京都きょうと市内しないとお

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本にっぽん > 京都きょうと > 京都きょうと > 京都きょうと市内しないとお

京都きょうと市内しないとお(きょうとしないのとおり)では、きゅう京都きょうと市街しがい道路どうろと、道路どうろ基準きじゅんとして所在地しょざいちあらわ方式ほうしきについてしるす。

同市どうしがいは「碁盤ごばん」といわれる平安京へいあんきょう大路おおじ小路こうじはしはっする、南北なんぼく東西とうざい直交ちょっこうする格子こうしじょう街路がいろ特徴とくちょうとし、主要しゅようとおりにかぎらずほとんどのとおりが固有こゆう名称めいしょうち、場所ばしょ交差点こうさてん住所じゅうしょ所在地しょざいち))をあらわすためにももちいられる(とおもちいた場所ばしょ表記ひょうき参照さんしょう)。

成立せいりつ変遷へんせん[編集へんしゅう]

平安京へいあんきょう大路おおじ小路こうじ

西暦せいれき794ねんのべれき13ねん)に造営ぞうえいされ、日本にっぽん首都しゅととなった平安京へいあんきょうじょうぼうせいもとづく南北なんぼく東西とうざい直交ちょっこうする大路おおじ小路こうじはしはっする。平安京へいあんきょう中央ちゅうおうには、南北なんぼくはば28たけやく85メートル)の朱雀すざく大路おおじ位置いちし、南端なんたんには正門せいもんである城門じょうもん北端ほくたんには大内裏だいだいり正門せいもんである朱雀すざくもんにつながっていた。また、東西とうざい南北なんぼくには、17たけやく50メートル)から8たけやく24メートル)まで5種類しゅるいはば大路おおじはば4たけやく12メートル)[注釈ちゅうしゃく 1]小路こうじ[1]により、40たけ四方しほうまちまち(まち)」に区画くかくされた。

その範囲はんいは、北端ほくたん現在げんざい一条通いちじょうどおり南端なんたん九条通くじょうどおりひがしはし寺町てらまちどおりにあたる。なお、西端せいたんは、おおむ現在げんざい葛野くずの大路おおじどおり付近ふきんにあたるが、西にし半分はんぶんである右京うきょうさびれたこともあり、街路がいろとしては継承けいしょうされているわけではない。

10世紀せいき初期しょきの『延喜えんぎしき』においては、平安京へいあんきょうない縦横じゅうおうもうけられた街路がいろ幅員ふくいんについて詳細しょうさいしめされている。しかしながら、固有こゆう街路がいろめいは「朱雀すざく大路おおじ」がえるだけであり、外周がいしゅうを「ひがし極大きょくだい」、「南極なんきょく大路おおじ」などとしめすのみである。

街路がいろ大路おおじ小路こうじ)が固有こゆう名称めいしょう時期じきさだかではなく、自然しぜん発生はっせいてきしょうじたとかんがえられるが、10世紀せいき後半こうはんには、町尻まちじり小路こうじまちこう小路こうじ室町むろまち小路こうじ油小路あぶらのこうじ具足ぐそく小路こうじにしき小路こうじ綾小路あやのこうじ塩小路しおこうじなどの名称めいしょうもちいられ、大路おおじ小路こうじ固有こゆう名前なまえばれるようになった。街路がいろ名称めいしょうもちいた場所ばしょ表現ひょうげんについても10世紀せいき後半こうはんにさかのぼることができる。

平安へいあん時代じだい後期こうきになると、左京さきょう中心ちゅうしんになるとともに、都市としいきいちじょうえてきたひろがり、街路がいろ北進ほくしんした。また、白河しらかわ殿どの設置せっちなどじょう大路おおじかいして鴨川かもがわ東岸とうがんへもひろがった[2]

中世ちゅうせい以降いこう街路がいろはば狭小きょうしょうした。これは、街路がいろ中心ちゅうしんとした部分ぶぶんがコミュニティを構成こうせいする両側りょうがわまち成立せいりつともおおいに関係かんけいする。

戦国せんごく時代じだい末期まっきには、現在げんざい使つかわれる「つう(とおり)」という表現ひょうげんばれるようになり、またこの戦国せんごく時代じだいからゆたかけての時期じきに、現在げんざいにもつたわるあたらしい名称めいしょうおおまれ、近世きんせいけて定着ていちゃくした。

また、この時期じき京都きょうとまちりにおおきな変更へんこうおこなったのが、豊臣とよとみ秀吉ひでよしである。土居どい築造ちくぞうし、寺町てらまちどおり室町むろまちどおりあいだおよ堀川ほりかわとおる以西いせい半町はんじょうごとにあたらしい街路がいろ南北なんぼくとおす、天正てんしょう地割じわりおこなった。

江戸えど時代じだいにおいては、おおきな変化へんかはなかったものの、河原町かわらまちどおり木屋こやまちどおりなど鴨川かもがわ西岸せいがんかもひがしばれる鴨川かもがわ東岸とうがん開発かいはつすすんだ。

明治めいじ時代じだいから大正たいしょう時代じだいおこなわれたさんだい事業じぎょうによって、烏丸からすまとおる千本せんぼんどおり大宮おおみやとおる東大路ひがしおおじどおり丸太町まるたまちどおり四条しじょうどおり七条通しちじょうどおりの拡築と市電しでん敷設ふせつおこなわれた。また、その都市とし計画けいかく事業じぎょう市区しく改正かいせい設計せっけい)として北大路きたおおじとおる西大路にしおおじどおり九条通くじょうどおり東大路ひがしおおじどおり市内しない外周がいしゅう道路どうろのほか河原町かわらまちどおりなどの主要しゅよう道路どうろの拡築がおこなわれた。市街地しがいち周辺しゅうへん街路がいろ土地とち区画くかく整理せいり事業じぎょうとともに、この時期じきから整備せいびされていった。

だい世界せかい大戦たいせんときには防火ぼうか目的もくてき強制きょうせいてき建物たてもの疎開そかいおこなわれた。高辻たかつじとおる智恵ちえひかりいんどおりひとしにおいて消防しょうぼう道路どうろ敷設ふせつのため、また御池おいけとおる五条ごじょうとおる堀川ほりかわとおるなどに沿って大幅おおはば防火ぼうかたい形成けいせいのために建物たてもの疎開そかいおこなわれ、戦後せんご道路どうろ拡幅かくふくもちいられることになった。

とおもちいた場所ばしょ表記ひょうき[編集へんしゅう]

京都きょうと市内しない東西とうざい南北なんぼくとおりは、ふるくは平安京へいあんきょう以来いらい直角ちょっかく交差こうさする街路がいろ踏襲とうしゅうしていることから、市街地しがいちのある地点ちてん標示ひょうじするとき東西とうざい南北なんぼくとおりの交差点こうさてんをどちらにくのかという表示ひょうじさえすれば、その地点ちてんまで容易よういにたどりくことができる[3]

そのため京都きょうとでは、つじ交差点こうさてん)の名称めいしょう交差こうさする街路がいろめい合成ごうせいによりあらわすこと、また東西とうざい南北なんぼくとおりの名称めいしょうわせと方向ほうこう指示しじにより場所ばしょ表示ひょうじすることが、長年ながねんにわたり使つかわれつづけており、京都きょうとあらたに編入へんにゅうされた地域ちいきのぞいたきゅう市内しないでは、住民じゅうみんひょうとう公的こうてき住所じゅうしょ表記ひょうきにももちいられる[4]

烏丸からすまとおる+塩小路しおこうじどおり=烏丸からすま塩小路しおこうじ

交差点こうさてん[編集へんしゅう]

市内しない中心ちゅうしん交差点こうさてんは、交差こうさする2つのとお合成ごうせいにより、たとえば三条さんじょうどおり河原町かわらまちどおり交差点こうさてんは、それぞれの名称めいしょうから「つう」をのぞいたもの(「三条さんじょう」と「河原町かわらまち」)をもちいて、「三条さんじょう河原町かわらまち」や「河原町かわらまち三条さんじょう」のようにしょうされる。どちらのとおりをさき呼称こしょうしても意味いみつうじるが、おおくの場合ばあいどちらかのとおりをさきぶものが固有名詞こゆうめいししており、上述じょうじゅつれいでは、交差点こうさてん表示ひょうじバス停ばすてい名称めいしょうは「河原町かわらまち三条さんじょう」で統一とういつされている。

こうした固有名詞こゆうめいしとしてもちいられる交差点こうさてんめいバス停ばすていめいは、おおくがかつて存在そんざいした京都きょうと市電しでん停留所ていりゅうじょめい継承けいしょうしたものになっているが、それもふくめて、固有名詞こゆうめいしした交差点こうさてんめい停留所ていりゅうじょめいについて、東西とうざい南北なんぼくのどちらのとおりをさきぶかについての明確めいかく法則ほうそくせいはない(れい:「四条しじょう烏丸からすま」「四条しじょう河原町かわらまち」「五条ごじょう千本せんぼん」「北大路きたおおじ新町しんまち」「高辻たかつじ葛野くずの大路おおじとう)。また、道路どうろじょう交差点こうさてんめい表記ひょうきでは「五条ごじょう大宮おおみや」である一方いっぽうバス停ばすてい名称めいしょうは「大宮おおみや五条ごじょう」であるなど不一致ふいっちがみられるれいもある。

とお合成ごうせいにより交差点こうさてんめいあらわ場合ばあい基本きほんは「つう」のかたりのぞくが、「白川しらかわとおる今出川いまでがわ」など「つう」をのぞかない場合ばあいもある。なお、東大路ひがしおおじどおりまじわる交差点こうさてんかんしては、東大路ひがしおおじどおり別称べっしょうおよ旧称きゅうしょうである東山ひがしやまどおりもちいられ「東山ひがしやま○○」としょうす(れい:「東山ひがしやま五条ごじょう」)。また、川端かわばたどおり三条さんじょうどおり四条しじょうどおり五条ごじょうどおり七条通しちじょうどおりとの交差点こうさてんは「川端かわばたじょう」ではなく、「○じょう大橋おおはし」としょうす(れい:「三条さんじょう大橋おおはし」)[5]。しかし、東一条ひがしいちじょうどおり二条通にじょうどおりとの交差点こうさてんについては川端かわばた東一条ひがしいちじょう川端かわばたじょうしょうする。

東大路ひがしおおじどおり四条しじょうどおり交差点こうさてんが「祇園ぎおん」(交通こうつう情報じょうほうとうにおいては「祇園ぎおん石段いしだん」)、東大路ひがしおおじどおり今出川いまでがわどおり交差点こうさてんは「ひゃくまんへん」、丸太町まるたまちどおり白川しらかわどおり交差点こうさてんを「天王てんのうまち」、西大路にしおおじどおり丸太町まるたまちどおり交差点こうさてんを「えんまち」(住所じゅうしょ表記ひょうきバス停ばすていなどは「西ノ京円にしのきょうえんまち」)、西大路にしおおじどおり今出川いまでがわどおり交差点こうさてんを「北野きたの白梅しらうめまち」、千本せんぼんどおり御池みいけどおり交差点こうさてんを「二条にじょうえき東口ひがしぐち」、九条通くじょうどおり壬生みぶとおる交差点こうさてんを「京阪けいはん国道こくどうくち」としょうとう例外れいがい一部いちぶ存在そんざいする。

市内しない中心ちゅうしんでは、こうしたとお合成ごうせいによる交差点こうさてんめいたんなる交差点こうさてん名称めいしょうだけでなく、周辺しゅうへん一帯いったいしめ地名ちめいになっている場合ばあいがある。たとえば「四条しじょう河原町かわらまち」は京都きょうと繁華はんかがい、「四条しじょう烏丸からすま」はビジネスがいあらわ地名ちめいとして認識にんしきされている。

つじ交差点こうさてん)を東西とうざい南北なんぼく街路がいろ大路おおじ小路こうじ)の名称めいしょう合成ごうせいによりあらわすことは、おおよそ11世紀せいきからもちいられるようになる[6]平安へいあん時代じだい貴族きぞく日記にっき分析ぶんせきによれば、東西とうざいさきに、南北なんぼくのちしるれいおお[7]

住所じゅうしょ[編集へんしゅう]

表記ひょうき法則ほうそく[編集へんしゅう]

市内しない中心ちゅうしんなどおも格子こうしじょう街路がいろ地域ちいきでは、目的もくてきがどのとおりのどの場所ばしょにあるのかということがかれば場所ばしょ特定とくていすることができることから、まず目的もくてきめんしているとおしめし、つぎにそのとおりと直近ちょっきん交差こうさするとお末尾まつびの「つう」のかたりのぞいてしめしたうえで、その交差点こうさてんから目的もくてき位置いちを、きたかう場合ばあいは「あがのぼ」(あがる)、みなみへは「しもくだ」(さがる)、東西とうざいかう場合ばあいはそれぞれ「ひがしいれ」(ひがしいる)、「西入にしいり」(にしいる)と表記ひょうきする方法ほうほうもちいられ、南北なんぼく東西とうざいそれぞれのとおりにめんした場所ばしょについて、以下いかのように表記ひょうきされる。

南北なんぼくとおりにめんした場所ばしょ
南北なんぼくの△△どおりめんし、東西とうざいの○○つうからきたすすんだところにある場所ばしょは「△△どおり○○あが(あがる)」であり、○○つうからみなみすすんだところにある場所ばしょは「△△どおり○○しも(さがる)」である。
東西とうざいとおりにめんした場所ばしょ
東西とうざいの□□どおりめんし、南北なんぼくの××どおりからひがしすすんだところにある場所ばしょは「□□どおり××ひがしいれ(ひがしいる)」であり、××どおりから西にしすすんだところにある場所ばしょは「□□どおり××西入にしいり(にしいる)」である。

上記じょうきにおいて、東西とうざいとおりにめんした場所ばしょしめ場合ばあい南北なんぼく街路がいろや、南北なんぼくとおりにめんした場所ばしょしめ場合ばあい東西とうざい街路がいろ名称めいしょう末尾まつびが「つう」である場合ばあい、「つう」のかたりのぞくのが原則げんそくであるが、「御前ごぜんどおり」については「つう」のかたりをつけたまましるすことがある。また、たとえば「仁和寺にわじ街道かいどう」や「三条さんじょうどおり北裏きたうら」など、末尾まつびに「つう」のかない場合ばあいはそのまま表記ひょうきする。

とおいていないみち辻子ずし)や路地ろじ)にれてはいっていく場合ばあい、「のぼひがしいれ」などの表記ひょうきをするれいもみられる。また、名前なまえいたとおりとの交差点こうさてんからのあいだながく、複数ふくすうまち存在そんざいするような場合ばあいは、「のぼ丁目ちょうめ[注釈ちゅうしゃく 2]などの表記ひょうきもある。これらの表記ひょうきは、平安京へいあんきょう域外いきがい上京かみぎょう北側きたがわおおられる。

公的こうてき住所じゅうしょ表記ひょうき[編集へんしゅう]

市内しない中心ちゅうしん明治めいじ22ねん1889ねん)の市制しせい施行しこう京都きょうと市域しいきであった場所ばしょ)においては、その場所ばしょ上記じょうき表記ひょうき法則ほうそくによりしめしたうえで町名ちょうめい公称こうしょう町名ちょうめい)と番地ばんちしたものが、住民じゅうみんひょうとうしるされる公的こうてき住所じゅうしょ所在地しょざいち)の表記ひょうき方法ほうほうとしてもちいられる[注釈ちゅうしゃく 3]後述こうじゅつのとおり、現在げんざい公的こうてき住所じゅうしょ表記ひょうきにおいては、南北なんぼくとおりにめんした場所ばしょについてはひらがなの「のぼる」「くだる」、東西とうざいとおりにめんした場所ばしょについてはおく仮名がなのない「ひがしいれ」「西入にしいり」がもちいられる。れいとして、京都きょうと市役所しやくしょ所在地しょざいちは「京都きょうと中京ちゅうきょう寺町てらまちどおり御池みいけのぼ上本能寺前かみほんのうじまえまち488番地ばんち[10]表記ひょうきされる。

なお、公的こうてき住所じゅうしょ表記ひょうきもとめられない、たん所在地しょざいちあらわすような場合ばあい通常つうじょう上記じょうき表記ひょうき法則ほうそくにより「あがル/のぼる」「しもル/くだる」「ひがしいれひがしにゅうル/ひがしはいる)」「西入にしいり西入にしいりル/西にしはいる)」までをしるし、町名ちょうめい番地ばんち省略しょうりゃくしてしるさないのが一般いっぱんてきである。また公的こうてき住所じゅうしょ表記ひょうきではとおもちいた表記ひょうきおこなわない市内しない周縁しゅうえんでも、上記じょうき法則ほうそくにより所在地しょざいち表記ひょうきすることが一般いっぱんてきおこなわれている。

つう」の文字もじけず、とおりの順序じゅんじょ法則ほうそくせいのない「交差点こうさてんめい」に「あがル/のぼる」「しもル/くだる」「ひがしいれひがしにゅうル/ひがしはいる)」「西入にしいり西入にしいりル/西にしはいる)」をけ、たとえば「四条しじょう烏丸からすまくだる」との表記ひょうき通用つうようするが、前述ぜんじゅつ表記ひょうき法則ほうそくのっとっておらず公的こうてき住所じゅうしょ表記ひょうきにはもちいられない。また交差点こうさてんめいや「○○つう△△」の表記ひょうきあわせて、方位ほういもちいて「○○かく」とする、たとえば「東南とうなんかく」といった表記ひょうきもまた同様どうよう一般いっぱんてきには通用つうようする一方いっぽう公的こうてき住所じゅうしょ表記ひょうきにはもちいられない。

近年きんねんインターネットじょうではとおりをりゃくしてめいつづけて町名ちょうめいいている場合ばあいがあるが、おな区内くない同名どうめい町名ちょうめい存在そんざいする場合ばあい対応たいおうできないことに留意りゅういされたい。

表記ひょうき差異さい[編集へんしゅう]

つう」と「とおり」
個別こべつとおりの名称めいしょうについて、「つう(とおり)」にはおく仮名がな「り」をけないのが通例つうれいである。京都きょうと道路どうろ台帳だいちょう[11]名称めいしょうでもおく仮名がな「り」をけず、公的こうてき住所じゅうしょ表記ひょうきにおいてもちいられるとおりの名称めいしょうでもおく仮名がならない。例外れいがいとして道路どうろ標識ひょうしきでは全国ぜんこく標準ひょうじゅんもとづき「とおり」としておく表記ひょうき採用さいようしている。
あがル」「しもル」と「のぼる」「くだる」
あがル/のぼる」「しもル/くだる」については、現在げんざい住民じゅうみんひょうとう公的こうてき住所じゅうしょ表記ひょうきでは「のぼる」「くだる」のように平仮名ひらがなおく仮名がなしかみとめられなくなっているが、かつては正式せいしき表記ひょうきが「あがル」「しもル」であり、現在げんざいでもこちらが一般いっぱんてき使つかわれる。
ひがしいれ」「西入にしいり」と「ひがしにゅうル/ひがしはいる」「西入にしいりル/西にしはいる」
また「ひがしいれひがしにゅうル/ひがしはいる)」「西入にしいり西入にしいりル/西にしはいる)」について、「ひがしいれ」「西入にしいり」はおく仮名がならないのが通例つうれいであり、公的こうてき住所じゅうしょ表記ひょうきでもおく仮名がならないが、「ひがしにゅうル/ひがしはいる」「西入にしいりル/西にしはいる」と表記ひょうきすることも一般いっぱんてき使つかわれる。

表記ひょうき歴史れきし[編集へんしゅう]

街路がいろ名称めいしょうもちいた場所ばしょ表現ひょうげんについては10世紀せいき後半こうはんにさかのぼることができ、直交ちょっこうするとお合成ごうせいによる地名ちめい交差点こうさてんめい)の表記ひょうき11世紀せいき初頭しょとうから、また、現在げんざいもちいられる「○○つう○○しもル」などの東西とうざい南北なんぼくとおりの名前なまえわせと方向ほうこう指示しじによる表記ひょうきについては17世紀せいき中期ちゅうきからその用例ようれいられる[6]

また、とおりを「つう」と表記ひょうきする史料しりょう初出しょしゅつは、天文てんもん8ねん1539ねん)『おやしゅん日記にっき』の 「室町むろまちどおり」であり、戦国せんごく時代じだい以降いこうにこの表現ひょうげん定着ていちゃくしたとされる[12]

とおりをおぼえるうた[編集へんしゅう]

京都きょうと中心ちゅうしん東西とうざい南北なんぼくとおりのおぼえるために、とおりの名前なまえんだうたがいくつかられている。そのなかでも代表だいひょうてきなものがしたの2きょくである。ふし最初さいしょり、南北なんぼくとおりについては「てら御幸みゆき」(てらごこ)、東西とうざいとおりについては「まるちくえびす」(まるたけえびす)ともばれる。なお、まるちくえびす口伝くちづたえにつたえられてきたものであるのにたいし、てら御幸みゆき一度いちど途絶とだえてしまったものを、過去かこ史料しりょうをもとに再編さいへんしたものである。

京都きょうと放送ほうそう(KBS京都きょうと)は1988ねん4がつからすう年間ねんかんあねさんろくかくだこワイド』(あねさんろっかくたこワイド)というテレビのワイド番組ばんぐみ放送ほうそうしたことがある。京都きょうと銀行ぎんこうが「てら御幸みゆき」を、聖護院しょうごいん八ツ橋やつはしそう本店ほんてんが「まるちくえびす」をテレビ広告こうこく使つかったこともある。また、フィクションでは『めい探偵たんていコナン 迷宮めいきゅう十字路じゅうじろ』に登場とうじょうしている。

歌詞かしについてはいくつかのバリエーションがみられる。ここにしめすのはそのなかいちれいである。

南北なんぼくとおり(てら御幸みゆき[編集へんしゅう]

てら御幸みゆきふすまとみてらごこふやとみやなぎさかいやなぎさかい

高間たかまひがしたかあいひがし車屋くるまやまちくるまやちょう

がらす両替りょうがえからすりょうがえしつころもむろころも

新町しんまち釜座かまんざしんまちかまんざ西小川にしおがわにしおがわ

あぶら醒ヶ井さめがいあぶらさめがいで堀川ほりかわみずほりかわのみず

かやいのししくろよしやいのくろ大宮おおみやおおみやへ

まつ日暮ひぐれまつひぐらしに智恵ちえひかりいんちえこういん

浄福じょうふくせんほんじょうふくせんぼんては西陣にしじんはてはにしじん

てらまち御幸みゆきまちふすままちとみ小路こうじやなぎ馬場ばばさかいまちこうくらあいだこれまちひがしほらいん車屋くるまやまちがらすまる両替りょうがえまちしつまちころもたな新町しんまち釜座かまんざ西にしほらいん小川おがわあぶら小路こうじ醒ヶ井さめがい堀川ほりかわかやまちいのししくまくろもん大宮おおみやまつまち日暮ひぐらし智恵ちえひかりいん浄福じょうふくてら千本せんぼん

西陣にしじん」はとおりのではない。

東西とうざいとおり(まるちくえびす[編集へんしゅう]

まるちくえびすまるたけえびすに押御おしおいけ

あねさんろくかくあねさんろっかくだこにしきたこにしき

よんあやふつだかしあやぶったかまつまんじょうまつまんごじょう

雪駄せったせったちゃらちゃらさかなたなうおのたな

ろくじょうさんあきらろくじょうさんてつとおりすぎ

ななじょうひっちょうえればはちきゅうじょうはっくじょう

じゅうじょう東寺とうじじゅうじょうとうじでとどめさす

まるたいまちたけまちえびすかわじょう小路こうじ御池おいけあね小路こうじさんじょうろくかくだこ薬師やくしにしき小路こうじよんじょうあや小路こうじふつひかりてらこうつじまつはらまん寿ことぶきてら五条ごじょう、(雪駄せったまち)、かぎまち、(ぜにまち)、(魚棚うおたな)、ろくじょうさんあきらななじょうはちじょうきゅうじょうじゅうじょう東寺とうじ

なお、雪駄せったまちどおり現在げんざい楊梅やまももどおり銭屋ぜにやまちどおり現在げんざい的場まとばとおるうおたなどおり現在げんざい六条通ろくじょうどおりさんあきら塩小路しおこうじどおり

したを「五条ごじょう」でうたえることもある。また、うおたな以南いなん個所かしょにはことなってつたわっている歌詞かしおおくある。比較的ひかくてきよくうたらされているのは、上記じょうきとおり、十条通じゅうじょうどおりうたむものだが、さんあきらどおり塩小路しおこうじどおり)がななじょうどおりよりはやうたわれるとともに、九条通くじょうどおりにある東寺とうじじゅうじょうどおりとともにかかげるなど、実際じっさいとおりの順序じゅんじょことなってうたわれている。さらにじゅうじょうどおり昭和しょうわつくられたあたらしいとおりであることなどから、語呂合ごろあわせをぜながら時代じだいにより変化へんかしていたともかんがえられている。

なお、うえ丸太町まるたまちどおりからはじまっているが、江戸えど町家まちや上手じょうずはおおむね丸太まるたまちからはじまり、した五条ごじょう程度ていどであった。また、昭和しょうわ初期しょきまではそのそとでは田畑たはたおおかった。このためわりがななじょうまでになっている歌詞かしもある(下表かひょう参照さんしょう)。

雪駄せったせったちゃらちゃらさかなたなうおのたな

珠数屋じゅずやすじじっずやふたすじまんねんてらまんねんじ

ななじょうひっちょうえてとおみちなし

なお、まんねんてらどおり現在げんざい花屋はなやまちどおりで、「珠数屋じゅずやすじ」の上珠数屋かみじゅずやまちどおりした珠数屋じゅずやまちどおりよりきたにあり、これもとおりの順序じゅんじょわってうたわれている(ちゅう珠数屋じゅずやまちどおりである正面しょうめんどおりうたわれていない)。

また、とおりをうた順番じゅんばん実際じっさいならびのとおりにしめした歌詞かしもある。

雪駄せったせったちゃらちゃらさかなたなうおのたな

ななじょうさんあきらひっちょうさんてつとおりすぎ

はちじょうはちじょうえれば東寺とうじどうとうじみち

九条くじょう大路おおじくじょうおおじでとどめさす

また、まるちくえびす最初さいしょにつけて丸太町まるたまちどおりからきた東西とうざいとおうたいこむ歌詞かしとして、以下いかのものがある。

くらてらくらやてら うえりついつかみだちいつつ いまもといまやもと


いち中立ちゅうりつむいちなかだち 長者ちょうじゃさんとおちょうじゃみとおり


出水しゅっすいでみずしも さわらさわらぎ

くらうまこうてらこれないうえ立売たちうりつじいま出川でがわもと誓願寺せいがんじたけもの小路こうじいちじょう中立ちゅうりつうれうえなかした長者ちょうじゃまち出水しゅっすいした立売たちうりさわらまち

また、まるちくえびすも、てら御幸みゆきについても、うえかかげるもの以外いがいのバリエーションは数多かずおお存在そんざいする。また、まるちくえびす東西とうざいとおり)につづいて、てら御幸みゆき南北なんぼくとおり)をうたうものもある。

てら御幸みゆき
浄福じょうふくせんほんじょうふくせんぼんさては西陣にしじんにしじん
まるちくえびす
きゅうじょうじゅうじょうくじょうとうじょでとどめさす」

その[編集へんしゅう]

その有名ゆうめいなものとして、丸太町まるたまちどおりから松原通まつばらどおりまでの東西とうざいとおりをうたうものとして以下いかのものがある。

ぼんさんあたまは丸太まるたまちまるたまち
つるっとすべって竹屋たけやまちたけやまち

みずのながれは夷川えびすがわえびすがわ
じょうにじょうでこうたきぐすりを
ただでやるのは押小路おしこうじおしこうじ

御池おいけおいけでおうた(でおうた)あねあねさんさん

ろくろくせんもろうてだこたここうて

にしきにしきでおとしてよんかられて

あやあやまったけどふつぶつぶつと

こうたかがしれた(て・と)るまつどしたろ

丸太町まるたまちどおり竹屋たけやまちどおり夷川えびすがわどおり二条通にじょうどおり押小路おしこうじどおり御池おいけとおるあね小路こうじどおり三条さんじょうどおりろく角通かくつう蛸薬師通たこやくしどおりにしき小路こうじどおり四条しじょうどおり綾小路あやのこうじとおるふつこうてらどおり高辻たかつじとおる松原通まつばらどおり

辻子ずし)と路地ろじ[編集へんしゅう]

地割じわり内部ないぶにアクセスするため、路地ろじ(「ろーじ」と発音はつおんされる[13])がつくられる。おおくは袋小路ふくろこうじで、ひょうとおりから路地ろじへのくちには、もんもうけられたり住民じゅうみん表札ひょうさつかかげられたりすることがよくある。ひょう家屋かおくかいうえおおっている場合ばあいもある。

このように、京都きょうとにおける路地ろじはきわめて内部ないぶてきなもので、部外ぶがいしゃ通行つうこう自由じゆうであるとおとは画然かくぜんとした区別くべつがある。道幅みちはばひとちがいが出来できないようなものから、軽自動車けいじどうしゃたがえるようなものまで様々さまざまである。

先斗ぽんとまちどおり木屋こやまちどおりつなぐビルの通路つうろは、建物たてもの現代げんだいされてものこっている路地ろじといえよう。

袋小路ふくろこうじ路地ろじたりを貫通つらぬきとおさせるなどによって、とおけのできる小路こうじ[14](ずし、辻子ずしとも表記ひょうきする)とぶ。路地ろじことなり、一般いっぱんとおけがみとめられている。

には「革堂こうどう」や「紋屋もんや」など、名前なまえがつけられているものがある。中心ちゅうしん町名ちょうめいに「」や「突抜つきぬけ」とあるものは由来ゆらいする。

背中合せなかあわせの路地ろじつないでとした経緯けいい物語ものがたるものもある。なかほどで直角ちょっかくにあるいはかぎれ、その前後ぜんご道幅みちはばちがっている。京都きょうとの「とおり」の直線ちょくせんてきとおくを見通みとおせるかたちとはちが姿すがたにはえる。

道幅みちはばせまとおりを単純たんじゅん路地ろじぶのではないことに注意ちゅうい必要ひつようである。

とく集中しゅうちゅうする地域ちいきとして、上京かみぎょう一条通いちじょうどおり以北いほくげられる。この地域ちいきはもともと平安京へいあんきょう範囲はんいがいだったが、市街地しがいち拡大かくだいにより南北なんぼく方向ほうこうとおりがきた延長えんちょうされ、これらを東西とうざい方向ほうこう連絡れんらくするためのつくられた[15]

とおりの一覧いちらん[編集へんしゅう]

()ないとおりの別名べつめい一部いちぶ区間くかんのみの別名べつめいふくむ)。またおなぎょうしるしたとおりは南北なんぼくまたは東西とうざいどう一直線いっちょくせんじょうにある。また、市街地しがいちのほとんどのとおりに固有こゆう名称めいしょうがつけられていることは日本にっぽん大都市だいとしでは希有けうれいである。

南北なんぼくとお[編集へんしゅう]

東側ひがしがわから

高野たかのがわ - 鴨川かもがわ以東いとう[編集へんしゅう]

高野川こうのかわ以西いせい 賀茂川かもがわ以東いとう[編集へんしゅう]

賀茂川かもがわ - 鴨川かもがわ以西いせい 堀川ほりかわ以東いとう鞍馬口くらまぐちよりみなみ[編集へんしゅう]

堀川ほりかわ以西いせい鞍馬口くらまぐちよりみなみ[編集へんしゅう]

鞍馬口くらまぐちどおりよりきた[編集へんしゅう]

東西とうざいとお[編集へんしゅう]

北側きたがわから

鞍馬口くらまぐちどおりよりきた[編集へんしゅう]

鞍馬口くらまぐちどおり - 丸太町まるたまちどおり[編集へんしゅう]

丸太まるたまち - 五条ごじょう[編集へんしゅう]

五条ごじょうどおりよりみなみ[編集へんしゅう]

伏見ふしみ市街地しがいちとお[編集へんしゅう]

南北なんぼくとお[編集へんしゅう]

東西とうざいとお[編集へんしゅう]

そのとお[編集へんしゅう]

街道かいどう[編集へんしゅう]

京街道きょうかいどう参照さんしょうされたい。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 例外れいがいてき東西とうざい堀川ほりかわ小路こうじでは中心ちゅうしん河川かせんとおり、広幅ひろはばいん街路がいろとなっていた。
  2. ^ この場合ばあいの「丁目ちょうめ」は町名ちょうめい公称こうしょう町名ちょうめい)ではない。なお、住民じゅうみんひょうなどの公的こうてき住所じゅうしょ表記ひょうきでは「2丁目ちょうめ」と算用さんよう数字すうじしめされる。
  3. ^ 明治めいじ22ねん1889ねん)3がつ京都きょうと告示こくじだい24ごう府廳ふちょう其他しょ官廳かんちょう差出さしで書面しょめん住所じゅうしょ記載きさいかたけん[8]で、「しょ官庁かんちょう差出さしだ書面しょめん記載きさいは…」により、同年どうねん4がつ1にち以降いこう京都きょうと編入へんにゅうされた地域ちいきのぞきゅう市内しない所在地しょざいちについて、戸籍こせき簿登記とうき簿とう公式こうしきなものは、このとおもちいた記載きさいすることがさだめられた。ただし、祇園町南側ぎおんまちみなみがわ祇園町北側ぎおんまちきたがわもと祇園ぎおん新地さらちばれた土地とち一帯いったい宮川みやがわ町筋まちすじ清水しみずいち丁目ちょうめ丁目ちょうめ本町ほんちょういち丁目ちょうめじゅう丁目ちょうめや、もと島原しまばら遊郭ゆうかくとおもちいず、町名ちょうめいのみでしめされる[9]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 改訂かいていばん京都きょうと観光かんこう文化ぶんか検定けんてい試験しけん公式こうしきテキストブック』 (2005), p. 22
  2. ^ 改訂かいていばん京都きょうと観光かんこう文化ぶんか検定けんてい試験しけん公式こうしきテキストブック』 (2005), p. 23
  3. ^ 改訂かいていばん京都きょうと観光かんこう文化ぶんか検定けんてい試験しけん公式こうしきテキストブック』 (2005), p. 250 - 252
  4. ^ 今尾いまおめぐみかい住所じゅうしょ地名ちめい研究けんきゅう新潮社しんちょうしゃ、2004ねん、78ぺーじISBN 4-10-603535-9 
  5. ^ 三条さんじょう大橋おおはし地図ちず”. 2022ねん12月24にち閲覧えつらん
  6. ^ a b 高橋たかはし (2003), p. 74 - 75.
  7. ^ 安藤あんどう哲郎てつろう ちょ平安へいあん貴族きぞく大路おおじ小路こうじをめぐる空間くうかん認識にんしき 歴史れきし地理ちりから平安京へいあんきょう空間くうかん」、西山にしやま良平りょうへい鈴木すずき久男ひさお藤田ふじた勝也かつや へん平安京へいあんきょう地域ちいき形成けいせい京都大学きょうとだいがく学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい、2016ねん、35-63ぺーじISBN 978-4-8140-0045-6 
  8. ^ 明治めいじ22ねん3がつ28にち告示こくじだい24ごう」『京都きょうと令達れいたつ要約ようやく 明治めいじ22ねん だい10へん下巻げかん京都きょうと内務ないむ、1889ねん、227-228ぺーじdoi:10.11501/788413https://dl.ndl.go.jp/pid/788413/1/116 
  9. ^ 京都きょうと へん京都きょうと 地名ちめい町名ちょうめい沿革えんかく』1994ねん、95ぺーじ なお、同書どうしょでは告示こくじねん明治めいじ23ねん(1890ねん)としるしているが、まさしくは明治めいじ22ねん(1899ねん)である。
  10. ^ 市役所しやくしょ住所じゅうしょ表示ひょうじについて(しょう”. 2023ねん3がつ18にち閲覧えつらん
  11. ^ 京都きょうと認定にんてい路線ろせんもう提供ていきょうシステム
  12. ^ 河内かわうち (2017)どうちょ紹介しょうかいする史料しりょう初出しょしゅつについては高橋たかはし (2015)によるとするが、これは高橋たかはし (2003)さいろくである。
  13. ^ 改訂かいていばん京都きょうと観光かんこう文化ぶんか検定けんてい試験しけん公式こうしきテキストブック』 (2005), p. 252 - 253
  14. ^ 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 26 京都きょうと上巻じょうかん (1982), p. 14
  15. ^ 史料しりょう 京都きょうと歴史れきし7上京じょうきょう』 (1980), p. 13.
  16. ^ 野寺のでら小路こうじ”. 2022ねん12月24にち閲覧えつらん
  17. ^ 西京極にしきょうごく商店しょうてんがい 公式こうしきホームページ”. 2022ねん12月24にち閲覧えつらん
  18. ^ 出雲いずもきょう京都きょうときた)の北西ほくせいあたりに、「アサヒどおり」(漢字かんじはわからない)というとおりがあるらしいが、どこ...”. レファレンス協同きょうどうデータベース. 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん (2021ねん10がつ5にち). 2023ねん8がつ11にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

  • ジオどす - 京都きょうと市内しないとおによる住所じゅうしょ表記ひょうきから検索けんさくできる地図ちず検索けんさくサイト