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沮渠蒙遜 - 维基百科,自由的百科全书

沮渠こうむへりくだ

君主くんしゅ

すずしたけせんおう沮渠こうむへりくだ(368ねん—433ねん),臨松匈奴きょうどひとじゅうろくこく时期きたすずかだいにん君主くんしゅまたきたりょうてき實際じっさいしめづくりしゃはらがかり匈奴きょうどささえけい卢水えびすぞく首領しゅりょう[1],曾反叛後りょうなみ推段ぎょうけんきたりょうおさむころせだんぎょう自己じことう。沮渠こうむへりくだゆういさみりゃく在位ざいい期間きかんきたすずか於強てきたまき伺之ぎわ擴張かくちょうなりため河西かさい一帶いったい最強さいきょうだいてき勢力せいりょく

すずしたけせんおう
統治とうち401ねん-433ねん
出生しゅっしょう368ねん
逝世433ねん(64—65さい
やすそう
もとりょう
年號ねんごう
永安えいあん:401ねんろくがつ-412ねんじゅうがつ

げんはじめ:412ねんじゅういちがつ-428ねん
ようなつこく赫连勃勃ぼつぼつ年号ねんごう
うけたまわげん:428ねんろくがつ-431ねん
义和:431ねんろくがつ-433ねんよんがつ
うけたまわ:?

缘禾:?
谥号
たけせんおう
庙号
ふとし
せいきたすずか

出身しゅっしん

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沮渠はらただし匈奴きょうどかんめいふんためひだり沮渠あずかみぎ沮渠。沮渠こうむへりくだ出身しゅっしん匈奴きょうど貴族きぞくためみずえびす領袖りょうしゅう[2]

生平おいだいら

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復仇ふっきゅうおこりへい

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沮渠こうむへりくだ博覽はくらん史籍しせきあかつき天文てんもん才智さいち眾又ゆう謀略ぼうりゃくためじん圓滑えんかつまたれいかつ變通へんつうぜんはた將領しょうりょうりょうりょこうたい才能さいのうすんでかん驚異きょういまたなまかしこ懼。沮渠こうむへりくだ知道ともみちまたつね飲酒いんしゅゆうさく低調ていちょうぜんはたほろびこうむへりくだ一族依附呂光建立的こうりょう。397ねんこうむへりくだ伯父おじきさき凉尚书沮渠罗仇かず三河みかわ太守たいしゅ沮渠こうじかゆずい从后凉进おさむ西にししんてき乞伏いぬい,吕光おとうと吕延轻敌,へい败被杀,きさき凉军せり撤退てったいりょこう以败军之ざい杀罗かたきこうじかゆにんこうむへりくだざい宗族そうぞく聚集參加さんか二人喪禮的機會舉眾叛涼,のちすずし中田なかたまもるぐんうま及臨まつれいさちあずか眾盟ちかい,十日之間就招合了萬多人,たむろへい金山かなやま同年どうねんこうむへりくだどうけい沮渠男成おとこなり擁立ようりつだんぎょうしょうりょうしゅうまぎけんきたすずしこうむへりくだ授鎮西にし將軍しょうぐんちょうわき太守たいしゅ

屢見智謀ちぼう

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398ねんこうむへりくだふか西郡にしごおり戰略せんりゃく值高,とげ大力だいりき支持しじだんぎょう進攻しんこう該郡てき決定けっていなみ受命じゅめい進攻しんこうしか而蒙へりくだおさむぐんじょうじゅう餘日よじつしたあらためため引水ひきのみず灌城,おわり逮獲太守たいしゅりょじゅん而返,すすむあきらぐんおういさお敦煌とんこうぐんはじめさとし戰後せんごみなこうきたりょうくだこうむへりくだ以功ふうため臨池りんちこう同年どうねんすずしちょうわき守將しゅしょうりょひろしりつ眾棄城東じょうとうこうむへりくだ以「勿遏,きゅう寇弗おいため反對はんたいだんぎょう追擊ついげきただしだんぎょう聽,おわりためりょひろしょはいだんぎょうさらいんこうむへりくだざいどく安全あんぜん撤退てったいいん而嘆どう:「わがぼつゆう聽從ちょうじゅう子房しぼうまとばなしざいかいゆう結果けっか!」[3]こうむへりくだまた反對はんたいだんぎょう以將りょう臧莫孩擔任たんにん新建しんたけ西安しーあんじょうてき太守たいしゅしょう臧莫孩「いさむ無謀むぼうしん忘退」,必會失敗しっぱいだんぎょうまた聽,ひさ臧莫孩就すずしりょげきはいてん璽元ねん(399ねん),だんぎょうしょうりょうおう,以蒙へりくだため尚書しょうしょひだりすすむひさきさき太子たいしりょ及呂纂來おさむだんぎょう請得みなみすずし禿かぶろかみがらす楊軌とう救援きゅうえん,就打算ださん迎擊げいげきこうむへりくだ就說:「楊軌恃著騎兵きへい戰力せんりょくきょうゆう伺機はかりごとわが們的意圖いと。而呂紹和りょ纂在死地しち肯定こうていかいあずかわが決戰けっせん以求せい拒絕きょぜつ對戰たいせんはたゆう泰山たいざん安穩あんのんせんのりぞうたたみおこりてき蛋一さま危險きけん。」[4]だんぎょう同意どういとげ按兵拒絕きょぜつ接戰せっせんりょうぐんぼつゆう辦法,また退すさへい

へいへんとう

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雖然こうむへりくだ屢次建言けんげんきょうじょだんぎょうただし卻害怕對かたようした自己じこ所以ゆえん每每まいまいとくあきら自己じこてき智謀ちぼうだんぎょう也畏懼蒙へりくだてき能力のうりょく此調こうむへりくだため臨池りんち太守たいしゅあらため門下もんかさむらいろううまけんためちょうわき太守たいしゅうまけんとくだんぎょう信任しんにん重用じゅうよう,其人またゆうひと軍事ぐんじ謀略ぼうりゃく,卻輕なみつね欺侮こうむへりくだれいこうむへりくだたいまた恨又怕,於是こうだんぎょう進言しんげん中傷ちゅうしょうけん,卻令だんぎょうはたうまけんころせこうむへりくだずい後向うしろむき沮渠男成おとこなり建議けんぎ除去じょきょだんぎょうあらためたてまつ男成おとこなりためぬしただし男成おとこなり拒絕きょぜつこうむへりくだ心中しんちゅうの不安ふあんもとめがいにん西安しーあん太守たいしゅ,也得だんぎょう批准ひじゅん

こうむへりくだてんさんねん(401ねん)四月约男成一同去祭告兰门山(あま肃省やま西南せいなん暗中あんちゅうじんつげ诉段业说男成おとこなりじゅん备发动变らんだんぎょう男成おとこなり男成おとこなりぜん对段业说:“こうむ逊早就和しん说过よう叛乱はんらんりょうただしん兄弟きょうだい缘故ざい出来できこうむ逊以しん还在,怕部众不听从,于是约臣あずか其祭さんはんじん诬告しんしんわかはてりょうこうむ肯定こうてい很快就起へいりょう。请假称かしょうしんりょう宣告せんこくしんてきざいぎょうこうむ肯定こうていかいおこりへい叛乱はんらん,而臣りつそく就会讨伐,必会成功せいこう。”だん听。こうむへりくだ以此ため藉口しゃこう出兵しゅっぺいおさむだんなみ进屯こう[5]だん急派きゅうはみぎはたのぼる武威ぶいはたりょう中庸ちゅうようはん击蒙逊,のぼるりょう中庸ちゅうよういたりこう坞反くだこうむ逊,五月ごがつこうむ逊大军抵张掖(いまあま肃张わき西北せいほく),のぼる侄子うけたまわ开城门内应,こうむ入城にゅうじょうころせだん[6]とげたたえだいとく大将たいしょう军、凉州まき、张掖こうあらため年號ねんごう永安えいあん

こうはたまたざい永安えいあんねん(402ねん任命にんめい沮渠こうむへりくだため鎮西ちんぜい將軍しょうぐんすなしゅう刺史しし西海さいかいこうこうむへりくだとうひさげ人才じんさいとく文武ぶんぶ官員かんいん支持しじ

おさむだつしゅうと

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こうむへりくだ曾經おく沮渠奚念いたみなみりょう人質ひとじちおもえあずか其結このみしか而南すずししゅ禿かぶろかみ鹿しかいや奚念ねんよう要求ようきゅうあらため以蒙へりくだおとうと沮渠挐ためしつこうむへりくだうつししん表示ひょうじねがい,竟惹いかとぎ鹿しかなみ進攻しんこうこうむへりくだただゆうこたえおう鹿しかてき要求ようきゅう永安えいあんななねん(407ねん),禿かぶろかみ傉檀りつへいまん進攻しんこうこうむへりくだこうむへりくだひとしせきげきはい傉檀,なみ進攻しんこうみなみすずし西郡にしごおり太守たいしゅ楊統永安えいあんじゅうねん(410ねん),こうむへりくだいんぜんみなみすずし枯木かれきえびすやすしおさむかすめ臨松而攻みなみすずしいたりあらわつよ遷數せんじん退すさへい。傉檀りつへい追擊ついげきなみざいきゅういずみおいじょうこうむへりくだこうむへりくだ大敗たいはい傉檀,さらじょうかつおさむいたりしゅうと臧,萬多戶姑臧人民向蒙遜歸降。こうむへりくだずい接受せつじゅ傉檀もとめ,遷八千多戶人離開。傉檀ひさ遷都せんといたりらくこげろうとうひとじょうぜいよりどころしゅうと自立じりつこうむへりくだとげりつさん萬兵まんひょう進攻しんこう奪取だっしゅりょうしゅうと臧。412ねんこうむへりくだ遷都せんとしゅうとしょう河西かさいおう改元かいげんげんはじめ

消滅しょうめつ西にしすずし

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西にしすずしざい沮渠こうむへりくだころせだんぎょうとうまえいちねん自立じりつこうむへりくだ曾於そお永安えいあんじゅういちねん(411ねんけいへい襲擊しゅうげき西にしすずし西にしすずかくんぬし閉門へいもんこばめせんこうむへりくだ撤兵てっぺいさら西にしりょう世子せいしげきはいいたりげんはじめろくねん(417ねん即位そくいこうむへりくだいのちちょうわき太守たいしゅ沮渠こうむねいつわりくだ西にしすずし歆中けい出兵しゅっぺい迎接げいせつただし及後卻發現はつげんこうむへりくだ所領しょりょうてきさんまん伏兵ふくへい而撤はしこうむへりくだ追擊ついげき卻在鮮支澗一戰中せんちゅう大敗たいはい歆。こうむへりくだ一度想重結敗兵再戰,ただしため沮渠成都せいとすすむとめざい增築ぞうちくたてやすし城後じょうごはんげんはじめきゅうねん(420ねん),歆乘こうむへりくだおさむ西にししんひろしてき機會きかい進攻しんこうこうむへりくだ聞訊時正ときまさひろし亹回いたりかわいわお,於是發布はっぷひろし亹已そくはた進攻しんこうだにてきかり消息しょうそくゆずる歆以ためこうむへりくだ仍在がい實質じっしつせい暗中あんちゅうかい援。歆果しか繼續けいぞく進攻しんこうりょうぐんとげふところじょう決戰けっせん歆兵はいただし撤退てったい堅持けんじ再戰さいせん,於是ざいたでいずみさいはいなみころせこうむへりくだいん而乘ぜいおさむおちい西にしすずか都城みやこのじょうしゅいずみ滅亡めつぼうりょう西にしすずしつぎねんこうむへりくだりつぐん進攻しんこうまことりょうしるべ西にしすずか殘餘ざんよ勢力せいりょくしょよりどころてき敦煌とんこう成功せいこうおさむおちい徹底てってい滅亡めつぼう西にしりょう勢力せいりょく

交結そうたかし

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しゅよわいせきめつしょく曾與こうむへりくだゆう使者ししゃ往來おうらいこうむへりくだまた上表じょうひょう表示ひょうじ其臣ふく於東おひがしすすむすすむ廷亦授予りょうしゅう刺史ししげんはじめじゅうねん(421ねん),把持はじあずますすむ軍政ぐんせいてきりゅうひろしだいすすむけん南朝なんちょうそう,於十月任命沮渠蒙遜為使持節、つねさむらいとくりょうしゅうしょ軍事ぐんじ、鎮軍大將軍だいしょうぐん開府かいふどうさんつかさりょうしゅう刺史ししちょうわきこう[7]げんはじめじゅうねん(423ねんがつこうむへりくだ使つかい南朝なんちょうそうそう廷進こうむへりくださむらいぶし開府かいふさむらいちゅうとくりょうしんかわすなよんしゅうしょ軍事ぐんじ、驃騎大將軍だいしょうぐんりょうまもる匈奴きょうどちゅうろうはた西にしえびすこうじょうりょうしゅうまぎ河西かさいおう[8]げんはじめじゅうねん(426ねん)五月又獲改授車騎大將軍[9]うけたまわげんよんねん(431ねん),こうむへりくだまた曾命人出ひとで使きたさら沮渠やすしゅういれきたたかしとげいのち其為かりふしさむらいちゅうとくりょうしゅう西域せいいき羌戎しょ軍事ぐんじふとしでんぎょうせい西にし大將軍だいしょうぐんりょうしゅうまぎりょうおう[10][11]

義和よしかずさんねん(433ねん),こうむ逊去享年きょうねんろくじゅうろくおくりなたけせんおう庙號ふとしいん生前せいぜんしょたて继承じん沮渠菩提ぼだいねんよう,贵族拥立其年长之沮渠まき继位。

性格せいかく特徵とくちょう

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沮渠こうむへりくだゆう軍事ぐんじ才能さいのう屢次こうだんぎょう提供ていきょう意見いけんじょ其解へいやくまたゆずる其國のうりつ於河西にし諸國しょこくあいだとうこうむへりくだ伯父おじ中田なかたまもるぐん沮渠おやしん及臨まつ太守たいしゅ沮渠あなあつおごよこ奢侈しゃし侵害しんがい人民じんみんこうむへりくだせつ:「わざわいみだれわが國家こっかてき就是りょう伯父おじ呀,かえ怎治百姓ひゃくしょう呀!」於是いのちにん自殺じさつ[12]他用たようけいおちいがいどうけい男成おとこなりせっちょおさむころせ推舉てきだんぎょうれいすすむしょ評價ひょうか忘義,つとめつおや。」こうむへりくだりゅうひろし滅後めつごしんてき消息しょうそくじゅうふん憤怒ふんぬもん下校げこうろうりゅうしょう其時有事ゆうじ報告ほうこくこうむへりくだ卻回おう:「你知どうりゅうひろしいれせき,竟敢這樣得意とくい!」就將りゅうしょうころせりょうまた嚴酷げんこくざん暴一めん[13]

よりどころすすむしょ所載しょさいこうむへりくだ頗信天象てんしょうなみうつし其多天象てんしょうゆび引而勝利しょうり[14][15][16]またゆうこうむへりくだ祭祀さいし西王母せいおうぼてらなみ命中めいちゅうしょさむらいろうちょうきよしためてら內的《げん石神いしがみさくめい於寺ぜんこうむへりくだまた曾派世子せいし沮渠興國こうこくいた南朝なんちょうそうしゅうえきとうしょまた曾向南朝なんちょうそうつかさおうひろしもとめさがせかみ[17]。沮渠こうむ逊曾ざいはは车太きさきびょうじゅう时引とがめ于己,どう大赦たいしゃ死罪しざい以下いか,车太きさき仍然とうひでり灾时,也有やゆうどう样举动,就下大雨おおあめりょう

逸事いつじ

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こうむへりくだまたしんじふつ,其時ゆう一名自西域東來的僧人くもりざいりょうしゅうやくけいまた「以男女だんじょ交接こうせつじゅつ教授きょうじゅ婦人ふじん」,こうむへりくだしょおんな及子媳都信奉しんぽうくもり讖亦どおり術數じゅっすう咒術,屢次じゅんかくせつ其他國家こっかてきこと,沮渠こうむ逊遂たてまつ昙无谶为こく师,まい国事こくじ谘之。こうきた聽聞ちょうもんくもり讖的事跡じせき要求ようきゅうこうむへりくだはたくもり讖送いたきたたかしこうむへりくだ肯,及後かえはた他殺たさつりょう[18][19]

家庭かてい

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つま

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子女しじょ

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延伸えんしん阅读

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[]

 すすむしょ·まき129》,出自しゅつじぼうげんよわいすすむしょ
 そうしょ·まき98》,出自しゅつじ沈约そう
 しょ·まき99》,出自しゅつじおさむ

参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ そう书·氐胡传》しょうこうむ逊为“卢水えびすじん”。
  2. ^ すすむしょまき129〈沮渠こうむへりくだ〉:「沮渠こうむへりくだ,臨松みずえびすじん也。其先ため匈奴きょうどひだり沮渠,とげ以官為氏ためうじ焉。」
  3. ^ すすむしょ·载记だいじゅうきゅう·沮渠こうむへりくだつて》:「りょひろしちょうわきはたひがしはしぎょうよくげきこうむへりくだ諫曰:『勿遏,きゅう寇弗おい,此兵ため戒也。如縱,以為後圖こうと。』ぎょう曰:『いちにちたててき,悔將及。』とげりつ眾追ためひろしょはいぎょうよりゆきこうむへりくだ而免,歎曰:『不能ふのうよう子房しぼうげん,以至于此!』」
  4. ^ すすむしょ·载记だいじゅうきゅう·沮渠こうむへりくだつて》:「ぎょうはたげきこうむへりくだ諫曰:『楊軌恃虜つよゆう窺覦こころざし。紹、纂兵ざい死地しち,必決戰けっせんもとめせい戢則ゆう太山たいざんやすせんそくゆう累卵るいらん危。』ぎょう曰:『きょうごと是也これや。』
  5. ^ すすむしょ·载记だいじゅうきゅう·沮渠こうむへりくだつて》:“こうむへりくだあずか男成おとこなりどうまつりらんかどさんみつ司馬しばもと咸告ぎょう曰:‘男成おとこなりよく謀叛ぼうほんもと以取かりにちさくぎゃくわかもとめさい兰门さんしんげん验矣。’いたり期日きじつ果然かぜん。业收男成おとこなりれい杀。男成おとこなり曰:‘こうむ逊欲谋叛,さきやめつげしんしん兄弟きょうだい,隐忍不言ふげん。以臣こんざいおそれじん从,あずかしんかつさいやまかえししょう诬告。しんわかあさこうむ逊必ゆう发。乞诈げんしん,说臣ざい恶,こうむ逊必さくぎゃくしんとうたもと讨之,こと无不とし。’业不从。こうむ逊闻男成おとこなり,泣告众曰:‘男成おとこなりちゅう于段こう,枉见屠がい,诸君のう为报かたき乎?且州兵乱へいらん业所のう济。われ所以ゆえんはつたてまつこれしゃ,以之为陈、吴耳,而信谗多,枉害忠良ただよし,岂可やすまくら卧观,使つかい百姓ひゃくしょう离于涂炭。’男成おとこなりもとゆうおんしんじ,众皆愤泣而从いたり氐池,众逾いちまん。镇军臧莫孩りつ众附,羌胡おこりへい响应。こうむ逊壁于侯坞。”
  6. ^ 《资治どおり鉴·まきだいいちひゃくいちじゅう》:“がつこうむ逊至张掖,のぼる兄子せこうけたまわ爱斩关内,业左右さゆうみなこうむ逊至,业谓蒙逊曰:‘孑然いちおのれ,为君しょ推,すなお匄馀いのち使つかいとく东还与妻子さいししょう见。’こうむ逊斩。”
  7. ^ そうしょまき3:おのれ,以涼しゅうえびすそちだい沮渠こうむへりくだため鎮軍大將軍だいしょうぐん開府かいふどうさんつかさりょうしゅう刺史しし
  8. ^ そうしょまき4:かのえたつ,[6]爵蒙へりくだため驃騎大將軍だいしょうぐん,[7]ふう河西かさいおう
  9. ^ そうしょまき5:おつ,驃騎大將軍だいしょうぐんりょうしゅうまぎだい沮渠こうむへりくだあらためためしゃ大將軍だいしょうぐん
  10. ^ しょ·まききゅうじゅうきゅう·沮渠こうむへりくだつて
  11. ^ しょまき4:〔きゅうがつみずのとみことのり兼太かねたつねじゅんぶしはい河西かさいおう沮渠こうむへりくだためかりふしさむらいちゅうとくりょうしゅう西域せいいき羌戎しょ軍事ぐんじくだりせい西にし大將軍だいしょうぐんふとしでんりょうしゅうまぎりょうおう
  12. ^ すすむしょ·载记だいじゅうきゅう》:「こうむへりくだ伯父おじ中田なかたまもるぐんおやしんじ、臨松太守たいしゅあなあつしなみ驕奢きょうしゃ侵害しんがい百姓ひゃくしょうこうむへりくだ曰:『らんわれこくしゃ伯父おじ也,なに綱紀こうき百姓ひゃくしょう乎!』みなれい自殺じさつ。」
  13. ^ すすむしょ·载记だいじゅうきゅう·沮渠こうむへりくだつて》:「こうむへりくだ聞劉ひろしめつ姚泓,いか甚。もん下校げこうろうりゅうさちげんごと于蒙へりくだこうむへりくだ曰:『なんじ聞劉ひろしいれせき,敢研けんしか也!』とげころせこれ。其峻暴如。」
  14. ^ すすむしょ·载记だいじゅうきゅう》:「ふとしれいりゅうはりげん于蒙へりくだ曰:『からしとり金也きんやどう于金,きむどうこく大軍たいぐんひがしぎょう前之まえのちょう。』ちょうわきじょうごと有光ありみつしょくこうむへりくだ曰:『おうはたなり百戰ひゃくせんひゃくしょうぞう也。』とげおさむ禿かぶろかみ西郡にしごおり太守たいしゅ楊統於日勒。」
  15. ^ すすむしょ·载记だいじゅうきゅう》:「ふとしれいちょう衍言于蒙へりくだ曰:『こんとし臨澤城西じょうさいとうゆうやぶへい。』こうむへりくだ乃遣其世政德まさのりたむろへいわかあつ塢。こうむへりくだ西にしいたりしろがんいいちょう衍曰:『われ今年ことしとうゆう所定しょていただしふとしとしざいさるがつまたけんさる西行さいぎょう。且當みなみじゅんよう其歸かいしゅ而勿きゃく,以順天心てんしんけいざい臨機りんきまき勿露也。』とげおさむひろし亹,而蛇ばん于帳まえこうむへりくだわらい曰:『ぜんいちためあがへびこんばんざいわれちょう天意てんいよくわれ迴師さきていさけいずみ。』しょうおさむ而還,于川いわお。聞李ぎょう徵兵ちょうへいよくおさむちょうわきこうむへりくだ曰:『にゅうわれけい矣。ただしおそれ聞吾迴軍,敢前也。兵事へいじひさしけん。』」
  16. ^ すすむしょ·载记だいじゅうきゅう》:「(こうむへりくだ)顧謂左右さゆう曰:『これぎょう不犯ふぼんとし所在しょざい。姚氏しゅんけんながえ苗裔びょうえい也。こん鎮星ざいのきながえ,而裕めつまた能久よしひさまもるせきちゅう。』」
  17. ^ そうしょ·まききゅうじゅうはち》:「世子せいし興國こうこく使つかいたてまつひょう,請《しゅうえき》及子しゅうもろしょふとしなみたまものごうよんひゃくななじゅうかんこうむへりくだまた就司おうひろしもとめさがせかみ》,ひろうつしあずかこれ。」
  18. ^ 书·释老こころざし》记载:“沮渠こうむ逊有凉州,またこう佛法ぶっぽうゆうくりや宾沙门昙无谶,习诸经论于姑臧,あずかすな门智かさとう,译《涅槃ねはん》诸经じゅうまた晓术すうきん咒,历言他国たこく安危あんき听中验。こうむ逊每以国事こくじ咨之。”;《昙无谶传》,《りょう高僧こうそう传》まき
  19. ^ しょまき九十九つくも、《きたまききゅうじゅうさんはじめ罽賓沙門しゃもん曰曇讖,ひがしいれ鄯善うんのう使おにびょうれい婦人ふじん多子おいご」,あずか鄯善おういもうと頭陀ずだりん私通しつう發覺はっかくほろびりょうしゅうこうむへりくだちょうごう曰「聖人せいじん」。くもり讖以男女だんじょ交接こうせつじゅつ教授きょうじゅ婦人ふじんこうむへりくだしょおんなみな往受ほう聞諸行人こうじんげんくもり讖之じゅつ,乃召くもり讖。こうむへりくだとげ發露はつろ其事,拷訊ころせこれ
  20. ^ 军刚, きたたかし<沮渠树舄こころざし>こう释 》, 《文博ふみひろ》 (だい04), 2022ねん, (だい04): 68–74 
前任ぜんにん
だんぎょう
きたすずかくんぬし
401-433
つぎにん
三子みつごあいおう沮渠まき