 從 したがえ 廣州 こうしゅう 接 せっ 到 いた 了 りょう 臺灣 たいわん 臺北 たいぺい 。6月1日 にち ,蔣介石 せき 與 あずか 蔣經國 こく 在 ざい 台北 たいぺい 拜 はい 訪 おとずれ 吳 ご 敬 たかし 恒 つね ,晤談後 ご 抵達岡山 おかやま ,於傍晚 ばん 偕蔣經國 けいこく 等 とう 視察 しさつ 高 だか 要塞 ようさい [10] :8932 。有 ゆう 一 いち 次 じ 蔣經國 こく 問 とい 他 た :「先生 せんせい ,你看我 わが 們今後 こんご 成功 せいこう 的 てき 希望 きぼう 怎麼樣 さま ?我 わが 們重新 しん 站起來 らい 的 てき 希望 きぼう 怎麼樣 さま ?」吳 ご 老 ろう 先生 せんせい 的 てき 答 こたえ 覆 くつがえ 非常 ひじょう 簡單 かんたん ,他 た 說 せつ :「你想成功 せいこう ,就會成功 せいこう ,你不想 そう 成功 せいこう ,就永遠 えいえん 不 ふ 會 かい 成功 せいこう 。」[11] :34-35 吳 ご 稚 やや 暉 あきら 又 また 對 たい 蔣經國 こく 說 せつ :
「我 わが 知道 ともみち 有 ゆう 許多 きょた 人 じん ,想 そう 用 よう 各種 かくしゅ 手段 しゅだん 反對 はんたい 你,也有 やゆう 人造 じんぞう 謠 うたい 中傷 ちゅうしょう 你;但 ただし 是 ぜ 這些事 さじ ,想 そう 明白 めいはく 了 りょう ,算 さん 不 ふ 得 とく 什麼 いんも !為 ため 了 りょう 你的父親 ちちおや ,為 ため 了 りょう 你的同 どう 事 こと ,你都必須 ひっす 好 こう 好 このみ 的 てき 做。一個没有被人打擊過的人,是 ぜ 不 ふ 會 かい 成人 せいじん 的 てき 。我 わが 覺 さとし 得 とく 你所受的打擊 だげき 還 かえ 是 ぜ 太 ふと 小 しょう 了 りょう 。你現在 ざい 不 ふ 但 ただし 是 ぜ 為 ため 了 りょう 自己 じこ 的 てき 工作 こうさく ,要 よう 好 こう 好 こう 幹 みき 下 か 去 さ ;即 そく 使 し 為 ため 了 りょう 你的各種 かくしゅ 各樣 かくよう 敵 てき 人 じん ,更 さら 應 おう 該好好 このみ 的 てき 幹 みき ,因 いん 為 ため 任 にん 何 なん 敵 てき 人 じん 所 しょ 希望 きぼう 的 てき ,是 ぜ 你放手 しゅ 、讓步 じょうほ 、不 ふ 幹 みき !」[12] :232
1953年 ねん ,吳 ご 敬 たかし 恆 つね 病 びょう 重住 しげずみ 院 いん 。根據 こんきょ 好 こう 友 とも 李 り 石 いし 曾在 ざい 吳 ご 敬 たかし 恆 つね 住 じゅう 院 いん 期間 きかん 探 さがせ 望 もち 時 じ 寫 うつし 下 か 的 てき 日記 にっき 記錄 きろく :「稚 やや 老 ろう 在 ざい 醫院 いいん 晤面,屢次表示 ひょうじ 欲 ほし 到 いた 美國 びくに 看 み 子 こ 淑 よし 微 ほろ 就醫情況 じょうきょう ,俟較愈 いよいよ 再往 さいおう ,而卒未 み 能成 よしなり 行 ぎょう ,稚 やや 老 ろう 憾事……」日記 にっき 中 ちゅう 還 かえ 記錄 きろく 說 せつ ,如果能成 よしなり 行 ゆき 美國 びくに ,也不會 かい 海 うみ 葬 そう 金 かね 門 もん 。同年 どうねん 10月 がつ 30日 にち 深夜 しんや ,中國 ちゅうごく 國民黨 こくみんとう 中央 ちゅうおう 評議 ひょうぎ 委員 いいん 吳 ご 敬 たかし 恆 つね 於臺北 きた 逝世[13] :75 。《雷 かみなり 震 ふるえ 日記 にっき 》記述 きじゅつ ,在 ざい 10月 がつ 30日 にち 病 びょう 況 きょう 危急 ききゅう 時 じ ,相關 そうかん 人員 じんいん 曾用輸血 ゆけつ 和 わ 氧氣希望 きぼう 能 のう 讓 ゆずる 他 た 在 ざい 11月 がつ 1日 にち 過 か 世 よ ,以避開 ひらき 蔣中正 ちゅうせい 的 てき 「壽 ことぶき 誕」,後來 こうらい 發現 はつげん 可能 かのう 拖不到 いた 11月1日 にち ,於是在 ざい 30日 にち 當 とう 天 てん 即 そく 使 し 救 すくい 治 ち 中止 ちゅうし ,終 おわり 於在當日 とうじつ 深夜 しんや 11時 じ 28分 ふん 去 さ 世 よ ,[14] :469 享 とおる 壽 ことぶき 88歲 さい 。
蔣中正 せい 題詞 だいし 「痛 やめ 失 しつ 師表 しひょう 」。12月1日 にち ,按照遺 のこ 囑 しょく ,蔣經國 こく 將 はた 他 た 的 てき 遺骨 いこつ 運 うん 到 いた 金 かね 門 もん ,雇用 こよう 漁船 ぎょせん ,「把 わ 它葬於廈門 もん 南面 なんめん 海底 かいてい 」[15] :407-413 。
稚 やや 暉 あきら 橋 きょう (沿中橫 なかよこ 公 おおやけ 路 ろ 向 こう 西 にし 看 み )。
1964年 ねん 3月 がつ ,連 れん 基 もと 座高 ざこう 達 たち 四公尺以上的吳稚暉銅像於臺北市敦 あつし 化 か 北 きた 路 ろ 跟南京 なんきん 東路 あずまじ 交叉 こうさ 口 こう 圓 えん 環 たまき 豎立,[16] 成 なり 為 ため 當時 とうじ 臺北 たいぺい 市 し 地 ち 標 しるべ 之 の 一 いち 。1983年 ねん 9月 がつ 8日 にち ,作家 さっか 李 り 敖發表 はっぴょう 〈砸掉那 な 銅像 どうぞう 〉一文 いちぶん ,稱 たたえ 吳 ご 稚 やや 暉 あきら 在 ざい 蘇 そ 報 ほう 案 あん 前 ぜん 就密會 かい 俞明震 ふるえ ,在 ざい 接 せっ 到 いた 俞明震 ふるえ 姪 めい 子 こ 俞大純 じゅん 的 てき 信 しん 時 じ ,不 ふ 向 こう 同志 どうし 報 ほう 備,前 ぜん 往應邀。獲得 かくとく 俞明震 ふるえ 出 で 示 しめせ 公文 こうぶん ,顯然 けんぜん 俞不把 わ 吳 ご 稚 やや 暉 あきら 當 とう 外人 がいじん 看 み 。俞更與 あずか 吳 くれ 稚 やや 暉 あきら 聯絡 れんらく 化 か 名 めい ,委 い 以線民 みん 責任 せきにん 。吳 ご 稚 やや 暉 あきら 才能 さいのう 在 ざい 同志 どうし 被 ひ 抓 つめ 的 てき 風聲鶴唳 ふうせいかくれい 時 じ 前 ぜん 往探監 かん 。並 なみ 引述鄒容 入獄 にゅうごく ,稱 しょう 「可 か 見 み 鄒容之 の 死 し ,『敬 けい 恆 つね 之 これ 所 しょ 致』實 じつ 有 ゆう 關係 かんけい 。一個自己不敢入獄的吳稚暉,卻鼓勵鄒容 よう 去 さ 入獄 にゅうごく ,他 た 的 てき 人品 じんぴん 是 ぜ 哪一 いち 種 しゅ ,也就一看即知了。」並 なみ 諷刺 ふうし 敦 あつし 化 か 北 きた 路 ろ 的 てき 銅像 どうぞう 「每次 まいじ 經過 けいか 臺 だい 北 きた 敦 あつし 化 か 北 きた 路 ろ 南京 なんきん 東路 あずまじ ,我 わが 就會對 たい 交叉 こうさ 口 こう 的 てき 一座 いちざ 銅像 どうぞう ,展開 てんかい 一番 いちばん 『看 み 沒 ぼつ 有 ゆう 起 おこり 』,銅像 どうぞう 鑄 い 的 てき 是 ぜ 一 いち 個 こ 糟 かす 老頭兒 ろーとる ,他 た 的 てき 名字 みょうじ ,叫 さけべ 吳 ご 敬 たかし 恆 つね (稚 やや 暉 あきら )」,「而是一座出賣同志的革命逃兵的銅像,這可太 ふとし 諷刺 ふうし 了 りょう 」。[17] 1988年 ねん 11月,該銅像 ぞう 因 いん 整頓 せいとん 交通 こうつう 等 とう 因 いん 素 もと 被 ひ 拆除,銅像 どうぞう 今 いま 置 おけ 於臺北 たいぺい 市 し 士 し 林 はやし 區 く 至善 しぜん 公園 こうえん 。
在 ざい 金 かね 門 もん 縣 けん 金城 きんじょう 鎮水 みず 頭 あたま 附近 ふきん ,有 ゆう 一座 いちざ 稚 やや 暉 あきら 公園 こうえん ,於海葬 そう 當年 とうねん 建 たて 成 しげる 。與 あずか 水 みず 頭 あたま 碼頭比 ひ 鄰而座 ざ ,由 ゆかり 於公園 えん 地勢 ちせい 較高,水 みず 頭 あたま 碼頭景 けい 緻盡收 おさむ 眼底 がんてい 。除 じょ 此,還 かえ 可 か 瞭 あきら 望 もち 小金 こがね 門 もん 、大陸 たいりく 及金 きむ 烈 れつ 水道 すいどう 等 ひとし 。園 えん 內建築 けんちく 稚 やや 暉 あきら 亭 てい (後 こう 改 あらため 為 ため 吳 ご 公 こう 亭 てい ),鑄 い 銅像 どうぞう 、立石 たていし 碑 いしぶみ ,皆 みな 出 で 於蔣經國 けいこく 經營 けいえい 。[18] :326 亭 ちん 中央 ちゅうおう 是 ぜ 蔣中正 ちゅうせい 所 しょ 題 だい 的 てき 碑 ひ 「吳 ご 稚 やや 暉 あきら 先生 せんせい 水葬 すいそう 紀 き 念 ねん 亭 てい 」。公園 こうえん 盡 つき 頭 あたま 則 そく 是 ぜ 敬 けい 恆 つね 先生 せんせい 半身 はんしん 銅像 どうぞう 。另於由 よし 蔣經國 こく 修 おさむ 建 けん 太 ふとし 魯閣之 これ 交通 こうつう 要 よう 道 どう (即 そく 橫 よこ 貫 ぬき 公 おおやけ 路 ろ ),以「稚 やや 暉 あきら 橋 きょう 」命名 めいめい 之 の 。
在 ざい 其身後 ご ,李 り 石 いし 曾 、鄧傳楷 等 とう 人 ひと 開始 かいし 籌設學校 がっこう 紀 き 念 ねん 他 た 。1955年 ねん 籌設稚 やや 暉 あきら 海 うみ 專 せん [19] ,1960年 ねん 設立 せつりつ 私立 しりつ 稚 やや 暉 あきら 初級 しょきゅう 中學 ちゅうがく ,1963年 ねん 增設 ぞうせつ 高 だか 中部 ちゅうぶ ,改稱 かいしょう 稚 やや 暉 あきら 中學 ちゅうがく 。1986年 ねん ,稚 やや 暉 あきら 中學 ちゅうがく 改 あらため 為 ため 稚 やや 暉 あきら 高級 こうきゅう 工業 こうぎょう 家事 かじ 職業 しょくぎょう 學校 がっこう ,1996年 ねん 又 また 更 さら 名 めい 為 ため 嘉 よしみ 義 よし 市 し 私立 しりつ 仁義 じんぎ 高級 こうきゅう 中學 ちゅうがく 。[20]
1964年 ねん 3月 がつ ,吳 ご 稚 やや 暉 あきら 先生 せんせい 百 ひゃく 年 ねん 誕辰 たんしん ,蔣介石 せき 撰 せん 頌詞讚 たたえ 揚 あげ 吳 ご 氏 し 一言 ひとこと 而為天下 でんか 法 ほう ,一 いち 行 ぎょう 而為萬 まん 世 せい 師 し 。[13] :106 台湾 たいわん 邮局并为吴发行 ぎょう 一 いち 张个人 じん 像 ぞう 3元 げん 纪念邮票,当年 とうねん 全 ぜん 台 たい 可 か 盖戳寄 よせ 信 しん 。
貝 かい 祖 そ 貽氏 し 長 ちょう 公子 こうし 與 あずか 奚玉書 しょ 氏 し 之 の 千金與證明人吳稚暉氏合影
雕刻家 か 王 おう 如玖 曾為其雕像 ぞう 。
蔣經國 こく :「老人 ろうじん (吳 ご 稚 やや 暉 あきら )嚴 いむ 肅而有力 ゆうりょく 的 てき 語句 ごく ,帶 おび 給 きゅう 我 わが 很大的 てき 勇氣 ゆうき 和 わ 力量 りきりょう 。」[21] :335
章 あきら 太 たい 炎 えん 在 ざい 《民 みん 報 ほう 》上 じょう 與 あずか 吳 くれ 稚 やや 暉 あきら 筆戰 ひっせん 時 じ ,《復 ふく 吳 ご 敬 たかし 恒 つね 書 しょ 》稱 しょう :「外 そと 作 さく 疏狂,內貪名 めい 勢 ぜい ,始 はじめ 求 もとめ 權 けん 籍 せき ,終幕 しゅうまく 虛榮 きょえい 者 しゃ ,非 ひ 足下 あしもと 乎?康長 やすなが 素 もと 得 とく 志 こころざし 時 じ ,足下 あしもと 在 ざい 北洋 ほくよう 拜 はい 其門下 か ,而稱弟子 でし ,三日 みっか 自 じ 匿。即 そく 先生 せんせい 既 すんで 敗 はい ,退 すさ 而噤口 こう 不言 ふげん 者 しゃ ,非 ひ 足下 あしもと 之 の 成 なり 事 ごと 乎?為 ため 蔡鈞 所 ところ 引渡,欲 よく 詐 いつわり 為 ため 自殺 じさつ 以就名 めい ,不 ふ 投 とう 大 だい 壑,而投陽 ひ 溝 みぞ ,面目 めんぼく 上露 こうずゆ ,猶 なお 欲 よく 以殺身成 みなり 仁 じん 欺觀聽者 ちょうしゃ ,非 ひ 足下 あしもと 之 の 成 なり 事 ごと 乎?從 したがえ 康長 やすなが 素 もと 講 こう 變 へん 法 ほう 不 ふ 成 なり ,進 しん 而講革命 かくめい 。從 したがえ 蔡孑民 みん 講 こう 革命 かくめい 不 ふ 成 なり ,進 しん 而講無 む 政府 せいふ 。所 ところ 向 こう 雖益高 だか ,而足下之 したの 精神 せいしん 點 てん 汙,雖強 つよ 水 すい 不可 ふか 浣滌。」[22]
吳 ご 稚 やや 暉 あきら 曾為了 りょう 古 こ 應 おう 芬罵 ののし 他 ほか 「如家狗 いぬ ,誰 だれ 投 なげ 以肉骨 こつ ,即 そく 為 ため 誰 だれ 而吠」一事 いちじ ,寫 うつし 信 しん 給 きゅう 教育 きょういく 部長 ぶちょう 李 り 書 しょ 華 はな ,稱 たたえ 他 た 受惠於黨國 こく 只 ただ 有 ゆう 「小 しょう 小 しょう 貓魚」。李 り 敖自蔣經國 こく 的 てき 回 かい 憶,從 したがえ 他 た 1953年 ねん 死去 しきょ 時 じ ,有 ゆう 一萬四千元收入和四萬九千元醫藥收入,依 よ 新臺 しんだい 幣 ぬさ 二 に 百 ひゃく 八 はち 十 じゅう 元 げん 折 おり 合一 ごういつ 兩 りょう 算 さん ,折合 おれあい 黃金 おうごん 有 ゆう 二 に 百 ひゃく 二 に 十 じゅう 兩 りょう 。[23]