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旧和中散本舗 - Wikipedia

きゅうちゅう本舗ほんぽ

滋賀しがけん栗東りっとうにある旧家きゅうか

きゅうちゅう本舗ほんぽ(きゅうわちゅうさんほんぽ)は、滋賀しがけん栗東りっとう六地蔵ろくじぞうにある、江戸えど時代じだい以来いらい胃薬いぐすりちゅう」を製造せいぞう販売はんばいしていた旧家きゅうかである[1][2]。「きゅうちゅう本舗ほんぽ」としてくに史跡しせき指定していされている(1949ねん7がつ13にち指定してい)。また、おも正門せいもん隠居いんきょしょ建造けんぞうぶつ3むねが「大角おおすみおおすみけ住宅じゅうたく」としてくに重要じゅうよう文化財ぶんかざいに(1954ねん3がつ20日はつか指定してい)、庭園ていえんが「大角おおすみ庭園ていえん」としてくに名勝めいしょうに(2001ねん1がつ29にち指定してい)、それぞれ指定していされている[3]

きゅうちゅう本舗ほんぽ東海道とうかいどう名所めいしょ図会ずえ

座標ざひょう: 北緯ほくい3501ふん29びょう 東経とうけい13601ふん07びょう / 北緯ほくい35.02472 東経とうけい136.01861 / 35.02472; 136.01861

旧和中 散本舗の位置(滋賀県内)
旧和中 散本舗
きゅうちゅう
本舗ほんぽ
位置いち

概要がいよう

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きゅうちゅう本舗ほんぽ所在しょざいする六地蔵ろくじぞうは、東海道とうかいどう草津くさつ宿やど石部いしべ宿やど中間ちゅうかん位置いちするあいだ宿やどあいのしゅくであった。当地とうちには「ちゅう」という胃薬いぐすり販売はんばいする店舗てんぽが5けん存在そんざいしたが、なかでも大角おおすみは「ちゅう本舗ほんぽ」を名乗なのり、本陣ほんじんね、『東海道とうかいどう名所めいしょ図会ずえ』にもえがかれた著名ちょめいみせであった。大角おおずみ系図けいずによれば、慶長けいちょう元年がんねん1596ねん)、300メートルほど東北とうほくきゅうから現在地げんざいちうつってきたもので、屋号やごうときぜさいやしょうし、当主とうしゅ代々だいだいわたるみぎ衛門えもん名乗なのった。慶長けいちょう16ねん1611ねん)、当地とうちおとずれた徳川とくがわ家康いえやす腹痛はらいたうったえたところ、てんが「ちゅう」をすすめ、たちどころに快復かいふくしたとのつたえがある[1][2]

建築けんちく

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大角おおすみ屋敷やしきは、きゅう東海道とうかいどうはさんで南北なんぼくかれている。南側みなみがわ敷地しきちには街道かいどうめんして切妻きりづまづくりおも、そのひだり表門おもてもんち、北側きたがわ敷地しきちには隠居いんきょしょうまつなぎ薬師堂やくしどう[4]

おもは「店舗てんぽ製薬せいやくしょ台所だいどころ居間いまと、その左手ひだりておくひがし)にある「玄関げんかん座敷ざしきからなる。「店舗てんぽ製薬せいやくしょ台所だいどころ居間いまは、桁行けたゆきじゅうあいだ(19.4メートル)、梁間はりまきゅうあいだ(19.1メートル)、切妻きりづまづくり本瓦ほんかわら、桟瓦およ銅板どうばんき。「玄関げんかん座敷ざしき桁行けたゆき8.8メートル、梁間はりま8.5メートル、切妻きりづまづくりどう板葺いたぶきで、南面なんめん突出とっしゅつがあり、桁行けたゆき5.1メートル、梁間はりま7.0メートル、入母屋いりもやづくり、桟瓦葺かわらぶきとする。当家とうけ系図けいずによると、のべたから4ねん1676ねん)に家督かとくいだ3代目だいめ当主とうしゅのときにえをおこなっているところから、「店舗てんぽ製薬せいやくしょ台所だいどころ居間いま17世紀せいきすえ、「玄関げんかん座敷ざしきはややおくれて18世紀せいき前半ぜんはん建立こんりゅう推定すいていされる[5]

店舗てんぽ製薬せいやくしょ台所だいどころ居間いま街道かいどうめんし、ほそとおりにわ(土間どま)をはさんで、ひだりたたみきの「ひがしみせ」、みぎ板敷いたじきの「西にしみせ」がある。「西にしみせ」には木製もくせい動輪どうりん歯車はぐるま石臼いしうすからなる製薬せいやくのこる。動輪どうりん直径ちょっけい3.6メートルあり、このなか人間にんげんはいって回転かいてんさせると、その動力どうりょく石臼いしうすつたわる仕組しくみになっている。これは実演じつえん販売はんばいのはしりともわれている。「ひがしみせ」の正面しょうめんすり揚戸あげどすりあげど、「西にしみせ」のまえ板戸いたどみで、全面ぜんめん開放かいほうできるようになっている。なお、当初とうしょは「ひがしみせ」部分ぶぶん板戸いたどみであった。屋根やねうえはん本瓦ほんかわらしたはんが桟瓦でかれ、ひさしどう板葺いたぶきとなっている。ひさしだしが1.6メートルあり、腕木うできおくりでささえられている。「西にしみせ」のおく土間どまになり、「ひがしみせ」のおくは3れつ部屋へやもうけ、台所だいどころなど10しつがある[6]

ひがしみせ」のかってひだりひがし)にはくすりもん形式けいしき正門せいもん江戸えど時代じだい中期ちゅうき)がち、これをはいると千鳥ちどり破風はふかまえた「玄関げんかん座敷ざしきがある。「玄関げんかん座敷ざしきは、「店舗てんぽ製薬せいやくしょ台所だいどころ居間いま接続せつぞくしているが、家族かぞく居住きょじゅうようではなく、高貴こうき来客らいきゃくよう空間くうかんである。式台しきだい玄関げんかんはいると「玄関げんかんあいだ」(10じょう)がある。玄関げんかん正面しょうめん欄間らんまにはつるひさし浮彫うきぼり彫刻ちょうこくめる。そのおくみぎが8じょうゆかとこたなきの「座敷ざしき」、ひだりが6じょうの「つぎ」で、そのおくが10じょうゆかたな書院しょいんきの「上段じょうだんあいだ」である。「上段じょうだんあいだ」からえる、築山つきやまいけそなえた庭園ていえんくに名勝めいしょう指定していされている。明治天皇めいじてんのうは、明治めいじ元年がんねん1868ねん)、きょうから江戸えどかったさいと、明治めいじ3ねん1870ねん)、孝明天皇こうめいてんのうさん回忌かいきのため東京とうきょうから京都きょうとかったさいの2かいとう住宅じゅうたく休憩きゅうけいした。ほかにも太田おおたしょく山人さんじんシーボルトらの著名ちょめいじんおとずれたことがられる[7][8]

隠居いんきょしょ桁行けたゆき12.9メートル、梁間はりま7.0メートル。南面なんめん突出とっしゅつがあり、桁行けたゆき5.9メートル、梁間はりま6.9メートル、いずれも入母屋いりもやづくり、桟瓦葺かわらぶきとする。6じょうゆか書院しょいんき)、つぎ4じょうおくあいだふつあいだ台所だいどころ土間どまからなる。江戸えど中期ちゅうき建築けんちくとみられる[2]

文化財ぶんかざい

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くに史跡しせき

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くに名勝めいしょう

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重要じゅうよう文化財ぶんかざい

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  • 大角おおすみ住宅じゅうたく 3むね
    • おも 製薬せいやく一式いっしき
    • 正門せいもん りょうそでへい付属ふぞく
    • 隠居いんきょ いにしえ1まい
    • 古来こらい作事さくじ幷諸さとしちょう1さつ

以上いじょう1954ねん3がつ20日はつか指定してい。ただし、つけたり指定していの「いにしえ」と「古来ふるく作事さくじ幷諸さとしちょう」は1982ねん2がつ16にち追加ついか指定してい

上記じょうき指定してい名称めいしょう指定してい年月日ねんがっぴ文化財ぶんかざい目録もくろく滋賀しがけんサイト)による。

交通こうつうアクセス

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  • JR草津線くさつせん手原てはらえき
    • くりちゃんバス葉山はやま循環じゅんかんせんで8ふん。「きゅうちゅう本舗ほんぽ停留所ていりゅうじょ下車げしゃ
      • (※バスは平日へいじつのみ運行うんこう
    • どうえきより徒歩とほ25ふん

脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 高井たかいきよし民家みんか じょうあわ交社、2002ねんISBN 4-473-01947-0 
  • 鈴木すずき嘉吉よしきち監修かんしゅう; 宮澤みやざわさとし執筆しっぴつ日本にっぽん民家みんか万有ばんゆうガイドシリーズ30』小学館しょうがくかん、1985ねん 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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