本拠地 ほんきょち であるクリーブランド のプロ野球 やきゅう チームの歴史 れきし は、1860年代 ねんだい に創設 そうせつ された『フォレストシティ・ベース・ボール・クラブ』に遡 さかのぼ る。このチームは後 のち にセミプロ化 か し、1871年 ねん に創設 そうせつ された全米 ぜんべい プロ野球 やきゅう 選手 せんしゅ 協会 きょうかい (ナショナル・アソシエーション)のプロリーグに「クリーブランド・フォレストシティーズ 」として2年間 ねんかん 参加 さんか した。その後 ご ナショナルリーグ には、1879年 ねん から1884年 ねん までクリーブランド・ブルース というチームが、また1889年 ねん から1899年 ねん までクリーブランド・スパイダーズ というチームが所属 しょぞく して活動 かつどう した。
ブルースは、通算 つうさん 265勝 しょう を挙 あ げたジム・マコーミック を選手 せんしゅ 兼任 けんにん 監督 かんとく とし、まずまずの成績 せいせき を誇 ほこ っていた。しかし、1884年 ねん にユニオン・アソシエーション が創立 そうりつ された際 さい に主力 しゅりょく 選手 せんしゅ が移籍 いせき 、チームは一気 いっき に弱体 じゃくたい 化 か し、この年 とし 限 かぎ りで解散 かいさん した。一方 いっぽう のスパイダーズは、MLB最多 さいた の通算 つうさん 511勝 しょう を挙 あ げたサイ・ヤング がメジャーデビューした球団 きゅうだん として知 し られる。スパイダーズはヤングをはじめ多 おお くの優秀 ゆうしゅう な選手 せんしゅ を揃 そろ えたが、なかなか優勝 ゆうしょう に手 て が届 とど かなかった。1898年 ねん 、これに業 ごう を煮 に やしたオーナー達 たち が、同 どう リーグのセントルイス・ブラウンズ(現 げん :セントルイス・カージナルス )を買収 ばいしゅう し、パーフェクトズと改名 かいめい (1年 ねん 後 ご にカージナルスとなった)、ヤングをはじめとした選手 せんしゅ の大半 たいはん を移籍 いせき させた。この煽 あお りを受 う けたスパイダーズは、1899年 ねん を20勝 しょう 134敗 はい という成績 せいせき で終 お え、このシーズンを最後 さいご にチームは解散 かいさん した。
これらのチームがクリーブランドを本拠 ほんきょ としたが、今日 きょう のクリーブランド・ガーディアンズの起源 きげん は、全 まった く別 べつ であった。
ナップ・ラジョイ
1900年 ねん に当時 とうじ マイナー・リーグであったウエスタン・リーグ がアメリカン・リーグに改称 かいしょう した時 とき に、ミシガン州 しゅう グランドラピズを本拠地 ほんきょち としていたチームをクリーブランドに移転 いてん させたことでチームの歴史 れきし が始 はじ まった。翌 よく 1901年 ねん 、マイナー・リーグであったアメリカンリーグ がメジャー・リーグ宣言 せんげん すると、クリーブランド・ブルーバーズという名前 なまえ で、リーグ創設 そうせつ 以来 いらい の球団 きゅうだん となった。初年度 しょねんど の1901年 ねん こそ、54勝 しょう 78敗 はい と負 ま け越 こ し、リーグ7位 い で終 お わってしまったが、翌 よく 1902年 ねん にクリーブランド・ブロンコスと改 あらた め、そしてこのシーズン途中 とちゅう に、フィラデルフィア・アスレチックス(現 げん :オークランド・アスレチックス )からナップ・ラジョイ を獲得 かくとく した。ラジョイは期待 きたい にたがわぬ活躍 かつやく でチームを牽引 けんいん し、ファンから絶大 ぜつだい な人気 にんき を誇 ほこ った。この年 とし に一般 いっぱん 公募 こうぼ によって、チーム名 めい もクリーブランド・ナップスと改 あらた めて、1905年 ねん にはラジョイが選手 せんしゅ 兼任 けんにん 監督 かんとく に就任 しゅうにん し、文字通 もじどお りラジョイのチームとなった。
ラジョイは1903年 ねん 、1904年 ねん と2年 ねん 連続 れんぞく で首位 しゅい 打者 だしゃ を獲得 かくとく し、監督 かんとく を退 しりぞ いた後 のち の1910年 ねん には、タイ・カッブ が首位 しゅい 打者 だしゃ を獲得 かくとく したものの、打率 だりつ .384で打率 だりつ 1位 い を記録 きろく している(当時 とうじ の記録 きろく では、カッブがラジョイの打率 だりつ をわずかに上回 うわまわ っていたが、後 のち にカッブの記録 きろく の誤 あやま りが見 み つかり、カッブの打率 だりつ は.383となった。しかし公式 こうしき な首位 しゅい 打者 だしゃ はカッブのまま変更 へんこう はされなかった)。他 ほか にもアディ・ジョス やエルマー・フリック といった選手 せんしゅ が活躍 かつやく し、チームは勝 か ち越 こ しを続 つづ けるものの、なかなか優勝 ゆうしょう には手 て が届 とど かなかった。
1909年 ねん 、サイ・ヤングがクリーブランドに復帰 ふっき し、42歳 さい という高齢 こうれい にもかかわらず、防御 ぼうぎょ 率 りつ 2.26・19勝 しょう 15敗 はい という成績 せいせき を残 のこ した。翌 よく 1910年 ねん には、アスレチックスでくすぶっていたジョー・ジャクソン を獲得 かくとく 。1911年 ねん には打率 だりつ .408を記録 きろく し、1912年 ねん 、1913年 ねん と2年 ねん 連続 れんぞく で最多 さいた 安打 あんだ を放 はな った。しかし、この頃 ころ にはジョスの急死 きゅうし やヤングの移籍 いせき で投手 とうしゅ 陣 じん が脆弱 ぜいじゃく なものとなり、チームは更 さら に低迷 ていめい した。ついに1914年 ねん には、51勝 しょう 102敗 はい と大 おお きく負 ま け越 こ し最下位 さいかい になってしまった。翌 よく 1915年 ねん には、ラジョイが古巣 ふるす のフィラデルフィア・フィリーズ に復帰 ふっき し、1915年 ねん のシーズン途中 とちゅう には、ジャクソンがシカゴ・ホワイトソックス に移籍 いせき したことで、57勝 しょう 95敗 はい と2年 ねん 連続 れんぞく で大 おお きく負 ま け越 こ した。この年 とし には、チーム名 めい もクリーブランド・インディアンスに変 か わっている(この名前 なまえ の由来 ゆらい はMLB初 はつ のインディアン のプロ野球 やきゅう 選手 せんしゅ であり、1897年 ねん から1899年 ねん までスパイダーズで活躍 かつやく したルイス・ソカレキス に敬意 けいい を表 あらわ してつけられたといわれる[1] )。
1920年 ねん 当時 とうじ のインディアンスのメンバー
1916年 ねん 、マイナーで過 す ごしていたスタン・コベレスキ とジム・バグビー をメジャーに昇格 しょうかく させ、ボストン・レッドソックス からトリス・スピーカー を獲得 かくとく した。コベレスキとバグビーはチームの勝 か ち頭 あたま に成長 せいちょう し、スピーカーはこの年 とし 、打率 だりつ .388で首位 しゅい 打者 だしゃ を獲得 かくとく した。チームも次第 しだい に上昇 じょうしょう 気流 きりゅう に乗 の り、1919年 ねん のシーズン途中 とちゅう にはチームの中心 ちゅうしん 選手 せんしゅ だったスピーカーが選手 せんしゅ 兼任 けんにん 監督 かんとく に就任 しゅうにん する。
1920年 ねん にチームは首位 しゅい を快走 かいそう していたが、8月 がつ 16日 にち のニューヨーク・ヤンキース 戦 せん で悲劇 ひげき が起 お こる。ヤンキースの投手 とうしゅ カール・メイズ の投 とう じた球 たま が、当時 とうじ インディアンスの遊撃手 ゆうげきしゅ だったレイ・チャップマン の頭部 とうぶ を直撃 ちょくげき し、翌日 よくじつ チャップマンが死亡 しぼう してしまったのである。これはMLBにおいて、試合 しあい 中 ちゅう のプレーが原因 げんいん で死亡 しぼう した唯一 ゆいいつ の例 れい となり、その後 ご インディアンスの選手 せんしゅ 達 たち は喪章 もしょう をつけてプレーすることとなった。チャップマンが死亡 しぼう したことで、新人 しんじん のジョー・シーウェル が代役 だいやく としてレギュラーに定着 ていちゃく し、後 のち にシーウェルはMLB最高 さいこう のコンタクトヒッターと呼 よ ばれるまでに成長 せいちょう する。
シーズン終盤 しゅうばん 、ジョー・ジャクソンらが大審院 だいしんいん で証言 しょうげん を行 おこな い、前年 ぜんねん に起 お こったブラックソックス事件 じけん の話題 わだい が再燃 さいねん する中 なか 、インディアンスはヤンキースとホワイトソックスの追撃 ついげき を振 ふ り切 き り、初 はつ のリーグ優勝 ゆうしょう を飾 かざ った。ブルックリン・ロビンス(現 げん :ロサンゼルス・ドジャース )との対戦 たいせん となったワールドシリーズ では、5勝 しょう 2敗 はい でこれを下 くだ し、初 はつ のワールドシリーズ優勝 ゆうしょう を果 は たした。このシリーズではコベルスキが3試合 しあい に登板 とうばん し、全 すべ ての試合 しあい で完投 かんとう 勝利 しょうり を収 おさ め、ロビンスに合 あ わせて2点 てん しか与 あた えなかった。また二塁手 にるいしゅ のビル・ワムズガンス がワールドシリーズでは史上 しじょう 唯一 ゆいいつ の「無 む 補殺 ほさつ 三 さん 重 じゅう 殺 ころせ 」を成功 せいこう させている。
火 ひ の玉 たま 投手 とうしゅ と呼 よ ばれたボブ・フェラー(1936年 ねん )
1920年 ねん 以降 いこう は、ベーブ・ルース を擁 よう したヤンキースが台頭 たいとう し、インディアンスは優勝 ゆうしょう から遠 とお ざかることとなった。1920年代 ねんだい 中盤 ちゅうばん には、チームの要 よう であったスピーカーやコベルスキが続 つづ けてチームを離 はな れ、代 か わってチームの中心 ちゅうしん 選手 せんしゅ だったシーウェルも、1931年 ねん にヤンキースに移籍 いせき した。1929年 ねん にアール・アベリル が27歳 さい という遅咲 おそざ きでメジャーデビューする。アベリルはデビュー以来 いらい 、6年 ねん 連続 れんぞく で3割 わり を記録 きろく し、1936年 ねん には打率 だりつ .378と高 こう 打率 だりつ を記録 きろく するなど、好成績 こうせいせき を残 のこ した。しかし、アベリルは優勝 ゆうしょう とは縁 えん がないままチームを離 はな れることとなった。1930年代 ねんだい に入 はい ると、勝 か ち越 こ してシーズンは終 お えるものの、優勝 ゆうしょう 争 あらそ いにはほとんど絡 から むことができず、3位 い や4位 い が定 てい 位置 いち となった。
そんな中 なか 、1936年 ねん にボブ・フェラー が17歳 さい でメジャーデビューする。アイダホ州 しゅう の農場 のうじょう に生 う まれ、野球 やきゅう 好 す きの父親 ちちおや からピッチングを教 おそ わって育 そだ ったフェラーの才能 さいのう をインディアンスが見出 みいだ したものだった。フェラーは、デビュー戦 せん でいきなり1試合 しあい 15奪 だつ 三振 さんしん を記録 きろく すると、次 つぎ の試合 しあい でも17奪 だつ 三振 さんしん を記録 きろく し、デビュー当初 とうしょ からその才能 さいのう を遺憾 いかん なく発揮 はっき した。1938年 ねん からは先発 せんぱつ レギュラーに定着 ていちゃく し、1941年 ねん までの4年間 ねんかん で最多 さいた 奪 だつ 三振 さんしん 4回 かい 、最多 さいた 勝利 しょうり 3回 かい 、最優秀 さいゆうしゅう 防御 ぼうぎょ 率 りつ 1回 かい を受賞 じゅしょう するなど、リーグを代表 だいひょう する投手 とうしゅ に成長 せいちょう する。しかし1941年 ねん に太平洋戦争 たいへいようせんそう が始 はじ まると、フェラーは兵役 へいえき に就 つ き、1945年 ねん の終戦 しゅうせん までチームを離 はな れることとなった。
ミュニシパル・スタジアム
1946年 ねん にビル・ベック がチームのオーナーとなり、数々 かずかず のチーム改革 かいかく を実践 じっせん する。ベックは他 ほか にもリグレー・フィールド の外野 がいや フェンスのツタ を考案 こうあん するなど、様々 さまざま なアイデアでチーム改革 かいかく を行 おこな うオーナーとして有名 ゆうめい だった。ベックは、それまで併用 へいよう していたリーグ・パーク での試合 しあい を辞 や め、本拠地 ほんきょち 球場 きゅうじょう をミュニシパル・スタジアム に一本 いっぽん 化 か した。また、ミュニシパル・スタジアムの改修 かいしゅう にも務 つと め、女性 じょせい 客 きゃく を取 と り込 こ むために、託児 たくじ 所 しょ を設 もう けて保育 ほいく 士 し を雇 やと ったり、女性 じょせい トイレを清潔 せいけつ に保 たも つようにした。こうした努力 どりょく が実 みの り、万 まん 年 ねん 中位 ちゅうい や戦争 せんそう の影響 えいきょう で観客 かんきゃく 数 すう が減 へ っていたインディアンスは、飛躍 ひやく 的 てき に観客 かんきゃく 数 すう を伸 の ばすこととなった(1948年 ねん にはリーグ新 しん 記録 きろく となる262万 まん 人 にん を動員 どういん する)。
1942年 ねん にはインディアンスの遊撃手 ゆうげきしゅ だったルー・ブードロー が監督 かんとく 兼任 けんにん を志願 しがん し、MLB最年少 さいねんしょう となる24歳 さい で選手 せんしゅ 兼任 けんにん 監督 かんとく に就任 しゅうにん する。ブードローは選手 せんしゅ と監督 かんとく という二 に 足 そく の草鞋 わらじ を見事 みごと に履 は きこなし、選手 せんしゅ としては1944年 ねん に首位 しゅい 打者 だしゃ を獲得 かくとく 、監督 かんとく としてはブードロー・シフトを考案 こうあん するなど奇抜 きばつ なアイデアを駆使 くし してチームを率 ひき いた。1946年 ねん に復帰 ふっき したフェラーが最多 さいた 勝 しょう と最多 さいた 奪 だつ 三振 さんしん を獲得 かくとく し、変 か わらぬ健在 けんざい ぶりを示 しめ すと、野手 やしゅ だったボブ・レモン も投手 とうしゅ として4勝 しょう を挙 あ げ、その片鱗 へんりん を見 み せ始 はじ める。また1947年 ねん のシーズン途中 とちゅう には、同年 どうねん にメジャーデビューしていたジャッキー・ロビンソン に続 つづ き、ラリー・ドビー が戦後 せんご 2人 にん 目 め のアフリカ系 けい アメリカ人 じん プレイヤーとしてメジャーデビューするなど、チームの戦力 せんりょく も充実 じゅうじつ する。
サッチェル・ペイジ(1949年 ねん )
1948年 ねん に上記 じょうき の選手 せんしゅ がフル稼働 かどう し、シーズン序盤 じょばん から激 はげ しい首位 しゅい 争 あらそ いを演 えん じた。シーズン途中 とちゅう には、ニグロリーグ で長年 ながねん プレーしたサチェル・ペイジ が、42歳 さい という史上 しじょう 最 さい 高齢 こうれい 新人 しんじん 投手 とうしゅ としてメジャーデビューする。ペイジはデビュー戦 せん を完封 かんぷう 勝利 しょうり で飾 かざ り、シーズンでは6勝 しょう をあげる活躍 かつやく でチームに貢献 こうけん した。最終 さいしゅう 的 てき に96勝 しょう 58敗 はい でボストン・レッドソックス と同率 どうりつ 首位 しゅい に並 なら び、ワンゲームプレイオフ が行 おこな われることとなった。この試合 しあい では、監督 かんとく で内野 ないや 手 しゅ であったルー・ブードロー が2本塁打 ほんるいだ を含 ふく む4打数 だすう 4安打 あんだ の活躍 かつやく をみせ、8対 たい 3でレッドソックスを下 くだ し、2度目 どめ のリーグ優勝 ゆうしょう を果 は たした。
続 つづ くワールドシリーズ では、ボストン・ブレーブス(現 げん :アトランタ・ブレーブス )と対戦 たいせん 。このシリーズは、インディアンスのフェラー、レモンに対 たい して、ブレーブスはウォーレン・スパーン 、ジョニー・セイン という左右 さゆう のエースを抱 かか えており、それぞれのエース同士 どうし の対戦 たいせん でもあった。第 だい 1戦 せん ではフェラーとセインが投 な げ合 あ い、どちらも7回 かい まで0点 てん に抑 おさ える好投 こうとう をみせたが、結局 けっきょく 1対 たい 0でセインが投 な げ勝 か ち、ブレーブスが勝利 しょうり を収 おさ めた。続 つづ く第 だい 2戦 せん ではレモンとスパーンが対戦 たいせん 、5回 かい にスパーンが崩 くず れ、4対 たい 1でインディアンスが勝利 しょうり した。第 だい 3戦 せん 、第 だい 4戦 せん とインディアンスが連勝 れんしょう し、第 だい 5戦 せん ではブレーブスが一矢 いっし 報 むく いた。3勝 しょう 2敗 はい で迎 むか えた第 だい 6戦 せん では、レモンが7回 かい まで1点 てん に抑 おさ える好投 こうとう でブレーブスを下 くだ し、インディアンスが28年 ねん ぶり2度目 どめ のワールドチャンピオンに輝 かがや いた。
1951年 ねん にはブードローに代 か わり、アル・ロペス が監督 かんとく に就任 しゅうにん 。この頃 ころ には再 ふたた びヤンキースが黄金 おうごん 期 き を迎 むか え、インディアンスは優勝 ゆうしょう から遠 とお ざかることとなった。戦力 せんりょく 的 てき にはヤンキースとほとんど遜色 そんしょく なかったが、優勝 ゆうしょう にはいま一 いち 歩 ほ 及 およ ばず、特 とく に1951年 ねん から1953年 ねん までは3年 ねん 連続 れんぞく でヤンキースに次 つ ぐ2位 い に甘 あま んじてしまった。1954年 ねん にはレモンとアーリー・ウィン が23勝 しょう をあげて共 とも に最多 さいた 勝 しょう 、打撃 だげき 陣 じん ではラリー・ドビー が32本塁打 ほんるいだ ・116打点 だてん で二 に 冠 かん 王 おう 、ボビー・アビラ が打率 だりつ .341で首位 しゅい 打者 だしゃ を獲得 かくとく 。主要 しゅよう 個人 こじん タイトルをインディアンスの選手 せんしゅ がほぼ独占 どくせん する形 かたち となり、チームは111勝 しょう 43敗 はい 、勝率 しょうりつ .721という圧倒的 あっとうてき な成績 せいせき で、3度目 どめ のリーグ優勝 ゆうしょう を遂 と げた。しかし、ワールドシリーズ では、ニューヨーク・ジャイアンツ(現 げん :サンフランシスコ・ジャイアンツ )に4連敗 れんぱい を喫 きっ してしまった(このシリーズではウィリー・メイズ の「ザ・キャッチ」と呼 よ ばれる伝説 でんせつ 的 てき なプレーもあった)。以降 いこう 、インディアンスは40年 ねん 余 あま りに渡 わた ってワールドシリーズに進出 しんしゅつ できなかった。
1960年代 ねんだい に入 はい ると、インディアンスの低迷 ていめい は一層 いっそう 深刻 しんこく なものとなった。1960年 ねん から1993年 ねん までの33年間 ねんかん で3位 い 以上 いじょう になったのは、1968年 ねん のわずか1回 かい のみで、他 た は全 すべ て4位 い 以下 いか でシーズンを終 お えた。シーズン途中 とちゅう の監督 かんとく の解任 かいにん 劇 げき は毎年 まいとし のように行 おこな われ、それでも状況 じょうきょう が改善 かいぜん されることはほとんどなかった。1969年 ねん には地区 ちく 制 せい が導入 どうにゅう され、インディアンスは東 ひがし 地区 ちく に所属 しょぞく することとなったが、チームは弱 よわ いままで、むしろ成績 せいせき は下 さ がる一方 いっぽう だった。1975年 ねん にはフランク・ロビンソン が選手 せんしゅ 兼任 けんにん 監督 かんとく に就任 しゅうにん 。アフリカ系 けい アメリカ人 じん 初 はつ のMLB監督 かんとく となったが、結果 けっか を残 のこ せず、1977年 ねん のシーズン途中 とちゅう で監督 かんとく を解任 かいにん された。そんなチームの惨状 さんじょう に目 め をつけたのが、映画 えいが 『メジャーリーグ 』だった。1989年 ねん に公開 こうかい されたこの映画 えいが は、後 のち に続編 ぞくへん も作 つく られるほど大 だい ヒットし、低迷 ていめい していたインディアンスの観客 かんきゃく 数 すう の回復 かいふく に一役 ひとやく 買 か ったとされる。しかし映画 えいが と同様 どうよう にインディアンスが優勝 ゆうしょう に近 ちか づくには、あと数 すう 年 ねん は待 ま たなければならなかった。
プログレッシブ・フィールド
チームの黄金 おうごん 期 き は1990年代 ねんだい 後半 こうはん に訪 おとず れる。1991年 ねん にマイク・ハーグローヴ が監督 かんとく に就任 しゅうにん 。そしてこの頃 ころ からアルバート・ベル 、ケニー・ロフトン 、ジム・トーミ 、マニー・ラミレス といった若手 わかて 選手 せんしゅ が台頭 たいとう し始 はじ める。
1994年 ねん に3地区 ちく 制 せい が導入 どうにゅう されると、インディアンスはアメリカンリーグ中 ちゅう 地区 ちく に移動 いどう し、老朽 ろうきゅう 化 か が進 すす んだミュニシパル・スタジアムからジェイコブス・フィールド(現 げん :プログレッシブ・フィールド )に本拠地 ほんきょち を移 うつ す。シーズンでは1994年 ねん から1995年 ねん のMLBストライキ でシーズンが中断 ちゅうだん されるまで、首位 しゅい のホワイトソックスに1ゲーム差 さ の2位 い という好 こう 位置 いち を維持 いじ した。
1995年 ねん は開幕 かいまく から他 た チームを圧倒 あっとう し、2位 い とは30ゲーム差 さ の100勝 しょう 44敗 はい で地区 ちく 優勝 ゆうしょう を遂 と げる。この年 とし には主砲 しゅほう のベルが50本塁打 ほんるいだ ・126打点 だてん の活躍 かつやく で二 に 冠 かん 王 おう を獲得 かくとく し、リードオフマンのロフトンも54盗塁 とうるい で盗塁 とうるい 王 おう を獲得 かくとく するなどの活躍 かつやく をみせた。ディビジョンシリーズ ではレッドソックスを3連勝 れんしょう で一蹴 いっしゅう すると、続 つづ くリーグチャンピオンシップシリーズ では、シアトル・マリナーズ を4勝 しょう 2敗 はい で下 くだ し、41年 ねん ぶりのリーグ優勝 ゆうしょう を果 は たした。奇 く しくも前回 ぜんかい と同 おな じブレーブスとの対戦 たいせん となったワールドシリーズ では2勝 しょう 4敗 はい で敗 やぶ れ、2度目 どめ のワールドシリーズ優勝 ゆうしょう とはならなかった。
1996年 ねん は、ベル(48本 ほん )、トーミ(38本 ほん )、ラミレス(33本 ほん )による前年 ぜんねん 以上 いじょう の強力 きょうりょく なクリーンナップを形成 けいせい し、99勝 しょう 62敗 はい と2年 ねん 連続 れんぞく で地区 ちく 優勝 ゆうしょう を遂 と げたが、ディビジョンシリーズでボルチモア・オリオールズ に敗 やぶ れた。1997年 ねん 限 かぎ りでベルが退団 たいだん すると、代 か わりにマット・ウィリアムズ 、デビッド・ジャスティス を獲得 かくとく 。ベルの抜 ぬ けた穴 あな を補 おぎな って余 あま りある活躍 かつやく をみせ、3年 ねん 連続 れんぞく の地区 ちく 優勝 ゆうしょう を果 は たした。ディビジョンシリーズでは3勝 しょう 2敗 はい でヤンキースとの激闘 げきとう を制 せい し、続 つづ くリーグチャンピオンシップシリーズではオリオールズを4勝 しょう 2敗 はい で下 くだ してリーグ優勝 ゆうしょう を決 き めた。ワールドシリーズ ではフロリダ・マーリンズ との対戦 たいせん となり、最終 さいしゅう 戦 せん の延長 えんちょう までもつれ込 こ む大 だい 熱戦 ねっせん となったが、結局 けっきょく 第 だい 7戦 せん の延長 えんちょう 11回 かい にサヨナラ負 ま けを喫 きっ し、またしてもワールドシリーズ優勝 ゆうしょう はならなかった。
1998年 ねん 、1999年 ねん も地区 ちく 優勝 ゆうしょう を果 は たすが、いずれもプレーオフで敗 やぶ れ(1998年 ねん はヤンキース、1999年 ねん はレッドソックスと対戦 たいせん )、リーグ優勝 ゆうしょう はならなかった。なおこの間 あいだ 、本拠地 ほんきょち ジェイコブス・フィールドでは満員 まんいん 御礼 おれい の試合 しあい が続 つづ き、1995年 ねん 6月 がつ 12日 にち から2001年 ねん 4月 がつ 4日 にち まで、「455試合 しあい 連続 れんぞく 入場 にゅうじょう 券売 けんばい 切 き れ」という記録 きろく を作 つく っている。
2000年 ねん にはハーグローヴに代 か わり、打撃 だげき コーチだったチャーリー・マニエル が監督 かんとく に就任 しゅうにん 。
2001年 ねん には地区 ちく 優勝 ゆうしょう を果 は たす。しかしディビジョンシリーズで、この年 とし デビューしたイチロー 擁 よう するシアトル・マリナーズ に敗退 はいたい 。
2002年 ねん には大 おお きく負 ま け越 こ したため、マニエルはシーズン途中 とちゅう で解任 かいにん された。この頃 ころ にはチームの主砲 しゅほう であるラミレス、トーミが相次 あいつ いで移籍 いせき し、彼 かれ らに代 か わる若手 わかて 選手 せんしゅ の育成 いくせい に力 ちから を注 そそ ぐこととなった。主力 しゅりょく 選手 せんしゅ が抜 ぬ けた穴 あな は大 おお きく、2002年 ねん からは3年 ねん 連続 れんぞく で勝率 しょうりつ 5割 わり を切 き るシーズンが続 つづ いたが、生 は え抜 ぬ きのC.C.サバシア やビクター・マルティネス 、2003年 ねん にテキサス・レンジャーズ から移籍 いせき したトラビス・ハフナー といった若手 わかて 選手 せんしゅ も着実 ちゃくじつ に力 ちから を伸 の ばした。
2005年 ねん は上記 じょうき 選手 せんしゅ に加 くわ え、クリフ・リー やグレイディ・サイズモア の活躍 かつやく もあり、ホワイトソックスと首位 しゅい 争 あらそ いを繰 く り広 ひろ げた。しかし最終 さいしゅう 的 てき に93勝 しょう 69敗 はい で地区 ちく 2位 い となり、ワイルドカード 争 あらそ いでもレッドソックスに敗 やぶ れる形 かたち となった(この年 とし にはホワイトソックスが88年 ねん ぶりとなるワールドシリーズ 制覇 せいは を成 な し遂 と げ、これによって中 ちゅう 地区 ちく ではインディアンスが最 もっと もワールドチャンピオンから遠 とお ざかっているチームとなった)。
2006年 ねん は78勝 しょう 84敗 はい と負 ま け越 こ し、優勝 ゆうしょう 争 あらそ いに加 くわ わることなくシーズンを終 お えている。
2007年 ねん は開幕 かいまく から首位 しゅい を走 はし り、シーズン中盤 ちゅうばん には独走 どくそう 態勢 たいせい をとった。投手 とうしゅ 陣 じん ではエースのサバシアと2年 ねん 目 め のファウスト・カルモナ が共 とも に19勝 しょう をあげる活躍 かつやく をみせ、打撃 だげき 陣 じん では30本塁打 ほんるいだ 以上 いじょう を放 はな った選手 せんしゅ はいなかったものの、マルティネスを中軸 ちゅうじく として効果 こうか 的 てき に得点 とくてん を重 かさ ねた。またシーズン途中 とちゅう に復帰 ふっき したロフトンも、シーズン終盤 しゅうばん に足踏 あしぶ みしたチームの中 なか で大 おお きな存在 そんざい となった。そして最終 さいしゅう 的 てき に96勝 しょう をあげ、6年 ねん ぶりに地区 ちく 優勝 ゆうしょう を果 は たした。しかしリーグチャンピオンシップシリーズではレッドソックスを3勝 しょう 1敗 はい と追 お い込 こ むものの、そこから3連敗 れんぱい を喫 きっ してしまい、リーグ優勝 ゆうしょう はならなかった。
2008年 ねん はチーム状態 じょうたい のなにが悪 わる いのか評論 ひょうろん 家 か も頭 あたま をひねるほどの悪循環 あくじゅんかん にはまった。この年 とし のサイ・ヤング賞 しょう を受賞 じゅしょう したクリフ・リーがひとり気 き を吐 は く状態 じょうたい が続 つづ き、勝率 しょうりつ 5割 わり をキープするのがやっとで夏 なつ 前 まえ にはシーズンを諦 あきら めなくてはならない状態 じょうたい であった。
2009年 ねん の前 ぜん 評判 ひょうばん ではア・リーグ中 ちゅう 地区 ちく の優勝 ゆうしょう 候補 こうほ とする評論 ひょうろん 家 か も多 おお く存在 そんざい していたが[5] [6] 、開幕 かいまく 5連敗 れんぱい を喫 きっ した後 のち は主力 しゅりょく に怪我 けが が相次 あいつ ぎ、早々 そうそう にシーズンを諦 あきら めてトレードでクリフ・リー、ビクター・マルティネスらの主力 しゅりょく を放出 ほうしゅつ することになった。9月には11連敗 れんぱい を喫 きっ し、カンザスシティ・ロイヤルズ と並 なら んでア・リーグ中 ちゅう 地区 ちく 最下位 さいかい という2000年代 ねんだい 最悪 さいあく の成績 せいせき に終 お わった。
2010年 ねん は若 わか い選手 せんしゅ に育成 いくせい を軸 じく に再建 さいけん を行 おこな ったが、オールスター前 まえ に脱落 だつらく 。抑 おさ えのケリー・ウッド 、エースのジェイク・ウェストブルック を放出 ほうしゅつ し、最下位 さいかい にはならなかったが、地区 ちく 4位 い に終 お わった。
2011年 ねん はこれまで主 おも にショートを守 まも ったオーランド・カブレラ をセカンドとして加 くわ え、守備 しゅび の強化 きょうか に成功 せいこう すると、若 わか い投手 とうしゅ 陣 じん を軸 じく に快 かい 進撃 しんげき を進 すす め、首位 しゅい を独走 どくそう するも長丁場 ながちょうば を戦 たたか った経験 けいけん のない若手 わかて が徐々 じょじょ にブレーキ。福留 ふくとめ 孝介 こうすけ 、ウバルド・ヒメネス 、かつての主砲 しゅほう ・トーミを加 くわ えて有望 ゆうぼう 株 かぶ 6人 にん 近 ちか く出 だ す大 だい 出血 しゅっけつ トレードで勝負 しょうぶ を賭 か けるも、二塁 にるい を守 まも ったカブレラが移籍 いせき をすると大 だい 失速 しっそく 。若手 わかて の成長 せいちょう もあって80勝 しょう するも負 ま け越 こ し、地区 ちく 2位 い に終 お わった。
2012年 ねん は先発 せんぱつ 投手 とうしゅ 陣 じん を整備 せいび し勝負 しょうぶ を賭 か けたが、逆 ぎゃく に先発 せんぱつ 陣 じん が完全 かんぜん 崩壊 ほうかい したのに続 つづ き、ブルペンも崩壊 ほうかい 。打線 だせん も貧打 ひんだ に陥 おちい り、地区 ちく 4位 い に終 お わった。
2013年 ねん はボストン・レッドソックス の前 ぜん 監督 かんとく だったテリー・フランコーナ が監督 かんとく に就任 しゅうにん 。チーム最高 さいこう 年俸 ねんぽう だったハフナーの退団 たいだん によって浮 う いた資金 しきん を使 つか ってニック・スウィッシャー 、マーク・レイノルズ 、マイケル・ボーン 、ブレット・マイヤーズ 、ジェイソン・ジアンビ 、トレードで超 ちょう 有望 ゆうぼう 株 かぶ トレバー・バウアー の獲得 かくとく に成功 せいこう し優勝 ゆうしょう を狙 ねら える陣形 じんけい を整 ととの えた。
2016年 ねん はシーズンに開幕 かいまく から快 かい 進撃 しんげき を続 つづ け、フランコーナ監督 かんとく の確実 かくじつ に点 てん を取 と る野球 やきゅう でリーグ3位 い の31犠打 ぎだ とリーグ最多 さいた の60犠飛 ぎひ を記録 きろく 。アメリカンリーグ2連覇 れんぱ 中 ちゅう のロイヤルズのお株 かぶ を奪 うば うリーグ最多 さいた の134盗塁 とうるい と機動 きどう 力 りょく も身 み に着 つ け、7月 がつ に世代 せだい 交代 こうたい を敢行 かんこう していたヤンキースからアンドリュー・ミラー を獲得 かくとく すると、リリーフ防御 ぼうぎょ 率 りつ がリーグ1位 い の3.32とリリーフ陣 じん も安定 あんてい 。9年 ねん ぶりの地区 ちく 優勝 ゆうしょう を果 は たした。ディビジョンシリーズ では東 ひがし 地区 ちく 優勝 ゆうしょう のボストン・レッドソックスを3連勝 れんしょう でスイープし、ALCS ではワイルドカードのトロント・ブルージェイズ を4勝 しょう 1敗 はい で破 やぶ り、1997年 ねん 以来 いらい 19年 ねん ぶり6度目 どめ のリーグ優勝 ゆうしょう となった[7] 。とくにミラーがすべてイニングまたぎの登板 とうばん ながら無 む 失点 しってん に抑 おさ え、リリーフとしては史上 しじょう 4人 にん 目 め の投手 とうしゅ となった。しかし、迎 むか えたシカゴ・カブス との顔合 かおあ わせとなったワールドシリーズ では、3勝 しょう 1敗 はい と先 さき にワールドシリーズ優勝 ゆうしょう に王手 おうて をかけたところから3連敗 れんぱい を喫 きっ し、またしてもワールドシリーズ優勝 ゆうしょう を果 は たすことはできなかった。カブスの優勝 ゆうしょう によって両 りょう リーグでワールドシリーズ優勝 ゆうしょう から最 もっと も遠 とお ざかっているチームとなった。
2017年 ねん 8月 がつ 24日 にち のレッドソックス戦 せん から勝 か ちを積 つ み重 かさ ね9月 がつ 13日 にち のタイガース戦 せん においてアメリカンリーグ新 しん 記録 きろく となる21連勝 れんしょう を記録 きろく [8] 。9月14日 にち にはアメリカンリーグ連勝 れんしょう 記録 きろく を22連勝 れんしょう に更新 こうしん すると同時 どうじ に、1935年 ねん のシカゴ・カブスを越 こ えるMLB新 しん 記録 きろく となる「22連勝 れんしょう 」を記録 きろく した[9] 。しかし、迎 むか えたポストシーズンでは、ヤンキースに2連勝 れんしょう と先 さき にALCS 進出 しんしゅつ に王手 おうて をかけた状況 じょうきょう から3連敗 れんぱい を喫 きっ して敗退 はいたい 。2年 ねん 連続 れんぞく のリーグ優勝 ゆうしょう を果 は たすことはできなかった。
2018年 ねん も抜群 ばつぐん の安定 あんてい 感 かん を見 み せ、2位 い に13.0差 さ をつけて地区 ちく 優勝 ゆうしょう を決 き めた。しかしポストシーズンでは、ディビジョン シリーズでヒューストン・アストロズ にスイープされて敗退 はいたい した。
2019年 ねん は3ゲーム差 さ でタンパベイ・レイズ にワイルドカード2位 い の座 ざ を奪 うば われた。
2020年 ねん はCOVID-19の影響 えいきょう で60試合 しあい の短縮 たんしゅく シーズンとなる中 なか 、35勝 しょう 25敗 はい を残 のこ し、アメリカンリーグ中 ちゅう 地区 ちく でミネソタ・ツインズ に次 つ ぐ2位 い に位置 いち し、ワイルドカードでプレーオフに進 すす んだ。プレーオフではニューヨーク・ヤンキース に2敗 はい を喫 きっ し、敗退 はいたい 。オフの12月13日 にち にポリティカル・コレクトネス対策 たいさく として2021年 ねん シーズン後 ご にチーム名 めい を変更 へんこう することが発表 はっぴょう され、オーナーのポール・ドーラン はチーム名 めい の変更 へんこう についてインタビューで「2021年 ねん はまだインディアンスだよ。これから私 わたし たちは新 あたら しいチーム名 めい を考 かんが えるが、街 まち に相応 ふさわ しい名前 なまえ にするのは困難 こんなん で複雑 ふくざつ な道 みち のりだよ。できるだけ迅速 じんそく にチーム名 めい の変更 へんこう に向 む かって行動 こうどう していくが、変更 へんこう までには必要 ひつよう な時間 じかん がある」とコメントした[10] 。
2021年 ねん 7月 がつ 23日 にち に、2022年 ねん シーズンからチーム名 めい を「ガーディアンズ 」に変更 へんこう することが球団 きゅうだん から発表 はっぴょう された[2] 。9月2日 にち にチームからエマヌエル・クラセ がリリーバー・オブ・ザ・マンスを受賞 じゅしょう した[11] 。9月11日 にち のブルワーズ戦 せん でノーヒットノーランを喫 きっ し、MLB史上 しじょう 初 はじ めてシーズン3度 ど のノーヒットノーランをされたチームとなった[12] 。オフの11月18日 にち に正式 せいしき にチーム名 めい が変更 へんこう された[13] 。