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なお书令

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なお书令中国ちゅうごく古代こだいかん职名。

なお书原为はたかん,为しょう属官ぞっかん[1]负责管理かんりしょう档案和文わぶん书,沿置,职权だい

ただしいた汉武みかど内廷ないていぶんそと权,以少宦者てんごと尚書しょうしょいい中書ちゅうしょ謁者,じつ乃傳たちみかどいのち於丞しょうもとみかどなりみかど以後いごとげわたる国家こっか政治せいじ中枢ちゅうすう[2]かん光武みつたけみかどため防止ぼうし臣下しんか專權せんけん,避おうこれ,乃親そう吏職,はた政務せいむ中樞ちゅうすうよしさんおおやけ移入いにゅう宮中きゅうちゅう,而由尚書しょうしょきょうじょ處理しょり,此種制度せいど人稱にんしょうこと臺閣たいかく政由まさよし上出かみで」。[3]したがえ此三公雖有其職,而無其權,とげ使尚書しょうしょなりため樞機すうきにんこれ尚書しょうしょ且侵だつきゅうきょう職掌しょくしょう[4]かんあかりみかど以後いごぎょうろく尚書しょうしょごと制度せいど,雖位ため三公みつきみまた必帶ろく尚書しょうしょごとしか後方こうほう得知とくち國政こくせいきさき逐渐なお书权りょくえき庞大,ふん曹治ごと,以なお书令为首,权力很大,ただしよし于是内廷ないてい职务,なお完全かんぜんだつ离少序列じょれつしなこう[5]朝廷ちょうてい重臣じゅうしん秉其它职权者,以“录尚书事”为名てのひら实权。

ずいとう时代,なお书令为なお书省长官,宰相さいしょう职。传统说法认为よしからふとしむねざい武德ぶとくとし间曾にんなお书令,いん此唐あさ此后设尚书令[6]かく曾以设置なお书令违背りょう开元れいしき两次上表じょうひょうなお书令[7]

たけ汉大がく历史けい主任しゅにんから长孺教授きょうじゅ指出さしで设置なお书令はやざいずいあさ就已なり为惯れいずいぶんみかど一朝不设置尚书令,ずい炀帝だい业元ねん(605ねんがつ以左仆射杨素为尚书令,为了ずい炀帝为了むくいこたえ杨素拥立自己じこ皇帝こうていてき大功たいこう个特れいつぎねん六月杨素即进位司徒,めい尊崇そんすう,实是はた挤出なお书省がいずいだい设置なお书令,当然とうぜん避讳,ただよし于尚书省だか权重,ずいぶんみかどずい帝都ていとすなおゆう这样一个上逼皇权的宰相。从大业さんねん苏威なお书左仆射きさきせい个隋炀帝时期仅不设置なお书令,而且《ずい书》传记也不见左右さゆう仆射てきじょ授,なお书省やめ无长かんから长孺指出さしで,苏威ざいずい炀帝时期以太つねきょう份参预朝政ちょうせい,以后虽受ずい炀帝委任いにん,却没ゆう复任仆射。苏威あずかひだり翊卫大将たいしょう宇文うぶんじゅつ门侍ろう裴矩大夫たいふ裴蕴うちさむらいろうおそれもとまいりてのひら朝政ちょうせいしょう为“贵”,五贵包括了门下省、うちしょうそくちゅう书省)两省长官,而宇ぶんじゅつ、裴蕴以他かんさん朝政ちょうせいそく可知かちしょう书省设置なお书令和尚おしょう书仆,也别无尚书省とう权任ごと,实际じょう处于“なお书受なり而已”。から长孺また指出さしで以他かんさん朝政ちょうせいてき制度せいど其实ずいあさ初年しょねん已然いぜん,开皇初年しょねん存在そんざいこうおそれ庆则苏威杨雄てきよん贵”,こう熲为なお书左仆射,おそれ庆则为内监,苏威为纳ごと,乃三省长官合议,而杨ゆう以右卫大将たいしょう军参预朝政ちょうせいみぎ仆射赵煚及门しょううちしょう两省さむらいろう不在ふざい其列,这种三省或两省长官合议而以他官参政,ずいあさ虽不必是つね规,ただし仍然とうあさとうだい以他官位かんいさんつくえ务、まいり政事せいじてきさきごえ[8]

だいきさきなお书令为虚职,なり为名义上てきさい高尚こうしょうてきかん职。もとだいなお书令时置时废,为相职。

なお书令担任たんにんしゃ[编辑]

西にし
东汉
たかし
しょく
すすむ
そう
りょう
ぜん
きさき
なり
ぜんつばめ
きさきつばめ
みなみつばめ
きたつばめ
ぜんはた
きさきしん
西にししん
なつ
きさき
みなみ
きたたかし
西にしたかし
东魏
きた
ずい
とう
みなみとう
きさきはり
きさきとう
きさきすすむ
きさき
きさきしゅう
そう
きむ
もと

参考さんこう文献ぶんけん[编辑]

  1. ^ 漢書かんしょ百官ひゃっかん公卿くぎょうひょう》:しょうゆうろくすすむ屬官ぞっかんゆう尚書しょうしょ符節ふせつふとしふとしかんかんしるべかんらくとうとう
  2. ^ 漢書かんしょ·せきあらわでん》:「はつもとちゅうしょうもちりょう尚書しょうしょごと,…建白けんぱく以為百官ひゃっかんほん國家こっか樞機すうき。」
  3. ^ うまはし臨《文獻ぶんけんどおりこう》:「こうかん雖置三公みつきみ,而事臺閣たいかく尚書しょうしょはじめため衡之にん。」またこうかん書卷しょかんななじゅうろくちんただしでん》:「かんてんきゅうこと丞相じょうしょうしょ請,靡有聽,いま三公みつきみ,雖當其名,而無其實,せん舉、誅賞,いちよし尚書しょうしょなお書見しょけんにんじゅう三公みつきみりょうおそ以來いらい,其漸ひさやめ。」またこう漢書かんしょすももかたでん》:「こん陛下へいかゆう尚書しょうしょなおてんゆう北斗ほくと也,ためてんのどした尚書しょうしょまたため陛下へいかのどした尚書しょうしょ出納すいとう王命おうめいせい四海しかいけんみことぜいじゅうせめこれしょ。」またなかちょうすべでん》:「光武みつたけすうせい失權しっけん,忿彊しん竊命,矯枉じきせいにん,雖置三公みつきみこと臺閣たいかく此以三公みつきみこれしょく,備員而已。」
  4. ^ すすむしょ荀勖でん》:「九卿可併於尚書。」
  5. ^ こう漢書かんしょ百官ひゃっかんこころざし》:「尚書しょうしょれいせんせきてのひらせんしょ,及章尚書しょうしょ曹文眾事。」
  6. ^ とうろくてん·まきいち·三师三公尚书都省》:及光武みつたけ亲总吏职,天下てんかごとみなじょうなお书,あずかひとぬしさん决,乃下さんなお书令为端揆之かんすすむやめらい,其任ゆうじゅうすめらぎあさ武德ぶとくちゅうふとしそうはつ为秦おう,尝亲其职,阙不复置,其国政こくせい枢密すうみつみなちゅう书,八座之官但受其成事而已。
  7. ^ きゅうから书·まきいちひゃくじゅう·れつ传第ななじゅう》:十一月じゅういちがつ,以子仪为なお书令,上表じょうひょう恳辞曰:「しん以薄れつもととぼしぎょうのう,逢时扰攘,猥蒙驱策,ない参朝さんちょうせいそと总兵权。うえ不能ふのうつばさ戴三こうした不能ふのう纠逖ぐん慝,いさおほろ赏厚,にん重恩じゅうおんふかくつがえ餗之忧,实盈寤寐。しんさく所以ゆえん固辞こじふとじょう,乞保馀年,こと私曲しきょく临,とげ见矜许。窃谓陛下へいかやめ其愿,ふか察其しん,岂意历旬时,复延宠命。以臣褊浅,また寡智谋,やす谬职みなみ宫,とう大任たいにん。况太むねむかしきょ藩邸はんてい,尝践此官,るい相承そうしょう,旷而おけ皇太子こうたいし为雍おうこれにち陛下へいか以其总兵うす平定へいてい关东,饮至さくくんさいゆう斯授。岂臣まつ职,敢乱だい伦。とくうすみこと,难逃天子てんし责;负乘致寇,复速神明しんめい诛。ふく乞天慈,俯停しんいのち。」こたえ诏不まこと翌日よくじつ,勑所司令しれい仪于なお书省视事。诏宰しょうひゃく僚送じょうせい五百骑执戟翼从,ちょうどういたりしょう,赐教ぼう乐。仪不受,复上ひょう曰:しんふく以尚书令,たけ德之のりゆき际,ふとしそう为之,さく沥恳じょう陈,请罢斯职;而陛たれあきら察,务欲襃崇,区区まちまちほろ诚,えきよう惶惧。なに则?ふとしそうたて极之ぬし,圣德ざいひときさきいん废此かん永代えいたいさく则。陛下へいかもりぶん继体,かたとうたてまつ而行,岂可猥私老臣ろうしん,隳厥なりしきうえ掩陛下之したのとくしもまんぽうしん虽至やす敢轻受。况久经兵みだれ,僭赏しゃ一人ひとり兼官けんかんすうよんしゅむらさき同色どうしょくきよし浊不ぶん,「烂羊」谣,复闻圣代。しん顷观其弊,おもえかわ其源,以逆寇犹そん敢轻议。こん元凶げんきょう沮败,计日なりとりこ中外ちゅうがい无虞,妖氛渐息。此陛下作げさくほう际,审官时,かたごうはじめ老臣ろうしん及班れつ。岂可轻为此举,以乱こくあきらくにあきららん于上,则庶政しょせい隳于海内かいだいせいみなみだれ,则国家こっかまたやすとく永代えいたい而无患哉!陛下へいか苟能从臣げん,俯察诚请,かれ贪荣おかせ进者,またはたかく让其しょけんこれかん自然しぜん天下でんか文明ぶんめいひゃくこうしきじょ太平たいへい业,とく而复也。しん诚蒙ひなび,识昧古今ここんこころざしこれしょきり,实在于此。
  8. ^ から长孺ちょ. 《山居さんきょそん稿こう》. たけ汉市: たけ汉大がく出版しゅっぱんしゃ. 2013ねん10がつ: 265–281. ISBN 978-7-307-11536-1 ちゅうぶん(简体)).