彭縉(?—?),字じ文ぶん卿きょう,湖みずうみ廣こう襄じょう陽ひ府ふ襄じょう陽ひ縣人けんじん,匠たくみ籍せき,明朝みょうちょう政治せいじ人物じんぶつ。
湖みずうみ廣鄉ひろさと試ためし第だい二に十じゅう七なな名めい舉人。弘治こうじ六ろく年ねん(1493年ねん)中ちゅう式しき癸みずのと丑うし科か三甲さんこう第だい十じゅう五ご名めい進士しんし[1][2]。
曾祖そうそ彭仁;祖父そふ彭英,贈おく大だい理り寺てら評ひょう事ごと;父ちち彭銓,大だい理り寺てら右みぎ寺てら正ただし。母はは李り氏し(封ふう孺人)[3]。
《天てん一閣藏明代科舉錄選刊.登とう科か錄ろく》之の《弘治こうじ六年癸丑科進士登科錄》