樟腦 しょうのう 產業 さんぎょう 曾經是 ぜ 臺灣 たいわん 主要 しゅよう 的 てき 經濟 けいざい 項目 こうもく ,19世紀 せいき 末期 まっき 時 じ 樟腦 しょうのう 與 あずか 茶 ちゃ 葉 は 、蔗糖 しょとう 並稱 へいしょう 台灣 たいわん 三 さん 大 だい 出口 いでぐち 物 もの 。臺灣 たいわん 在 ざい 18世紀 せいき 初期 しょき 已 やめ 有 ゆう 開 ひらけ 採 と 樟腦 しょうのう 活動 かつどう 的 てき 紀 き 錄 ろく ,[ 1] :51-74 此時主要 しゅよう 作為 さくい 藥用 やくよう ,直 ちょく 到 いた 19世紀 せいき 末葉 まつよう 起 おこり ,逐漸成 なり 為重 ためしげ 要 かなめ 的 てき 工業 こうぎょう 原料 げんりょう 。[ 2] :33 19世紀 せいき 後半 こうはん 到 いた 20世紀 せいき 初期 しょき ,臺灣 たいわん 與 あずか 日本 にっぽん 本土 ほんど 是 ぜ 全 ぜん 球 たま 天然 てんねん 樟腦 しょうのう 的 てき 兩個 りゃんこ 主要 しゅよう 供應 きょうおう 區 く ,直 ちょく 到 いた 合成 ごうせい 樟腦 しょうのう 技術 ぎじゅつ 在 ざい 1920年代 ねんだい 成熟 せいじゅく 之 の 後 のち ,才 さい 逐漸被 ひ 取 と 代 だい 。由 よし 於樟腦 しょうのう 具備 ぐび 高度 こうど 經濟 けいざい 價 か 值,在 ざい 清治 きよじ 時期 じき 和 わ 日 にち 治 ち 時期 じき 都 と 曾斷斷續 だんぞく 續 ぞく 出現 しゅつげん 過 か 官營 かんえい 專賣 せんばい 制度 せいど ,但 ただし 私營 しえい 腦 のう 業 ぎょう 未 み 曾斷絕 だんぜつ 。隨 ずい 著 ちょ 樟腦 しょうのう 產業 さんぎょう 的 てき 興 きょう 盛 もり ,採 と 伐 き 樟 くすのき 木 き 者 しゃ 不斷 ふだん 深入山 しんにゅうざん 區 く ,打破 だは 了 りょう 清治 きよじ 初期 しょき 官 かん 府 ふ 設置 せっち 的 てき 番 ばん 界線 かいせん 。[ 3]
1684年 ねん (康 かん 2年 ねん )清 きよし 政府 せいふ 為 ため 了 りょう 在 ざい 台灣 たいわん 修 おさむ 護 まもる 水 みず 師 し 之 これ 戰 せん 船 せん ,允許 いんきょ 「軍 ぐん 工匠 こうしょう 首 くび 」入山 にゅうざん 伐 き 樟 くすのき 提供 ていきょう 修復 しゅうふく 戰 せん 船 せん 的 てき 木 き 料 りょう 。《東 ひがし 瀛識略 りゃく 》中 ちゅう 記載 きさい 1740年 ねん )人民 じんみん 私 わたし 自製 じせい 作 さく 樟腦 しょうのう 。清 きよし 廷封禁 きん 番地 ばんち ,禁止 きんし 漢人 かんど 入山 にゅうざん ,清 きよし 廷處置 しょち 私 わたし 自 じ 入山 にゅうざん 開 ひらけ 採 と 樟腦 しょうのう 人民 じんみん ,朱 しゅ 一貴 かずたか 事件 じけん 時 とき 亦 また 有 ゆう 私 わたし 自製 じせい 腦 のう 人民 じんみん 加入 かにゅう 。1725年 ねん (雍正 9年 ねん )清 きよし 廷為貼 は 補 ほ 軍 ぐん 工匠 こうしょう 首 くび ,讓 ゆずる 其具有 ぐゆう 獨 どく 佔製造 せいぞう 樟腦 しょうのう 的 てき 權利 けんり 。因 よし 樟腦 しょうのう 利益 りえき 龐大,亦 また 有 ゆう 人民 じんみん 私 わたし 自 じ 入山 にゅうざん 砍樟製 せい 腦 のう ,(道 みち 光 こう 99年 ねん ) 噶瑪蘭 らん 地區 ちく 艋舺 設立 せつりつ 軍 ぐん 工廠 こうしょう ,同時 どうじ 設立 せつりつ 軍 ぐん 工 こう 料 りょう 館 かん 管理 かんり 北 きた 臺灣 たいわん 腦 のう 務 つとむ 及分配 ぶんぱい 樟 くすのき 木 き 、樟腦 しょうのう 產 さん 量 りょう 。1855年 ねん (咸丰 5年 ねん )美国 びくに 商人 しょうにん 羅 ら 賓 まろうど 奈(William M.Robinet)以協助 じょ 追 おい 捕 と 海 うみ 盗 とう 為 ため 交換 こうかん 條件 じょうけん ,取得 しゅとく 來 らい 台 だい 購買 こうばい 樟腦 しょうのう 的 てき 權利 けんり 。當時 とうじ 清 きよし 政府 せいふ 有 ゆう 樟腦 しょうのう 的 てき 專賣 せんばい 權 けん ,但 ただし 地方 ちほう 政府 せいふ 會 かい 將 はた 專賣 せんばい 權 けん 轉 うたて 包 つつみ 給 きゅう 商人 しょうにん ,外商 がいしょう 須透過 とうか 包 つつみ 攬商人 じん 才能 さいのう 購得樟腦 しょうのう ,其中樟腦 しょうのう 商人 しょうにん 許 もと 遜 へりくだ 榮 さかえ 所 ところ 經營 けいえい 之 の 「金 きむ 茂 しげる 好 このみ 」與 あずか 怡和洋行 ようこう 交易 こうえき 樟腦 しょうのう ,為 ため 當時 とうじ 的 てき 樟腦 しょうのう 獨占 どくせん 商 しょう 。[ 1] :52-69
1861年 ねん 清 きよし
政府 せいふ 開放 かいほう 基 もと 隆 たかし 港 こう 與 あずか 安平 あびら 港 こう 通商 つうしょう ,外商 がいしょう 可 か 在 ざい 台灣 たいわん 貿易 ぼうえき 。1863年 ねん (同 どう 治 ち 2年 ねん )時任 ときとう 臺灣 たいわん 道 どう 臺 だい 陳 ひね 方 かた 伯 はく 將 はた 樟腦 しょうのう 收 おさむ 為 ため 官 かん 辦,由 ゆかり 臺灣 たいわん 道 どう 庫 くら 出資 しゅっし ,將 はた 艋舺軍 ぐん 工 こう 料 りょう 館 かん 改 あらため 為 ため 「腦 のう 館 かん 」,管理 かんり 樟腦 しょうのう 買 かい 賣 うり 。1866年 ねん (同 どう 治 ち 5年 ねん )清政 きよまさ 府下 ふか 令 れい 禁止 きんし 人民 じんみん 與 あずか 外商 がいしょう 直接 ちょくせつ 通商 つうしょう ,購買 こうばい 樟腦 しょうのう 需透過 とうか 腦 のう 館 かん 。[ 1] :74 1868年 ねん 英 えい 商 しょう 怡記洋行 ようこう (Elles & Co.)代理人 だいりにん 必麒麟 きりん (W. A. Pickering)欲 ほし 走 はし 私 わたし 樟腦 しょうのう 而與清 きよし 政府 せいふ 起 おこり 衝突 しょうとつ ,導 しるべ 致英軍 えいぐん 出兵 しゅっぺい 爆發 ばくはつ 樟腦 しょうのう 戰爭 せんそう ,經 けい 當地 とうち 仕 つかまつ 紳 しん 協調 きょうちょう 後 ご ,英軍 えいぐん 撤軍,簽立樟腦 しょうのう 條 じょう 款,廢除 はいじょ 樟腦 しょうのう 官 かん 辦制度 せいど 。[ 4]
劉 りゅう 銘 めい 傳 でん 於1885年 ねん 出 で 任 にん 台灣 たいわん 建 けん 省 しょう 後 こう 首 くび 任 にん 巡 めぐ 撫 なで ,他 た 為 ため 了 りょう 籌措開山 かいさん 撫 なで 番 ばん 的 てき 經費 けいひ ,於1886年 ねん 至 いたり 1890年間 ねんかん 實施 じっし 第 だい 二 に 次 じ 樟腦 しょうのう 專賣 せんばい ,設立 せつりつ 腦 のう 務 つとむ 局 きょく 作為 さくい 專賣 せんばい 機關 きかん 。欲 よく 入山 にゅうざん 伐 き 樟 くすのき 煉 ねり 腦 のう 者 しゃ ,需先向 むこう 撫 なで 墾局取得 しゅとく 許可 きょか ,再 さい 向 こう 腦 のう 務 つとむ 局 きょく 借 か 貸 かし 工 こう 本 ほん ,熬 い 製 せい 成 なり 品 ひん 須全數 すう 賣 うり 回 かい 給 きゅう 腦 のう 務 つとむ 局 きょく ,腦 のう 務 つとむ 局 きょく 再 さい 賣 うれ 給 きゅう 獨 どく 家 か 承 うけたまわ 包 つつみ 商 しょう 銷往香港 ほんこん 、印度 いんど 、欧 おう 洲 しゅう 、美国 びくに 等地 とうち 。[ 1] :104 第 だい 二 に 次 じ 樟腦 しょうのう 專賣 せんばい 期間 きかん ,先後 せんご 由 ゆかり 英 えい 商 しょう 大和 やまと 公司 こうし (參考 さんこう 資料 しりょう 可能 かのう 有 ゆう 誤 あやま )、粵商恆 つね 豐 ゆたか 號 ごう 、德 とく 商 しょう 公 こう 泰 たい 洋行 ようこう 取得 しゅとく 承 うけたまわ 包 つつみ 外 がい 銷資格 しかく 。[ 2] :129 部分 ぶぶん 洋 よう 商 しょう 反對 はんたい 此專賣 うり 制度 せいど ,堅持 けんじ 依據 いきょ 1869年 ねん 簽訂的 てき 《樟腦 しょうのう 條約 じょうやく 》自 じ 行 くだり 經營 けいえい ,屢屢與官 かん 府 ふ 發生 はっせい 衝突 しょうとつ 。[ 1] :105-106
由 よし 於賽 さい 璐珞工業 こうぎょう 從 したがえ 1890年 ねん 起 おこり 大量 たいりょう 使用 しよう 樟腦 しょうのう 作為 さくい 原料 げんりょう ,國際 こくさい 市場 いちば 需求增加 ぞうか ,各國 かっこく 洋 よう 商 しょう 透過 とうか 駐 ちゅう 華 はな 领事馆 聯合 れんごう 向 むかい 清 きよし 政府 せいふ 抗議 こうぎ ,朝廷 ちょうてい 在 ざい 壓力 あつりょく 之 の 下命 かめい 劉 りゅう 銘 めい 傳 でん 廢除 はいじょ 專賣 せんばい 制度 せいど ,於1890年 ねん 11月起 おこり 恢復 かいふく 自由 じゆう 經營 けいえい 。[ 1] :107 此時期 じき 主要 しゅよう 出口 でぐち 商 しょう 為 ため 德 とく 商 しょう 公 こう 泰 たい 洋行 ようこう 、德 とく 商 しょう 魯麟洋行 ようこう 、德 とく 商 しょう 瑞 みず 記 き 洋行 ようこう 、德 とく 商 しょう 東興 とうこう 洋行 ようこう 、英 えい 商 しょう 怡記洋行 ようこう ,另有一 いち 些來自 じ 福建 ふっけん 的 てき 華 はな 籍 せき 腦 のう 商 しょう 。[ 2] :129-130 重 じゅう 新 しん 開放 かいほう 之 これ 後 ご ,在 ざい 1891年 ねん 至 いたり 1895年 ねん 之 の 間 あいだ ,台灣 たいわん 樟腦 しょうのう 的 てき 出口 でぐち 量 りょう 大幅 おおはば 增加 ぞうか ,占 うらない 全 ぜん 球 たま 供應 きょうおう 量的 りょうてき 30%-66%。[ 5] :20
由 よし 於漢人 じん 入山 にゅうざん 伐 き 樟 くすのき 常 つね 與 あずか 原住民 げんじゅうみん 發生 はっせい 衝突 しょうとつ ,必須 ひっす 有 ゆう 強大 きょうだい 的 てき 武力 ぶりょく 為 ため 後 ご 盾 たて ,因 いん 此無論 ろん 是 ぜ 專賣 せんばい 時期 じき 或 ある 開放 かいほう 時期 じき ,實際 じっさい 從事 じゅうじ 入山 にゅうざん 伐 き 樟 くすのき 熬 い 腦 のう 者 しゃ ,多 た 為 ため 傳統 でんとう 地方 ちほう 豪 ごう 強 きょう 。劉 りゅう 銘 めい 傳 でん 推行第 だい 二 に 次 じ 樟腦 しょうのう 專賣 せんばい 時 じ ,更 さら 借 か 助 じょ 地方 ちほう 豪 ごう 強的 ごうてき 力量 りきりょう 改行 かいぎょう 隘勇 制度 せいど ,讓 ゆずる 他 た 們的勢力 せいりょく 大幅 おおはば 擴張 かくちょう 。如板橋 いたばし 林家 はやしや 、苗 なえ 栗 ぐり 黃 き 南 みなみ 球 だま 、霧 きり 峰 ほう 林家 はやしや 、沈鴻傑 すぐる 等 ひとし 。其中霧 きり 峰 ほう 林家 はやしや 在 ざい 清 しん 領 りょう 末期 まっき 取 と 代 だい 德 とく 商 しょう 公 こう 泰 たい 洋行 ようこう 成 なり 為 ため 台灣 たいわん 最 さい 主要 しゅよう 的 てき 樟腦 しょうのう 經營 けいえい 者 しゃ 。[ 1] :110-127
樟腦 しょうのう 寮 りょう 模型 もけい (腦 のう 炊)
樟腦 しょうのう 小賣 こうり 所 しょ 鐵 てつ 牌 ぱい
樟腦 しょうのう 蒸 ふけ 餾塔模型 もけい
日 にち 治 ち 前期 ぜんき (1895年 ねん —1918年 ねん )[ 编辑 ]
臺灣 たいわん 總督 そうとく 府 ふ 治 ち 台 だい 初期 しょき ,樟腦 しょうのう 外 がい 銷貿易 ぼうえき 仍掌握 しょうあく 於英、德 とく 外商 がいしょう 洋行 ようこう 之 の 間 あいだ ,日本 にっぽん 資本 しほん 亦 また 從事 じゅうじ 樟腦 しょうのう 生產 せいさん 及銷售貿易 ぼうえき 的 てき 行列 ぎょうれつ 。1895年 ねん 10月 がつ ,臺灣 たいわん 總督 そうとく 府 ふ 頒布 はんぷ 「官有 かんゆう 林野 りんや 及樟腦 しょうのう 製造 せいぞう 業 ぎょう 取締 とりしまり 規則 きそく 」[ 6] :62-63 ,設立 せつりつ 撫 なで 墾署以管理 かんり 山林 さんりん 製 せい 腦 のう 及取締 とりしまり 違法 いほう 樟腦 しょうのう 業 ぎょう ,並 なみ 規定 きてい 製造 せいぞう 樟腦 しょうのう 除 じょ 需有大 だい 清 きよし 帝國 ていこく 的 てき 許可 きょか 證 しょう 外 がい ,還 かえ 需取得 しゅとく 臺灣 たいわん 總督 そうとく 府 ふ 各地 かくち 官署 かんしょ 的 てき 同意 どうい 。1896年 ねん 4月 がつ 1日 にち 再 さい 頒布 はんぷ 「樟腦 しょうのう 稅 ぜい 則 そく 」[ 6] :108-109 ,取 と 代 だい 大 だい 清 きよし 帝國 ていこく 時期 じき 相關 そうかん 稅收 ぜいしゅう ,並 なみ 使 し 擁 よう 有 ゆう 樟腦 しょうのう 之 の 外商 がいしょう 需補稅收 ぜいしゅう 。相關 そうかん 法規 ほうき 造成 ぞうせい 外商 がいしょう 權益 けんえき 受損,英国 えいこく 、德 とく 国 こく 等 とう 國分 こくぶ 別 べつ 向 こう 總督 そうとく 府 ふ 及日本 にっぽん 內閣抗議 こうぎ 。1897年 ねん ,內閣決議 けつぎ 給 きゅう 予 よ 外商 がいしょう 通 どおり 融 とおる 政策 せいさく ,承認 しょうにん 外商 がいしょう 在 ざい 臺 だい 製造 せいぞう 樟腦 しょうのう 與 あずか 各地 かくち 的 てき 腦 のう 棧所有 しょゆう 權 けん 。[ 7] :24-30
1898年 ねん ,台灣 たいわん 總督 そうとく 府 ふ 為 ため 達 たち 到 いた 台灣 たいわん 財政 ざいせい 獨立 どくりつ 的 てき 目標 もくひょう ,因 いん 此先後 ご 將 はた 鸦片 、食 しょく 盐 、樟腦 しょうのう 列 れつ 入 にゅう 專賣 せんばい 項目 こうもく ,以壟斷 ろうだん 外 がい 銷市場 いちば 。[ 5] :71 次 つぎ 年 ねん 頒布 はんぷ 「台灣 たいわん 樟腦 しょうのう 局 きょく 官制 かんせい 」,規定 きてい 該局負 ふ 責 せめ 樟腦 しょうのう 與 あずか 樟腦 しょうのう 油 ゆ 的 てき 收納 しゅうのう 、買 かい 賣 うり 、檢 けん 查及製造 せいぞう 等 とう 相關 そうかん 業務 ぎょうむ ,並 なみ 於台北 たいぺい 、新 しん 竹 たけ 、苗 なえ 栗 ぐり 、台 たい 中 ちゅう 、林 はやし 杞埔 、羅 ら 東 ひがし 等地 とうち 設置 せっち 樟腦 しょうのう 局 きょく 。1900年 ねん 將 はた 各 かく 樟腦 しょうのう 局 きょく 統 みつる 整 せい ,設置 せっち 台灣 たいわん 樟腦 しょうのう 局 きょく 於台北 きた ,並 なみ 將 はた 其他五處改制成支局。1901年 ねん 台灣 たいわん 總督 そうとく 府 ふ 基 もと 於各專賣 せんばい 事業 じぎょう 獨立 どくりつ 運 うん 作 さく ,事 こと 無 む 統一 とういつ ,故 こ 設置 せっち 臺灣 たいわん 總督 そうとく 府 ふ 專賣 せんばい 局 きょく ,統合 とうごう 管理 かんり 各項 かくこう 專賣 せんばい 事業 じぎょう ,並 なみ 由 ゆかり 民政 みんせい 長官 ちょうかん 兼任 けんにん 專賣 せんばい 局 きょく 局長 きょくちょう ,其下設 しつらえ 腦 のう 務 つとむ 課 か ,負 ふ 責 せめ 樟腦 しょうのう 及樟腦 しょうのう 油 ゆ 的 てき 製造 せいぞう 特許 とっきょ 、收納 しゅうのう 、販賣 はんばい 等 とう 業務 ぎょうむ 。[ 7] :33-38
日 にち 治 ち 後期 こうき (1919年 ねん —1945年 ねん )[ 编辑 ]
日 にち 治 ち 時期 じき 台灣 たいわん 樟腦 しょうのう 的 てき 專賣 せんばい 權 けん ,除 じょ 了 りょう 再製 さいせい 樟腦 しょうのう 的 てき 一部分由專賣局台北樟腦工廠行經營外,由 よし 臺灣 たいわん 製 せい 腦 のう 株式會社 かぶしきがいしゃ 所 ところ 獨 どく 佔, 再製 さいせい 樟腦 しょうのう 的 てき 大 だい 部分 ぶぶん ,1918年 ねん 由 よし 八家精緻樟腦業統合成立「日本 にっぽん 樟腦 しょうのう 株式會社 かぶしきがいしゃ 」所 ところ 獨 どく 佔。[ 4] :9 此外,樟腦 しょうのう 最 さい 重要 じゅうよう 的 てき 賽 さい 璐珞原料 げんりょう 的 てき 製作 せいさく ,1919年 ねん 日本 にっぽん 將 しょう 八家賽璐珞製造業統合成立「大 だい 日本 にっぽん 賽 さい 璐珞株式會社 かぶしきがいしゃ 」。日本國 にっぽんこく 內的樟腦 しょうのう 發展 はってん ,全 ぜん 靠 もたれ 台灣 たいわん 粗製 そせい 樟腦 しょうのう 提供 ていきょう 原料 げんりょう ,將 はた 其再製 せい 為 ため 高 だか 品質 ひんしつ 的 てき 精製 せいせい 樟腦 しょうのう 。[ 5] :77 台灣 たいわん 樟腦 しょうのう 產業 さんぎょう 從 したがえ 原料 げんりょう 提供 ていきょう 、產 さん 製 せい 及運銷,完成 かんせい 受到官 かん 方 かた 壟斷 ろうだん 。到 いた 了 りょう 1930年代 ねんだい 台灣 たいわん 將 しょう 粗製 そせい 樟腦 しょうのう 業 ぎょう 權 けん 收 おさむ 歸 き 官營 かんえい 的 てき 政策 せいさく ,完全 かんぜん 由 よし 專賣 せんばい 局 きょく 直營 ちょくえい ,形成 けいせい 樟腦 しょうのう 的 てき 「完全 かんぜん 專賣 せんばい 」,一直到二次戰爭結束為止。[ 5] :75
二 に 戰 せん 結束 けっそく 後 ご ,國民 こくみん 政府 せいふ 仍維持 いじ 日 び 治 ち 時期 じき 的 てき 樟腦 しょうのう 專賣 せんばい 制度 せいど ,樟腦 しょうのう 產業 さんぎょう 因 いん 為 ため 世界 せかい 各地 かくち 戰後 せんご 重 じゅう 建 けん 公共 こうきょう 卫生 及傳染 でんせん 病 びょう 防 ぼう 治水 ちすい 準 じゅん 提 ひさげ 升 ます ,加 か 上 じょう 美国 びくに 製 せい 化學 かがく 合成 ごうせい 樟腦 しょうのう 大量 たいりょう 普及 ふきゅう 且價格 かかく 相對 そうたい 低廉 ていれん ,樟腦 しょうのう 產業 さんぎょう 外 がい 銷業績 ぎょうせき 大幅 おおはば 下 か 滑 すべり ,導 しるべ 致榮景 けい 不 ふ 再 さい 。負 ふ 責 せめ 生產 せいさん 精煉 せいれん 樟腦 しょうのう 的 てき 南 みなみ 門 もん 工廠 こうしょう ,1952年 ねん 由 ゆかり 臺灣 たいわん 省 しょう 菸酒公賣 こうばい 局 きょく 接 せっ 管 かん ,改稱 かいしょう 台灣 たいわん 省 しょう 樟腦 しょうのう 煉 ねり 製 せい 廠 しょう ,1956年 ねん 再 さい 改名 かいめい 台灣 たいわん 省 しょう 樟腦 しょうのう 廠 しょう ,1967年 ねん 因 いん 樟腦 しょうのう 產業 さんぎょう 低迷 ていめい 不振 ふしん ,南 みなみ 門 もん 工廠 こうしょう 被 ひ 迫 せり 關 せき 閉,樟腦 しょうのう 生產 せいさん 開放 かいほう 民營 みんえい ,樟腦 しょうのう 專賣 せんばい 走入 はしり 歷史 れきし 。台灣 たいわん 省 しょう 樟腦 しょうのう 廠 しょう 停 とま 產後 さんご ,廠 しょう 房 ぼう 設 しつらえ 施 ほどこせ 由 よし 民間 みんかん 業者 ぎょうしゃ 台灣 たいわん 德和 とくわ 樟腦 しょうのう 股 また 份有限 げん 公司 こうし 接 せっ 手 しゅ ,並 なみ 將 しょう 廠 しょう 房 ぼう 設 しつらえ 施 ほどこせ 移 うつり 至 いたり 鄰近的 てき 臺北 たいぺい 縣 けん 中和 ちゅうわ 鄉 きょう (今 いま 新北 しんきた 市 し 中和 ちゅうわ 區 く )。[ 8]
由 よし 於天然 てんねん 樟腦 しょうのう 具有 ぐゆう 生產 せいさん 抗生 こうせい 素 もと 所 ところ 需的左 ひだり 旋性特質 とくしつ ,直 ちょく 到 いた 1979年 ねん 臺灣 たいわん 仍是全 ぜん 世界 せかい 最 さい 主要 しゅよう 的 てき 樟腦 しょうのう 出口 でぐち 地 ち ,直 ちょく 到 いた 1985年 ねん 生產 せいさん 線 せん 外 がい 移 うつり 至 いたり 中國 ちゅうごく 而逐漸 やや 改 あらため 以進口 こう 樟腦 しょうのう 油 ゆ 精煉 せいれん ,取 と 代 だい 台灣 たいわん 自製 じせい 天然 てんねん 樟腦 しょうのう 。[ 9]
南 みなみ 門 もん 工廠 こうしょう 的 てき 台灣 たいわん 省 しょう 樟腦 しょうのう 廠 しょう 區 く 土地 とち 1974年 ねん 起 おこり 陸續 りくぞく 處分 しょぶん ,東側 ひがしがわ 撥 ばち 交中央 ちゅうおう 銀行 ぎんこう 、北側 きたがわ 撥 ばち 交財政 ざいせい 部 ぶ 、南側 みなみがわ 撥 ばち 交台 たい 開 ひらく 信託 しんたく 等 とう 單位 たんい 興 きょう 建 けん 大 だい 樓 ろう 。僅存的 てき 廠 しょう 房 ぼう 設 しつらえ 施 ほどこせ 1988年 ねん 由 ゆかり 中華民國 ちゅうかみんこく 內政部 ぶ 指定 してい 為 ため 國定 こくてい 古蹟 こせき ,2006年 ねん 由 ゆかり 財政 ざいせい 部 ぶ 國有 こくゆう 財產 ざいさん 局 きょく 撥 ばち 交台灣 たいわん 省 しょう 博物館 はくぶつかん ,經 けい 修復 しゅうふく 再 さい 利用 りよう 後 ご ,更 さら 名 めい 為 ため 「國立 こくりつ 臺灣 たいわん 博物館 はくぶつかん 南 みなみ 門 もん 園 その 區 く 」,於2013年 ねん 11月30日 にち 正式 せいしき 對外 たいがい 開放 かいほう 。[ 10]
清治 きよじ 初期 しょき ,台灣 たいわん 的 てき 樟腦 しょうのう 業 ぎょう 依 よ 法 ほう 為 ため 軍隊 ぐんたい 中 ちゅう 的 てき 匠 たくみ 首 くび 所 しょ 獨 どく 佔。但 ただし 採集 さいしゅう 樟 くすのき 木原 きはら 料 りょう 時 じ ,持 もち 有 ゆう 「墾照」的 てき 土地 とち 開墾 かいこん 戶 ど 也可以在墾照劃定 かくてい 的 てき 範圍 はんい 內,合法 ごうほう 砍伐樟 くすのき 木 き 或 ある 製作 せいさく 樟腦 しょうのう ,再轉 さいてん 售給軍 ぐん 工匠 こうしょう 首 くび 。此外,平 ひら 埔族原住民 げんじゅうみん 會 かい 在 ざい 軍 ぐん 工匠 こうしょう 首 くび 入山 にゅうざん 伐木 ばつぼく 時 じ 擔任 たんにん 護送 ごそう 工作 こうさく ,是 ぜ 協 きょう 助 じょ 生產 せいさん 者 しゃ [ 11] :25-27 。後期 こうき 形成 けいせい 官營 かんえい 外 がい 包 つつみ 的 てき 專賣 せんばい 制度 せいど 後 ご ,生產 せいさん 體制 たいせい 依 よ 族 ぞく 群 ぐん 分 ぶん 工 こう 。洋 よう 商 しょう 與 あずか 福 ぶく 佬人為 ため 提供 ていきょう 貸 かし 款做為 ため 資本 しほん ,客 きゃく 家人 かじん 則 そく 從事 じゅうじ 實際 じっさい 生產 せいさん 。資本 しほん 方 かた 多 た 預 あずか 付 づけ 或 ある 預 あずか 借 か 資金 しきん 給 きゅう 生產 せいさん 者 しゃ ,而後取得 しゅとく 其製成 なり 的 てき 所有 しょゆう 或 ある 品質 ひんしつ 較好的 てき 樟腦 しょうのう ,但 ただし 也有 やゆう 能力 のうりょく 較強的 てき 生產 せいさん 者 しゃ ,可 か 以透過 とうか 自由 じゆう 買 かい 賣 うり 的 てき 方式 ほうしき 出 で 售產品 ひん 。這個過程 かてい 中 ちゅう ,資本 しほん 方 かた 有 ゆう 時 じ 也會透過 とうか 買 かい 辦商人 じん 作為 さくい 中 ちゅう 介 かい 來 らい 與 あずか 製 せい 腦 のう 者 しゃ 訂 てい 定 てい 貸 かし 款契約 けいやく 或 ある 採 と 購商品 しょうひん [ 11] :31-32 。
日本 にっぽん 取得 しゅとく 台灣 たいわん 主權 しゅけん 後 ご 也接管 かん 清治 きよじ 時期 じき 留 とめ 下 か 的 てき 樟腦 しょうのう 專賣 せんばい 體系 たいけい ,並 なみ 否認 ひにん 清 しん 帝國 ていこく 與 あずか 各國 かっこく 簽訂的 てき 「樟腦 しょうのう 條約 じょうやく 」的 てき 效力 こうりょく ,逐步將 しょう 日 び 資 し 引入,取 と 代 だい 原 はら 來 らい 本地 ほんじ 與 あずか 英 えい 、德 とく 資本 しほん 。原 はら 有 ゆう 的 てき 買 かい 辦商人 じん 也逐漸 やや 消失 きえうせ ,產業 さんぎょう 逐步集中 しゅうちゅう 至 いたり 日本 にっぽん 本 ほん 土與 どよ 台灣 たいわん 本地 ほんじ 的 てき 資本 しほん 家 か 手中 しゅちゅう [ 11] :33-35,40 。
樟腦 しょうのう 產業 さんぎょう 組織 そしき 則 そく 因 いん 隨 ずい 著 ちょ 專賣 せんばい 制度 せいど 的 てき 發展 はってん ,形成 けいせい 金字塔 きんじとう 式 しき 結構 けっこう 。頂 いただき 端 はし 為 ため 「臺灣 たいわん 樟腦 しょうのう 專賣 せんばい 局 きょく 」,再來 さいらい 是 ぜ 介 かい 於政府 せいふ 與 あずか 勞 ろう 動 どう 者 しゃ 中 ちゅう 間 あいだ 的 てき 組織 そしき 管理人 かんりにん ,稱 しょう 為 ため 「腦 のう 長 ちょう 」;基層 きそう 生產 せいさん 執行 しっこう 人員 じんいん 則 そく 為 ため 「腦 のう 丁 ひのと 」。腦 のう 長 ちょう 、股 また 首 くび 、腦 のう 丁 ひのと 與 あずか 搬運工 こう 都 と 要 よう 取得 しゅとく 木製 もくせい 「腦 のう 丁 ひのと 牌 ぱい 」,性質 せいしつ 如營業 えいぎょう 執 と 照 あきら ,是 ぜ 發給 はっきゅう 一 いち 戶 こ 而非個人 こじん 。腦 のう 長 ちょう 、腦 のう 丁 ひのと 可能 かのう 受雇於墾戶 ど 、資本 しほん 家 か ,也有 やゆう 部分 ぶぶん 具有 ぐゆう 資本 しほん 、技術 ぎじゅつ 的 てき 腦 のう 丁 ちょう 自 じ 行 くだり 生產 せいさん 、自由 じゆう 販售。此外,為 ため 避免原住民 げんじゅうみん 侵 おかせ 擾,製 せい 腦 のう 墾戶也會召募 しょうぼ 隘丁。隨 ずい 著 ちょ 日 び 治 ち 後期 こうき 入山 にゅうざん 採 と 樟 くすのき 作業 さぎょう 風 ふう 險 けわし 降 くだ 低 てい ,一腦灶一家庭這類「家庭 かてい 式 しき 」的 てき 樟腦 しょうのう 生產 せいさん 興起 こうき 。此時工藝 こうげい 技術 ぎじゅつ 多 た 採 と 口授 くじゅ ,部 ぶ 份製腦 のう 者 しゃ 投入 とうにゅう 此行業 ぎょう 也多是 ぜ 因 いん 著 ちょ 親 おや 緣 えん 關係 かんけい [ 11] :38-41 。