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ジェイムズ・ジョイス - Wikipedia

ジェイムズ・ジョイス

アイルランドの小説しょうせつ詩人しじん

ジェイムズ・オーガスティン・アロイジアス・ジョイス(James Augustine Aloysius Joyce、1882ねん2がつ2にち1941ねん1がつ13にち)は、20世紀せいきもっと重要じゅうよう作家さっか1人ひとり評価ひょうかされるアイルランド出身しゅっしん小説しょうせつ詩人しじん画期的かっきてき小説しょうせつユリシーズ』(1922ねん)がもっともよくられており、主要しゅよう作品さくひんにはたん編集へんしゅうダブリン市民しみん』(1914ねん)、『わか芸術げいじゅつ肖像しょうぞう』(1916ねん)、『フィネガンズ・ウェイク』(1939ねん)などがある。

ジェイムズ・ジョイス
James Joyce
チューリッヒでのジョイス(1918ねんごろ
誕生たんじょう ジェイムズ・オーガスティン・アロイジアス・ジョイス
(1882-02-02) 1882ねん2がつ2にち
イギリスの旗 連合れんごう王国おうこくげんアイルランドの旗 アイルランド)、ダブリンラスガー
死没しぼつ (1941-01-13) 1941ねん1がつ13にち(58さいぼつ
スイスの旗 スイスチューリッヒ
職業しょくぎょう 小説しょうせつ詩人しじん
文学ぶんがく活動かつどう モダニズム
代表だいひょうさくダブリン市民しみん』(1914ねん
わか芸術げいじゅつ肖像しょうぞう』(1916ねん
ユリシーズ』(1922ねん
フィネガンズ・ウェイク』(1939ねん
署名しょめい
ウィキポータル 文学ぶんがく
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ジョイスは青年せいねん以降いこう生涯しょうがい大半たいはん国外こくがいついやしているが、ジョイスのすべての小説しょうせつ舞台ぶたいやその主題しゅだいおおくがアイルランドでの経験けいけん基礎きそにおいている。かれ作品さくひん世界せかいダブリン根差ねざしており、家庭かてい生活せいかつ学生がくせい時代じだいのできごとや友人ゆうじん(およびてき)が反映はんえいされている。そのため、英語えいごけんのあらゆる偉大いだいモダニストのうちでも、ジョイスはもっとコスモポリタンてきであると同時どうじもっともローカルな作家さっかという特異とくい位置いちめることとなった。

生涯しょうがい

編集へんしゅう

ダブリン時代じだい(1882ねん - 1904ねん

編集へんしゅう

ジェイムズ・ジョイスは1882ねんにダブリンのみなみのラスガーという富裕ふゆう地域ちいき没落ぼつらくしてゆく中流ちゅうりゅうカトリック家庭かていに、10にん兄弟きょうだい長男ちょうなんとしてまれた(ほかにも2にん兄弟きょうだいがいたがちょうチフスくなっている)。ははメアリ・ジェーン・ジョイス(旧姓きゅうせいマリー 1859〜1903)は敬虔けいけんなカトリック信者しんじゃで、ちちジョン・スタニスロース・ジョイス(1849〜1931)はコークけん出身しゅっしんで、小規模しょうきぼしお石灰せっかい製造せいぞうぎょういとなむ、声楽せいがく冗談じょうだんこの陽気ようきおとこであった。ジョイス先祖せんぞとなった人物じんぶつコネマラ石工せっこうだったが、ちちジョンと父方ちちかた祖父そふジェイムズ(1811〜66)はいずれも裕福ゆうふくいえ婚姻こんいん関係かんけいむすんだ。1887ねんにジョンはダブリン市役所しやくしょ徴税ちょうぜいじん任命にんめいされ、家族かぞくブレイ郊外こうがい新興しんこう住宅じゅうたくした(そのジョイス経済けいざいてき困窮こんきゅうして幾度いくどにもわたる引越ひっこしを余儀よぎなくされたため、生家せいか現存げんそんせず、ジェイムズ・ジョイス・センター、ジェイムズ・ジョイス記念きねんかんはそれぞれべつ場所ばしょてられている)。このころジョイスはいぬまれて生涯しょうがいにわたるいぬぎらいとなった。にジョイスの苦手にがてなものとしては、敬虔けいけん叔母おばに「あれは神様かみさまがおいかりになっているしるしだよ」と説明せつめいされて以来いらいおそれるようになった雷雨らいうなどがられている。

 
6さい(1888ねん)

1891ねん、アイルランドの政治せいじ指導しどうしゃちちジョンも熱烈ねつれつ支持しじしていた「王冠おうかんなき国王こくおうC・S・パーネルさいして、当時とうじ9さいのジョイスは「ヒーリーよ、おまえもか」("Et Tu, Healy?")とだいしたいた(ティモシー・ヒーリーはパーネルを裏切うらぎ政治せいじ生命せいめいった人物じんぶつ)。ジョンはこれを印刷いんさつし、バチカン図書館としょかんにコピーをおくりさえした。同年どうねん11がつ、ジョンは破産はさん宣告せんこくけて休職きゅうしょく1893ねんには年金ねんきん給付きゅうふうえ解雇かいこされた。このいちけんからジョンは酒浸さけびたりになり、経済けいざい感覚かんかく摩耗まもうもあいまって一家いっか貧困ひんこんへのみちをたどりはじめることとなる。

ジョイスは1888ねんからキルデアけん全寮ぜんりょうせい学校がっこうクロンゴウズ・ウッド・カレッジ教育きょういくけたが、ちち破産はさんにより学費がくひはらえなくなったため1892ねんには退校たいこうせざるをえなかった。自宅じたくやダブリンのノース・リッチモンド・ストリートにあるカトリック教区きょうく学校がっこうクリスチャン・ブラザーズ・スクールでしばらくまなんだのち、1893ねんにダブリンでイエズスかい経営けいえいする学校がっこうベルベディア・カレッジ招聘しょうへいされてせきく。ジョイスが聖職せいしょくしゃとなることを期待きたいしての招待しょうたいであったが、ジョイスはそれ以上いじょう、カトリックの信仰しんこうふかめることはなかった(ただし、ジョイスの小説しょうせつやエッセイにおいては"Epiphany"や"Jesuit"などのカトリックの用語ようご頻出ひんしゅつし、カトリック神学しんがくしゃトマス・アクィナス哲学てつがくもジョイスの生涯しょうがいつうじてつよ影響えいきょうをもちつづけた)。

1898ねん、ジョイスは設立せつりつされてまもないユニバーシティ・カレッジ・ダブリン入学にゅうがくし、現代げんだいとく英語えいごフランス語ふらんすごイタリアまなび、有能ゆうのうさを発揮はっきした。また、ダブリンの演劇えんげき文学ぶんがくのサークルにも活発かっぱつ参加さんかし、『隔週かくしゅう評論ひょうろんイプセン戯曲ぎきょく『わたしたちんだものが目覚めざめたら』("Når vi døde vågner"1899ねん)の書評しょひょう「イプセンのあたらしい演劇えんげき」("Ibsen's New Drama")を発表はっぴょうしたりなどした。この書評しょひょうはジョイスの最初さいしょ活字かつじとなった作品さくひんであり、ノルウェーでこれをんだイプセン本人ほんにんから感謝かんしゃ手紙てがみとどけられている。この時期じきのジョイスはほかにもいくつかの記事きじすくなくとも2ほん戯曲ぎきょくいているが、戯曲ぎきょく現存げんそんしていない。また、こうした文学ぶんがくサークルでの活動かつどうをきっかけとして1902ねんにはアイルランドじん作家さっかW・B・イェイツとの交友こうゆううまれている。ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンでの友人ゆうじんたちのおおくはのちのジョイスの作品さくひんちゅう登場とうじょうしている。

1903ねん学士がくし学位がくいてユニバーシティ・カレッジ・ダブリンを卒業そつぎょうしたのち、ジョイスはパリ留学りゅうがくする。医学いがく勉強べんきょう表向おもてむきの理由りゆうであったが、まずしい家族かぞくがジョイスの浪費ろうひへきいてはらったというのが真相しんそうである。しかし、がんおかされたはは危篤きとくほういてダブリンにかえすまでの数ヶ月すうかげつあいだも、あまりみのりの自堕落じだらく生活せいかつついやしていたという。はは臨終りんじゅうさい、ジョイスははは枕元まくらもといのりをささげることを拒否きょひした(はは不仲ふなかであったためではなく、ジョイス自身じしん不可知論ふかちろんしゃであったことによる)。はは死後しご、ジョイスは酒浸さけびたりになり家計かけいはいっそう惨憺さんたんたるものとなったが、書評しょひょういたり教師きょうし歌手かしゅなどをして糊口ここうをしのいだ。

1904ねん1がつ7にち、ジョイスは美学びがくをテーマとしたエッセイふう物語ものがたり芸術げいじゅつ肖像しょうぞう』("A Portrait of the Artist")を発表はっぴょうしようとかんがえ、自由じゆう主義しゅぎてき雑誌ざっし『Dana』へんだが、あっさりと拒絶きょぜつされた。同年どうねん誕生たんじょう、ジョイスはこの物語ものがたり修正しゅうせいくわえて『スティーブン・ヒーロー』("Stephen Hero")というだい小説しょうせつ改作かいさくしようと決意けついした。このころ、かれゴールウェイけんコネマラからダブリンへやってきてメイドとしてはたらいていたノラ・バーナクル(1884〜1951)というわか女性じょせい出会であった。のちの作品さくひんユリシーズ』はダブリンのある1にちのできごとを1さつふうめたものであるが、この「ある1にち」こそ、二人ふたりはじめてデートした「1904ねん6月16にち」にほかならない(ブルームズデイ参照さんしょう)。

ジョイスはそのもしばらくダブリンにとどまり、ひたすらつづけた。こうした放蕩ほうとう生活せいかつをしていたある、ジョイスはフェニックス・パーク一人ひとりおとこ口論こうろんすえ喧嘩けんかになり逮捕たいほされた。ちちジョンの知人ちじんアルフレッド・H・ハンターなる人物じんぶつ身元みもとじんとなってジョイスをし、怪我けが面倒めんどうをみるため自分じぶんいえまねいた。ハンターはユダヤじんで、つま浮気うわきをしているといううわさのある人物じんぶつであり、『ユリシーズ』の主人公しゅじんこうレオポルト・ブルームのモデルの一人ひとりとなっている。またジョイスは、やはり『ユリシーズ』の登場とうじょう人物じんぶつバック・マリガンのモデルとなるオリバー・セント=ジョン=ゴガティ(のちに本業ほんぎょう医者いしゃとしてだけでなくW・B・イェイツから称賛しょうさんされるほどの文筆ぶんぴつとしてもられるようになる)という医学いがくせいともしたしくなり、ゴガティがダブリン郊外こうがいサンディコーヴ所有しょゆうしていたマーテロー・タワーに6日間にちかん滞在たいざいしている。そのにん口論こうろんになり、ゴガティがかれけてじゅう発砲はっぽうしたためジョイスは夜中よなかし、親戚しんせきいえめてもらうためダブリンまであるいてかえった。翌日よくじつわすれてきたトランクは友人ゆうじんりに(りに?)かせている。このとうは『ユリシーズ』劈頭へきとう舞台ぶたいとなっているため現在げんざいではジョイス記念きねんかんとなっている。

そのまもなく、ジョイスはノラをれて大陸たいりくちした。

トリエステ時代じだい(1904ねん - 1915ねん

編集へんしゅう

ジョイスはノラと自発じはつてき亡命ぼうめいはいり、まずチューリッヒ移住いじゅうしてイギリスのエージェントをとおしてベルリッツ語学ごがく学校がっこう英語えいご教師きょうししょくた。このエージェントは詐欺さぎっていたことが判明はんめいしたが、校長こうちょうはジョイスをトリエステだいいち世界せかい大戦たいせんのちイタリアりょうとなるが、当時とうじオーストリア・ハンガリー帝国ていこくりょう)へ派遣はけんした。トリエステへってもしょくられないことがあきらかとなったが、ベルリッツのトリエステこう校長こうちょうはからいにより、1904ねん10月からオーストリア・ハンガリー帝国ていこくりょうプーラ(のちのクロアチアりょう)で教職きょうしょくくこととなった。

1905ねん3月、オーストリアでスパイ組織そしき摘発てきはつされてすべての外国がいこくじん追放ついほうされることになったためプーラをはなれざるをえず、ふたた校長こうちょうたすけによりトリエステへもどって英語えいご教師きょうし仕事しごとはじめ、そのの10ねん大半たいはん同地どうちごすこととなる。同年どうねん7がつにはノラが最初さいしょ子供こどもジョルジオ(1905〜76)をんでいる。ジョイスはやがておとうとのスタニスロース(1884〜1955)をせ、おなじくトリエステこう教師きょうしとしての地位ちい確保かくほしてやった。ダブリンでの単調たんちょう仕事しごとよりも面白おもしろかろうというのが表向おもてむきの理由りゆうであったが、家計かけいささえるためにはもう一人ひとりかせしゅしいからというのが本音ほんねであった。兄弟きょうだいあいだではおもにジョイスの浪費ろうひへき飲酒いんしゅへきをめぐって衝突しょうとつえなかった。このとしの12月、ロンドンの出版しゅっぱんしゃに『ダブリン市民しみん』のなかの12へんおくっているが出版しゅっぱん拒否きょひされた。

やがて放浪癖ほうろうへきたかぶじてトリエステでの生活せいかつ嫌気いやけがさしたジョイスは、1906ねん7がつローマ移住いじゅうして銀行ぎんこう通信つうしんがかりとしてつとめはじめる。『ユリシーズ』の構想こうそうを(短編たんぺんとして)りはじめたり『ダブリン市民しみん』の掉尾ちょうびかざ短編たんぺん死者ししゃたち」の執筆しっぴつ開始かいししたのもローマ滞在たいざいちゅうのことである。しかしローマがまったくきになることができずに1907ねん3がつにはトリエステへかえることとなった。このとしの7がつにはむすめルチア(1907〜82)が誕生たんじょうしている。執筆しっぴつかんしては、同年どうねん5がつ詩集ししゅう室内楽しつないがく』("Chamber Music")を出版しゅっぱんしたほか、「死者ししゃたち」("The Dead")をだつ稿こうし、『芸術げいじゅつ肖像しょうぞう』を改題かいだいした自伝じでんてき小説しょうせつ『スティーヴン・ヒーロー』を、『わか芸術げいじゅつ肖像しょうぞう』("A Portrait of the Artist as a Young Man")として再度さいど改稿かいこう着手ちゃくしゅしている。

1909ねんの7がつにジョイスは息子むすこジョルジオをれてダブリンへ帰省きせいした。ちちまごかおせることと、『ダブリン市民しみん』の出版しゅっぱん準備じゅんびとがその目的もくてきである。8月にはモーンセルしゃ出版しゅっぱん契約けいやくむすび、ゴールウェイにむノラの家族かぞくとの初対面しょたいめん成功裏せいこうりませることが出来できた。トリエステへかえ準備じゅんびをしながら、ジョイスはノラの家事かじ手伝てつだいとして自分じぶんいもうとエヴァをれてかえることにめた。トリエステへもどっていちがつ、ダブリンで最初さいしょ映画えいがかん「ヴォルタ」を設立せつりつするため再度さいど故郷こきょうかえる。この事業じぎょう軌道きどうった1910ねん1がつ、もう一人ひとりいもうとアイリーンをれてトリエステにもどる(ただし映画えいがかんはジョイスの在中ざいちゅうにあっけなく倒産とうさんしてしまう)。エヴァはホームシックによりすうねんでダブリンへもどってしまうが、アイリーンはその生涯しょうがい大陸たいりくごし、チェコの銀行ぎんこういん結婚けっこんした。

1912ねん6がつ、『ダブリン市民しみん』について収録しゅうろくさく一部いちぶ削除さくじょなどの注文ちゅうもんをつけてきたモーンセルしゃ発行はっこうじんジョージ・ロバーツと決着けっちゃくをつけるためふたたびダブリンへもどる。しかし意見いけん相違そういから両者りょうしゃ決裂けつれつし、3ねんしの出版しゅっぱん契約けいやく白紙はくしされることとなってしまう。落胆らくたんしたジョイスはロバーツにあてつけた風刺ふうし火口かこうからのガス」("Gas from a Burner")をいてダブリンをはなれる。そしてこれがジョイスにとって最後さいごのアイルランドゆきとなった。父親ちちおやもとめやしたしいイェイツの招待しょうたいけても、ロンドンよりさきあしけることは二度にどとなかった。

この期間きかん、ジョイスはダブリンへもどって映画えいが館主かんしゅになろうとこころみるほか、計画けいかくたおれにわったもののアイルランドさんツイードをトリエステへ輸入ゆにゅうするなどさまざまな金策きんさくてている。ジョイスに協力きょうりょくした専門せんもんたちはかれ一文いちぶんしにならずにすむようちからした。当時とうじのジョイスはもっぱら教師きょうししょくによって収入しゅうにゅうており、昼間ひるまはベルリッツこうやトリエステ大学だいがく(この当時とうじ高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこう)の講師こうしとして、よる家庭かてい教師きょうしとして教鞭きょうべんるった。こうして教師きょうししょくをかけもちしていたころに生徒せいととしてった知人ちじんは、ジョイスが1915ねんにオーストリア・ハンガリー帝国ていこくはなれてスイスへこうとして問題もんだい直面ちょくめんしたさいにおおきな助力じょりょくとなった。

トリエステでの個人こじん教師きょうし時代じだい生徒せいと一人ひとりには、イタロ・ズヴェーヴォのペンネームでられる作家さっかアーロン・エットーレ・シュミッツがいる。二人ふたり1907ねん出会であい、友人ゆうじんとしてだけでなくたがいの批評ひひょうとしてなが交友こうゆう関係かんけいをもつこととなった。ズヴェーヴォはジョイスに『わか芸術げいじゅつ肖像しょうぞう』の執筆しっぴつすすはげましただけでなく、『ユリシーズ』の主人公しゅじんこうレオポルド・ブルームの主要しゅようなモデルとなっており、どう作中さくちゅうのユダヤじん信仰しんこうかんする記述きじゅつおおくは、ユダヤじんであるズヴェーヴォがジョイスから質問しつもんけて教示きょうししたものである。ジョイスが眼疾がんしつなやみはじめることとなったのもトリエステでのことである。このやまい晩年ばんねんのジョイスにじゅうすうにわたる手術しゅじゅついるほど深刻しんこくなものであった。

チューリッヒ時代じだい(1915ねん - 1920ねん

編集へんしゅう
 
1915ねん

だいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつしてオーストリア・ハンガリー帝国ていこくでの生活せいかつ難儀なんぎしたジョイスは、1915ねんチューリッヒ移住いじゅうした。このったフランク・バッジェン(Frank Budgen)とは終生しゅうせい友人ゆうじんとなり、『ユリシーズ』や『フィネガンズ・ウェイク』の執筆しっぴつさいしてはえずバッジェンの意見いけんもとめるほどの信頼しんらいくようになった。またこのではエズラ・パウンドによりイギリスのフェミニストである出版しゅっぱん社主しゃしゅハリエット・ショー・ウィーヴァーにわされた。彼女かのじょはジョイスのパトロンとなり、個人こじん教授きょうじゅなどする必要ひつようなく執筆しっぴつ専念せんねんできるようその25ねんにわたりすうせんポンドの資金しきん援助えんじょをした。ジョイスとエズラ・パウンドが対面たいめんするのは1920ねんのことになるが、パウンドはイェーツとともに尽力じんりょくしてまだぬジョイスにイギリス王室おうしつ文学ぶんがく基金ききん助成じょせいきんをもたらしたり、ジョイスのために『ユリシーズ』の掲載けいさい紹介しょうかいするなどさまざまな協力きょうりょくをした。終戦しゅうせんにジョイスは一度いちどトリエステへもどるが、まちはすっかり様変さまがわりしていたうえにおとうと戦争せんそうちゅう思想しそうはんとしてオーストリアの収容しゅうようしょ拘留こうりゅうされていた)との関係かんけい悪化あっかしてしまう。1920ねん、パウンドの招待しょうたいけてジョイスはいち週間しゅうかんほどの予定よていパリ旅立たびだつが、結局けっきょくその20年間ねんかんをそのまちごすこととなる。

パリ時代じだい(1920ねん - 1940ねん

編集へんしゅう

自身じしん手術しゅじゅつ統合とうごう失調しっちょうしょうわずらったむすめルチアの治療ちりょうのためジョイスはたびたびスイスをおとずれた。パリ時代じだいにはT・S・エリオットヴァレリー・ラルボーValery Larbaud)、サミュエル・ベケットといった文学ぶんがくしゃとの交流こうりゅううまれた。パリでの長年ながねんにわたる『フィネガンズ・ウェイク』執筆しっぴつちゅうはユージーン・ジョラスとマライア・ジョラス夫妻ふさいがジョイスの手助てだすけをした。夫妻ふさいつよ支持しじとハリエット・ショー・ウィーヴァーの財政ざいせい支援しえんがなかったならば、ジョイスの著書ちょしょだつ稿こうにさえいたらなかった可能かのうせいたかい。ジョラス夫妻ふさい伝説でんせつてき文芸ぶんげい雑誌ざっし『トランジション』にジョイスの新作しんさくを『進行しんこうちゅう作品さくひん』("Work in Progress")の仮題かだい不定期ふていき連載れんさいした。この作品さくひん完結かんけつにつけられた正式せいしきタイトルが『フィネガンズ・ウェイク』("Finnegans Wake")である。

ふたたびチューリッヒ時代じだい(1940ねん - 1941ねん

編集へんしゅう

1940ねんナチス・ドイツによるフランス占領せんりょうからのがれるべくジョイスはチューリッヒ帰還きかんする。

1941ねん1がつ11にち十二指腸じゅうにしちょう潰瘍かいよう穿孔せんこう手術しゅじゅつける。術後じゅつご経過けいか良好りょうこうであったが翌日よくじつには再発さいはつし、すう輸血ゆけつ甲斐かいもなく昏睡こんすい状態じょうたいおちいった。1がつ13にち午前ごぜん2ましたジョイスはふたた意識いしきうしなまえつま子供こどもぶよう看護かんごつたえた。その15ふん家族かぞく病院びょういんけつけている途中とちゅうにジェイムズ・ジョイスはいきえた。

埋葬まいそうされたチューリッヒのフリュンテン墓地ぼち動物どうぶつえんとなりにあり、ジョイスのきだったライオンのごえこえるのがルチアのったという。のちにジョイスの10ねんくなったつまノーラ(1904ねんちして1931ねん正式せいしき結婚けっこんした)、1976ねんぼっした息子むすこジョルジオもかれとなり埋葬まいそうされた。

著作ちょさく

編集へんしゅう

一覧いちらん

編集へんしゅう
 
Dubliners, 1914

概観がいかん

編集へんしゅう
『ダブリン市民しみん
詳細しょうさい別項べっこうダブリン市民しみん』を参照さんしょう
ジョイスの著作ちょさくにおいてはアイルランドでの経験けいけんがその根本こんぽんてき構成こうせい要素ようそとなっており、すべての著作ちょさく舞台ぶたい主題しゅだいおおくがそこからもたらされている。ジョイスの初期しょき成果せいか集成しゅうせいした短篇たんぺんしゅう『ダブリン市民しみん』は、ダブリン社会しゃかい停滞ていたい麻痺まひするど分析ぶんせきである。どう書中しょちゅう作品さくひんには「エピファニー」が導入どうにゅうされている。エピファニーとはジョイスによって特有とくゆう意味いみあたえられたかたりで、ものごとを観察かんさつするうちにその事物じぶつの「たましい」が突如とつじょとして意識いしきされその本質ほんしつ露呈ろていする瞬間しゅんかんのことであり、ジョイス以降いこうこうした事物じぶつ本質ほんしつ顕現けんげんをテーマとする作品さくひんのことを「エピファニー文学ぶんがく」とぶようになった。短篇たんぺんしゅう最後さいごかれたもっと有名ゆうめい作品さくひん死者ししゃたち」は1987ねんに『ザ・デッド/「ダブリン市民しみん」より』として映画えいがされ、ジョン・ヒューストン最後さいご監督かんとく作品さくひんとなった。
わか芸術げいじゅつ肖像しょうぞう
 
わか芸術げいじゅつ肖像しょうぞう
詳細しょうさい別項べっこうわか芸術げいじゅつ肖像しょうぞう』を参照さんしょう
わか芸術げいじゅつ肖像しょうぞう』は中絶ちゅうぜつされた小説しょうせつ『スティーヴン・ヒーロー』をほぼ全面ぜんめんてき改稿かいこうしたものであり、オリジナルの草稿そうこうはノラとの議論ぎろん発作ほっさてきいかりにられたジョイス自身じしんによって破棄はきされた。「Künstlerroman」(ビルドゥングス・ロマン一種いっしゅ)、すなわち才能さいのうあるわか芸術げいじゅつ成熟せいじゅく自意識じいしき目覚めざめるまでの自己じこ啓発けいはつ過程かてい伝記でんきてき物語ものがたりかたちった小説しょうせつである。主人公しゅじんこうスティーヴン・ディーダラスはすくなからずジョイス自身じしんをモデルとしている。内的ないてき独白どくはく使用しよう登場とうじょう人物じんぶつ外的がいてき環境かんきょうよりも精神せいしんてき現実げんじつへの言及げんきゅう優先ゆうせんといった、作品さくひんおおられる手法しゅほう萌芽ほうがもこの作品さくひんにおいて散見さんけんされる。
戯曲ぎきょく追放ついほうしゃたち』と詩篇しへん
最初さいしょには演劇えんげきふか関心かんしんせていたにもかかわらず、ジョイスが発表はっぴょうした戯曲ぎきょくは『追放ついほうしゃたち』いちへんのみである。この作品さくひんは「死者ししゃたち」を原型げんけいとして1914ねんだいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつ直後ちょくごからきはじめられ、1918ねん上梓じょうしされた。夫婦ふうふ関係かんけいかんする研究けんきゅうというてんから、この作品さくひんは「死者ししゃたち」と『ユリシーズ』(「死者ししゃたち」だつ稿こう直後ちょくごから執筆しっぴつ開始かいしした)の橋渡はしわたしの役割やくわりたしたといえる。
ジョイスはまたすうさつ詩集ししゅう出版しゅっぱんしている。習作しゅうさくのぞくとジョイスが最初さいしょ発表はっぴょうした詩作しさくひん痛烈つうれつ諷刺ふうしけんよこしまひじりしょう」("The Holy Office"1904ねん)であり、この作品さくひんによってジョイスはケルト復興ふっこう運動うんどうCeltic Revival)の著名ちょめいなメンバーたちのなかげた。1907ねん出版しゅっぱんされた最初さいしょのまとまった詩集ししゅう室内楽しつないがく』("Chamber Music"、ジョイスいわく「尿瓶しびん(chamber pot)にたる小便しょうべんおとのこと」)は36へんからなる。このほんエズラ・パウンド編集へんしゅうする「Imagist Anthology」にくわえられ、パウンドはジョイス作品さくひんもっと強力きょうりょく擁護ようごしゃとなった。ジョイスが生前せいぜん発表はっぴょうしたほかには「火口かこうからのガス」("Gas From A Burner"、1912ねん)、詩集ししゅう『ポームズ・ペニーチ』("Pomes Penyeach"、1927ねん)、"Ecce Puer"(1932ねんまご誕生たんじょうちちしるしたもの)などがあり、これらは1936ねんに『詩集ししゅう』("Collected Poems")としていちさつにまとめられた。
近藤こんどうこうじんやく『さまよえるひとたち 戯曲ぎきょくさんまく』(いろどりりゅうしゃ、1991ねん)がある。
『ユリシーズ』
詳細しょうさい別項べっこうユリシーズ』を参照さんしょう
1906ねんに『ダブリン市民しみん』を完成かんせいさせたジョイスは、レオポルド・ブルームというのユダヤじん広告こうこくりを主人公しゅじんこうとする「ユリシーズ」というタイトルの短篇たんぺんをそれに追加ついかすることをかんがえた。この計画けいかく続行ぞっこうされなかったが、1914ねんにはタイトルと基本きほん構想こうそうおなじくする長編ちょうへん小説しょうせつみはじめる。1921ねん10月に執筆しっぴつえたのち校正こうせいりに3ヶ月かげつかけてみ、みずかさだめたりである40さい誕生たんじょう1922ねん2がつ2にち)の直前ちょくぜん完成かんせいさせた。
エズラ・パウンドの尽力じんりょくにより、1918ねんから「The Little Reviewでの連載れんさい開始かいし。この雑誌ざっしどう時代じだい実験じっけんてき芸術げいじゅつ文学ぶんがく関心かんしんせるニューヨークの弁護士べんごしジョン・クイン英語えいごばん支援しえんのもとにマーガレット・アンダーソンとジェイン・ヒープ英語えいごばんによって編集へんしゅうされたものである。『ユリシーズ』はアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく検閲けんえつっかかり、1921ねん猥褻わいせつ文書ぶんしょ頒布はんぷとがめでアンダーソンとヒープに有罪ゆうざい判決はんけつくだったのをけて連載れんさい中断ちゅうだんう。アメリカで発禁はっきん処分しょぶんかれるのは1933ねんのことである。
このいちけん手伝てつだい、ジョイスは『ユリシーズ』の単行本たんこうぼんけてくれる出版しゅっぱんしゃつけるのは困難こんなんであることにづいたが、1922ねんにはパリ左岸さがんシルヴィア・ビーチ経営けいえいするシェイクスピア・アンド・カンパニー書店しょてんから上梓じょうしすることができた。時期じきをほぼおなじくして T・S・エリオット荒地あれち』("Waste Land")が刊行かんこうされていることから、この1922ねんというとしえい文学ぶんがくにおけるモダニズム歴史れきしじょうとりわけ重要じゅうようなメルクマールであるといえる。ジョイスのパトロンの一人ひとりハリエット・ショー・ウィーヴァーによって出版しゅっぱんされた英語えいごばんはさらなる困難こんなん直面ちょくめんした。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく出荷しゅっかされた500米国べいこく政府せいふ当局とうきょくによって押収おうしゅうののち破棄はきされたのである。翌年よくねん、ジョン・ロドカー(John Rodker)は押収おうしゅうされたもののわりにあたらしく500増刷ぞうさつしたが、これらもフォークストン(Folkestone)でイギリスの税関ぜいかんによって焼却しょうきゃく処分しょぶんされた。このほん発禁はっきんしょという不明瞭ふめいりょう法的ほうてき立場たちばかれたため、やがていくつもの「海賊版かいぞくばん」が登場とうじょうすることとなった。これらの海賊版かいぞくばんなかでもとく有名ゆうめいなものはアメリカの悪徳あくとく出版しゅっぱん業者ぎょうしゃサミュエル・ロス(Samuel Roth)によって刊行かんこうされたものである。1928ねん裁判所さいばんしょから禁止きんし命令めいれいによって出版しゅっぱんめたロスは刑務所けいむしょおくられることとなったが、罪状ざいじょうがやはり猥褻わいせつざいであり著作ちょさくけん侵害しんがいではなかったところにもこのほんかれた立場たちば微妙びみょうさがれる(なおロスはこのさい『進行しんこうちゅう作品さくひん』の仮題かだい連載れんさい開始かいしされていた『フィネガンズ・ウェイク』も同時どうじ盗用とうようしている)。
 
1922ねん初版しょはんのカバー
『ユリシーズ』において、ジョイスは登場とうじょう人物じんぶつ表現ひょうげんするために意識いしきながれ、パロディ、ジョーク、そのありとあらゆる文学ぶんがくてき手法しゅほう駆使くしした。1904ねん6月16にちといういちにちのあいだにきる出来事できごとあつかったこの小説しょうせつなかに、ジョイスはホメロスの『オデュッセイア』の登場とうじょう人物じんぶつ事件じけん現代げんだいのダブリンへんだ。オデュッセウス(ユリシーズはその英語えいごがた)、ペネロペテレマコスはそれぞれ登場とうじょう人物じんぶつレオポルド・ブルーム、そのつまモリー・ブルーム、スティーヴン・ディーダラスによって代置だいちされ、神話しんわちゅう高貴こうきなモデルとパロディてき対比たいひされる。このほんはダブリンの生活せいかつおよびそこにちた汚穢おあい退屈たいくつさをあますところなく踏査とうさしている。ジョイス自身じしんも「たとえダブリンがだい災害さいがい壊滅かいめつしても、このほんをモデルにすればレンガのいちいちいたるまで再現さいげんできるだろう」と豪語ごうごするほどの自信じしんをもっていた。ダブリンに愛想あいそかして故郷こきょうてたジョイスだが、このまちへの郷愁きょうしゅうなしにここまで完璧かんぺき細密さいみつえがくことは不可能ふかのうであり、ダブリンにたいして愛憎あいぞうなかばするジョイスのアンビヴァレンスがうかがわれる。ダブリンの描写びょうしゃをこのレベルまで仕上しあげるためには、ダブリンのすべての居住きょじゅうよう商業しょうぎょうよう建築けんちく所有しょゆうしゃ入居にゅうきょしゃ網羅もうらした『Thom's Directory』(1904年版ねんばん)というほん活用かつようされた。また、それ以外いがいにも情報じょうほう説明せつめいもとめたジョイスはまだダブリンにんでいる友人ゆうじんたちを質問しつもんめにしてもいる。
このほんぜん18しょうからなる。それぞれのしょうがおよそ1あいだ出来事できごとあつかっており、午前ごぜん8ごろからはじまって翌朝よくあさ午前ごぜん2ぎにわる。また1しょうごとにことなる全部ぜんぶで18とおりの文体ぶんたいもちいられているだけでなく、『オデュッセイア』でかたられる18のエピソード、これと関連かんれんする18種類しゅるいいろ学問がくもん技術ぎじゅつ身体しんたい器官きかん適用てきよう言及げんきゅうされる。これらのわせによって形成けいせいされる作品さくひん全体ぜんたい万華鏡まんげきょうてき梗概こうがい「ゴーマン・ギルバート計画けいかくひょう)は、このほんが20世紀せいきのモダニズム文学ぶんがく発展はってんたいして寄与きよしたもっとおおきな貢献こうけんひとつにかぞえられる。注目ちゅうもくすべきてんとしては、準拠じゅんきょわくとしての古典こてんてき神話しんわ使用しようや、重要じゅうよう事件じけんおおくが登場とうじょう人物じんぶつ胸中きょうちゅうにおいてきるというこのほん細部さいぶたいする強迫きょうはく観念かんねんにもちか執着しゅうちゃくなどがげられる。しかしながらジョイスは「わたしは『ユリシーズ』を過剰かじょう体系たいけいしてしまったかもしれない」とべ、ホメロスから借用しゃくようしたあきらだい削除さくじょしたりもしており、『オデュッセイア』との照応しょうおう関係かんけいはさほど重視じゅうししていなかったふしもある。
『フィネガンズ・ウェイク』
 
眼帯がんたいをしたジョイス(1922ねん)
詳細しょうさい別項べっこうフィネガンズ・ウェイク』を参照さんしょう
『ユリシーズ』の執筆しっぴつえたジョイスは、自分じぶんのライフワークはこれで完了かんりょうしたとかんがえたが、まもなくさらに野心やしんてき作品さくひん制作せいさく計画けいかくてた。1923ねん3がつ10日とおかから、ジョイスはやがて『進行しんこうちゅう作品さくひん』("Work in Progress")の仮題かだいをつけられ、のちに『フィネガンズ・ウェイク』("Finnegans Wake")の正式せいしきタイトルをあたえられることになる作品さくひんにとりかかり、1926ねんには最初さいしょの2完成かんせいさせた。このとしジョイスはユージーン・ジョラスとマライア・ジョラスにい、かれ夫婦ふうふ編集へんしゅうする文芸ぶんげい雑誌ざっし『トランジション』(Transition)で『進行しんこうちゅう作品さくひん』を連載れんさいしてはどうかとのもうけている。
そのすうねんジョイスはこの新作しんさく迅速じんそくすすめていったが、1930年代ねんだいはいると進捗しんちょくじょうきょうかんばしくなくなる。停滞ていたい要因よういんとしては、1931ねんちちむすめルチアの精神せいしん状態じょうたいかんする懸念けねん視力しりょく低下ていかふくむジョイス自身じしん健康けんこうじょう問題もんだいなどがげられる。こうした困難こんなんかかえながらも執筆しっぴつサミュエル・ベケットふくわか支持しじしゃちからりてすすめられた。このころジョイスは同郷どうきょう詩人しじんジェームズ・スティーヴンスJames Stephens)としたしくなるが、スティーヴンスがすぐれた文才ぶんさいをもっているばかりでなくジョイスとおな病院びょういんおなまれたこと(ジョイスの勘違かんちがいで実際じっさいにはいち週間しゅうかんちがい)、その名前なまえがジョイス自身じしん小説しょうせつちゅうにおけるジョイスの分身ぶんしんスティーヴン・ディーダラスのファーストネームのわせであることなどから、迷信めいしんふかかったジョイスは自分じぶんとスティーヴンスには運命うんめいてきなつながりがあるのだとしんじるようになった。さらには『フィネガンズ・ウェイク』を完成かんせいさせるべきはスティーヴンスであり、原稿げんこうわたしてのこりの部分ぶぶん仕上しあげてもらってから「JJ & S」の出版しゅっぱんしようという奇妙きみょう計画けいかくまでてた(「JJ & S」は「ジェームズ・ジョイス&スティーヴンス」の頭文字かしらもじであるが、有名ゆうめいなアイリッシュ・ウイスキーのブランド「ジェムソン」(John Jameson & Sons)の商標しょうひょう[1]にかけたシャレである)が、結局けっきょくはジョイスが一人ひとり完成かんせいさせることができたのでこの計画けいかく実行じっこうされなかった。
『トランジション』において発表はっぴょうされた冒頭ぼうとう部分ぶぶんたいする読者どくしゃ反応はんのう賛否さんぴ両論りょうろんで、パウンドやおとうとスタニスロースのようにジョイスの初期しょき著作ちょさくたいして好意こういてきだったひとたちから否定ひていてきなコメントがせられもした。こうした好意こういてき反応はんのう退しりぞけるべく、1929ねんには『進行しんこうちゅう作品さくひん』の支持しじしゃたちによる批評ひひょうをまとめた論文ろんぶんしゅう刊行かんこうされた。『進行しんこうちゅう作品さくひん結実けつじつのためのかれ制作せいさくをめぐるわれらの点検てんけん』(Our Exagmination Round His Factification for Incamination of Work in Progress)とだいしたこの論文ろんぶんしゅう著者ちょしゃにはベケットのほかウィリアム・カルロス・ウィリアムズらがつらねた。ベケットは巻頭かんとう論文ろんぶん「ダンテ・・・ブルーノ・ヴィーコ・・ジョイス」を寄稿きこうした(これがベケットのはじめて活字かつじになった文章ぶんしょうである)のをにジョイスと20世紀せいき文学ぶんがく史上しじょうもっと有名ゆうめい交友こうゆう関係かんけいむすぶこととなり、しばしばジョイスの秘書ひしょてき役割やくわりをもたして『進行しんこうちゅう作品さくひん』の制作せいさくにも協力きょうりょくした。
ジョイスたくひらかれたかれの47さい誕生たんじょうパーティー(1929ねん2がつ2にち)の席上せきじょう、ジョイスは最終さいしゅうてき決定けっていした『進行しんこうちゅう作品さくひん』の正式せいしきタイトルが『フィネガンズ・ウェイク』であることをかし、1939ねん5月4にち単行本たんこうぼんとして出版しゅっぱんされた。
意識いしきながれや暗喩あんゆ自由じゆう連想れんそうなどといったジョイスの文学ぶんがくてき手法しゅほう極限きょくげんまですすめた『フィネガンズ・ウェイク』は、プロット構成こうせい登場とうじょう人物じんぶつ造形ぞうけいかんする従来じゅうらい慣例かんれいをことごとくやぶっているばかりでなく、複雑ふくざつ多面ためんてき地口じぐちをもとにした特異とくいかつきわめて難解なんかい言語げんごによってかれている。ルイス・キャロルの『ジャバウォックの』ともたアプローチであるが、その複雑ふくざつさや規模きぼおおきさはこれをはるかに凌駕りょうがする。『ユリシーズ』が“都市とし生活せいかつなかいちにち”であるとするなら、『フィネガンズ・ウェイク』は“ゆめ論理ろんりなか一夜いちや”ということができる。『フィネガンズ・ウェイク』において『ユリシーズ』が「“usylessly unreadable Blue Book of Eccles”(どうあがいてもむことのできそうにないエクルズのあおほん)」として言及げんきゅうされている部分ぶぶん有名ゆうめいだが、おおくの読者どくしゃ批評ひひょうからこれはむしろ『フィネガンズ・ウェイク』にこそふさわしいいいまわしだとされてきた。しかしその研究けんきゅうによって読者どくしゃおも登場とうじょう人物じんぶつ配役はいやくやプロットについての合意ごういることができるようになった。
本書ほんしょにおける言語げんご遊戯ゆうぎてきかたり使用しよう広範こうはん言語げんご結集けっしゅう多言たげんあいだにわたる語呂合ごろあわせによってされたものである。ベケットをはじめとする助手じょしゅたちは、これらの言語げんごかれたカードを照合しょうごうしてあたらしいわせにして使つかえるようにしたり(?)、すでに視力しりょくがかなりおとろえていたジョイスのため口述こうじゅつ筆記ひっきをするなどの協力きょうりょくをした。
また本書ほんしょ提示ていじされる歴史れきしかんジャンバッティスタ・ヴィーコつよ影響えいきょうにあり、登場とうじょう人物じんぶつ相互そうごおよぼしあう影響えいきょう関係かんけいにはジョルダーノ・ブルーノ形而上学けいじじょうがく重要じゅうよう役割やくわりたしている。ヴィーコは、歴史れきし混沌こんとんとした未開みかい状態じょうたいからはじまって神政しんせい貴族きぞくせい民主みんしゅせいふたた混沌こんとんかえり、螺旋らせんえがきながら循環じゅんかんするという歴史れきしかん提唱ていしょうした。ヴィーコの循環じゅんかんてき歴史れきしかんもっとあきらかな影響えいきょうれいは、本書ほんしょ冒頭ぼうとう末尾まつびることができる。原文げんぶんにおける最後さいご一節いっせつ本書ほんしょ冒頭ぼうとう一節いっせつとつながっており、わせて一文いちぶんをなすことによってほん全体ぜんたいひとつのおおきなえんたまき構造こうぞう形作かたちづくらせているのである。
実際じっさいにジョイスは、不眠症ふみんしょうわずらいながら読了どくりょうしたあとで最初さいしょのページへもどってふたたみはじめ、そして永遠えいえん循環じゅんかんしてつづけるのが『フィネガンズ・ウェイク』の理想りそうてき読者どくしゃだとかたっている。

関連かんれん事項じこう

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ジョイス記念きねんかん

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ジェームズ・ジョイス・タワー

ジョイス記念きねんかんマーテロー・タワーはジョイス・タワーともばれ、ダブリン南部なんぶ郊外こうがいサンディコーヴにつ。これはそのむかしナポレオン侵略しんりゃくそなえて湾岸わんがん警備けいびのために英国えいこく各地かくち建造けんぞうした要塞ようさい(マーテローとう)のひとつで、後年こうねん地元じもと富豪ふごう購入こうにゅう改装かいそうした。わかのジョイスは友人ゆうじんとうぬしオリバー・セント=ジョン=ゴガティ)をたずね、このとう滞在たいざいしたことがあり、そのとき経験けいけんは『ユリシーズ』のだいいちしょうでスティーヴン・ディーダラスが、バック・マリガンと口論こうろんするシーンのもとネタとなる。ジェイムス・ジョイスタワーと博物館はくぶつかん参照さんしょう

ブルームの

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『ユリシーズ』の主人公しゅじんこうレオポルド・ブルームがダブリンを彷徨ほうこうした1904ねん6がつ16にちにちなみ、毎年まいとし6がつ16にち、ダブリンにジョイスの読者どくしゃあつまり様々さまざまもよおものおこなう、いわば『ユリシーズ』記念きねんあつまった人々ひとびと登場とうじょう人物じんぶつふんするなどして当時とうじ服装ふくそうつつみ、げきちゅう登場とうじょうする場所ばしょへの訪問ほうもん、『ユリシーズ』の朗読ろうどくげき上映じょうえい、またパブめぐりなどをおこなう。ダブリンではジェイムズ・ジョイス・センターがイベント運営うんえいおこなっている。もともとアイルランドのダブリンが本家ほんけだが、近年きんねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく日本にっぽん、ブラジルなどでもブルームズデイをいわこころみがなされた。

なお、1904ねん6月16にちというのはジョイスがつまノーラとはじめてデートしたである。

ジェイムズ・ジョイスの命名めいめい

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アイルランド海軍かいぐん哨戒しょうかいかんであるサミュエル・ベケットきゅう哨戒しょうかいかんばんかんジェイムズ・ジョイスのかんめいかれ由来ゆらいしている。

映画えいが作品さくひん

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日本語にほんご研究けんきゅう

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ダブリン市内しないにあるジェイムズ・ジョイスの銅像どうぞう
膨大ぼうだいかずにつき、訳書やくしょふく近年きんねん刊行かんこうのみしる

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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出典しゅってん

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外部がいぶリンク

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