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まごひうち (弘治こうじ進士しんし)

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まごひうち
孫燧 (弘治進士)

しんだいおさむ浙江せっこうあまり姚孫むねちゅうれつおおやけぞう

だい明光めいこう祿ろく大夫たいふじゅんなで江西えにし察院みぎふくおくれい尚書しょうしょ文淵ぶんえんかくだい學士がくし
せきぬき 浙江せっこう紹興しょうこう姚縣
ごう 德成とくなりごう一川いちかわ
諡號しごう ちゅうれつ
出生しゅっしょう てんよんねん(1460ねん
浙江せっこうあまり姚縣
逝世 正德しょうとくじゅうよんねん(1519ねん
こう西南せいなんあきら
おやぞく 孙堪、孙墀、孙升
出身しゅっしん
  • 弘治こうじ六年癸丑科同進士出身

孙燧(1460ねん—1519ねん),德成とくなりごう一川いちかわ浙江せっこう姚縣ひと家族かぞくよこかわ孙氏明朝みょうちょう忠臣ちゅうしんかんいたり江西えにしじゅん宁王しゅ宸濠谋反时将其杀がいきさきついれい尚書しょうしょちゅうれつまんれきときかたそうてきれいさむらいろうまご如游其後。

生平おいだいら[编辑]

弘治こうじねん(1492ねんみずのえ浙江せっこうきょうためしだいさんめい舉人,弘治こうじろくねん(1493ねんみずのとうし進士しんし[1][2][3],历官刑部おさかべ主事しゅじ,迁ろうちゅう正德まさのりなかにん河南かなんみぎぬのせい使正德まさのりじゅうねん(1515ねんじゅうがつ,擢みぎふくめぐ江西えにし。孙燧じゅん抚江西にし时,宁王しゅ宸濠ゆう谋反自立じりつこころ并密谋加紧准备,遭孙ひうち觉察。孙燧一面加强江西地方武备,一面向朱宸濠陈说大义,并屡おおやけ开反对朱宸濠,遭朱宸濠恨。正德しょうとくじゅうよんねん(1519ねん),しゅ宸濠ほし自己じこせい祝筵しゅくえんせきつくえ谋反,孙燧应邀ぜん往,并与しゅ宸濠はり锋相对,うたげきさき遭朱宸濠杀害。

しゅ宸濠叛乱はんらんひさしそくおうまもるひとし平定へいてい明世あきよむねしゅあつし即位そくいつい赠为れいなおちゅうれつ。《あかりはた其事れつにゅうちゅう义传。[4]

家族かぞく[编辑]

曾祖父そうそふまごへりくだえきふうかん察御祖父そふまごはじめひろしぐうれいかんむりたい父親ちちおやまごしんそん,遞運しょ大使たいしはは[5]

ちゅう[编辑]

  1. ^ あきら张朝みず. 《すめらぎあかり贡举こうまき. 《续修よん库全书》だい828さつ. 
  2. ^ 鲁小しゅんこうしゅん伟著. 贡举こころざしじょう. たけ汉:たけ汉大がく出版しゅっぱんしゃ. 2009. ISBN 978-7-307-07043-1. 
  3. ^ しゅたもつ炯,谢沛霖. 近代きんだい中国ちゅうごく史料しりょう丛刊续辑 785-790 あかりきよし进士题名录索引さくいん 1-6. 台湾たいわん: 文海ぶんかい出版しゅっぱんしゃ. 1981: 2485–2487. 
  4. ^ あかり·まきひゃくはちじゅうきゅう》:まごひうち德成とくなり姚人。弘治こうじろくねん進士しんしれき刑部おさかべ主事しゅじさい遷郎ちゅう正德しょうとくちゅうれき河南かなんみぎぬのせい使やすしおう宸濠ゆうぎゃくはかりごとむすぶちゅうかんこうしんにちよる诇中あさことさいわいゆうへんまたこうぐん吏,あつえさ使つかいためおのれようあくじゅんなでおうあきらおのれどくとくやまし,逾年ただしすぐるだいあきら,僅はちがつまたかん其地しゃ惴惴,以得ためこうだいすぐるしゃにんかん、俞諫,みなとしあまりやめひうち以才ぶしちょごえ廷臣ていしん推之だい
    十年十月擢右副都御史,じゅんなで江西えにしひうち聞命嘆曰:「とう死生しせい以之矣。」妻子さいしかえさとどく僮以ぎょうとき宸濠ぎゃくじょうやめだいみなみ昌人まさと洶洶,いい宸濠旦暮たんぼとく天子てんしひうち左右さゆう悉宸ほり耳目じもくひうちぼう察密,左右さゆうとく窺,どく時時ときどきため宸濠ひねせつ大義たいぎそつ悛。かげ副使ふくしもと忠勇ちゅうゆうぞく大事だいじあずかこれはかりごとさき副使ふくしえびすやすし暴宸ほりぎゃくはかりごとちゅうかんこうしん為之ためゆきせいやすしとくざいひうちねん訟言於朝無益むえき,乃托禦他寇預ため備。さきじょうすすむけん城南じょうなんやすしみずしゅう。患建あきらけんぬすめわり其地,別置べっちやすよしけん,以漸弭之。而請ふくにょうなでしゅう兵備へいびとくふくのり請敕湖東ことうぶんじゅんけん理之まさゆききゅうこうとうみずうみおきさい要害ようがい,請重兵備へいびどうけん兼攝けんせつみなみやすしやすししゅうたけやすしみずあきら及湖こう興國こうこくつうじょう,以便ひかえせい廣信ひろのぶ橫峰よこみね青山あおやましょかまけんじん悍,のり請設どおりばんちゅう弋陽,けんとくつくりけんへいまたおそれ宸濠こう兵器へいきかり討賊,つき他所よそ。宸濠あいだひうちおのれ使つかいじんまいないあさ中幸なかさいわいしんひうち,而遣ひうちなつめなしきょうあくた以示ひうちわらい卻之。逵勸ひうち先發せんぱつ聞,ひうち曰:「奈何いかんぞく以名,且需。」
    じゅうさんねん江西えにし大水おおみず,宸濠もとしょ蓄賊淩じゅういち十三じゅうざ、閔念よんとう出沒しゅつぼつ鄱陽ひうちあずか逵謀これさんぞく遁沙ひうちがい掩捕,よる大風おおふうかつずみ。三賊走匿宸濠祖墓間,於是みつ疏白其狀,且言宸濠必反。しょうななじょう,輒為宸濠さえぎごくとくたち。宸濠恚甚,いんえんどくひうち不死ふしひうち致仕ちしまたもとゆう懼甚。
    明年みょうねん,宸濠おびえ鎮巡かんそう孝行こうこうひうちあずかめぐ按御はやしうしお冀藉しょうなる其謀,乃共そう於朝。朝議ちょうぎかたくだむねせめひうちとうかいしょう淮盡はつ宸濠不軌ふきじょうみことのり重臣じゅうしんせんさとし,宸濠聞,とげぎまけいはん
    ろくがつおつ,宸濠せいうたげ鎮巡さん明日あしたひうち及諸だい吏入しゃ,宸濠伏兵ふくへい左右さゆう大言たいげん曰:「こうむねためひろしょあやまだき民間みんかんわが祖宗そそうしょくしゃじゅうよんねんいまふとしゆうみことのりれいわがおこりへい討賊,また知之ともゆき乎?」眾相顧愕眙,ひうち直前ちょくぜん曰:「やすとく此言!請出みことのりしめせわが。」宸濠曰:「毋多言たげんわが南京なんきんなんじとう扈駕。」ひうちだいいか曰:「なんじそくみみてんにちわれあにしたがえなんじためぎゃく哉!」宸濠いかしかひうちひうちえきいかきゅうおこりとく。宸濠にゅう內殿,えきえびすふく,麾兵ばくひうち。逵奮曰:「なんじ曹安とくはずかしめ天子てんし大臣だいじん!」いん以身つばさ蔽燧,ぞくなみばく逵。二人ふたり且縛且罵,ぜっこうぞくげきひうちおりひだりひじあずか逵同曳出。逵謂ひうち曰:「わがすすむおおやけ先發せんぱつしゃゆう今日きょう也。」ひうち、逵同ぐうがいめぐみみん門外もんがいめぐ按御おうきんぬのせい使はり宸以,咸稽くびよびまんさい
    宸濠とげはつへいにせしょさんぞくため將軍しょうぐんしゅ婁伯徇進けんためけんりゅうみなもときよししょ。招窯ぞくぞくかしこもり吏,敢發。だいさく兵器へいき於城ちゅうぞくしろてこぶんていおこり義兵ぎへいしつらえ兩人りょうにんぬし於文てんさちほこらりつ吏民哭之。みなみ贛巡なでおうまもるじんあずかきょうひらぞくしょ逋賊はしあんよしみなだっしゃひと於是えきおもえひうちこう
    ひうちせいゆう異質いしつ兩目りょうめ爍爍,よる有光ありみつにちてんゆるがせ陰慘いんさん烈風れっぷう驟起凡數日すうじつ城中じょうちゅうみんだいおそれはしおさむ兩人りょうにんかばねかばねへん黑雲くろくも蔽之,はえぶゆこんしゃ明年みょうねんまもりしんじょう其事於朝,ほうむね即位そくいおくれい尚書しょうしょ,謚忠れつあずか逵並まつみなみあきらたまものほこらめい旌忠,かくかげいちひうちこらえ聞父りつりょうおとうと墀、ます赴之,かい宸濠やめとりこ,扶柩兄弟きょうだいいおり蔬食さんねんゆうしば一莖九葩者數本產墓上。ふくじょ,以父なんさらすみおとろえさんねんせいたたえさん孝子こうし
  5. ^ 龚延明主めいしゅ编. てん一阁藏明代科举录选刊 とうてん校本こうほん. 宁波: 宁波出版しゅっぱんしゃ. 2016. ISBN 978-7-5526-2320-8. てん一閣藏明代科舉錄選刊.とうろく弘治こうじ六年癸丑科進士登科錄》 

参考さんこう文献ぶんけん[编辑]

  • 张廷だまひとし,《あかり》,ちゅう华书きょくてん校本こうほん