許 もと 凌雲 りょううん (臺灣 たいわん 話 ばなし :Khóo Lîng-hûn ,1862年 ねん —1944年 ねん 9月 がつ 14日 にち ),名 めい 漢 かん 厚 あつし ,號 ごう 卓夫 たくお ,凌雲 りょううん 為 ため 其字,許 もと 氏 し 以字行 ぎょう ,臺灣 たいわん 澎湖廳 ちょう 瓦 かわら 硐澳瓦 かわら 硐港下 か 社人 しゃにん (今 いま 白 しろ 沙 すな 鄉 きょう 瓦 かわら 硐村下瓦 しもがわら 硐),清朝 せいちょう 生 なま 員 いん 、漢學 かんがく 講師 こうし ,世 せい 稱 たたえ 瓦 かわら 硐秀才 しゅうさい ,基督 きりすと 教徒 きょうと ,日 にち 治 ち 時期 じき 曾任頂山 いただきやま 澳務署 しょ 副 ふく 署長 しょちょう 、臺 たい 南 みなみ 長老 ちょうろう 教 きょう 中學校 ちゅうがっこう 教師 きょうし ,澎湖基督教 きりすときょう 早期 そうき 發展 はってん 重要 じゅうよう 人物 じんぶつ 。[1]
大 だい 清 きよし 同 どう 治 ち 元年 がんねん (1862年 ねん )農 のう 曆 れき 六 ろく 月 がつ 廿 にじゅう 九 きゅう ,許 もと 凌雲 りょううん 出生 しゅっしょう 於瓦硐港下 か 社 しゃ (即今 そっこん 瓦 かわら 硐村西側 にしがわ 聚落 しゅうらく )[1] ,其祖上 じょう 約 やく 莫於明代 あきよ 崇 たかし 禎 ただし 年間 ねんかん 徙澎,便 びん 長久 ながひさ 定 じょう 居 きょ 瓦 かわら 硐,為 ため 地方 ちほう 望 もち 族 ぞく 。[2] [3] [4]
許 もと 凌雲 りょううん 在自 あらじ 述 じゅつ 中 ちゅう 曾提及自己 じこ 在 ざい 九歲拜在上瓦硐趙階先生門下,學習 がくしゅう 三 さん 字 じ 經 けい 、四書 ししょ ,在 ざい 十 じゅう 一 いち 歲 さい 至 いたり 十 じゅう 七 なな 歲 さい 期間 きかん 學習 がくしゅう 朱子 しゅし 集 しゅう 注 ちゅう 以及五經 ごきょう ;十 じゅう 八 はち 歲 さい 則 そく 在 ざい 後 ご 寮 りょう (今 こん 白 しろ 沙 すな 鄉 きょう 後 ご 寮 りょう 村 むら )許 もと 國 こく 英 えい 門下 もんか 學習 がくしゅう 文章 ぶんしょう 試 ためし 帖 じょう 。光 ひかり 緒 いとぐち 六 ろく 年 ねん (1880年 ねん ),澎湖廳 ちょう 正月 しょうがつ 舉辦廳 ちょう 考 かんがえ ,許 もと 凌雲 りょううん 名 めい 列 れつ 第 だい 三 さん 十 じゅう 二 に 名 めい ,時 じ 年 ねん 十 じゅう 九 きゅう 歲 さい 。嗣後轉 てん 往於通 どおり 梁 はり (今 こん 白 しろ 沙 すな 鄉 きょう 通 どおり 梁 やな 村 むら ),由 ゆかり 陳 ちん 錫 すず 命 いのち 授業 じゅぎょう 國史 こくし 、唐詩 とうし 與 あずか 文章 ぶんしょう 詩賦 しふ 計 けい 三 さん 年 ねん 。[1]
光 ひかり 緒 いとぐち 九 きゅう 年 ねん (1883年 ねん ),許 もと 凌雲 りょううん 前 ぜん 往臺南 みなみ 內宮後 ご 街 がい 的 てき 瑞 みず 和布 わぶ 行 ゆき 學習 がくしゅう 會計 かいけい 。[3]
光 ひかり 緒 いとぐち 十 じゅう 年 ねん (1884年 ねん ),許 もと 凌雲 りょううん 始 はじめ 設 しつらえ 帳 ちょう 教書 きょうしょ 於後寮 りょう ,同年 どうねん 五 ご 月 がつ 赴往臺 たい 南 みなみ 府 ふ 應 おう 試 こころみ ,落榜。光 ひかり 緒 いとぐち 十 じゅう 一 いち 年 ねん 至 いたり 十 じゅう 八 はち 年間 ねんかん (1885年 ねん 至 いたり 1892年 ねん ),許 もと 凌雲 りょううん 不斷 ふだん 參與 さんよ 科 か 考 こう 之 の 餘 よ ,亦 また 持續 じぞく 在 ざい 瓦 かわら 硐、大 だい 赤 あか 崁(今 こん 白 しろ 沙 すな 鄉 きょう 赤 あか 崁村)以及媽宮城 みやぎ 各地 かくち 設 しつらえ 帳 ちょう 授業 じゅぎょう 。光 ひかり 緒 いとぐち 二 に 十 じゅう 年 ねん (1894年 ねん ),獲得 かくとく 秀才 しゅうさい 身分 みぶん 的 てき 許 もと 凌雲 りょううん 應 おう 葉 は 朝 あさ 先 さき 所 しょ 邀,復 ふく 在 ざい 媽宮城 みやぎ 執 と 教 きょう 一 いち 年 ねん ,並 なみ 出 で 任 にん 文 ぶん 石 せき 書院 しょいん 的 てき 兼職 けんしょく 董 ただし 事 ごと 。[1]
許 もと 凌雲 りょううん 進 しん 秀才 しゅうさい 的 てき 年 とし 份有所 しょ 疑 うたぐ 議 ぎ ,分別 ふんべつ 有光 ありみつ 緒 いとぐち 十 じゅう 七 なな 年 ねん (1891年 ねん )和光 わこう 緒 いとぐち 十 じゅう 九 きゅう 年 ねん (1893年 ねん )兩 りょう 種 たね 說法 せっぽう 。[1]
根據 こんきょ 楊士養 やしなえ 編 へん 、林 はやし 信 しん 堅 けん 修訂 しゅうてい 之 の 《信仰 しんこう 偉人 いじん 列傳 れつでん 》羅列 られつ 的 てき 許 もと 凌雲 りょううん 年表 ねんぴょう ,許 もと 凌雲 りょううん 是 ぜ 在 ざい 光 ひかり 緒 いとぐち 十 じゅう 七 なな 年 ねん (1891年 ねん )、三 さん 十歲年紀考取進士。[3] 不 ふ 過 か ,根據 こんきょ 許 もと 玉河 たまかわ 的 てき 考證 こうしょう ,以光緒 いとぐち 十 じゅう 九 きゅう 年 ねん (1893年 ねん )正月 しょうがつ ,許 もと 凌雲 りょううん 澎湖廳 ちょう 結 ゆい 榜奪魁 さきがけ ,四月再度赴往臺南應試,獲 え 顧道憲 けん 取 と 進 すすむ 秀才 しゅうさい ,科 か 甲 かぶと 登 とう 科 か 第 だい 一 いち ,在 ざい 三 さん 十 じゅう 二歲那年入泮補弟子員的說法較為可信。[1]
林 はやし 獻 けんじ 堂 どう 之 の 堂 どう 兄 けい 林 はやし 烈 れつ 堂 どう
1895年 ねん (光 ひかり 緒 いとぐち 二 に 十 じゅう 一 いち 年 ねん 、明治 めいじ 28年 ねん ),清 しん 日 にち 因 いん 〈馬 うま 關 せき 條約 じょうやく 〉之 の 故 こ ,臺灣 たいわん 與 あずか 澎湖轉 てん 交由日本 にっぽん 帝國 ていこく 統治 とうち 。[5] 根據 こんきょ 《臺灣 たいわん 總督 そうとく 府 ふ 公文 こうぶん 類纂 るいさん 》紀 き 錄 ろく ,許 もと 凌雲 りょううん 在 ざい 明治 めいじ 30年 ねん (1897年 ねん )被 ひ 日本 にっぽん 政府 せいふ 授予「臺灣 たいわん 紳 しん 章 あきら 」,同年 どうねん 元 もと 月 つき 11日出 ひので 任 つとむ 頂山 いただきやま 澳務署 しょ 副 ふく 署長 しょちょう ,但 ただし 僅任職 しょく 一 いち 年 ねん ,便 びん 因 いん 日本 にっぽん 政府 せいふ 調整 ちょうせい 行政 ぎょうせい 區 く 制 せい ,廢除 はいじょ 澳署、改 あらため 設 しつらえ 出張所 しゅっちょうしょ ,許 もと 凌雲 りょううん 遂 とげ 離 はなれ 開 ひらき 故鄉 こきょう ,轉 てん 赴臺南 みなみ 發展 はってん ,並 なみ 在 ざい 臺 たい 南 みなみ 長老 ちょうろう 教會 きょうかい 所屬 しょぞく 之 の 長老 ちょうろう 教 きょう 中學 ちゅうがく 、女 おんな 學 がく 以及神學校 しんがっこう 擔任 たんにん 教職 きょうしょく 共 ども 計 けい 十 じゅう 八 はち 年 ねん ,其知名 めい 門生 もんせい 有 ゆう 林 はやし 燕 つばめ 臣 しん 、林 はやし 茂生 しげお 等 とう 人 ひと 。[1] [6] :186-195
大正 たいしょう 七 なな 年 ねん (1918年 ねん ),許 もと 凌雲 りょううん 受霧 きり 峰 ほう 林家 はやしや 之 これ 邀,轉任 てんにん 林 はやし 烈 れつ 堂 どう 的 てき 家庭 かてい 教師 きょうし 一 いち 年 ねん ;大正 たいしょう 八 はち 年 ねん (1919年 ねん ),又 また 獲 え 岡山 おかやま 高 こう 家 か 之 の 聘,擔任 たんにん 高 こう 再 さい 祝 しゅく 家庭 かてい 教師 きょうし 。大正 たいしょう 九 きゅう 年 ねん (1920年 ねん ),許 もと 凌雲 りょううん 告 つげ 老 ろう 返 かえし 鄉 きょう ,在 ざい 瓦 かわら 硐故居 きょ 設 しつらえ 「存 そん 養 やしなえ 軒 のき 」教授 きょうじゅ 漢文 かんぶん ,之 これ 後 ご 轉 うたて 往瓦 かわら 硐基督教 きりすときょう 堂 どう 開 ひらき 辦學堂 どう ,授業 じゅぎょう 至 いたり 昭和 しょうわ 三 さん 年 ねん (1928年 ねん )為 ため 止 どめ ,總計 そうけい 在鄉 ざいきょう 里 さと 傳授 でんじゅ 漢文 かんぶん 八 はち 年 ねん 。[1] [3]
昭和 しょうわ 八 はち 年 ねん (1933年 ねん ),霧 きり 峰 ほう 林家 はやしや 鄉 ごう 紳 しん 林 はやし 獻 けんじ 堂 どう 、蔡培火 ひ 來 らい 澎湖旅 たび 遊 ゆう ,而在旅 たび 外 がい 瓦 かわら 硐鄉人 じん 吳 ご 秋 あき 微 ほろ 陪同之 の 下 した ,來 き 到 いた 白 しろ 沙 すな 庄 しょう 參觀 さんかん 通 つう 梁 はり 榕樹 ようじゅ 保安 ほあん 宮 みや ,並 なみ 於瓦硐許助 すけ 之 の 家中 いえじゅう 吃 ども 午餐 ごさん 、晚餐 ばんさん ,兩 りょう 頓 とみ 中間 なかま 空 そら 檔曾拜 はい 訪 おとずれ 許 もと 凌雲 りょううん 。林 はやし 獻 けんじ 堂 どう 在 ざい 隨筆 ずいひつ 《灌園先生 せんせい 日記 にっき 》曾云:「許 もと 凌雲 りょううん 廿 にじゅう 年 ねん 前 ぜん 曾為二 に 哥之家庭 かてい 教師 きょうし ,眼 め 已 やめ 失明 しつめい ,聞余至 いたり ,亦 また 來談 らいだん 問 とい 舊 きゅう 事 こと 。」[1] [7]
昭和 しょうわ 19年 ねん (1944年 ねん )9月 がつ 14日 にち ,舊曆 きゅうれき 七 なな 月 がつ 廿 にじゅう 七 なな ,許 もと 凌雲 りょううん 勞 ろう 息 いき 歸 き 天 てん ,享 とおる 壽 ことぶき 八 はち 十 じゅう 有 ゆう 三 さん 。[1] [3]
光 ひかり 緒 いとぐち 十 じゅう 五 ご 年 ねん (1889年 ねん ),許 もと 凌雲 りょううん 娶 めと 鎮海鄉 ごう 紳 しん 陳 ひね 寮 りょう 之 の 女 おんな 陳 ちん 吟 ぎん (亦 また 作 さく 陳 ひね 拎)為 ため 妻 つま ,生 なま 有 ゆう 二女 じじょ 四 よん 子 し ,依 よ 序 じょ 為 ため 長女 ちょうじょ 許 もと 玉 だま 、長子 ちょうし 許 もと 水 すい 錦 にしき 、三子 みつご 許 もと 水 すい 聰 さとし 、次女 じじょ 許 もと 柑與四子許西疇,次子 じし 許 もと 水 すい 琛未及成年 ねん ,五 ご 歲 さい 早 はや 夭。[1] [3]
許 もと 凌雲 りょううん 四子許西疇本在臺南經商,因 いん 昭和 しょうわ 12年 ねん (1937年 ねん )「中日 ちゅうにち 戰爭 せんそう 」爆發 ばくはつ ,被 ひ 日本 にっぽん 政府 せいふ 勒令停 とま 業 ぎょう ,許 もと 西 にし 疇只得 とく 返 かえし 鄉 ごう 照 あきら 顧失明 しつめい 的 てき 父親 ちちおや ,後 ご 在 ざい 昭和 しょうわ 16年 ねん (1941年 ねん )在 ざい 馬 うま 公 こう 街 がい 開 ひらき 鐘 がね 錶店(精巧 せいこう 堂 どう ),不幸 ふこう 毀於澎湖空襲 くうしゅう 中 なか 的 てき 盟 めい 軍 ぐん 轟 とどろき 炸。[1] [3]
瓦 かわら 硐村基督教 きりすときょう 長老 ちょうろう 教會 きょうかい 教 きょう 堂 どう 。
許 もと 凌雲 りょううん 兄 あに 長 ちょう 許 もと 漢 かん 墩 (亦 また 載 の 許 もと 漢 かん 敦 あつし ,表 おもて 字 じ 其仁)在 ざい 臺 たい 南 みなみ 府 ふ 城 じょう 行 くだり 郊的 てき 瑞 みず 和布 わぶ 行 ゆき 擔任 たんにん 掌 てのひら 櫃 ひつ ,因 いん 嗜吸食 しょく 鴉片 あへん 而身染 しみ 疾病 しっぺい ,乃求醫 い 於基督 とく 徒 と 高 だか 耀所開 ひらけ 的 てき 西 にし 藥 やく 房 ぼう 「仁和 にわ 堂 どう 」,高 こう 耀順利 り 治癒 ちゆ 許 もと 漢 かん 墩,許 もと 漢 かん 墩因此改信奉 しんぽう 耶穌 。[8] 許 もと 凌雲 りょううん 本身 ほんみ 也在光 こう 緒 いとぐち 十 じゅう 八 はち 年 ねん (1892年 ねん )接受 せつじゅ 基督教 きりすときょう 信仰 しんこう 。[3]
從 したがえ 光 こう 緒 いとぐち 十 じゅう 二 に 年 ねん (1893年 ねん )起 おこり ,臺 だい 南 みなみ 長老 ちょうろう 教會 きょうかい 便 びん 派 は 甘 あま 為 ため 霖牧師 ぼくし 來 らい 澎湖宣教 せんきょう ,翌年 よくねん 更 さら 派 は 傳道 でんどう 師 し 黃 き 深 ふか 河 かわ 及神學生 がくせい 黃 き 能 のう 傑 すぐる 派 は 駐 ちゅう 澎湖頂山 いただきやま 嶼宣傳 せんでん 福音 ふくいん ,派 は 駐 ちゅう 地點 ちてん 最初 さいしょ 設 しつらえ 在 ざい 赤 あか 崁,輾轉 てんてん 遷往港 みなと 尾 お (今 こん 白 しろ 沙 すな 鄉 きょう 講 こう 美 び 村 むら ),光 ひかり 緒 いとぐち 十 じゅう 四 よん 年 ねん (1895年 ねん )才 ざい 落址在 ざい 瓦 かわら 硐;而直到 いた 明治 めいじ 44年 ねん (1911年 ねん )瓦 かわら 硐基督教 きりすときょう 堂 どう 落成 らくせい 之 の 前 まえ ,尋 ひろ 找教會 かい 場所 ばしょ 頗費周 しゅう 折 おり ,曾一度借駐許漢墩住屋舉辦聚會。許 もと 凌雲 りょううん 返 かえし 鄉 きょう 教授 きょうじゅ 漢學 かんがく 時 じ ,也特意 い 將 はた 授課地點 ちてん 設 しつらえ 在 ざい 瓦 かわら 硐基督教 きりすときょう 堂 どう 。綜觀澎湖基督 きりすと 長老 ちょうろう 教會 きょうかい 的 てき 早期 そうき 傳播 でんぱ 史 し ,許 もと 漢 かん 墩、許 もと 凌雲 りょううん 兄弟 きょうだい 可 か 謂 いい 出力 しゅつりょく 頗多。[1] [9]
許 もと 凌雲 りょううん 秀才 しゅうさい 館 かん 對 たい 聯 れん 。
許 もと 凌雲 りょううん 故 こ 居 きょ 在日 ざいにち 治 ち 時期 じき 戶籍 こせき 為 ため 瓦 かわら 硐港鄉 きょう 47番 ばん 戶 ど ,今 こん 為 ため 白 しろ 沙 すな 鄉 きょう 瓦 かわら 硐村51號 ごう ,門 もん 額 がく 題名 だいめい 為 ため 「許 もと 凌雲 りょううん 秀才 しゅうさい 紀 き 念 ねん 館 かん 」、「存 そん 養 やしなえ 軒 のき 書房 しょぼう 」,上 うえ 聯 れん :「聖 せい 道教 どうきょう 人 じん 時雨 しぐれ 化 か 」、下 しも 聯 れん :「福音 ふくいん 牖世春風 しゅんぷう 生 せい 」。[1]
2021年 ねん ,白 しろ 沙 すな 鄉 きょう 議員 ぎいん 宋 そう 昀芝對 たい 許 もと 凌雲 りょううん 秀才 しゅうさい 紀 き 念 ねん 館 かん 提 ひさげ 報 ほう 「澎湖縣 けん 文化 ぶんか 資產 しさん 」登錄 とうろく 進度 しんど 提出 ていしゅつ 質 しつ 詢,澎湖縣 けん 政府 せいふ 文化 ぶんか 局 きょく 回 かい 應 おう ,預 あずか 計 けい 最 さい 遲 おそ 於2021年 ねん 年 ねん 底 そこ 定 じょう 案 あん 。 [10] [11]
2022年 ねん 3月 がつ 5日 にち ,許 もと 凌雲 りょううん 秀才 しゅうさい 館 かん 經 けい 澎湖縣 けん 政府 せいふ 文化 ぶんか 局 きょく 公告 こうこく ,登錄 とうろく 為 ため 「紀 きの 念 ねん 性 せい 建築 けんちく 」。[12]