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尚 なお 书省 ,是 ぜ 中国 ちゅうごく 从隋 ずい 朝 あさ 和 わ 唐 から 朝 あさ 开始正式 せいしき 设立的 てき 三省 みつよし 六部 ろくぶ 制 せい 中 なか 的 てき 一 いち 省 しょう ,负责执行国家 こっか 的 てき 重要 じゅうよう 政令 せいれい 。
历史
尚 なお 书省是 ぜ 三省六部制中央政权体系中的三省 みつよし 之 これ 一 いち ,主要 しゅよう 负责执行通 どおり 过审查的法令 ほうれい 。除 じょ 尚 なお 书省以外 いがい ,还有负责草 くさ 拟和颁发皇帝 こうてい 的 てき 诏 令 れい 的 てき 中 ちゅう 书省 ,以及审查诏令内容 ないよう 的 てき 门下省 しょう 。其中,中 ちゅう 书省和 わ 门下省 しょう 分 ぶん 别为决策机 つくえ 构、审议机 つくえ 构,尚 なお 书省则为执行机 つくえ 构。尚 なお 书省长官称 しょう 为尚 なお 书令 ,尚 なお 书仆射 しゃ 副 ふく 之 これ 。尚 なお 书省下 か 设左右 さゆう 丞 すすむ ,分 ふん 管 かん 六 ろく 部 ぶ 。
周 しゅう 代 だい 至 いたり 秦 しん 朝 あさ
周 しゅう 代 だい 的 てき 司会 しかい 相当 そうとう 于尚书[ 1] ;秦 はた 时,少 しょう 府 ふ 遣 や 吏四人在殿中主法书,故 こ 谓之尚 なお 书。[ 2]
汉代至 いたり 南北 なんぼく 朝 あさ
汉承秦 しん 制 せい 。及汉武 たけ 帝 みかど 游 ゆう 宴 えん 后 きさき 廷,始 はじめ 用 よう 宦者 主 しゅ 中 ちゅう 书,以司 つかさ 马迁 为之。中 ちゅう 间遂罢其官 かん ,以为中 ちゅう 书之职。至 いたり 汉成帝 みかど 建 たて 始 はじめ 四 よん 年 ねん ,罢中书宦者 しゃ ,又 また 置 おけ 尚 なお 书五 ご 人 にん ,一人 ひとり 为仆射 ,四 よん 人 にん 分 ぶん 为四曹。王 おう 莽篡位 い 后 きさき ,东汉光武 みつたけ 帝 みかど 为防臣下 しんか 擅专,乃亲总吏职,将 はた 政 せい 务中枢 ちゅうすう 由 よし 三公府移入宫中,而由尚 なお 书协助 じょ 处理,[ 3] 自 じ 此政归台阁,尚 なお 书成为机衡之任 にん 。
东汉有 ゆう 尚 なお 书台。魏 ぎ 、晋 すすむ 以后称 しょう 尚 なお 书省,分 ふん 为都省 しょう 、尚 なお 书曹、郎 ろう 曹三 さん 级。自 じ 魏 ぎ 晋 すすむ 置 おけ 中 ちゅう 书省,掌 てのひら 纳奏拟诏出 で 令 れい 之 の 政 せい ,职权过于尚 なお 书。
北 きた 魏 たかし 分 ぶん 尚 なお 书为三 さん 十 じゅう 六 ろく 曹;孝文 たかふみ 帝 みかど 改 あらため 制 せい 后 きさき ,以录尚 なお 书事为长官 かん ,令 れい 、仆射副 ふく 之 これ ,置 おけ 六 ろく 尚 なお 书、二 に 丞 すすむ ,权任颇重。
隋 ずい 唐 とう
隋 ずい 文 ぶん 帝 みかど 杨坚取代 だい 北 きた 周 しゅう 称 しょう 帝 みかど ,于开皇 すめらぎ 元年 がんねん (581年 ねん )恢复了 りょう 尚 なお 书省,使 つかい 尚 なお 书省成 なり 为名副 ふく 其实的 てき 全国 ぜんこく 最高 さいこう 行政 ぎょうせい 机 つくえ 构。与 あずか 中 ちゅう 书省、门下省 しょう 合 ごう 称 たたえ 三 さん 省 しょう ,而尚书省是 ぜ 全国 ぜんこく 行政 ぎょうせい 的 てき 总汇机 つくえ 构,长官称 しょう 尚 なお 书令。设六 ろく 部 ぶ :吏部、户部、礼 れい 部 ぶ 、兵部 ひょうぶ 、刑部 おさかべ 、工 こう 部 ぶ ,各 かく 设尚书为长官,后 きさき 置 おけ 侍 さむらい 郎 ろう 为副长官,历代沿置。
唐 から 沿隋制 せい ,曾改称 かいしょう 文 ぶん 昌 あきら 台 だい 、都 と 台 だい 、中台 ちゅうたい ,不 ふ 久 ひさ 复旧称 きゅうしょう 。唐 とう 代 だい 尚 なお 书省出 で 居 きょ 宫禁外 がい ,时号“南 みなみ 省 しょう ”。
由 よし 于唐 から 太 ふとし 宗 むね 在 ざい 即位 そくい 前 ぜん 曾担任 たんにん 尚 なお 书令这个职务,因 いん 此在唐 とう 朝 あさ 此后的 てき 时期,这个官 かん 职非轻易授,而多以尚书仆射 为尚书省长官 。唯 ただ 安 やす 史 し 之 の 乱 みだれ 后 きさき ,郭 かく 子 こ 仪有 ゆう 大功 たいこう 于唐室 しつ ,无官以宠之 の ,遂 とげ 授尚书令,且很快 かい 辞去 じきょ 。另唐朝 あさ 末 まつ 年 ねん ,藩 はん 镇坐大 だい ,李 り 茂 しげる 贞 曾为尚 なお 书令,朱 しゅ 温 あつし 篡位 前 まえ 亦 また 自称 じしょう 之 の 。
不 ふ 过,唐 とう 代 だい 三省制在建立不久就开始向二省、一 いち 省 しょう 转变。这种变化的 てき 动因在 ざい 于皇权对于相权的控 ひかえ 制 せい 、以及提 ひさげ 高 だか 行政 ぎょうせい 效率 こうりつ 。三省职能逐渐趋向混同合一。有 ゆう 宋 そう 一 いち 代 だい ,虽然三省名义始终存在,但 ただし 是 ぜ 已 やめ 经混同 どう 为一省 しょう 。
金 きむ 、元 もと
金代 かなだい 海 うみ 陵 りょう 王 おう 于1156年 ねん 废中 ちゅう 书门下 ,只 ただ 留 とめ 下 か 尚 なお 书省。这是中国 ちゅうごく 制度 せいど 史上 しじょう 一省制的正式确立。中 ちゅう 书门下 的 てき 存在 そんざい ,象 ぞう 征 せい 着 ぎ 三省互相制衡,皇帝 こうてい 尚 ひさし 未 み 完全 かんぜん 专权,海 うみ 陵 りょう 王 おう 的 てき 改革 かいかく 进一步提高皇帝权力,因 いん 为中 ちゅう 书 议政和 わ 门下 封 ふう 驳的作用 さよう 已 やめ 消失 しょうしつ ,尚 なお 书省只 ただ 是 ぜ 执行皇帝 こうてい 命令 めいれい 而已。[ 4] “1156年 ねん 的 てき 政治 せいじ 改革 かいかく 是 ぜ 金代 かなだい 力 りょく 求 もとめ 建立 こんりゅう 中央 ちゅうおう 集 しゅう 权的专制政体 せいたい 的 てき 顶点。”[ 5]
元 もと 代 だい 以中 ちゅう 书省 总领百官 ひゃっかん ,与 あずか 枢密院 すうみついん 、御 ご 史 し 台 だい 分掌 ぶんしょう 政 せい 、军、监察三 さん 权。尚 なお 书省主要 しゅよう 负责财政事 せいじ 务,且时置 おけ 时废,门下省 しょう 则不复置,于此废置之 の 前 まえ ,诸臣曾皆赞同复其权,但 ただし 部分 ぶぶん 文 ぶん 武将 ぶしょう 领却不 ふ 赞同,其中包括 ほうかつ 了知 りょうち 名曲 めいきょく 家 か 张养浩 ひろし 。张养浩 ひろし 上 じょう 万言 まんげん 书,直 ちょく 陈此事 ごと 不便 ふべん ,连带的 てき 许多大臣 だいじん 也建言 けんげん 附 ふ 和 わ ,却引起 おこり 权贵们的不 ふ 满,遂 とげ 以多条 じょう 罪 ざい 名将 めいしょう 包含 ほうがん 张养浩 ひろし 在 ざい 内的 ないてき 臣子 しんし 论罪。张养浩和 ひろかず 几名文 めいぶん 武臣 ぶしん 于是罢职,并改姓名 せいめい 遁离京 きょう 城 じょう 回 かい 乡,直 ちょく 到 いた 数 すう 月 がつ 后 きさき 此事才 ざい 罢休,再度 さいど 起用 きよう 张养浩 ひろし 等 とう 当初 とうしょ 建言 けんげん 的 てき 臣子 しんし 。明 あきら 初 はつ 沿袭元 もと 制 せい ,由 ゆかり 中 ちゅう 书省统六 ろく 部 ぶ ,但 ただし 1380年 ねん 罢中书省,分 ふん 中 ちゅう 书省之 の 权归于六 ろく 部 ぶ 。自 じ 此,六 ろく 部 ぶ 取 と 代 だい 了 りょう 三省 みつよし 六 ろく 部 ぶ 之 これ 制 せい 。
其他地区 ちく
朝 あさ 鲜半岛
高 こう 丽 时代设置,尚 なお 书令 为从一 いち 品 ひん ,下 しも 设正二 に 品 ひん 左右 さゆう 仆射各 かく 一 いち 名 めい ,从二品知省事一名,正 せい 三 さん 品 ひん 左右 さゆう 丞 すすむ 各 かく 一 いち 名 めい ,从五 ご 品 ひん 左右 さゆう 司 し 郎 ろう 中 ちゅう 各 かく 一 いち 名 めい ,正 せい 六品左右司员外郞各一名,从七 なな 品 ひん 都 と 事 ごと 二 に 名 めい ,吏属、主事 しゅじ 共 きょう 四 よん 名 めい ,令 れい 史 し 六 ろく 名 めい ,书令史 し 六 ろく 名 めい ,记官二 に 十 じゅう 名 めい ,算 さん 士 し 一 いち 名 めい ,直 じき 省 しょう 二 に 名 めい 。
参考 さんこう 文献 ぶんけん
引用 いんよう
^ 《周 しゅう 礼 あや •天 てん 官 かん •冢宰》:司会 しかい 。郑玄注 ちゅう :“会 かい ,大 だい 计也。司会 しかい ,主 しゅ 天下 てんか 之 の 大 だい 计,计官之 の 长,若 わか 今 いま 尚 なお 书。”
^ 《文献 ぶんけん 通 どおり 考 こう 》卷 まき 五 ご 十 じゅう 一 いち ●职官考 こう 五 ご
^ 《唐 とう 六 ろく 典 てん 》载:“光武 みつたけ 亲总吏职,天下 てんか 书皆上向 うわむき 书,与 あずか 人 ひと 主 ぬし 参 さん 决,乃下三 さん 府 ふ ”
^ 陶 とう 晋 すすむ 生 せい :《宋 そう 辽金元 かねもと 史 し 新 しん 论》(香港 ほんこん :中国 ちゅうごく 史学 しがく 社 しゃ ,1984),页97-106。
^ 陶 とう 晋 すすむ 生 せい :《女 おんな 真 しん 史 し 论》(台北 たいぺい :食 しょく 货出版 しゅっぱん 社 しゃ ,1981)。
来 らい 源 みなもと
彭慧萍:《存 そん 世 よ 书画所 しょ 钤尚书省印 しるし 考 こう 》 [Analysis of the authenticity of the eight seals of “Department of State Affairs”], Wenwu [Cultural Relics], 11 (2008), 77-93.
彭慧萍:《尚 なお 书省印 しるし 之 の 研究 けんきゅう 回 かい 顾暨五 ご 项商榷》 [Unraveling the problems of the institutional history of “Department of State Affairs” and the official seal], Gugong Bowuyuan Yuankan 故 こ 宫博物 はくぶつ 院 いん 院 いん 刊 かん [Palace Museum Journal], 1 (2009), 44-59.
参 まいり 见