旧和中散本舗が所在する六地蔵は、東海道の草津宿と石部宿の中間に位置する間の宿()であった。当地には「和中散」という胃薬を販売する店舗が5軒存在したが、なかでも大角家は「和中散本舗」を名乗り、本陣を兼ね、『東海道名所図会』にも描かれた著名な店であった。大角家は系図によれば、慶長元年(1596年)、300メートルほど東北の旧地から現在地に移ってきたもので、屋号を「是斎屋」()と称し、当主は代々弥右衛門を名乗った。慶長16年(1611年)、当地を訪れた徳川家康が腹痛を訴えたところ、典医が「和中散」を勧め、たちどころに快復したとの伝えがある。
大角家の屋敷地は、旧東海道を挟んで南北に分かれている。南側の敷地には街道に面して切妻造の主屋、その左に表門が建ち、北側の敷地には隠居所、馬繋、薬師堂が建つ。
主屋は「店舗、製薬所、台所、居間」部と、その左手奥(東)にある「玄関、座敷」部からなる。「店舗、製薬所、台所、居間」部は、桁行十間(19.4メートル)、梁間九間(19.1メートル)、切妻造、本瓦、桟瓦及び銅板葺き。「玄関、座敷」部は桁行8.8メートル、梁間8.5メートル、切妻造、銅板葺きで、南面に突出部があり、桁行5.1メートル、梁間7.0メートル、入母屋造、桟瓦葺きとする。当家の系図によると、延宝4年(1676年)に家督を継いだ3代目の当主のときに建て替えを行っているところから、「店舗、製薬所、台所、居間」部は17世紀末、「玄関、座敷」部はやや遅れて18世紀前半の建立と推定される。
「店舗、製薬所、台所、居間」部は街道に面し、細い通りにわ(土間)を挟んで、左に畳敷きの「東みせ」、右に板敷きの「西みせ」がある。「西みせ」には木製の動輪、歯車、石臼からなる製薬機が残る。動輪は直径3.6メートルあり、この中に人間が入って回転させると、その動力が石臼に伝わる仕組みになっている。これは実演販売のはしりとも言われている。「東みせ」の正面は摺揚戸()、「西みせ」の前は板戸引き込みで、全面開放できるようになっている。なお、当初は「東みせ」部分も板戸引き込みであった。屋根は上半が本瓦、下半が桟瓦で葺かれ、庇は銅板葺きとなっている。庇は出が1.6メートルあり、腕木と持ち送りで支えられている。「西みせ」の奥は土間になり、「東みせ」の奥は3列に部屋を設け、台所など10室がある。
「東みせ」の向かって左(東)には薬医門形式の正門(江戸時代中期)が建ち、これを入ると千鳥破風を構えた「玄関、座敷」部がある。「玄関、座敷」部は、「店舗、製薬所、台所、居間」部と接続しているが、家族の居住用ではなく、高貴な来客用の空間である。式台玄関を入ると「玄関の間」(10畳)がある。玄関正面の欄間には鶴亀の浮彫彫刻を嵌める。その奥は右が8畳、床()・棚付きの「座敷」、左が6畳の「次の間」で、その奥が10畳、床・棚・書院付きの「上段の間」である。「上段の間」から見える、築山と池を備えた庭園は国の名勝に指定されている。明治天皇は、明治元年(1868年)、京から江戸へ向かった際と、明治3年(1870年)、孝明天皇の三回忌のため東京から京都へ向かった際の2回、当住宅で休憩した。他にも太田蜀山人、シーボルトらの著名人が訪れたことが知られる。
隠居所は桁行12.9メートル、梁間7.0メートル。南面に突出部があり、桁行5.9メートル、梁間6.9メートル、いずれも入母屋造、桟瓦葺きとする。6畳(床・書院付き)、次の間4畳、奥の間、仏間、台所、土間からなる。江戸中期の建築とみられる。
- 大角家住宅 3棟
- 主屋 附 製薬機一式
- 正門 両袖塀付属
- 隠居屋 附 古図1枚
- 附 古来作事幷諸覚帳1冊
以上1954年3月20日指定。ただし、附()指定の「古図」と「古来作事幷諸覚帳」は1982年2月16日追加指定。
※上記の指定名称、指定年月日は文化財目録(滋賀県サイト)による。