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徒單克寧 - 維基百科,自由的百科全書

たんかつやすし(?—1191ねん),かねあさ萊州いま山東さんとうしょう萊州にん出自しゅつじおんなしんたん原名げんめい習顯きむむねきむあきら宗時むねとき長期ちょうき擔任たんにん宰相さいしょう

其父汾陽ぐん節度せつど使たんきょうしゃしゅうとしゅうとひだり丞相じょうしょうかんがおまれいん。其先きんげん縣人けんじんずいもうやす遷居いた山東さんとう,於是ていせき萊州。

生平おいだいら

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たんかつやすしぜん騎射きしゃゆういさみりゃく通曉つうぎょうおんなぶんちぎりぶんきむ熙宗とき充當じゅうとう護衛ごえい歷任れきにんたからろうさむらいまもるしん軍馬ぐんばぐん指揮しき使あらため忠順ただまさぐん節度せつど使めとかんがおむねてき女兒じょじよしみさちけんぬしかんがおあきら在位ざいいくだ滕陽ぐん歷任れきにん宿やどしゅう防禦ぼうぎょ使えびすさとあらため節度せつど使曷懶兵馬へいばそうかん

だいじょう元年がんねん(1161ねん),以本兵馬へいばかい東京とうきょうりょう,遷左翼さよくみやこみつるだいじょうねん(1162ねんしたがえみぎふく元帥げんすいかんがおはかりごと衍鎮あつうつり剌窩斡,遷ふとしはらいんちゅうぐんたいらすずかあらためにんえきいん兼山かねやま東路あずまじ兵馬へいばそうかん行軍こうぐんみつるだいじょうよんねん(1164ねん),たんかつやすしぐんすわえしゅう泗州これあいだおさむかつ宋朝そうちょうすわえしゅう射殺しゃさつみなみそう名將めいしょうかちかいぐんにん大名おおないん歷任れきにん河間こうまいん東平とうへいいん,召為點檢てんけんだいじょうじゅういちねん(1171ねん),ずい丞相じょうしょう紇石れつこころざしやすしきただいじょうじゅうねん(1172ねんため樞密すうみつ副使ふくしけん大名おおなごとあらため太子たいしふとしたいらあきら政事せいじふうひそかくにこう後來こうらいやめため東京とうきょう留守るすだいじょうじゅうきゅうねんあらためため南京なんきん留守るすけん河南かなんみつる軍使ぐんしさい為平ためひらあきら政事せいじ世襲せしゅう扎土かわもうやすけんおやかんはかりごとかつ

だいじょうじゅうきゅうねん(1179ねん),にんみぎ丞相じょうしょうあらためふうたんこくおおやけだいじょうじゅういちねん(1181ねん),ためひだり丞相じょうしょうあらためふう定國さだくにこうだいじょうじゅうねん(1182ねんたまものめいかつやすしだいじょうじゅうよんねん(1184ねん留守るすちゅう輔佐ほさ皇太子こうたいしもりこくだいじょうじゅうねん(1185ねん),ぎょうひだり丞相じょうしょうごと太子たいしかんがおまこときょうそつ上表じょうひょう請立すめらぎふとしまごつぎねんためふとしじょうけんひだり丞相じょうしょうだいじょうじゅうはちねん(1188ねん),以ふとしじょう兼任けんにん尚書しょうしょれいふうのべやすぐんおう

だいじょうじゅうきゅうねん(1189ねん),きむむねくずれたんかつやすし受命じゅめい輔佐ほさすめらぎふとしまごかんがお即位そくいためきむあきらむねふう東平とうへいぐんおうあきらあきら元年がんねん(1190ねん),はいふとしふう淄王,ねん正月しょうがつ庚午こうご(1191ねん2がつ16にち[1]死後しご諡號しごうちゅうれつ

傳記でんき資料しりょう

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  1. ^ きむふみまき9:庚午こうごふとし尚書しょうしょれい淄王たんかつやすし薨。