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安藤あんどう正次まさつぐ

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安藤あんどう正次まさつぐ
安藤あんどう 正次まさつぐ(あんどう まさつぐ)
安藤あんどう正次まさつぐあきら
出生しゅっしょう(1878-09-13)1878ねん9がつ13にち
 大日本帝国だいにっぽんていこく埼玉さいたまけん
逝世1952ねん11月18にち(1952さい—11—18)(74さい
 日本にっぽん東京とうきょう
国籍こくせき 日本にっぽん
學術がくじゅつ背景はいけい
母校ぼこう神宮じんぐうすめらぎがくかんにち皇學館大学こうがくかんだいがく東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく
影響えいきょう上田うえだ萬年かずとしにち上田うえだ萬年かずとし
學術がくじゅつ工作こうさく
研究けんきゅう機構きこう日本にっぽん文部省もんぶしょう臺灣たいわん總督そうとく
臺北たいぺい帝國ていこく大學だいがく東洋大学とうようだいがく
主要しゅよう領域りょういきかたりげんがく日本語にほんご

安藤あんどう正次まさつぐにち语:安藤あんどう 正次まさつぐあんどう まさつぐ Andō Masatsugu ?,1878ねん9がつ13にち—1952ねん11月18にち[1]),日本にっぽん東京とうきょうひと[2]日本にっぽんてきにち学者がくしゃにち日本語にほんご学者がくしゃ曾任臺北たいぺい帝國ていこく大學だいがく總長そうちょう东洋大学だいがく教授きょうじゅ、以及日本にっぽん文部省もんぶしょう国語こくご審議しんぎかいにち国語こくご審議しんぎかい會長かいちょう安藤あんどう正次まさつぐちょゆう日本にっぽん文化ぶんか古代こだいへん》、《古代こだい國語こくご研究けんきゅう》、《國語こくごがくどおりこう》、《古典こてんあずか古語こご》、《國語こくご序說じょせつとうしょ[2][1]

生平おいだいら

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早年そうねん

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安藤あんどう正次まさつぐ原籍げんせき東京とうきょう,於1878ねん9がつ13にち出生しゅっしょう日本にっぽん埼玉さいたまけん[2][3][4]

1894ねん安藤あんどう正次まさつぐ進入しんにゅう神宮じんぐうすめらぎがくかんにち皇學館大学こうがくかんだいがくあずかなみ於1898ねん該校本科ほんか畢業,ぜん東京とうきょう修習しゅうしゅう英語えいご及德[3]いたりょう1901ねん安藤あんどう正次まさつぐ開始かいし東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文學部ぶんがくぶ言語げんご學科がっか就讀,なみ於1904ねん7がつ畢業,二個月後被任命為神宮皇學館教授直至1916ねん辭職じしょく[2][3]辭職じしょく該年受文部省もんぶしょう委託いたく進行しんこう国語こくご相關そうかん調査ちょうさ[3]。1917ねん安藤あんどう正次まさつぐなりため日本女子大学にほんじょしだいがくてき國文こくぶん教授きょうじゅいたりょう1925ねん3がつそく轉任てんにん早稻田大學わせだだいがく教授きょうじゅ[2]

ぜん往臺わん

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1926ねん3がつ安藤あんどう正次まさつぐぜん臺灣たいわん,受聘ため臺灣たいわん總督そうとく高等こうとう學校がっこうげんがく教授きょうじゅ同時どうじ也被臺灣たいわん總督そうとく聘任ため在外ざいがい研究けんきゅういんぜん往英、よしとくほう四國しこく考察こうさつ各國かっこく國語こくご政策せいさくまで1928ねん1がつともれき1ねんまた10個月かげつ[2][4][5]:31。1928ねん安藤あんどう正次まさつぐかえしこく就任しゅうにん台北たいぺい帝国ていこく大学だいがく文政ぶんせい學部がくぶ教授きょうじゅ主持しゅうもち國語こくごがく國文學こくぶんがく講座こうざなみ擔任たんにん台灣たいわん總督そうとく教科書きょうかしょ調ちょう委員いいん文政ぶんせい學部がくぶ紀要きよう出版しゅっぱん委員いいん、以及台北たいぺい帝國ていこく大學だいがく評議ひょうぎいん[4]これゆかり於該こう文政ぶんせい學部がくぶ部長ぶちょう村上むらかみ直次郎なおじろう職務しょくむ繁忙はんぼうためよし辭職じしょく安藤あんどう正次まさつぐ於1932ねん6がつせっにん該職,ちょくいたり1934ねんゆかりせんちょうしゅうえき政治せいじ思想しそうあずか老子ろうし哲學てつがくてき今村いまむらかんどうせっにん[5]:204。1940ねん安藤あんどう正次まさつぐ退すさきゅうなみかえしかい日本にっぽん內地[4][6]

いたりょう1941ねん安藤あんどう正次まさつぐ再度さいどかえしかい臺北たいぺいみかどだいなみ於該ねん4がつなりため該校だいさんにん總長そうちょうまたそく校長こうちょうけん總督そうとく評議ひょうぎかい會員かいいん[2][4][5]:183うえつとむずいそく提出ていしゅつ「以於南方なんぽう學術がくじゅつ研究けんきゅうじょえき資源しげん開發かいはつため目的もくてきあずかていざい海南かいなんとう設置せっち臨海りんかい實驗じっけん所與しょよ熱帶ねったい農林のうりん研究所けんきゅうじょ」,なみ於1943ねん3がつ13にち成立せいりつ臺北たいぺい帝國ていこく大學だいがく南方なんぽう資源しげん科學かがく研究所けんきゅうじょ同年どうねん11月ざい海南かいなんとう設置せっち實驗じっけんしょ[5]:183-184。1945ねん3がつ安藤あんどう正次まさつぐ辭去じきょ台北たいぺい帝国ていこく大学だいがく總長そうちょう一職並返回日本,該職そくゆかり安藤あんどう一雄かずおせっにん[4]

安藤あんどう正次まさつぐ曾受きょう日本にっぽん近代きんだいげん學者がくしゃ上田うえだ萬年かずとしにち上田うえだ萬年かずとしてき門下もんかたいおうしゅうげん問題もんだい國際こくさい關係かんけい很感興趣きょうしゅにんしょく臺北たいぺいみかどだい期間きかん安藤あんどう正次まさつぐ發表はっぴょうりょう許多きょたゆうせき臺灣たいわんげん問題もんだいてき文章ぶんしょうなみみとめためざい臺灣たいわん這類がたてき併用へいよう地區ちくおう施行しこう近代きんだい國家こっか理想りそうてき單語たんご教育きょういく」。主張しゅちょう這不おうげきすすむてき政策せいさく,而是へんこう以時あいだ自然しぜん普及ふきゅう[4]。此外,臺灣たいわん總督そうとく曾籌劃「はじめせいじゅう周年しゅうねん記念きねん事業じぎょう」,いん此有りょう南方なんぽう大系たいけい出版しゅっぱん計畫けいかくてき出現しゅつげん時任ときとう臺北たいぺいみかどだい總長そうちょうてきやす藤正ふじまさ次則つぎのり任命にんめいため南方なんぽう大系たいけい委員いいんかいてきふく委員いいんちょう[5]:247-248

戰後せんご

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1945ねん安藤あんどう正次まさつぐなりため日本にっぽん文部省もんぶしょう国語こくご審議しんぎかいにち国語こくご審議しんぎかいてき会長かいちょう,致力於解決かいけつ日本国にっぽんこく国字こくじ问题[1]翌年よくねん參與さんよ制定せいてい當用漢字とうようかんじ現代げんだい假名遣かなづかいなみため国立こくりつ国語こくご研究所けんきゅうじょにち国立こくりつ国語こくご研究所けんきゅうじょてき設立せつりつ奔走ほんそう。1946ねん安藤あんどう正次まさつぐなりため東洋大学とうようだいがくてき教授きょうじゅなみ於1950ねんなりため該校てき校長こうちょう[1]安藤あんどう正次まさつぐ也是戰後せんご日本にっぽん國民こくみんてき國語こくご運動うんどう」(にち语:国民こくみん国語こくご運動うんどう代表だいひょう人物じんぶつ促成そくせいりょう日本にっぽん口語こうご憲法けんぽう草案そうあんてき發表はっぴょう[7]ざい這段期間きかん兼任けんにんりょう立正大學りっしょうだいがく昭和女子大學しょうわじょしだいがく日本にっぽん法政大学ほうせいだいがく駒澤大学こまざわだいがくとうこうてき教授きょうじゅ

1952ねん11月18にち安藤あんどう正次まさつぐ東京とうきょう逝世,とおることぶき74さい[3][1]。逝世てき主要しゅよう著作ちょさく後人こうじん整理せいりなりななかんてき安藤あんどう正次まさつぐ著作ちょさくしゅう出版しゅっぱん[4]

まいり

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參考さんこう資料しりょう

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  1. ^ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 安藤あんどう正次まさつぐ あんどうまさつぐ. コトバンク. [2017-02-17]. (原始げんし内容ないようそん于2017-02-17) にち语). 
  2. ^ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 張子はりこぶん. 臺灣たいわん人物じんぶつ小傳しょうでん 安藤あんどう正次まさつぐ 1878—1952. 國家こっか圖書館としょかん 臺灣たいわん記憶きおく. [2016-11-21]. (原始げんし内容ないようそん于2017-02-17) ちゅうぶん臺灣たいわん)). 
  3. ^ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 ひそか察、柯慶あきらこくりょう へんちょうあきらくんみんみん とうちょ. 國立こくりつ臺灣たいわんだい學校がっこう稿こう(1928-2012). 國立こくりつ臺灣たいわん大學だいがく出版しゅっぱん中心ちゅうしん. 2013: 430–431. ISBN 9789860369885 ちゅうぶん臺灣たいわん)). 
  4. ^ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 4.6 4.7 はちじゅうだいだい, 前進ぜんしんひゃくだい: 國立こくりつ臺灣たいわん大學だいがくそうこうはちじゅうねんこうけいとくかん. 國立こくりつ臺灣たいわん大學だいがく出版しゅっぱん中心ちゅうしん. 2008: 14. ISBN 9789860156218 ちゅうぶん臺灣たいわん)). 
  5. ^ 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 あお苓. 臺北たいぺい帝國ていこく大學だいがくあずか日本にっぽん南進なんしん政策せいさく研究けんきゅう (PDF) (Ph.D.论文). 中國ちゅうごく文化ぶんか大學だいがく史學しがく研究所けんきゅうじょ. 2007 [2017-06-28]. (原始げんし内容ないよう (PDF)そん档于2017-02-17) ちゅうぶん臺灣たいわん)). 
  6. ^ あお苓. 村上むらかみ直次郎なおじろうてき臺灣たいわん研究けんきゅう (PDF). 國史こくしかん學術がくじゅつしゅうかん (國史こくしかん). 2008ねん9がつ, (17) [2017-02-17]. ISSN 1726-7331. (原始げんし内容ないよう (PDF)そん档于2017-02-17) ちゅうぶん臺灣たいわん)). 
  7. ^ 口語こうご憲法けんぽう草案そうあん発表はっぴょう日本国にっぽんこく憲法けんぽう誕生たんじょう. 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん. 2003–2004 [2017-02-17]. (原始げんし内容ないようそん于2016-08-01) にち语). 
教育きょういく職務しょくむ
前任ぜんにん
三田みた定則さだのり
臺北たいぺい帝國ていこく大學だいがく總長そうちょう
1941ねん—1945ねん
つぎにん
安藤あんどう一雄かずお