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大乘上座部 - 维基百科,自由的百科全书

大乘だいじょう上座かみざ

大乘だいじょう上座かみざげんだいから西域せいいきちゅう記載きさいてきいち名稱めいしょうただしよしげん奘沒ゆう解釋かいしゃく其含よし,引後世こうせい學者がくしゃ們對於「大乘だいじょう上座かみざいやこれ獨立どくりつしん而來げん成員せいいんためなんてき爭議そうぎ學者がくしゃりょ水野みずのひろしもととうみとめため此派そくゆび赤銅しゃくどう鍱部なかてきかしこやま平川ひらかわあきらともはやしみとめため這是大乘だいじょう佛教ぶっきょう興起こうき初期しょきたい傳統でんとう僧團そうだん造成ぞうせい影響えいきょうてきれいいち

歷史れきし記載きさい

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げん奘《だいから西域せいいきちゅう,五次提到有僧眾習學遵行「大乘だいじょう上座かみざほう[1],《だいから西域せいいきそう伽羅きゃらこく中有ちゅううせき記載きさい較為詳細しょうさい

げん奘沒ゆう詳細しょうさい解釋かいしゃく習學遵行「大乘だいじょう上座かみざほうてき具體ぐたい含義。

ざいだいとうだい慈恩寺じおんじ三藏さんぞうほう師傳しでんかず釋迦しゃかかた》以及《ぞく高僧こうそうでんまきよんげん奘傳》中也ちゅうや引用いんようだいから西域せいいきちゅう相關そうかん內容。みちせんざい釋迦しゃかかたこころざしちゅう解釋かいしゃくため習學「大乘だいじょう上座かみざ[4],而玄奘的弟子でしとしりつざいだい慈恩寺じおんじ三藏さんぞうほう師傳しでんちゅう解釋かいしゃくため遵行「大乘だいじょう上座かみざきょう[5]

時代じだい背景はいけい

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すず蘭島らんしまうえてき佛教ぶっきょう最早もはやざいおもねそだておう時代じだいでんいれはらぞく上座かみざ分別ふんべつせつしょう赤銅しゃくどう鍱部ざいばばばつあるばばとぎわたるあまおもねばつ耶)おう時代ときよおおやけもとまえ44ねんまえ17ねん),國王こくおうざい王城おうじょうきたづくりりょう一座著名的無畏山寺,けんじきゅう他所よそ尊敬そんけいてきかかわ迦羅·訶帝須長すながろうしるべ致無かしこやま分立ぶんりつ同時どうじゆう一部份從印度巴羅羅寺屬於ばつ闍子まとたちささえおもね闍黎てき弟子でし們來いたかしこ山居さんきょじゅうかしこやまてき比丘びく接受せつじゅりょう們的學說がくせつ所以ゆえん大寺おおてら便びんさけべかしこやまためたちささえ[6]

ざい哇訶迦帝須王時代じだいおおやけもと269ねん~291ねん),ゆうほえ多利たり耶派てき學說がくせつ輸入ゆにゅうすずらんためかしこやまてき比丘びくしょ接受せつじゅ。此派てき初期しょき傳播でんぱふか受大てらてき打擊だげき很順かずじゅうねんいたりょう訶斯おう時代じだいおおやけもと334ねん~361ねん),したがえみなみいんらいりょう一位大學者僧伽密多長老,獲得かくとく國王こくおうてき信任しんにん大力だいりきひろでん此派てき學說がくせつもりきょくいち訶斯おう命令めいれい人民じんみん:“もと支持しじ大寺おおてら比丘びく如有きょう飲食いんしょくてきばっいちひゃくぜに!”。大寺おおてらてき比丘びく全數ぜんすうせりはなれひらききゅうねんそら無人むじんきょ大寺おおてら建築けんちく破壞はかい材料ざいりょううんおさむけんかしこやま,這時かしこやまいた國王こくおう和親わしんしん國王こくおう大臣だいじん們的全力ぜんりょく支持しじ,擴建なりため全國ぜんこく最大さいだいてき寺院じいんかしこやま獲得かくとく空前くうぜんてき發展はってん大寺おおてら毀的だいじゅうねんゆかり於一擁護大寺而掌握兵權大臣向國王進行兵諫,國王こくおうさことくやめざい允許いんきょ大寺おおてらてき比丘びくかいらいかしこやまてきそうとぎみつ長老ちょうろうため此遇刺身さしみほろび[6]

ざいげん奘時だいすず蘭島らんたおじょう大乘だいじょう佛教ぶっきょう盛行せいこうげん奘曾ため探究たんきゅうせき於《瑜伽ゆがろんてき問題もんだい而要斯里らん參學さんがく,卻因斯里らん卡內らん而止印度いんど最南端さいなんたんてきけんこころざしじょう[2]ざいだいから西域せいいきちゅう記載きさいりょう楞伽けいため斯里らん所出しょしゅつ[7]とうだかむねどき斯里らん卡曾しんけんじだい乘本のりもとせい心地ここちかんけい[8]からげんむねとき不空ふくう三藏さんぞう曾至斯里らん受胎じゅたいぞうかいあずか金剛こんごうかい兩部りょうぶみつほう[9]

考證こうしょう

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ざい佛教ぶっきょう研究けんきゅうちゅうたい這個名詞めいし仍然存在そんざい爭議そうぎ主要しゅよう上座かみざあずか大乘だいじょう,這兩個りゃんこ名詞めいしなん以讓じんれん繫在いちおこり[10]せいとしりつだい慈恩寺じおんじ三藏さんぞうほう師傳しでん[5]なかてき解讀かいどく傳統でんとうじょうみとめため,「大乘だいじょう上座かみざほう大乘だいじょう以及上座かみざ教法きょうほう並列へいれつてき兩個りゃんこ不同ふどうてき教法きょうほう,習學遵行這兩しゅ教法きょうほう就是「がくけんじょう」。ただし也有やゆうみとめため大乘だいじょう上座かみざ單一たんいつ名詞めいし,如みちせんてき釋迦しゃかかたこころざし[4]和藏かずぞうやくだいから西域せいいき》,ざいぞうやくだいから時期じきしょちょ天竺てんじくこく地方ちほうこころざしちゅう以「大乘的だいじょうてき上座かみざある上座かみざてき大乘だいじょうらいやく顯示けんじ它是いち單一たんいつ名詞めいし

許多きょた佛教ぶっきょう研究けんきゅうしゃみなみとめため大乘だいじょう上座かみざそくゆび赤銅しゃくどう鍱部なかてきかしこやま[11]りょみとめためかしこ山寺やまでら受到だい眾部なかほうひろてき學說がくせつ影響えいきょうげん奘認ため們近於大おだいじょう佛教ぶっきょう純粹じゅんすい上座かみざいん此稱們為大乘だいじょう上座かみざ[12]

平川ひらかわあきらみとめため大乘だいじょう上座かみざ受到大乘だいじょう佛教ぶっきょう教理きょうり影響えいきょうてきすずらん上座かみざ[13]みちえき·とく·ひしげ·かわら-ひろしくわみとめためざい大乘だいじょう佛教ぶっきょう發展はってんてき初期しょきまい佛教ぶっきょうちゅう出現しゅつげん兩個りゃんこ集團しゅうだんいち大乘だいじょう集團しゅうだんいち小乘しょうじょう集團しゅうだんざいぼう佛教ぶっきょう派出はしゅつてき僧侶そうりょ必須ひっす遵守じゅんしゅ這個てき戒律かいりつただし以采よう大乘だいじょう教義きょうぎ,而不必脫はなれ這個よりどころ此,ともはやしみとめため大乘だいじょう上座かみざため受到初期しょき大乘だいじょう佛教ぶっきょう影響えいきょうてき上座かみざ僧團そうだん遵守じゅんしゅ上座かみざてきりつただし是也これや採用さいよう大乘だいじょう佛教ぶっきょうてき教義きょうぎ。這派最早もはや起源きげん於錫蘭島らんたおてきかしこ山住やまずみこれでんかい印度いんど本土ほんど[14]

註釋ちゅうしゃく

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  1. ^ だいから西域せいいきまき8揭陀こく:「其先,そう伽羅きゃら國王こくおうところけん也。……僧徒そうとげんせんにん,習學大乘だいじょう上座かみざほう。」
    まき10羯錂とぎこく:「伽藍がらんじゅう餘所よそ僧徒そうとひゃく餘人よにん,習學大乘だいじょう上座かみざほう。」
    まき11そう伽羅きゃらこく;「伽藍がらんすうひゃくしょ僧徒そうとまん餘人よにん,遵行大乘だいじょう上座かみざほう佛教ぶっきょういたりひゃくねんかく擅專もんふんなり:一曰摩訶毗訶羅住部,斥大乘だいじょう,習小きょう;二曰阿跋耶祇釐住部,がくけんじょうひろしえんじさんぞう。」
    まき11ばつ祿ろく羯呫ばばこく:「伽藍がらんじゅう餘所よそ僧徒そうとさんひゃく餘人よにん,習學大乘だいじょう上座かみざほう。」
    まき11剌侘こく:「伽藍がらんじゅう餘所よそ僧徒そうとさんせん餘人よにんがく大乘だいじょう上座かみざほう。」
  2. ^ 2.0 2.1 としりつだい慈恩寺じおんじ三藏さんぞうほう師傳しでん》:「聞海中有ちゅううそう伽羅きゃらくに(此云也),有明ありあけ上座かみざ三藏さんぞう及解《瑜伽ゆがろんしゃわたる海路かいろななひゃく由旬ゆじゅんかたたちかれ。……けんこころざしじょうそく印度いんど南海なんかいくちこうそう伽羅きゃらこく水路すいろさんにちぎょういたこれあいだ而彼おうくに內飢らんゆう大德だいとくめい菩提ぼだい迷祇(そもそもにわとりはん)しめ(此云自在じざいさとしくも),おもねばつ耶鄧瑟[うな-いま+おり](此云かしこきば),如是にょぜとうさんひゃくあまりそうらいとう印度いんどいたけんこころざしじょう法師ほうしあずかあい訖,もんかれそう曰:「うけたまわかれこく大德だいとくとうかい上座かみざ三藏さんぞう及《瑜伽ゆがろん》,こんよく往彼參學さんがくとうなんいん而來?」ほう曰:「わが國王こくおうにん庶飢あら仗。聞贍しゅう豐樂ほうらくやすかくれふつせいしょしょ聖跡せいせきらいみみまたほうやからえつわが曹,長老ちょうろうゆううたぐ隨意ずいいしょうとい。」法師ほうし引《瑜伽ゆがようぶんだいふしちょうまた不能ふのう戒賢これかい。」
  3. ^ としりつだい慈恩寺じおんじ三藏さんぞうほう師傳しでん》:「さだかんじゅうきゅうねんはる正月しょうがつ景子けいこきょうじょう留守るすひだりぼくしゃはりこくおおやけぼうげんよわいひとしうけたまわ法師ほうし齎經、ぞういたり。……また安置あんち法師ほうし西域せいいき所得しょとく大乘だいじょうけいひゃくじゅうよん大乘だいじょうろんいちひゃくきゅうじゅう上座かみざけいりつろんいちじゅう。……」
  4. ^ 4.0 4.1 みちせん釋迦しゃかかたこころざし》:「そう伽羅きゃらくに(印度いんどそく也)。……てら有數ゆうすうひゃくそうまん餘人よにん上座かみざ也。」「かき北門きたもんがいそく菩提寺ぼだいじ。……其寺つねそうげんいちせんにん。習大乘だいじょう上座かみざほうきよし肅。南海なんかいそう伽羅きゃら國王こくおう。請中印度いんどだい吉祥きっしょう王立おうりつけいいま四百年矣故寺多師子國人。」
  5. ^ 5.0 5.1 としりつだい慈恩寺じおんじ三藏さんぞうほう師傳しでん》:「また聞東北海ほっかいほとり有城あるき城東じょうとうみなみさんせんあまりさといたりそう伽羅きゃらくに(からげん印度いんどさかい也)。……其國さき佛法ぶっぽう如來にょらい涅槃ねはんいちひゃくねんちゅうゆうおうおとうと醯因陀羅いや捨欲あいよん沙門しゃもんはてじょうそら往來おうらいゆう此國,あらわたたえ佛教ぶっきょうはつしめせ神通じんずう國人くにびとしん慕,建立こんりゅう伽藍がらんひゃく餘所よそ僧徒そうとまんにん,遵行大乘だいじょう上座かみざきょう。」
  6. ^ 6.0 6.1 ひとしろんすずらん佛教ぶっきょうてき傳播でんぱ及其宗派しゅうは》。
  7. ^ げんだいから西域せいいき·そう伽羅きゃらこく》:「國東くにさきみなみすみゆう[うま*夌](勒隥はん)迦山。巖谷いわやかそけたかしかみおにゆうしゃざいむかし如來にょらい於此せつ[うま*夌]迦經(きゅう楞伽けいなまり也)。」
  8. ^ からけんむね大乘だいじょうほんせい心地ここちかんけいじょ》:「大乘だいじょうほんせい心地ここちかんけいしゃ釋迦如來しゃかにょらい。於耆闍崛やまあずか文殊もんじゅ彌勒みろくとうしょだい菩薩ぼさつ所說しょせつ也。其梵夾。わがれつこうはじめこれだいこくこれしょけんじ也。たから歷年れきねん於中きん。……乃出其梵ほん於醴泉寺いずみでらみことのり京師けいしがく大德だいとく。罽賓三藏さんぞう般若はんにゃとうはちにん翻譯ほんやく其旨。いのち諫議大夫たいふはじめ簡等よんにん潤色じゅんしょく其文。れつためはちかん。勒成一部いちぶ。」
  9. ^ すずだいとう大德だいとく開府かいふどう三司試鴻臚卿肅國公大興善寺大廣智三藏和上之碑》:「いたりひらきもとじゅうきゅうねんあき先師せんしいや代入だいにゅうとうこれゆうみことのりれい國信くにのぶ使こく。……こくおう郊迎宮中きゅうちゅうななにち供養くよう。以真きん沐浴もくよく大師だいしひじといやす以存梵禮。おうしょ眷屬けんぞくおさむ大臣だいじん備盡けんけい。其國有こくゆうひろしけんおもねさえぎなし聖者せいじゃとなり聖地せいちとくためみことしたがえ而問てん乃誠。奉獻ほうけんきんかいたから曰。われしょたからしゃこころ也。此寶也。ひろそく授以《じゅうはちかい金剛こんごういただき瑜伽ゆが》并《盧遮那るしゃな大悲だいひ胎藏灌頂真言しんごんてん經論きょうろん。梵夾ひゃく。僉以ためとく其所でん也。……いたり天寶てんぽうろくこくかえげんむねのべにゅうけんだん親授しんじゅ灌頂。じゅうきよしかげてら。」
  10. ^ れつすなほうじゅう及所阿羅漢あらかんこう》:「おっと上座かみざあずか大乘だいじょう絕無ぜつむ關係かんけいつきじんみな,乃《うん:『大乘だいじょう上座かみざ』,まこと不可解ふかかい也。」
  11. ^ 水野みずのひろしもと佛教ぶっきょうてき分派ぶんぱ及其系統けいとう》:「よりどころ西域せいいきてき記載きさい上座かみざ當時とうじ也相とう流行りゅうこう上座かみざ區分くぶんため大乘だいじょう上座かみざ單純たんじゅんなり上座かみざてき ( 小乘しょうじょう上座かみざ ) 這樣兩派りょうはげん奘認ため所謂いわゆる大乘だいじょう上座かみざゆびてきざいすずらんてきともえ佛教ぶっきょう三派中帶自由主義色彩的無畏山寺派。乎把保守ほしゅてき大寺おおてらなり小乘しょうじょう上座かみざ。」
  12. ^ りょ澂《印度いんどふつがく源流げんりゅうりゃくこうだいさんしょう:「はらざい南方なんぽうてきだい眾系,以後いご發展はってんあんたちさいゆうかたひろ,它們以斯さとらん卡的かしこ山寺やまでらため根據地こんきょちうら本来ほんらい流行りゅうこう上座かみざけいてき,這時かたこうあずか上座かみざ取得しゅとく调和,どう併存へいそんげん奘認ためかしこやまてき上座かみざやめ纯粹てき上座かみざおうめいため大乘だいじょう上座かみざ』。よりどころ此,げん奘似乎也かたこうあずか大乘だいじょうりょう。」
  13. ^ そうこんやく平川ひらかわあきらちょ印度いんど佛教ぶっきょうだい3しょう初期しょきてき大乘だいじょう佛教ぶっきょう〉:「ざいげん奘的《西域せいいきうら……ざい記載きさいすずらん上座かみざ及其系統けいとうてき上座かみざしょ使用しよう大乘だいじょう上座かみざこれ,這是值得注意ちゅういてき當時とうじすずらんかしこ山寺やまでら盛行せいこうでんにゅうしょう大乘的だいじょうてき教法きょうほう現在げんざいすずらんてき佛教ぶっきょう大寺おおてらかしこ山寺やまでら擯除掉了,ただしざい大寺おおてらてき註釋ちゅうしゃく文獻ぶんけんうら仔細しさいそくゆうしょうあずか大乘だいじょう教理きょうり共通きょうつうてき份。よし此玄奘稱すずらん上座かみざてき佛教ぶっきょうため大乘だいじょう上座かみざ』,乎是ゆう理由りゆうてき。」
  14. ^ ともはやしせき於大おだいじょう上座かみざてき問題もんだい〉:「根據こんきょともえ利文としふみ佛典ぶってんすずらん史籍しせきてき记载,すずらん佛教ぶっきょう信仰しんこう雖以小乘しょうじょう上座かみざためぬしただし大乘だいじょう思想しそう始終しじゅう輸入ゆにゅうだんかしこ山住やまずみさらとく别受到大乘的だいじょうてき影響えいきょう許多きょた典型てんけいてき大乘だいじょう思想しそう滲入小乘しょうじょうざい大乘だいじょう萌芽ほうが時期じきさらためあかりあらわ。這在印度いんど佛教ぶっきょう史上しじょういち非常ひじょう重要じゅうようてき問題もんだいすずらん小乘しょうじょうてきさん主要しゅよう兩個りゃんこ),しょ遵行てきりつ並無ならびな歧異;ただしざい學說がくせつ方面ほうめんかしこ山住やまずみ不斷ふだん接受せつじゅ大乘だいじょう影響えいきょう早期そうき接受せつじゅ原始げんし大乘的だいじょうてき功德くどくてんゆずるとう思想しそういたりょうげん時期じきまた接受せつじゅ大乘だいじょう瑜伽ゆが思想しそう可能かのう也有やゆうちゅうかん思想しそう)。よし此,しょ谓『大乘だいじょう上座かみざなみよし大乘だいじょうあずか上座かみざしょ组成,而只いち接受せつじゅ大乘だいじょう思想しそうてき小乘しょうじょう上座かみざ』,また包含ほうがん大乘だいじょうあずか小乘しょうじょうりょう方面ほうめんてき内容ないよういん此才形成けいせいりょう大乘だいじょう上座かみざ』這種奇特きとくてき教派きょうは西藏にしくらぶん譯本やくほんだいから西域せいいき》,ざいいち地方ちほう大乘だいじょう上座かみざやくため大乘的だいじょうてき上座かみざ』,ざいいち地方ちほうまたわけため上座かみざてき大乘だいじょう』,矛盾むじゅん實則さねつね頗能表現ひょうげんしゃてき關係かんけい。」