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ジュゼッペ・ヴェルディ - Wikipedia

ジュゼッペ・ヴェルディ

イタリアの作曲さっきょく

ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ(Giuseppe Fortunino Francesco Verdi、1813ねん10がつ10日とおか - 1901ねん1がつ27にち)は、イタリア作曲さっきょく。19世紀せいき代表だいひょうするイタリアのロマン音楽おんがく作曲さっきょくであり、おもオペラ制作せいさくした。「オペラおう」の異名いみょうつ。

ジュゼッペ・ヴェルディ
Giuseppe Verdi
1870ねんごろ撮影さつえい
基本きほん情報じょうほう
出生しゅっしょうめい ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ
Giuseppe Fortunino Francesco Verdi
別名べつめい オペラおう
生誕せいたん 1813ねん10がつ10日とおか
フランスの旗 フランス帝国ていこくタロ地区ちく英語えいごばんレ・ロンコーレむら英語えいごばん
死没しぼつ (1901-01-27) 1901ねん1がつ27にち(87さいぼつ
イタリア王国の旗 イタリア王国おうこくミラノ
ジャンル ロマン音楽おんがく
職業しょくぎょう 作曲さっきょく
活動かつどう期間きかん 1840ねん - 1893ねん
ジュゼッペ・ヴェルディの肖像しょうぞうがデザインされている1000リラ紙幣しへい

代表だいひょうさくは『ナブッコ』、『リゴレット』、『椿つばきひめ』、『アイーダ』などがある。かれ作品さくひん世界中せかいじゅうオペラハウスえんじられ、またジャンルをえた展開てんかいせつつ大衆たいしゅう文化ぶんかひろ根付ねついている。ヴェルディの活動かつどうはイタリア・オペラに変革へんかくをもたらし、現代げんだいいたもっと重要じゅうよう人物じんぶつひょうされる[1]1962ねんから1981ねんまで、1000リレリラ複数ふくすうがた)イタリアの紙幣しへい肖像しょうぞう採用さいようされていた。

生涯しょうがい

編集へんしゅう

年少ねんしょうとき

編集へんしゅう
 
半島はんとうつけ内陸ないりくあか部分ぶぶんがタロ (Taro) 地区ちく

ヴェルディはちちカルロ・ジュゼッペ・ヴェルディとははルイジア・ウッティーニのあいだはじめての子供こどもとしてまれる[2]。(のちいもうとまれた)生誕せいたんブッセート近郊きんこう小村こむら[2]レ・ロン・コーレむら英語えいごばんだが、ここはパルマ公国こうこく併合へいごうしたフランスだいいち帝政ていせいタロ地区ちく英語えいごばんまれていた。かれカトリック教会きょうかい洗礼せんれいけ、ヨセフ・フォルトゥニヌス・フランシスクス (Joseph Fortuninus Franciscus) のラテンけた。登録とうろく簿には10月11にち記録きろくに「昨日きのうまれた」とあるが、当時とうじ教会きょうかいれき日付ひづけ日没にちぼつ変更へんこうされていたため、誕生たんじょうは9にち10日とおかのいずれの可能かのうせいもある。翌々日よくよくじつ木曜日もくようびちちは3マイルはなれたブッセートのまち新生児しんせいじ名前なまえをジョセフ・フォルテュナン・フランソワ (Joseph Fortunin François) と申請しんせいし、吏員りいんフランス語ふらんすご記録きろくした。こうしてヴェルディは、偶然ぐうぜんにもフランス市民しみんとして誕生たんじょうすることになった。

カルロは農業のうぎょう以外いがいにも小売こうり宿やど郵便ゆうびんあつかいなどをおこない、めずらしくきもできる人物じんぶつだった。ヴェルディもちち仕事しごと手伝てつだ利発りはつ少年しょうねんだった。だがかれはやくも音楽おんがく興味きょうみおぼえ、旅回たびまわりの楽団がくだんむらせいミケーレ教会きょうかいパイプオルガン熱心ねっしんいた。8さいとき両親りょうしん中古ちゅうこスピネットあたえると、少年しょうねん熱中ねっちゅうしていちにちちゅうこれにかった[注釈ちゅうしゃく 1]われて演奏えんそうほうおしえた教会きょうかいのオルガンきバイストロッキは、やがてちいさな弟子でし自分じぶん腕前うでまえ上回うわまわったことをさとり、とき自分じぶんわってパイプオルガンを演奏えんそうさせた。やがて評判ひょうばんひろがり、カルロとしょう取引とりひき関係かんけいがあった音楽おんがくきの商人しょうにんアントーニオ・バレッツィイタリアばんみみにもとどいた。バレッツィの助言じょげんけたカルロは、息子むすこ才能さいのうばそうとブッセートでまなばせることを決断けつだんした[2]

ブッセートとミラノ

編集へんしゅう

1823ねん、10さいのヴェルディは下宿げしゅくをしながら上級じょうきゅう学校がっこうきやラテン語らてんごおそわり、そして音楽おんがく学校がっこうでフェルディナンド・プロヴェージから音楽おんがく基礎きそまなんだ。バレッツィのいえにもかよい、公私こうしともに援助えんじょける一方いっぽうで、かれつうじてまち音楽おんがく活動かつどうにもくわわるようになった。作曲さっきょく演奏えんそう、そして指揮しきなどの経験けいけんかさね、ヴェルディの評判ひょうばんまちひろがった。17さいになったころにはバレッツィむようになり、長女ちょうじょマルゲリータ・バレッツィイタリアばん親密しんみつ間柄あいだがらになっていったこともある[3]

しかし、さらなる進歩しんぽようと当時とうじ音楽おんがく中心地ちゅうしんちミラノ留学りゅうがく目指めざした。費用ひようまかなうためにモンテ・ディ・ピエタ奨学しょうがくきん[4]申請しんせいし、バレッツィからの援助えんじょ[3]1832ねん6がつにミラノにうつんだ[5]。ヴェルディはすで規定きてい年齢ねんれいえた18さいであったが、これをして音楽おんがくいん入学にゅうがくけた。しかし結果けっか合格ごうかくわり、仕方しかたなく音楽おんがく教師きょうしのヴィンチェンツォ・ラヴィーニャから個人こじん指導しどうけた[5]

 
19世紀せいきスカラ座すからざ

音楽おんがくいんソルフェージュ教師きょうしつとめるラヴィーニャは、またスカラ座すからざ作曲さっきょく[6]演奏えんそう担当たんとうしていた。かれはヴェルディの才能さいのうみとめ、あらゆる種類しゅるい作曲さっきょく指導しどうし、数々かずかず演劇えんげき鑑賞かんしょうさせ、さらにスカラ座すからざのリハーサルまで見学けんがくさせた[5]った指揮しきしゃのマッシーニをつうじて見学けんがくしたリハーサルでたまたまふく指揮しきしゃおくれ、ヴェルディがピアノ演奏えんそうされると、熱中ねっちゅうするあまり片手かたて指揮しきはじめた。絶賛ぜっさんしたマッシーニが本番ほんばん指揮しきたくすと、演奏えんそうかい成功せいこうおさめ、ヴェルディにはわずかながら音楽おんがく依頼いらいむようになった[7]

そのようなころ、プロヴェージ死去しきょほうとどいた。かれだい聖堂せいどうのオルガン奏者そうしゃ音楽おんがくがく校長こうちょうまちのフィルハーモニー指揮しきしゃけん音楽おんがく監督かんとくなどブッセートの重要じゅうよう音楽家おんがくかであった。バレッツィはヴェルディをもどして後継こうけいさせようとしたが、進歩しんぽてきなプロヴェージをきらっていた主席しゅせき司祭しさい対立たいりつ候補こうほて、まちんだあらそいに発展はってんした。ミラノにうしがみかれつつもバレッツィへの義理ぎりから、1836ねん2がつにヴェルディはパルマ音楽おんがく監督かんとく試験しけん絶賛ぜっさんされつつ合格ごうかくし、ブッセートへもどってしょくいた[7]

22さいのヴェルディは着任ちゃくにんしたブッセートでまじめに仕事しごとみ、同年どうねんマルゲリータと結婚けっこんし、1837ねん長女ちょうじょヴィルジーニアがまれた。しかし心中しんちゅうのでは満足まんぞくできず、ひそかにんでいた作曲さっきょく『ロチェステル』を上演じょうえんできないかとマッシーニへはたらきかけたりした。1838ねんには長男ちょうなんイチリオがまれ、歌曲かきょくしゅうむっつのロマンス』が出版しゅっぱんされたが、おなごろヴィルジーニアが高熱こうねつくるしんだすえくなった。イチリオの出産しゅっさん以来いらい体調たいちょうすぐれないマルゲリータや、いま主席しゅせき司祭しさいがわとのいざこざ、みずからの音楽おんがくへの探求たんきゅう、そして生活せいかつ変化へんか目指めざし、ヴェルディはふたたびミラノへくことを決断けつだんした[7]

処女しょじょさく『オベルト』

編集へんしゅう

つづきバレッツィの支援しえんけてミラノにきょうつしたヴェルディは、つてをたよってげたオペラ作曲さっきょくオベルト』をスカラ座すからざ支配人しはいにんメレッリにとどけ、小規模しょうきぼ慈善じぜん興行こうぎょうでも公演こうえんできないか打診だしんした。しばらくたされたがいろ返事へんじけ、1839ねん初頭しょとうにはソプラノジュゼッピーナ・ストレッポーニテノールのナポレオーネ・モリアーニらをまじえたリハーサルがおこなわれた。しかし、モリアーニの体調たいちょう不良ふりょう理由りゆう公演こうえん中止ちゅうしされ、ヴェルディは落胆らくたんした[8]

ところが、今度こんどはメレッリがわから『オベルト』をスカラ座すからざほん公演こうえんするはたらきかけがあった。これはストレッポーニが作品さくひんめたことが影響えいきょうした。台本だいほんテミストークレ・ソレーラ修正しゅうせいけ、あきごろにはリハーサルがはじまった。この最中さいちゅう息子むすこイチリオが高熱こうねつはっし、わずか1さいあまりでいのちえた。うごした歯車はぐるまめるわけにはいかないヴェルディはかなしみをむねめたまま準備じゅんびすすめ、11月17にちに『オベルト』はスカラ座すからざ上演じょうえんされた[8]

ヴェルディはつ作品さくひん好評こうひょうて、14かい上演じょうえんされた。まちからも公演こうえん打診だしんがあり、楽譜がくふリコルディしゃから出版しゅっぱんされ、売上うりあげの半分はんぶんはヴェルディの収入しゅうにゅうとなった。メレッリは新作しんさく契約けいやくをヴェルディとむすび、今後こんご2年間ねんかんに3ほん製作せいさく約束やくそくさせた。不幸ふこうにもったがこれでやっとつまらくをさせられるとヴェルディは安堵あんどしていた[8]

黄金おうごんつばさ

編集へんしゅう

次回じかいさくにメレッリは『追放ついほうしゃ』というオペラ・セリア提案ていあんしたがヴェルディはらず、わりにオペラ・ブッファ喜劇きげき)『にせのスタラチオ』を改題かいだいしてむことになった。ところが1840ねん6がつ18にち、マルゲリータが脳炎のうえんかか死去しきょした。妻子さいしすべうしなったヴェルディの気力きりょくえメレッリに契約けいやく破棄はきもうれたが拒否きょひされ、どこか呆然ぼうぜんとしたまま『いちにちだけの王様おうさま英語えいごばん』を仕上しあげた。9月5にちスカラ座すからざ初演しょえんで、ほんさく散々さんざん評価ひょうかくだされ、公演こうえん中断ちゅうだんされた。ヴェルディはちひしがれてじこもり、もう音楽おんがくからこうとかんがえた[8][9]

 
け、わがおもいよ (Va, pensiero)」の旋律せんりつ

としせまったある夕方ゆうがたまちちゅうでメレッリとヴェルディは偶然ぐうぜんった。メレッリはかれ強引ごういん事務所じむしょれ、旧約きゅうやく聖書せいしょナブコドノゾールおう題材だいざいにした台本だいほんけた。もうやるいヴェルディは帰宅きたく台本だいほんほうしたが、ひらいたページの台詞せりふけ、わがおもいよ、黄金おうごんつばさって (Va, pensiero, sull'ali dorate)」がはい[注釈ちゅうしゃく 2]ふたた音楽おんがくへの意欲いよくもどした[8][9][注釈ちゅうしゃく 3]

 
『ナブッコ』の舞台ぶたい(2004ねん

ソレーラに脚本きゃくほん改訂かいていおこなわせ、作曲さっきょくかさねたヴェルディは1841ねんあき完成かんせいさせた。かれ謝肉祭しゃにくさい時期じき公演こうえんされることかかわり、様々さまざま準備じゅんびて1842ねん3がつ9にちスカラ座すからざ初演しょえんむかえた。観客かんきゃくだい1まくだけでしみない賞賛しょうさんおくり、黄金おうごんつばさ合唱がっしょうでは当時とうじ禁止きんしされていたアンコール要求ようきゅうするまで熱狂ねっきょうした[注釈ちゅうしゃく 4]。1にちにしてヴェルディの名声めいせいたかめたオペラ『ナブッコ』は成功せいこうおさめた[8]

ガレーせん年月としつきと『マクベス』

編集へんしゅう

『ナブッコ』ははるに8かいあきにはスカラ座すからざしん記録きろくとなる57かい上演じょうえんされた[9]。ヴェルディは本人ほんにんこのみにかかわらず社交しゃこうかい寵児ちょうじとなり、クララ・マッフェイ英語えいごばんまねきにおうじてサロット・マッファイのサロンくわわった。このようなかれはイタリアを政治せいじてき雰囲気ふんいきかんった。一方いっぽうメレッリとは高額こうがく報酬ほうしゅう次回じかいさく契約けいやくわし、1843ねん2がつ愛国あいこくてき筋立すじだての[6]十字軍じゅうじぐんのロンバルディアじん』が上演じょうえんされ、これもミラノの観衆かんしゅう熱狂ねっきょうさせた。2さく各地かくち公演こうえんされ、『ナブッコ』の譜面ふめんマリーア・アデライデ・ダズブルゴ=ロレーナに、『十字軍じゅうじぐんのロンバルディアじん』のそれはマリア・ルイーザにそれぞれおくられた[10]

数々かずかず劇場げきじょうからオファーをけたヴェルディの次回じかいさくヴィクトル・ユーゴー原作げんさくから『エルナーニ』がえらばれ、台本だいほんしのフランチェスコ・マリア・ピアーヴェ担当たんとうした。ヴェルディは劇作げきさく妥協だきょうゆるさずなんもピアーヴェになおしをめいじ、出演しゅつえんしゃみずかえらび、リハーサルをかえさせた。1844ねん3がつヴェネツィアフェニーチェ劇場げきじょう初演しょえんむかえたほんさく期待きたいちがえず絶賛ぜっさんされた。それでもヴェルディはつぎ目指めざし、のちに「ガレーせん年月としつき[注釈ちゅうしゃく 5]回顧かいこする多作たさく時期じきはいった[10]

ローマよう制作せいさくしたジョージ・ゴードン・バイロン原作げんさくの『二人ふたりのフォスカリ英語えいごばん』(1844ねん11月)、ジャンヌ・ダルク主役しゅやくフリードリヒ・フォン・シラーさく戯曲ぎきょくから『ジョヴァンナ・ダルコ英語えいごばん』(1845ねん2がつ)、20日はつか程度ていどげた『アルツィーラ英語えいごばん』(8がつ)がつづけに上演じょうえんされ、どれも相応そうおう評価ひょうかけた。しかしヴェルディはリウマチ[よう曖昧あいまい回避かいひ]くるしみ、連作れんさくつかれに疲弊ひへいしつつあった。つづく『アッティラ』では男性だんせいてきすじからソレーラに台本だいほん依頼いらいするも仕事しごとおそうえ途中とちゅうスペイン旅行りょこう出掛でかける始末しまつでヴェルディを苛つかせた。ついにピアーヴェに仕上しあげさせるとソレーラとはたもとけた[11]。1846ねん3がつ封切ふうきりでも好評こうひょうはくしたが[11]過労かろう顕著けんちょになり[6]医者いしゃからは休養きゅうようるようにと助言じょげんされた[12]

1846ねんはるから、ヴェルディは完全かんぜん仕事しごとからはなれてすうヶ月かげつ休養きゅうようった。そして、ゆっくりと『マクベス』の構想こうそうった。ウィリアム・シェイクスピア同名どうめい戯曲ぎきょく題材だいざいに、台本だいほん制作せいさくするピアーヴェにはなん注文ちゅうもんをつけた。時代じだい考証こうしょうのためになんロンドンわせ、劇場げきじょうフィレンツェのベルゴラ劇場げきじょうめると前例ぜんれい衣裳いしょうリハーサルまでおこなわせた。特筆とくひつすべきは、出演しゅつえんしゃへ「作曲さっきょくではなく詩人しじんしたがうこと」とかえ指示しじしたてんがあり、そのために予定よていされた容姿ようし端麗たんれいのソプラノ歌手かしゅことわりもした[13][注釈ちゅうしゃく 6]。ここからヴェルディは音楽おんがく演劇えんげき融合ゆうごうつよ意識いしきして『マクベス』制作せいさくのぞんだことがうかがえる。さらにはゲネプロなかもっと重要じゅうようかんがえた二重唱にじゅうしょう部分ぶぶん稽古けいこをさせるなど、妥協だきょうゆるさぬ徹底てっていぶりをせた。1847ねん3がつ初演しょえんでヴェルディは38かいカーテンコールにち、その出来映できばえに観客かんきゃくおどろきをかくさなかった。ただし評価ひょうか一辺倒いっぺんとうではなく、華麗かれいさばかりにれた人々ひとびとにとってきつけられた悲劇ひげきてきテーマのおもさゆえに戸惑とまどいのこえがった[12]ほんさく価値かちただしく評価ひょうかされるには20世紀せいき後半こうはんまでたされた[13]

ジュゼッピーナと革命かくめい

編集へんしゅう

つぎ作品さくひん群盗ぐんとう英語えいごばん』ははじめてイギリス公演こうえんけにかれた。ヴェルディはスイス経由けいゆでパリにはいり、弟子でしのエマヌエレ・ムツィオをロンドンへ先乗さきのりさせ、引退いんたいして当地とうちうつんでいたジュゼッピーナ・ストレッポーニとひさしぶりにった。準備じゅんびじょうきょうるとヴェルディもロイヤル・オペラ・ハウスはい最後さいごめをおこなって、『群盗ぐんとう』は1847ねん7がつヴィクトリア女王じょおう観劇かんげきするなか開演かいえんされた。観客かんきゃく喝采かっさいしたが評論ひょうろんにはきびしい意見いけんもあり、さわがしい、まとまりがいというひょうもあった。これらは台本だいほんよわさや歌手かしゅへの配慮はいりょなどが影響えいきょうしたてんいていたが、『群盗ぐんとう』にはのちにヴェルディが得意とくいとするていいき男性だんせい重唱じゅうしょううつくしい旋律せんりつもあり、がいしてかれ国際こくさいてき名声めいせいたかめた[14]

帰路きろ、ヴェルディはパリにまってオペラ依頼いらいけた。しかし完全かんぜん新作しんさく用意よういする余裕よゆうく、『十字軍じゅうじぐんのロンバルディアじん』をフランス語ふらんすご改訂かいていした『イェルサレム』を制作せいさくした。そしてこの期間きかん頻繁ひんぱんにジュゼッピーナとい、やがて一緒いっしょむようになった。11月に公演こうえんされた『イェルサレム』の評判ひょうばんはいまひとつでわったが、かれ理由りゆうをつけてパリにまり、バレッツィを招待しょうたいさえした。1848ねん2がつには契約けいやく制作せいさくした『海賊かいぞく英語えいごばん』をミラノのムツィオにおくりつけ、かれはジュゼッピーナとの時間じかんたのしんでいた。そしてがつ革命かくめい目撃もくげきしゃとなったが、気楽きらく外国がいこくじん立場たちばでそれをたのしんでさえいた[15]

がつ革命かくめい影響えいきょう周辺しゅうへん諸国しょこくにもひろがり、3月にはミラノでもデモがおこなわれ、オーストリアぐんとの衝突しょうとつ勃発ぼっぱつし、ついにはこれを臨時りんじ政府せいふ樹立じゅりつされた。ヴェルディがミラノにもどったのはこの騒動そうどう一段落いちだんらくした4がつで、「志願しがんへいになりたかった」という感想かんそうこそらしたが5がつには仕事しごと理由りゆうにまたパリへかい、暫定ざんてい政権せいけん崩壊ほうかいにすることはかった[16]郊外こうがいパッシーでジュゼッピーナとらしたヴェルディはもどらず、『海賊かいぞく』は初演しょえんわないはじめてのオペラとなった。しかしかれ関心かんしんんでいたわけではなく、フランスやイギリスを見聞けんぶんした経験けいけんとうからイタリアでも統一とういつ機運きうんたかまること、しかしそれには様々さまざま問題もんだいがあることおもいをせていた。かれつぎ作品さくひん祖国そこくへのあいたからかにうたう『レニャーノのたたか』であり、あらたに共和きょうわこく樹立じゅりつされたローマ開演かいえんされた。ジュゼッピーナをともないヴェルディは訪問ほうもんしたが、観劇かんげきしゃたちは興奮こうふんして「イタリア万歳ばんざい」をさけび、かれ統一とういつのシンボルとまでみなしはじめていた[17]

喧騒けんそう渦中かちゅうにあり、またコレラ蔓延まんえんなどを理由りゆう都市としきらったヴェルディは1849ねんなつにジュゼッピーナをれてブッセートにもどり、オルランディていらしはじめた。ここでかれは『ルイザ・ミラー』や『スティッフェーリオ英語えいごばん』を仕上しあげ、人間にんげんしんげる次回じかいさくんだ。一方いっぽうまち人々ひとびとがふたり、とくにジュゼッピーナにけるいかめしかった。めないヴェルディが仕事しごとまちはなれるときは、彼女かのじょパヴィーアははたずねて一人ひとりのこらないようにした[18]

『リゴレット』

編集へんしゅう

台本だいほん制作せいさく指示しじされたピアーヴェは戸惑とまどった。ヴェルディがえらんだ次回じかいさく元本がんぽんはとてもオペラにはそぐわないとおもわれたからだった。はなやかさもく、つよ政治せいじしょくに、不道徳ふどうとくてきなあらすじ、そしてのろいをえがいたほんさく演劇えんげきとしてパリで上演じょうえん禁止きんしとなった代物しろものだった[19]あんじょう上演じょうえん予定よていのヴェネツィアの検閲けんえつ拒否きょひされた。なんかの修正しゅうせいくわわったが、ゆずれないところにはヴェルディは強硬きょうこうだった[19]原作げんさくしゃユーゴーさえオペラ反対はんたいした[注釈ちゅうしゃく 7]作品さくひんおうたのしむ』は、封切ふうき予定よてい1ヶ月かげつまえ許可きょかくだり、1851ねん3がつ初演しょえんむかえた。これが『リゴレット』であった[20]

『リゴレット』はあらゆる意味いみ型破かたやぶりな作品さくひんだった。皮切かわきりでおまりの合唱がっしょうく、会話かいわからはじまるだい一幕ひとまくカヴァティーナなる)からカバレッタきゅう)の形式けいしき逆転ぎゃくてんさせたアリア朗読ろうどく調ちょう二重唱にじゅうしょう、アリアと見紛みまが劇的げきてきなシェーナ(げき)の多用たよう[19]渾身こんしん自信じしんさくおんなごころのうた」、そして『マクベス』以来いらいヴェルディがもとめたげき重視じゅうしする姿勢しせいあらしなど自然しぜん描写びょうしゃたくみさ、主人公しゅじんこうであるせむしの道化どうけリゴレットのいかり、悲哀ひあいむすめへの愛情あいじょうなど感情かんじょうてるすじ音楽おんがく観衆かんしゅう圧倒あっとうし、イタリア・オペラいちだい傑作けっさく誕生たんじょうした[20]

サンターガタの農場のうじょう

編集へんしゅう

『リゴレット』の成功せいこうは、ヴェルディに創作そうさく活動かつどう充実じゅうじつ充分じゅうぶん財産ざいさん、そして時間じかんわれず仕事しごとえらべる余裕よゆうをもたらした。しかし私生活しせいかつ万事ばんじ順調じゅんちょうとはいかなかった。ジュゼッピーナにけられるブッセートの相変あいかわらずきびしく、それは家族かぞく例外れいがいではなかった。しかもちちカルロが息子むすこ管財かんざいじんになったと吹聴ふいちょうしてまわり、干渉かんしょうきらうヴェルディは両親りょうしん距離きょりき、1851ねんはる以前いぜん購入こうにゅうしていた郊外こうがいのサンターガタ(ヴィッラノーヴァ・スッラルダ)にある農場のうじょうきょうつした。6月にははくなったことかなしむが、ヴェルディはつぎ作品さくひんんでまぎらわした。年末ねんまつにはジュゼッピーナのためパリにうつり、その突然とつぜんさからバレッツィと少々しょうしょうめたが、翌年よくねんサンターガタにもどった2人ふたり元々もともとジュゼッピーナに味方みかたする義父ぎふは、その関係かんけい修復しゅうふくできた。

1853ねん1がつローマのアポロ劇場げきじょう封切ふうきりされた『イル・トロヴァトーレ』は若干じゃっかん旧来きゅうらい形式けいしきもどされたものだったがカヴァティーナ形式けいしき傑作けっさくとして[21]成功せいこうおさめ、ほぼ同時どうじ構想こうそうった次回じかいさくんだ[22]。しかしこの『椿つばきひめ』3がつのヴェネツィア初演しょえんは、ムツィオにてた手紙てがみかれたように「失敗しっぱい[23]となり2かい公演こうえんられた。充分じゅうぶんなリハーサルもれなかったうえ病弱びょうじゃくなヒロインをえんじるにはソプラノ歌手かしゅ健康けんこうてきぎた。3まくでヒロインがぬシーンでは失笑しっしょうさえれた[23]。しかしヴェルディは雪辱せつじょくえ、配役はいやくなどを見直みなおして5がつおなじヴェネツィアで再演さいえんすると、今度こんど喝采かっさいびた。この作品さくひんはヴェルディ唯一ゆいいつプリマドンナ・オペラであった[24]

しばらくのあいだサンターガタで休息きゅうそくり、ヴェルディはグランド・オペラへの挑戦ちょうせんという野心やしんめパリにんだ。しかしこれは成就じょうじゅしなかった。『シチリアの晩鐘ばんしょう制作せいさくでは、オペラ所属しょぞく台本だいほん作家さっかウジェーヌ・スクリーブに、その仕事しごとおそさも内容ないよう満足まんぞくできなかった。この仕事しごとかれを1ねん以上いじょう拘束こうそくし、ついには契約けいやく破棄はきさえした。どうさくは1855ねん6がつ公演こうえんされ好評こうひょうたが、結果けっかてきにヴェルディにとってはいらないものとなった。かれはすぐにでもイタリアにもどって「キャベツをえたい」とったが、過去かこ作品さくひん翻訳ほんやく上演じょうえんする契約けいやくなどにしばられ、サンターガタにかえったのは年末ねんまつになった[25]

サンターガタの農場のうじょうはヴェルディのしんやすまるとなっていた。すでおおくの小作こさくじんやとうまでに順調じゅんちょう経営けいえい収益しゅうえきげ、かれ音楽おんがくわすれてジュゼッピーナと農作業のうさぎょう日々ひびたのしんだ。しかし作曲さっきょくかう衝動しょうどうおさえがたく、かれはまた制作せいさくとうじる。手掛てがけたのが『スティッフェーリオ』の改訂かいていだった。舞台ぶたい中世ちゅうせいイギリスに変更へんこうしてピアーヴェになおさせたほんさくは『アロルド英語えいごばん』というだい公開こうかいされた。このころには上演じょうえんおうじた報酬ほうしゅう作曲さっきょくはらわれる習慣しゅうかん根付ねついたため、これもヴェルディの収入しゅうにゅう安定あんていさせた。つぎおくした新作しんさくシモン・ボッカネグラ』は朗読ろうどく重視じゅうししてうたおさえ、管弦楽かんげんがくほうによるとくうみ場面ばめん描写びょうしゃすぐれた逸品いっぴんだったが、1857ねん3がつ初演しょえんでは配役はいやくめぐまれず[26]、あまり評価ひょうかされなかった[27]

ヴェルディ万歳ばんざい

編集へんしゅう
 
かかげられた「ヴェルディ万歳ばんざい」。1859ねんのイラスト。

ヴェルディが次回じかいさくえらんだ題材だいざいは、様々さまざま問題もんだいしょうじた。ウジェーヌ・スクリーブの『グスタフ3せい』は、スウェーデンおうグスタフ3せい題材だいざいとしており、そもそも実在じつざい王族おうぞく登場とうじょう人物じんぶつにすることはナポリではきんじられていた。しかも暗殺あんさつされるというすじ検閲けんえつ当局とうきょくみとめない。さらにはナポレオン3せい暗殺あんさつ未遂みすい事件じけんき、状況じょうきょう悪化あっかした[28]契約けいやくしていた興行こうぎょうぬしのアルベルティは台本だいほん変更へんこう主張しゅちょうするがヴェルディはみとめず、ついには裁判さいばん沙汰ざたになった。これはヴェルディに不利ふりだったが世論せろんかれ後押あとおしし、結果けっか『シモン・ボッカネグラ』公演こうえん契約けいやく変更へんこうすることで和解わかいした。ヴェルディはナポリ上演じょうえんのためにほぼ完成かんせいしていた『グスターヴォさんせい』をローマにみ、舞台ぶたいをスウェーデンからアメリカ・ボストンに変更へんこうしたうえで、いくつかのアリアを差替さしかえるなど編曲へんきょくしたうえで、アポロ劇場げきじょうでの公演こうえんけた。こうして1859ねん2がつ改題かいだいくわえた『仮面かめん舞踏ぶとうかい』は開幕かいまくされた[29]

楽曲がっきょくうつくしさと演劇えんげきせい高度こうど両立りょうりつさせた内容ないよう秀逸しゅういつさもさることながら、そのすじ時代じだい雰囲気ふんいき適合てきごうし、『仮面かめん舞踏ぶとうかい』に観客かんきゃく熱狂ねっきょうした。サルデーニャ国王こくおうヴィットーリオ・エマヌエーレ2せいは、周辺しゅうへん諸国しょこくとの関係かんけい変化へんかけ1がつ国会こっかい統一とういつけた演説えんぜつおこない、イタリア全土ぜんど機運きうんたかまっていた[28]。このスローガンViva Vittorio Emanuele Re D'Italia(イタリアのおうヴィットーリオ・エマヌエーレまんさい)がりゃくされ「Viva VERDI」(ヴェルディ万歳ばんざい)と偶然ぐうぜんになった[30][31]ことが起因きいんし、かれ時代じだい寵児ちょうじげた[29]。このオペラの成功せいこうによってローマのアカデミア・フィラルモニカ名誉めいよ会員かいいん選出せんしゅつされたヴェルディは、一方いっぽう聴衆ちょうしゅう作品さくひん正当せいとう評価ひょうかけていないとかんじ、「もうオペラはかない」とってつぎ契約けいやくことわり、サンターガタの農場のうじょうめた[29]

再婚さいこん政治せいじ

編集へんしゅう
 
メルキオーレ・デルフィコによって漫画まんがされたヴェルディ、1860ねん

1859ねん8がつ29にち、ヴェルディとジュゼッピーナはサヴォアのコロンジュ・スー・サレーヴで結婚式けっこんしきげた[32]。45さい新郎しんろうと43さい新婦しんぷは、馬車ばしゃ御者ぎょしゃ教会きょうかい鐘楼しゅろうもりだけしか参列さんれつしない簡単かんたん質素しっそしきげた[28]夫妻ふさい平穏へいおん生活せいかつおくったが、イタリアはだい独立どくりつ戦争せんそうでオーストリアに勝利しょうりし、このらせにはヴェルディもよろこんだ[33]

だがそれはすぐに失望しつぼうわった。おなじくオーストリアと対立たいりつしイタリアを支援しえんしたナポレオン3せいひそかにオーストリアとつうヴィッラフランカの講和こうわった。エマヌエーレ2せいはしぶしぶこれをみ、宰相さいしょうカミッロ・カヴール辞任じにんした。しかし、かく公国こうこく領主りょうしゅそうはことごとく亡命ぼうめいし、民衆みんしゅうによる暫定ざんてい政府せいふげられていた。

 
カミッロ・カヴール。

パルマ公国こうこくモデナ合併がっぺいされて議会ぎかいひらかれることになり、ブッセート当局とうきょく地域ちいき代表だいひょうをヴェルディに打診だしんした。政治せいじ資質ししつなどないと自覚じかくしていたが、かれはイタリアのためとこれをけた。9月7にちひらかれたパルマ議会ぎかいはサルデーニャ王国おうこくとの合併がっぺい決議けつぎし、ヴェルディはパルマの代表だいひょうとして王国おうこく首都しゅとトリノでエマヌエーレ2せい謁見えっけんした。さらにかれ郊外こうがい隠棲いんせい農業のうぎょうをしていたカヴールとい、音楽おんがくからいた農夫のうふとして政治せいじからいた農夫のうふはなった[33]

そのサンターガタにもどったヴェルディはつまとジェノヴァ旅行りょこうたのしむなど平穏へいおんごしたが、イタリア情勢じょうせいはまたうごはじめた。事態じたいすすめられない内閣ないかくをエマヌエーレ2せい罷免ひめんし、カヴールが復帰ふっきするとかく小国しょうこくとの合併がっぺいすすみ、1861ねん統一とういつ成就じょうじゅしてイタリア王国おうこく誕生たんじょうした。カヴールは初代しょだい首相しゅしょう就任しゅうにんし、かれはヴェルディに国会こっかい議員ぎいん立候補りっこうほするようすすめた。議会ぎかいちゅうしずかにすわっている自信じしんいとことわるヴェルディはぎゃく説得せっとくされしぶしぶち、かれ当選とうせんした[34]下院かいん議員ぎいん一員いちいんとなったヴェルディに能力のうりょく野心やしんく、ただカヴールに賛成さんせいするだけでごしたが、6がつとうのカヴールがくなると意欲いよくせ、4ねん任期にんきちゅう[35]とく目立めだ政治せいじ活動かつどうおこなわなかった[33]

音楽おんがくみ、またかれる

編集へんしゅう

1861ねんあき、ヴェルディは音楽おんがく制作せいさくもどっていた。激変げきへんしたイタリアに刺激しげきされたこと、また、まだらぬロシアからのオファーがんだことも情熱じょうねつてた。一流いちりゅう歌手かしゅそろペテルブルク帝室ていしつ歌劇かげきじょう期待きたいさせた。題材だいざいスペイン戯曲ぎきょくもとめ、げたきょくたずさえて12月に夫妻ふさい汽車きしゃ乗客じょうきゃくとなった。しかし、ソプラノ歌手かしゅ体調たいちょうくずして舞台ぶたい中止ちゅうしされ、しつとすならばと数ヶ月すうかげつ単位たんい延期えんきめて夫妻ふさいはパリにかった[36]

1862ねん2がつ、ヴェルディはパリでロンドン万国博覧会ばんこくはくらんかいよう作曲さっきょく依頼いらいけた。これはドイツのジャコモ・マイアベーア、フランスのダニエル=フランソワ=エスプリ・オベールならんだ打診だしんであり、ヴェルディはいわばイタリア代表だいひょうともえた。かれは「しょ国民こくみん賛歌さんか (Inno delle Nazioni)」を作曲さっきょくし、見物けんぶつねてロンドンを訪問ほうもんしたが、万博ばんぱく音楽おんがく監督かんとく担当たんとうしたナポリ出身しゅっしん作曲さっきょく面白おもしろくなくおもったのか「しょ国民こくみん賛歌さんか演奏えんそうことわった。結果けっかべつ演奏えんそうされ好評こうひょうはくしたが、このきょくのイタリア公演こうえんふたた不穏ふおんさをした政治せいじ情勢じょうせいかんがみてことわった[36]

そしてあきになり、ふたたびペテルブルクにはいったヴェルディは11月に開演かいえんした『運命うんめいちから』に一定いってい満足まんぞくて、しかもせいスタニスラス勲章くんしょうおくられる栄誉えいよさずかった。ただしこの作品さくひん都市としではあまり評価ひょうかされなかった。3にんむかえてわるフィナーレ、場面ばめん強調きょうちょうするあまりすじのつながりがわるいなど、台本だいほん無理むりがあった。しかし音楽おんがくでは、脇役わきやくふくめた人物じんぶつ特徴とくちょう表現ひょうげんする多彩たさい合唱がっしょうや、テーマや場面ばめんそして人物じんぶつ感情かんじょう変化へんかなどをつな音楽おんがくはヴェルディの創意そうい反映はんえいしていた。すうねんには台本だいほん改訂かいていけて再演さいえんされ、ほん作品さくひんたか評価ひょうかされた[36]

翌年よくねん、『運命うんめいちから』スペイン公演こうえん指揮しきし、さらに『シチリアの晩鐘ばんしょう再演さいえんのためヴェルディはパリにはいった。だが、相変あいかわらずオペラ仕事しごとおそくいい加減かげんで、リハーサルを面倒臭めんどうくさがる団員だんいんたちにヴェルディはいかりを爆発ばくはつさせイタリアにかえってしまった[37]

 
エティエンヌ・カルジャ英語えいごばんによるヴェルディの肖像しょうぞう。1867ねん

サンターガタにみ、夫妻ふさい農場のうじょう経営けいえいせいすヴェルディは「むかしからわたし農民のうみんだ」とうそぶいていた。しかしイタリア音楽おんがくかいにはドイツからあたらしいふうさらされ、わか作曲さっきょくたちはリヒャルト・ワーグナーからつよ影響えいきょうけてヴェルディを過去かこひととみなしはじめていた。かれはそのような評判ひょうばんながしつつも、皮肉ひにくかえすなど内心ないしんおだやかでなかった。そして興行こうぎょうぬしからはヴェルディの才能さいのう依然いぜんたか評価ひょうかされていた。1864ねんなつにパリで出版しゅっぱんいそしむエスキュディエから『マクベス』改訂かいていばん上演じょうえん打診だしんされると、これをヴェルディはけた。しかし、ヴェルディの思想しそうとフランス観衆かんしゅう嗜好しこうわず、1865ねん公演こうえん失敗しっぱいした[37]

だが、1867ねんにヴェルディは、パリ万国博覧会ばんこくはくらんかい記念きねんのオペラ制作せいさく依頼いらいを、しかも会場かいじょうがあのオペラながら受諾じゅだくする。フリードリヒ・フォン・シラー戯曲ぎきょく題材だいざいえらはじまった制作せいさくかれ集中しゅうちゅうする。傲慢ごうまん孤独こどくあいだうご主人公しゅじんこう心情しんじょうえがすソロは旋律せんりつだけにたよらず楽器がっき音色ねいろ効果こうかてき使つかい、宗教しゅうきょう国家こっか対立たいりつ結末けつまつ前例ぜんれいいバスの二重唱にじゅうしょう表現ひょうげんする。げきせい重視じゅうしする姿勢しせいはより鮮明せんめいした[37]

しかし、結果けっかはまたも惨憺さんたんたるものでわる。前作ぜんさく同様どうようパリはオペラに必要ひつようバレエ挿入そうにゅうもとめ、また観客かんきゃく夕食ゆうしょくから最終さいしゅう列車れっしゃまでのあいだ観劇かんげきわるようにすじ短縮たんしゅくせまり、オペラ怠慢たいまんまったわらない。綿密めんみつ構想こうそうきざまれては観客かんきゃくしんつかめず、1867ねん3がつ開演かいえんの『ドン・カルロ』は酷評こくひょうさらされ、敗北はいぼくしたヴェルディはそののオペラからの打診だしんけなかった[37]

またもヴェルディが音楽おんがく活動かつどう休止きゅうしした。1868ねん2がつちちカルロがくなった。かれおとうと(ヴェルディの叔父おじ)のむすめフィロメーナを養育よういくしていたが、彼女かのじょはヴェルディ夫妻ふさい養女ようじょとした。半年はんとし今度こんどはもうひとりのちちであるアントーニオ・バレッツィの看取みとった。やまいたおれてからはつまジュゼッピーナも看病かんびょうかよっていたが回復かいふくかなわず、ヴェルディがくピアノ「黄金おうごんつばさ」をきながらいきった[38]

 
テレーザ・シュトルツ英語えいごばん時期じきしょう。パルマ、Roberto Spocci コレクション[39]

同年どうねんあき、ヴェルディは尊敬そんけいするどう時代じだいじんのひとりジョアキーノ・ロッシーニに、著名ちょめいなイタリアじん作曲さっきょくたちとのレクイエム組曲くみきょくともさくすることになった。しかしかれ熱心ねっしんんだが、報酬ほうしゅうであったためものはいまひとつらず計画けいかく頓挫とんざした。ヴェルディは、これは長年ながねん友人ゆうじんであり、指揮しき予定よていされていたアンジェロ・マリアーニ熱意ねつい不足ふそくしていたためと非難ひなんした。これにより2人ふたり友情ゆうじょうこわれた。この背景はいけいには、ヴェルディ夫妻ふさい度々たびたびヴェネツィアを旅行りょこうしたさい、マリアーニは婚約こんやくしていたソプラノ歌手かしゅテレーザ・シュトルツ英語えいごばんっていたが、かんがかたちがいなどが影響えいきょうしマリアーニとシュトルツの関係かんけい段々だんだん悪化あっかしていった。マリアーニは、シュトルツがヴェルディに気持きもちをかたむはじめたためとの疑念ぎねんっており、計画けいかくでなかったことがあった[38]

『アイーダ』

編集へんしゅう
 
『アイーダ』のポスター(1908ねん、オハイオ、クリーブランド)

1869ねん、ヴェルディは『運命うんめいちから』に改訂かいていほどこしてひさしぶりとなるスカラ座すからざ公演こうえんおこなった。結末けつまつ変更へんこうし、あたらしいきょくくわえたほんさく成功せいこうした。とくにソプラノのテレーザ・シュトルツはかがやき、ヴェルディは満足まんぞくした。それでも音楽おんがく世界せかいもどろうとはしなかった。1871ねんなんもオファーをかえしていたオペラ監督かんとくデュ・ロクルはエジプトからあたらしいオペラハウスよう依頼いらいんだ。遠隔えんかくでもありでなかったヴェルディだが、劇場げきじょうがわはそれならばグノーワーグナーはなしちかけるとほのめかしてきつけ、かれ受諾じゅだくした。しかしヴェルディは破格はかく条件じょうけんをつけ、報酬ほうしゅうは『ドン・カルロ』の3ばいたる15まんフラン、カイロ公演こうえん監修かんしゅうしないこと、さらにイタリアでの初演しょえんけんにした[38][40]

仕事しごとはじまればヴェルディは集中しゅうちゅうする。ったスケッチからデュ・ロクルと共同きょうどう台本だいほん制作せいさくし、エジプトの衣裳いしょう楽器がっき、さらには信仰しんこう詳細しょうさいまで情報じょうほうれて[40]みがきをかけ『アイーダ』を仕上しあげた。ところが7がつひろしふつ戦争せんそう勃発ぼっぱつし、パリで準備じゅんびしていた舞台ぶたい装置そうちせなくなり、カイロ開演かいえん延期えんき余儀よぎなくされた。一方いっぽうでヴェルディはスカラ座すからざ公演こうえん準備じゅんび予定よていどおすすめ、あわてたエジプトがわはこのとしのクリスマスになにとか開演かいえん目処めどをつけた。わだかまりからマリアーニは指揮しきことわり、自身じしんわないヴェルディは若干じゃっかん不安ふあんおぼえたが、初演しょえんだい好評こうひょうはくした。そして1872ねん2がつ、アイーダやくのシュトルツのために「おお、祖国そこく」をくわえた『アイーダ』はスカラ座すからざ開演かいえんし、だい喝采かっさいびた[38]。なお、『アイーダ』はしばしば1869ねんスエズ運河うんが開通かいつう記念きねんするために制作せいさくされたというせつべられるが、これはある有名ゆうめい批評ひひょう個人こじんてき憶測おくそくもとになっている俗説ぞくせつぎない[41]

『アイーダ』はヴェルディの集大成しゅうたいせいえる作品さくひんである。コンチェルタート力強ちからづよ明瞭めいりょう旋律せんりつ仕上しあげ、かく楽器がっき音色ねいろ最大限さいだいげんかしたうえ、「凱旋がいせん行進曲こうしんきょくようながいバルブを特製とくせいアイーダ・トランペット開発かいはつした[42]長年ながねん目指めざしたきょくげきとの融合ゆうごうでは、「うた」を演劇えんげきおおきな構成こうせい要素ようそ仕立したてて、アリア、シェーナレチタティーヴォなど旧来きゅうらいのどのような形式けいしきにもてはまらず、げき全体ぜんたいつな独唱どくしょう合唱がっしょう実現じつげんした。パリの経験けいけん上手うま消化しょうかし、バレエも効果こうかてき挿入そうにゅうされた。さらに『椿つばきひめ以来いらいとなる女性じょせい主役しゅやくとしたあらすじは、以前いぜんのほとんどの作品さくひんにあった悲劇ひげきてきではない官能かんのうてきせいとのわかれでえ、観客かんきゃくつよ魅了みりょうした[38]

『アイーダ』と改訂かいていばん『ドン・カルロ』はイタリアから世界せかい各地かくち上演じょうえんされ、どれも好評こうひょうた。ヴェルディはナポリの初演しょえんうが、そのかたわらにはつまジュゼッピーナだけでなくシュトルツもい、新聞しんぶんのゴシップネタとなった。これにたいしヴェルディは沈黙ちんもくし、ジュゼッピーナはなやみつつも醜聞しゅうぶんが、すでにマリアーニとの婚約こんやく解消かいしょうしていたシュトルツのみみはいらないようくばった[43]

1873ねんにヴェルディは、くなった尊敬そんけいする小説しょうせつであり詩人しじんであったアレッサンドロ・マンゾーニたたえる『レクイエム』を作曲さっきょくした。これには、ロッシーニにささげる「レクイエム」の一部いちぶもちいていた。いち周忌しゅうきの1874ねん5がつにミラノのだい聖堂せいどう公演こうえんされたどうきょくは3にちスカラ座すからざ再演さいえんされるが、そこではよもや死者ししゃ追悼ついとうするきょくから劇場げきじょうのそれに変貌へんぼうし、賞賛しょうさん非難ひなん複雑ふくざつった[43]。それでもヴェルディの栄華えいが最高潮さいこうちょうにあった。パリではレジオンドヌール勲章くんしょうとコマンデール勲章くんしょうさずかり、作品さくひん著作ちょさくけんりょう収入しゅうにゅう莫大ばくだいなものとなっていた[44]

農場のうじょう経営けいえい順調じゅんちょうそのもので、した土地とち当初とうしょばい以上いじょうになり、やと小作こさくじんじゅうすうにんまでになった。ちちくなったさいった従妹じゅうまいはマリアと改名かいめいし18さいむかえて結婚けっこんした。相手あいてはパルマの名門めいもんいち家出いえでのアルベルト・カルラーラであり、夫婦ふうふはサンターガタに同居どうきょした。邸宅ていたくはヴェルディみずからが設計せっけいし、増築ぞうちくかえしておおきな屋敷やしきになっていた。自家製じかせいワインたのしみ、ふゆのジェノヴァ旅行りょこう恒例こうれいとなった[44]

その一方いっぽうおおやけこときらい、1874ねんには納税のうぜいがくおおさから上院じょういん議員ぎいん任命にんめいされるが、議会ぎかいにはいち出席しゅっせきしなかった。慈善じぜん活動かつどうには熱心ねっしんで、奨学しょうがくきんはし建設けんせつ寄付きふをしたり、病院びょういん建設けんせつ計画けいかくにもんだ[44]。そのころかれはほとんど音楽おんがくさず、「ピアノのぶたけない」期間きかんが5年間ねんかんつづいた[44]

かれ音楽おんがく世界せかいもどるのは1879ねんになる。手遊てあそびの作曲さっきょくおもいのり」「アヴェ・マリア」をはじめたことをいたリコルディはジュゼッピーナとともにはたらきかけ、シュトルツの引退いんたい公演こうえんとなるスカラ座すからざの『レクイエム』指揮しきけさせた。成功せいこうわった初演しょえんよる夕食ゆうしょくともにしたジューリオ・リコルディはヴェルディにひさしぶりの新作しんさく打診だしんした。後日ごじつアッリーゴ・ボーイト持参じさんしたシェイクスピア作品さくひん台本だいほんったが、いまひとつりがつかずボーイトに改訂かいてい指示しじあたえ、サンターガタにおくるようにってそのしのいだ[44]

集大成しゅうたいせい『オテロ』

編集へんしゅう
 
ヴェルディの肖像しょうぞう(J.ボルデイーニさく)(1886ねん

1879ねん11月、農場のうじょうとどいたボーイトの台本だいほんオテロ』に、ヴェルディは興味きょうみをそそられる。早速さっそくミラノにはないをおこなった。しかしヴェルディはすうねんのブランクに不安ふあんおぼえ、なかなか契約けいやくむすばなかった。そこでリコルディはまたも一計いっけいあんじ、ボーイトとともさくで『シモン・ボッカネグラ改訂かいていばん制作せいさく提案ていあんした。大胆だいたんなボーイトの手腕しゅわん触発しょくはつされてヴェルディもあらたな作曲さっきょくくわえ、1881ねん3がつスカラ座すからざ公演こうえんはかつてとはってわって大盛おおもりきょう[44]

 
1879ねん、イギリスの雑誌ざっしバニティ・フェア』に掲載けいさいされたヴェルディの肖像しょうぞう

そして『オテロ』はうごはじめたが、なかなか順調じゅんちょう物事ものごとすすまなかった。リコルディとボーイトがサンターガタを訪問ほうもん台本だいほんめた。しかし『ドン・カルロ』3度目どめ改訂かいていばん制作せいさく半年はんとし足止あしどめをけた。さらに1883ねん2がつにワーグナーの訃報ふほうれると、「かなしい、かなしい、かなしい…。その芸術げいじゅつ歴史れきし偉大いだいなる足跡あしあとのこした[注釈ちゅうしゃく 8][45]」とのこすほどヴェルディはしずんだ。かれきらうドイツの、その音楽おんがく代表だいひょうするワーグナーに、ヴェルディはライバルしんをむきしにすることもあった[注釈ちゅうしゃく 9]が、その才能さいのうみとめていた。そして、どう年齢ねんれいのワーグナーなど、かれ時代じだいともにしたおおくの人物じんぶつすでったことに落胆らくたんかくせなかった[44]

それでも1884ねんの『ドン・カルロ』改訂かいていばん公演こうえん好評こうひょううちえると作業さぎょうにも拍車はくしゃがかかりはじめた。ボーイトはヴェルディを尊敬そんけいし、ヴェルディはボーイトから刺激しげきけながら共同きょうどうんだ。とくにヴェルディは登場とうじょう人物じんぶつ「ヤーゴ」へのこだわりをせ、それにげられて作品さくひん全体ぜんたい仕上しあがっていった。そして1886ねん11月に、7ねん期間きかんをかけた『オテロ』は完成かんせいした[44]

1887ねん2がつ、ヴェルディ16ねんぶりの新作しんさくオペラ『オテロ』初演しょえんスカラ座すからざは、期待きたい以上いじょう出来映できばえにった。チェロ演奏えんそう担当たんとうしていたわかアルトゥーロ・トスカニーニ実家じっかのパルマにもどっても興奮こうふんめやらず、母親ははおやをたたきこして素晴すばらしさをさけんだという[44]。『リゴレット』をえるあらし表現ひょうげん開幕かいまくし、かく登場とうじょう人物じんぶつ明瞭めいりょうえがし、かれ追求ついきゅうしたげききょくない融合ゆうごうはさらにたかまとめられた。かつてのうつくしい旋律せんりつくなったとのひょうもあるが、『オテロ』にてヴェルディはそのようなことかかわらず、完成かんせいたか劇作げきさく現実げんじつのものとした[44]

わらいでひっくりかえ

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『オテロ』を成功せいこうえたヴェルディは虚脱きょだつかんおそわれていた。ローマ開演かいえん招待しょうたいことわり、また農場のうじょうむと、建設けんせつされた病院びょういん運営うんえいなど慈善じぜん事業じぎょうんだ。そして、引退いんたいした音楽家おんがくからが貧困ひんこんれて生涯しょうがいえるさまをんでいたヴェルディは、かれらのためにおわりの棲家となる養老ようろういん建設けんせつ計画けいかくした。これにはボーイトのおとうと建築けんちくカミッロ英語えいごばん協力きょうりょくしゃとなった[46]

一方いっぽうでボーイトは、ヴェルディの才能さいのう枯渇こかつしていないことを見抜みぬいていた。しかし一筋縄ひとすじなわではいかないと、ヴェルディの心残こころのこりをことにした。散々さんざん評価ひょうかわった『いちにちだけの王様おうさま以来いらい、ヴェルディが喜劇きげきめたことはかった。ボーイトはシェイクスピアの『ウィンザーの陽気ようき女房にょうぼうたち』を下敷したじきにいちさつのノートをき、ヴェルディにしめした。そして魅力みりょくてき数々かずかず言葉ことばげた。「悲劇ひげきくるしいが、喜劇きげきひと元気げんきにする」「はなやかにキャリアをめくくるのです」「わらいで、すべてがひっくりかえります」と。ヴェルディはった[46]

 
『ファルスタッフ』を監修かんしゅうするヴェルディをえがいたスケッチ。フランスの週刊しゅうかんユニヴェール・イリュストレ」が1894ねん掲載けいさい[47]

二人ふたり秘密裏ひみつり制作せいさくおこなった。ヴェルディが新作しんさくオペラにんだことがれると興行こうぎょうぬしたちがだまっていないじょうすで老齢ろうれいかれには自信じしんかった。したしい友人ゆうじん訃報ふほうも、かれ気力きりょくえさせた。しかし、ボーイトが提案ていあんした台本だいほん面白おもしろく、シェイクスピアを楽曲がっきょくやく作業さぎょう主人公しゅじんこうふとっちょに息吹いぶきむことは心底しんそこたのしめた。途中とちゅう、リコリディにばれてしまったが、1ねんはんをかけて『ファルスタッフ』は仕上しあがった。つぎスカラ座すからざ場所ばしょうつし、ヴェルディはリハーサルにかかった。主演しゅえんには『シモン・ボッカネルラ』改訂かいていばんや『オテロ』をえんじた実績じっせきヴィクトル・モレル英語えいごばんつとめることになった。ヴェルディは相変あいかわらず完璧かんぺきもとめ、7-8あいだのリハーサルもおこなわれた[46]

そして1893ねん2がつ、79さいになったヴェルディの新作しんさく『ファルスタッフ』は開幕かいまくした。かれ目指めざしたげききょく融合ゆうごう喜劇きげきにおいても健在けんざいで、むしろ圧倒あっとうするよりも機微きびんだ雰囲気ふんいきびて繊細せんさいさがした。アンサンブル多種たしゅ多様たようで、対位法たいいほうも2まくコンチェルタート複雑ふくざつポリフォニー実現じつげんした。最後さいごには喜劇きげきつかわしくないフーガをあえてもちいながら、モレルえんじる太鼓腹たいこばら主人公しゅじんこうに「最後さいごわらえばいいのさ」と陽気ようきめくくらせた[46]

晩年ばんねん

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ヴェルディが建設けんせつした、音楽家おんがくかたちの「いこいのいえ

『ファルスタッフ』は上演じょうえんされた各地かくち喝采かっさいび、他人たにん強制きょうせいされることを極度きょくどきらっていたヴェルディもかった。1894ねんにはフランス語ふらんすごばん『オテロ』がいわくつきのオペラ公演こうえんされることになったが、ヴェルディはかかわらずバレエをくわえた。初演しょえんではフランスだいさん共和きょうわせい大統領だいとうりょうカジミール・ペリエから2度目どめのレジオンドヌール勲章くんしょうけた。80さいえてもまだ精力せいりょくてきえるヴェルディにだれもが次回じかいさく期待きたいし、ボーイトもあたらしい台本だいほんひそかに準備じゅんびしていた。しかし、かれすで引退いんたい決意けついしていた[48]

ヴェルディはサンターガタにもどり、音楽おんがくではない仕事しごと熱心ねっしんんだ。構想こうそうあたためていた音楽家おんがくかのためのカーザ・ディ・リポーゾ・ペル・ムズィチスティ(Casa di Riposo per Musicisti、音楽家おんがくかのためのいこいのいえ英語えいごばん建設けんせつにオペラ制作せいさく同様どうよう情熱じょうねつをかけた。趣味しゅみてき作曲さっきょくおこない、「聖歌せいかよんへん」もこのころつくられた。おおやけのことはきらって、イタリア政府せいふ勲章くんしょうもドイツ出版しゅっぱんしゃ伝記でんきことわった。そのなかでもミラノの音楽おんがくいんこうめいを「ジュゼッペ・ヴェルディ音楽おんがくいん」にえようとすることには我慢がまんがならずこえらげた。同校どうこう改名かいめいはヴェルディの死後しごおこなわれた[48]

だが1898ねんあき、ヴェルディは伴侶はんりょジュゼッピーナを肺炎はいえんうしなった(そのもミラノにて生活せいかつ。Deagostiniかん『The Classic Collection』だい14ごうよ)。いまわのさい彼女かのじょかれきなスミレにしながらいきった。ヴェルディはえて落胆らくたんし、むすめマリアやボーイト、そしてシュトルツがった。しばらくしてすこ回復かいふくし、恒例こうれいのヴェネツィアへも出掛でかけたが、かれ自身じしんみずからのいをかんっており、1900ねん4がつごろには遺書いしょ用意よういした[48]

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  昏睡こんすい状態じょうたいのヴェルディ。1901ねん

同年どうねんまつむすめマリアと一緒いっしょにミラノでクリスマスをごし、定宿じょうやどとなっていたグランドホテル・エ・デ・ミランでとししていた。1がつ20日はつかあさきぬけのヴェルディはのう血管けっかん障害しょうがいこしてたおれ、意識いしきうしなった。おおくの知人ちじん連絡れんらくとどき、シュトルツ、リコルディ、ボーイトらがけつけた。王族おうぞく政治せいじかれのファンなどから見舞みまいの手紙てがみとどき、ホテルまえとおりには騒音そうおん防止ぼうしわらめられた。しかし、1901ねん1がつ27にち午前ごぜん245ふんごろ偉大いだい作曲さっきょくけん農家のうかおとこは87さい死去しきょした[48][49]

同日どうじつあさかんがホテルを出発しゅっぱつして「いこいのいえ」にはこばれ、ジュゼッピーナがねむ礼拝れいはいどうほうむられた。出棺しゅっかんにはアルトゥーロ・トスカニーニが指揮しきし820にん歌手かしゅが「け、わがおもいよ」をうたった[50]遺言ゆいごんでは簡素かんそしきのぞんでいたが、はんして1ヶ月かげつには壮大そうだい国葬こくそう[50]おこなわれ[48][注釈ちゅうしゃく 10]、トスカニーニ指揮しきした『イル・トロヴァトーレ』から「ミゼレーレ (Miserere)」がうたわれた[50]かれはかには、最初さいしょつまマルゲリータの墓標ぼひょう二人ふたりつまジュゼッピーナが沿い、のちくなったシュトルツのはかひかえめにくちのバルコニーにある[48]

作品さくひん

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作品さくひん変遷へんせん

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ヴェルディの時代じだい

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ブッセートのヴェルディ公園こうえん (Piazza G. Verdi) にあるかれぞう

イタリア・オペラにおいて、1842ねんの『ナブッコ』から1871ねんの『アイーダ』までの30年間ねんかんとくに「ヴェルディの時代じだい」とばれ、歌手かしゅ技量ぎりょう依存いぞんする度合どあいがたかベルカント衰退すいたいしてゆき、わってげき重視じゅうしした作品さくひん構成こうせい主流しゅりゅうとなった転換期てんかんき相当そうとうする[51]。これはヴェルディとワーグナーが導入どうにゅうした手法しゅほうによるが、イタリアの変革へんかく前者ぜんしゃによる影響えいきょう圧倒的あっとうてきである[52]

ヴェルディの生涯しょうがいとおしたオペラ作品さくひんは、3もしくは4区分くぶん解釈かいしゃくされることがおおい。『オベルト』から『スティッフェリーオ』までをだい1、『リゴレット』から『アイーダ』までをだい2晩年ばんねんの『オテロ』と『ファルスタッフ』をだい3場合ばあいと、晩年ばんねんどうじながら『マクベス』の存在そんざい重視じゅうしして『アッティラ』までを1、『マクベス』から『椿つばきひめ』までを2、『シチリアの晩鐘ばんしょう』から『アイーダ』までを3のこりを4とするかんがえもある。以下いかでは4区分くぶんじく解説かいせつする[52]

デビューから『アッティラ』まで

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1のヴェルディ作品さくひんには愛国あいこく精神せいしん高揚こうようさせる題材だいざいおおく、『ナブッコ』でえがいた権力けんりょくしゃしいたげられた人民じんみん対比たいひ皮切かわきりに[53]とくにそれを意図いとした[53]十字軍じゅうじぐんのロンバルディアじん好評こうひょうしゅ要因よういんとなった。当時とうじウィーン会議かいぎ(1814-1815ねん以降いこう他国たこく支配しはいされた状況じょうきょうへの不満ふまんリソルジメントがりをせていた。なんもの反乱はんらん勃発ぼっぱつ挫折ざせつてきたイタリアじんたちは、1846ねん即位そくいしたピウス9せい政治せいじはん特赦とくしゃおこなったことで光明こうみょう見出みいだしていた。この時期じきのヴェルディ作品さくひんはそのような時流じりゅう[6]、エネルギッシュでありあたらしい時代じだい到来とうらいかんじさせ[1]聴衆ちょうしゅう欲求よっきゅうてた[53]。それは聴衆ちょうしゅう魅了みりょうすることに敏感びんかんなヴェルディの感覚かんかくからみちびかれたとも[4]。しかし、作品さくひん完成かんせい登場とうじょう人物じんぶつげ、げき構成こうせいなどにはおと部分ぶぶん指摘してきされる[6]

『マクベス』にはじまる人間にんげん表現ひょうげん

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2はじまりとなる『マクベス』は、怪奇かいきせい全体ぜんたいめ、主人公しゅじんこうのマクベス夫妻ふさい欲望よくぼう悲劇ひげきすじとなる台本だいほんであった。ヴェルディはこの特異とくいせい最大限さいだいげんかしたこまかな心理しんり描写びょうしゃ重視じゅうし[53]ベルカント否定ひていしてレチタティーヴォ中心ちゅうしんえるなど[13]合唱がっしょうがこの雰囲気ふんいきこわさないことにしんくだいた。当時とうじのオペラには演出えんしゅつはおらず、ヴェルディは『マクベス』で150かいえるリハーサルをおこない、シェイクスピアを表現ひょうげんするという総合そうごう芸術げいじゅつ目指めざした[13]。『群盗ぐんとう』は主役しゅやくジェニー・リンドてることに重点じゅうてんかれ、すすまないまま制作せいさくした[53]海賊かいぞく』は従来じゅうらいからの傾向けいこうつよかった。『レニャーノのたたかい』は時局じきょく追随ついずいする愛国あいこく路線ろせん最後さいご作品さくひんとして、それぞれ進歩しんぽせいりをひそめた。しかし、『ルイザ・ミラー』や『スティッフェーリオ』からは人物じんぶつ心理しんりあらわ方向ほうこうせいふたたしめされはじめた作品さくひんで、最初さいしょ観客かんきゃくから理解りかいられなかった[1]

しかし『リゴレット』ではみにくいせむしおとこふく主要しゅような4人物じんぶつそれぞれの特徴とくちょう四重唱しじゅうしょう[53]対比たいひさせ、げき進行しんこうつくげた。この傾向けいこう動的どうてき[53]『イル・トロヴァトーレ』主役しゅやく復讐ふくしゅうえるジプシーおんな静的せいてき[53]椿つばきひめ主役しゅやく高級こうきゅう娼婦しょうふ悲哀ひあい表現ひょうげんする劇作げきさくにおいて、より顕著けんちょなものとなった[54]。『リゴレット』『イル・トロヴァトーレ』『椿つばきひめ』は単純たんじゅん善悪ぜんあく対立たいりつではなく、複雑ふくざつ人間にんげんせい音楽おんがく融合ゆうごうさせてえがした中期ちゅうきさんだい傑作けっさくとなった[53]

国籍こくせきオペラへ

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『アイーダ』「凱旋がいせん行進曲こうしんきょく」の旋律せんりつ

『シチリアの晩鐘ばんしょう』の出来できはヴェルディに不満ふまんのこした[25]が、フランス・オペラでの仕事しごとつうかれはグランド・オペラの手法しゅほうれた[1]。『シモン・ボッカネグラ』『仮面かめん舞踏ぶとうかい』『運命うんめいちから』は改訂かいていばんふく劇作げきさくせいたかめる方向ほうこうつよめ、『ドン・カルロ』は初演しょえんではいまひとつだったが[37]、その改訂かいていばんおよび『アイーダ』ではイタリアりゅうグランド・オペラの成熟せいじゅく実現じつげんした[35]

とくに『アイーダ』は国籍こくせき様式ようしき混合こんごうさせた[35]。イタリア・オペラの華麗かれい旋律せんりつたしながら、声楽せいがく重視じゅうしするてんくつがえして管弦楽かんげんがくとのバランスをらせ、以前いぜんからんだドラマ重視じゅうしのテーマと融合ゆうごうさせることに成功せいこうした。舞台ぶたいであるエジプトについて情報じょうほう仕入しいれたが、楽曲がっきょくはエジプトの音楽おんがくではなくヴェルディが独自どくじ創造そうぞうした異国いこくてき音楽おんがくであった。フランスのグランド・オペラもれながら、その様式ようしきもそのままではなく工夫くふうらした4まくせいるなど、独自どくじ作風さくふう実現じつげんした[40]

ヴェルディの大作たいさくたか人気にんきほこり、それらをなんかえして公演こうえんする方法ほうほう一般いっぱんし、たとえばスカラ座すからざはそれまでとし3ほん程度ていどのオペラを上演じょうえんしていたが、1848ねん以降いこう平均へいきんでほぼとし1ほんとなった。これはレパートリー・システムとばれた[55]作曲さっきょくしゃ初演しょえんこそ慣例かんれいてき舞台ぶたい監督かんとくしたが、このシステムが確立かくりつすると実際じっさい監督かんとく指揮しきしゃになうことになり、オペラせんもん指揮しきしゃあらわれだした[55]。この代表だいひょうがヴェルディのとものち仲違なかたがいをしたアンジェロ・マリアーニである。レパートリー・システムはヴェルディの作品さくひんからはじまったともえるが、指揮しきしゃ権限けんげんつよまるとなかには勝手かって改作かいさくほどこものあらわれ、ヴェルディは激怒げきどしたとつたわる。しかし、このながれは20世紀せいき演奏えんそう重視じゅうし傾向けいこうつながってゆく[56]

晩年ばんねん傑作けっさく

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16ねん空白くうはく発表はっぴょうされた新作しんさく[44]『オテロ』と最後さいごさく『ファルスタッフ』は、それぞれに独特どくとく作品さくひんとなったが、いずれも才能さいのうゆたかなアッリーゴ・ボーイトの手腕しゅわんと、結果けっかてき完成かんせいすることはなかったが長年ながねんリアおう』をあたためていた[57]ヴェルディのシェイクスピアにたいする熱意ねつい傑作けっさく原動力げんどうりょくとなった[53]

『オテロ』はなが目指めざした音楽おんがく演劇えんげき融合ゆうごう頂点ちょうてんにある作品さくひんで、同時どうじにワーグナーから発達はったつしたドイツ音楽おんがく提示ていじする理論りろん(シンフォニズム[1])にたいするイタリアがわからの回答かいとうとなった[53]演技えんぎたいするこだわりもつよく、作曲さっきょくという範囲はんいえて主人公しゅじんこうオテロが短刀たんとう自殺じさつするシーンをヴェルディは演技えんぎ指導しどうし、実演じつえんして舞台ぶたいころがりたおれこんださいにはみなおどろきのあまったという[57]

『ファルスタッフ』はヴェルディのすべてを投入とうにゅうしたかんがある。作風さくふうバッハモーツァルトベートーベンそしてロッシーニ先人せんじんたちの要素ようそそそぎこみ、形式けいしきにこだわらず自由じゆうままな作品さくひん仕上しあげた[53]。そして、自由じゆうじんファルスタッフにヴェルディは自身じしん表現ひょうげんした。過去かこ作品さくひん経験けいけんした苦難くなん孤独こどく自己じこ投影とうえいという側面そくめんもあったが、ファルスタッフにたいしてはわかころから他者たしゃからの束縛そくばくきらった自分じぶんとみ名声めいせいにして人生じんせい達観たっかんした自分じぶん仮託かたくした。『ファルスタッフ』が完成かんせいしたとき、ヴェルディは「け、おまえみちけるところまで。永久えいきゅうほこたか愉快ゆかいなるしょう悪党あくとう、さらば!」としるした[58]

イタリア統一とういつ運動うんどうへの影響えいきょう

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パレルモテアトロ・マッシモ英語えいごばんまえかざられたヴェルディの胸像きょうぞう。アントニオ・ウゴさく

音楽おんがく歴史れきしには、ある神話しんわなが存在そんざいした。それは『ナブッコ』だい3まくのコーラスきょくけ、おもいよ (Va, pensiero)」が、オーストリアが支配しはいりょくおよぼしたイタリア国土こくどふくまれていたミラノをうたったものというはなしであり、観客かんきゃく追放ついほうされる奴隷どれい悲嘆ひたんれて国家こっか主義しゅぎてき熱狂ねっきょうにかられ、当時とうじ政府せいふからきびしく禁止きんしされていたアンコールをもとめ、このような行動こうどう非常ひじょう意味いみふかいものだったという[59]。「け、おもいよ」はだい2のイタリア国歌こっかとまでわれる[4]

しかし近年きんねん研究けんきゅうはその立場たちばっていない。アンコールは事実じじつとしても、これは「け、おもいよ」ではなく、ヘブライじん奴隷どれい同胞どうほうすくいをかみ感謝かんしゃうたう「賛美さんび (Immenso Jehova)」 をもとめたとしている。このようなあたらしい観点かんてん提示ていじされ、ヴェルディをイタリア統一とういつ運動うんどうなか音楽おんがくとおして先導せんどうしたという見方みかた強調きょうちょうされなくなった[59]

その一方いっぽうで、リハーサルのとき劇場げきじょう労働ろうどうしゃたちは「け、おもいよ」がながれるとそのめて、音楽おんがくわるとともに拍手はくしゅ喝采かっさいした[60]。そのころは、ピウス9せい政治せいじはん釈放しゃくほう恩赦おんしゃくだしたことから、『エルナーニ』のコーラス登場とうじょうする人物じんぶつが「カルロ (Carlo)」から「ピオ (Pio)」に変更へんこうされたことに関連かんれんして、1846ねんなつはじまった「ヴェルディの音楽おんがくが、イタリアの国家こっか主義しゅぎてき政治せいじ活動かつどう連動れんどうしたと確認かくにんされる事象じしょう」の拡大かくだいにあった[61]

後年こうねん、ヴェルディは「国民こくみんちち」とばれた。しかしこれは、かれのオペラが国威こくい発揚はつようさせたためではなく、キリストきょう倫理りんり理性りせいではぎょせないイタリアじんじょう表現ひょうげんしたためと解釈かいしゃくされる[9]。 また、サルデーニャ王国おうこくによるリソルジメントがすすなかで、かれ名前なまえVerdiのつづりが “Vittorio Emanuele Re d’Italia” (イタリア国王こくおう ヴィットーリオ=エヌマエーレ)の略号りゃくごうにもなっていたのも関係かんけいしている。

ヴェルディは1861ねん国会こっかい議員ぎいんとなるが、これはカヴールの要請ようせいによるもので、文化ぶんか行政ぎょうせいんだ時期じきもあったが[62]、カヴールがくなると興味きょうみうしなった[33]。1874ねんには上院じょういん議員ぎいんとなるも、政治せいじかかわることはなかった[44]

ブッセートのバレッツィで、子供こどもころのジュゼッペ・ヴェルディが演奏えんそうした楽器がっき[63]アントン・トマーシェクのピアノだった[64]のちにヴェルディはヨハン・フリッツのピアノをこのみ、1851ねんの「リゴレット」から1871ねんの「アイーダ」のころまで、ウィーンふう6ほんペダルのフリッツピアノを使用しようした。このピアノは現在げんざいイタリアピアチェンツァけんにある作曲さっきょくヴェルディていることができる[65]

リミニおこなわれた1857ねんA.ガッリ劇場げきじょう落成らくせいしきさい、ヴェルディが演奏えんそうしたのはヨーゼフ・ダンクのグランドピアノだった[66]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ このスピネットは「いこいのいえ」に展示てんじされている(加藤かとう (2002)、p.52)。ヴェルディが夢中むちゅうになってくせいでいちこわれたが、カヴァレッティという職人しょくにん修理しゅうりをした。このさいかれはヴェルディの腕前うでまえ感動かんどうして費用ひよう請求せいきゅうせず、スピネットのぶたうらに「少年しょうねんすぐれた音楽おんがく資質ししつが、わたしへの代金だいきんだ」とのこした(加藤かとう (2002)、pp.10-15、生誕せいたん)。
  2. ^ ヴェルディの伝記でんきにはかなら登場とうじょうする場面ばめん台本だいほんちた場所ばしょには、「つくえ」(油井ゆいひろしたかし)、「テーブル」(加藤かとう (2002)、p.44)、「ベッド」(石戸いしどら (1998)、p.17)、「とした」(オペラの発見はっけん (1995)、p.167)など様々さまざまわれる。
  3. ^ メレッリがヴェルディにけた台本だいほん『ナブッコ』は、ドイツ出身しゅっしんオットー・ニコライことわったものだった。メレッリはわりにヴェルディが拒否きょひした『追放ついほうしゃ』をわたした。いわばネレッリはニコライとヴェルディのあいだで2つの台本だいほん交換こうかんしていた。ヴェルディの『ナブッコ』は成功せいこうおさめたが、1841ねんスカラ座すからざ初演しょえんされたニコライの『追放ついほうしゃ』は駄作ださく烙印らくいんされ、1公演こうえんられた。これはニコライにとって大変たいへん屈辱くつじょくで、かれ後年こうねんになってもヴェルディの実力じつりょくみとめなかった。(石戸いしどら (1998)、pp.17-18
  4. ^ 異説いせつあり。後述こうじゅつ詳細しょうさいナブッコ#初演しょえん評判ひょうばん――伝説でんせつとその検証けんしょう参照さんしょう
  5. ^ ガレーせん奴隷どれいのようにやすはたらつづけるようたとえている。「オペラのよろこび」月例げつれいかい(だい28かい)2006ねん4がつ8にち
  6. ^ わって起用きようされたマリアンナ・バルビエリー=ニーニは資料しりょうに「非常ひじょうみにくい」とまでかれる人物じんぶつだった。しかしつよさと声域せいいきひろさをそなえ、アジリタの技法ぎほうすぐれる彼女かのじょ才能さいのうをヴェルディはたかみとめ、作品さくひんでも起用きようして彼女かのじょ世間せけんてき評価ひょうかたかめた。(石戸いしどら (1998)、p.41
  7. ^ 1857ねんに『リゴレット』のパリ公演こうえんまったとき、ユーゴーはめの裁判さいばんこした。結果けっか敗訴はいそし、さらに招待しょうたい嫌々いやいやながらおうじた。しかしオペラの出来映できばえに感激かんげきし、ヴェルディの熱心ねっしんなファンになった。(石戸いしどら (1998)、p.55
  8. ^ "Sad, sad, sad! ... a name that will leave a most powerful impression on the history of art." (The Lives of the Great Composers
  9. ^ "He invariably chooses, unnecessarily, the untrodden path, attempting to fly where a rational person would walk with better results"「かれ(ワーグナー)ははんしたような、無駄むだだらけで、勝手かってままなやりかたばかりをえらび、理性りせいてき人物じんぶつならばより結果けっかもとめて着実ちゃくじつあゆみをすすめるところなのに、まるでびはねるような真似まねをするのがきなようだ」(The Lives of the Great Composers
  10. ^ Phillips-Matz (1993)、p.764では、20まんにんあつまったという。2010ねん放送ほうそうのヴェルディのオペラを特集とくしゅうしたBBC4シリーズだい「Opera Italia」では、ロイヤル・オペラ・ハウス編曲へんきょく司会しかいしゃのアントニオ・パッパーノはそのかずを30まんにんだったとべた。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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読書どくしょ案内あんない

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外部がいぶリンク

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