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ジョット・ディ・ボンドーネ - Wikipedia

ジョット・ディ・ボンドーネ: Giotto di Bondone1267ねんごろ-1337ねん1がつ8にち)は、中世ちゅうせい後期こうきイタリアひと画家がか建築けんちく日本にっぽんでもしょ外国がいこくでもたんにジョット(ジオット)とばれることがおおい。フィレンツェ共和きょうわこく現在げんざいのイタリア・トスカーナしゅう近辺きんぺん)の首都しゅとフィレンツェ近郊きんこう出身しゅっしんといわれており、その絵画かいが様式ようしき後期こうきゴシック分類ぶんるいされ、イタリア・ルネサンスへの先鞭せんべんけた偉大いだい芸術げいじゅつなされている。

ジョット
パオロ・ウッチェロといわれるジョットの肖像しょうぞう
本名ほんみょう ジョット・ディ・ボンドーネ
誕生たんじょう 1266/7ねん
出生しゅっしょう フィレンツェ共和きょうわこくフィレンツェ近郊きんこう
死没しぼつねん 1337ねん1がつ8にち (70さいごろ)
死没しぼつ フィレンツェ共和きょうわこくフィレンツェ近郊きんこう
国籍こくせき イタリア
運動うんどう動向どうこう 後期こうきゴシック
芸術げいじゅつ分野ぶんや 絵画かいが, 建築けんちく
代表だいひょうさく 『スクロヴェーニ礼拝れいはいどうフレスコ壁画へきが』, 『ジョットの鐘楼しゅろう
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概要がいよう

編集へんしゅう

ジョットとどう時代じだい画家がかジョヴァンニ・ヴィッラーニはジョットのことを「この時代じだいにおける最大さいだい巨匠きょしょうである。ジョットがえが人物じんぶつやそのポーズはこのうえなく自然しぜんえる。その才能さいのう卓越たくえつした技術ぎじゅつによってジョットはフィレンツェのおかか画家がかとなった」とのこしている[1]

生前せいぜんから巨匠きょしょうとしての名声めいせい一貫いっかんしており、16世紀せいき後半こうはん画家がか伝記でんき作家さっかジョルジョ・ヴァザーリはその著書ちょしょで「それまでの洗練せんれんされていなかったビザンティン美術びじゅつ徹底的てっていてきこわし、現在げんざいられるような現実味げんじつみあふれる素晴すばらしい絵画かいがをもたらした。200ねん以上いじょうにわたってわすられていた絵画かいが技術ぎじゅつ現代げんだいよみがえらせた画家がかである」とジョットを絶賛ぜっさんしている[2]。ビザンティン様式ようしき支配しはいてきだった西洋せいよう絵画かいが現実げんじつてきさん次元じげんてき空間くうかん表現ひょうげん人物じんぶつ自然しぜん感情かんじょう表現ひょうげんをもたらした。その絵画かいが描写びょうしゃは、人物じんぶつ背後はいご建物たてもの風景ふうけいとの比例ひれい考慮こうりょした自然しぜんおおきさで表現ひょうげんされている。こうした描写びょうしゃ方法ほうほうは、当時とうじ描写びょうしゃほうでは革新かくしんてきなもので、こうしたてんからジョットは「西洋せいよう絵画かいがちち」ともいわれている。

ジョットの代表だいひょうさく1305ねん完成かんせいしたパドヴァスクロヴェーニ礼拝れいはいどう装飾そうしょくである。この一連いちれんフレスコ壁画へきが聖母せいぼマリアイエス・キリスト生涯しょうがいえがいたもので、初期しょきルネサンス絵画かいがなかでも最高さいこう傑作けっさくのひとつといわれている[3]記録きろくによればスクロヴェーニ礼拝れいはいどう壁画へきが完成かんせいさせたジョットは、1334ねんにフィレンツェからサンタ・マリア・デル・フィオーレだい聖堂せいどうあたらしくてられる鐘楼しゅろうのデザインをまかされた[4]。そのにジョットについてつたわっている記録きろくはほとんどなく、生年月日せいねんがっぴ生誕せいたん死没しぼつ風貌ふうぼう徒弟とてい期間きかん作品さくひん依頼いらいぬしアッシジサン・フランチェスコだい聖堂せいどうのフレスコ本当ほんとうにジョットの作品さくひんなのかなど、様々さまざまなことが論争ろんそうになっている。

作品さくひん

編集へんしゅう

ジョットの生誕せいたんは、おそらくロマニャーノ (Romagnano)、あるいはロミニャーノ (Romignano) という名称めいしょうコムーネであり、そこのおかうえにある農家のうかまれたというふるくからのせつがある[5]1850ねん以降いこうになって、フィレンツェの北方ほっぽう35キロメートルに位置いちするヴェスピニャーノ(現在げんざいヴィッキオ)のむらにあるしろかんこそがジョットの生誕せいたんであるとするせつとなえられたが、これは商業しょうぎょうてき宣伝せんでん目的もくてきとした根拠こんきょのない主張しゅちょうぎない。さらに最近さいきんになってジョットは鍛冶屋かじや息子むすことしてフィレンツェでまれたという研究けんきゅう結果けっか発表はっぴょうされた[6]。ジョットの父親ちちおや名前なまえはボンドーネで、現存げんそんしている公式こうしき記録きろくに「裕福ゆうふく人物じんぶつ」と記載きさいされている。おおくの著述ちょじゅつが「ジョット」は本名ほんみょうであるとかんがえているが、アンブロジョット (Ambrogiotto)、アンジェロット (Angelotto) の略称りゃくしょうだったというせつもある[7]

 
ウフィツィ美術館びじゅつかんファサードのジョットの肖像しょうぞう

ジョットの死没しぼつねんは、フィレンツェの広報こうほう担当たんとう詩人しじんでもあったフィレンツェ在住ざいじゅうのアントニオ・プッチ (en:Antonio Pucci) がいたジョットの業績ぎょうせきをたたえるなかに、ジョットは70さい死去しきょしたという記述きじゅつがあることを根拠こんきょとしている。しかしながら、「70」という単語たんごがこのなかでちょうどいいいんんだ言葉ことばになっていることから、プッチが創作そうさくじょうのテクニックとして「70」をえらんだという可能かのうせいもある[7]

ジョルジョ・ヴァザーリがいた、ルネサンスの芸術げいじゅつかんする重要じゅうよう伝記でんき画家がか彫刻ちょうこく建築けんちく列伝れつでん』によると、ジョットはまわりのだれからもあいされる快活かいかつ知的ちてきひつじいの少年しょうねんだったとされている。伝記でんきには、フィレンツェ出身しゅっしん巨匠きょしょうチマブーエがジョットがいわえがいたひつじ偶然ぐうぜんにし、そのひつじがあたかもきているかのように描写びょうしゃされていたため、チマブーエはジョットの父親ちちおやにかけってジョットを弟子でしにしたとかれている[2]。チマブーエはシエーナ活動かつどうしていたドゥッチョならんで、当時とうじのもっとも高名こうみょう画家がかだった。

ヴァザーリはジョットの技量ぎりょうについておおくのページをいている。たとえば、チマブーエが工房こうぼう留守るすにしているあいだに、ジョットがハエをチマブーエの作品さくひんえがいたところ、もどってきたチマブーエが本物ほんもののハエと勘違かんちがいしてなん絵筆えふではらおうとしたというエピソードは有名ゆうめいである。のエピソードとして、教皇きょうこうがジョットに使つかいをし、技量ぎりょう確認かくにんするためになにえがいてみるよう要求ようきゅうしたことがある。ジョットはあかコンパス使つかったかのような正確せいかくえんえがき、それをってかえって教皇きょうこうせるよう使つかいにたのんだというものもある[2]

しかしながら、現在げんざいではおおくの学者がくしゃがジョットの徒弟とてい時代じだい記録きろく信用しんようできないものであり、チマブーエの弟子でしだったというヴァザーリの著述ちょじゅつ伝説でんせつぎないとかんがえている。これはジョットがチマブーエの弟子でしではないというふる記録きろくのこっているためである[8]。ジョットの芸術げいじゅつ13世紀せいき後半こうはんローマつどっていた画家がかたちの作品さくひんおおきな影響えいきょうあたえている。当時とうじのローマではチマブーエも活動かつどうしていた可能かのうせいがあり、ピエトロ・カヴァリーニ代表だいひょうされるフレスコ画家がか一派いっぱもローマで活動かつどうしていた。フィレンツェ出身しゅっしん有名ゆうめい彫刻ちょうこく建築けんちくアルノルフォ・ディ・カンビオもこの当時とうじローマに滞在たいざいしていた[2]

サン・フランチェスコだい聖堂せいどうのフレスコ

編集へんしゅう

チマブーエはアッシジにあたらしく建造けんぞうされたサン・フランチェスコだい聖堂せいどう巨大きょだいなフレスコえがくためにローマをはなれた。このときにジョットもチマブーエとともにアッシジへとおもむいた可能かのうせいもあるが確証かくしょうはない。この大聖たいせい堂上どうじょうどうせいフランチェスコ生涯しょうがいえがいた一連いちれんのフレスコぐんだれ作品さくひんであるのかが、美術びじゅつ史学しがくじょう非常ひじょうおおきな論争ろんそうとなってきた。当時とうじフランシスコかい修道しゅうどう記録きろくでこれらの絵画かいが由来ゆらいしめすものは、ナポレオン・ボナパルトがイタリアに侵攻しんこうし、だい聖堂せいどう軍馬ぐんば厩舎きゅうしゃにされてしまったときにうしなわれてしまった。そのため、ジョットがだい聖堂せいどうのフレスコがけたかどうかについて学者がくしゃあいだでもおおきく意見いけんかれている。サン・フランチェスコだい聖堂せいどう上堂かみどうフレスコ作者さくしゃがジョットではないという証拠しょうこつかっていないこと、チマブーエの作品さくひんではないことが明確めいかくであることなどから、これらの絵画かいが当時とうじだれよりも名声めいせいたかかったジョットの作品さくひんであるとする主張しゅちょうむかしから存在そんざいした。さらに現存げんそんしているギベルティやリッコバルド・フェラレーゼらがのこしたふる伝記でんきによれば、サン・フランチェスコ大聖たいせい堂上どうじょうどうのフレスコひとちしてあいだもないジョットの作品さくひんであることを示唆しさする記述きじゅつがある[9]。しかし、1912ねんドイツひと美術びじゅつ史家しかフリードリヒ・リンテランがべつ見解けんかい発表はっぴょうして以来いらい[10]おおくの学者がくしゃがサン・フランチェスコ大聖たいせい堂上どうじょうどうのフレスコをジョットの作品さくひんとみなすことに疑義ぎぎていしている。学術がくじゅつてき証拠しょうこ文献ぶんけんがない以上いじょう作者さくしゃ確定かくていするには悪名あくめいたか信頼しんらいけない「科学かがく」という鑑識かんしきたよるほかないとしている[11]。そしてアッシジとパドヴァでの製作せいさく過程かてい技術ぎじゅつてき観点かんてんから検証けんしょう比較ひかくした結果けっか、サン・フランチェスコ大聖たいせい堂上どうじょうどうのフレスコはジョットがえがいたものではないとする有力ゆうりょく証拠しょうこ発見はっけんされた[12]。サン・フランチェスコ大聖たいせい堂上どうじょうどうのフレスコとスクロヴェーニ礼拝れいはいどうのフレスコにはおおきなちがいがあり、どうによるものとはかんがえにくいとするものである。サン・フランチェスコ大聖たいせい堂上どうじょうどうのフレスコ複数ふくすう画家がかによるもので、全員ぜんいんがおそらく当時とうじローマで活動かつどうしていた芸術げいじゅつである可能かのうせいたかい。もしこのせつただしいとすれば、ジョットがえがいたスクロヴェーニ礼拝れいはいどうのフレスコは、サン・フランチェスコ大聖たいせい堂上どうじょうどうえがかれたフレスコ自然しぜん主義しゅぎ表現ひょうげんおおきな影響えいきょうけているとかんがえられる[7]

ジョットさくではないかといわれるその作品さくひん

編集へんしゅう
 
『キリスト十字架じゅうじかぞう』,マラテスティアーノ教会きょうかい

ジョットの絵画かいがではないかとかんがえられているおおくの作品さくひんとくにヴァザーリがその著書ちょしょでジョットがえがいたと記述きじゅつしている作品さくひんについても、サン・フランチェスコ大聖たいせい堂上どうじょうどうのフレスコ同様どうようおおきな議論ぎろんになっている[13]。ヴァザーリは『画家がか彫刻ちょうこく建築けんちく列伝れつでん』で、ジョットの最初さいしょ作品さくひんサンタ・マリア・ノヴェッラ教会きょうかいのドミニコ修道しゅうどうかいのためにえがいた絵画かいがぐんであるとしている。これらの絵画かいがなかには受胎じゅたい告知こくち完成かんせいではあるがたかさ5メートルにおよ巨大きょだいなキリスト磔刑たっけいがある[2]1290ねんごろの作品さくひんかんがえられており、サン・フランチェスコ大聖たいせい堂上どうじょうどうのフレスコどう時代じだい絵画かいがということになる[14]。そのジョットの初期しょき作品さくひんではないかとなされているものに、フィレンツェのサント・ステファノ・アル・ポンテ聖堂せいどう附属ふぞく美術館びじゅつかん所蔵しょぞうの『サン・ジョルジョ・アッラ・コスタ聖堂せいどう聖母子せいぼし』や、ブル美術館ぶるびじゅつかん所蔵しょぞうの『きよしこんけるせいフランチェスコ』がある。

1287ねんにジョットは20さい前後ぜんこう通称つうしょうシウタとばれる女性じょせい結婚けっこんし、夫妻ふさいあいだには8にん以上いじょうともわれるおおくの子供こどもまれた。そのなか一人ひとりフランチェスコはのちに、父親ちちおや同様どうよう画家がかになっている[7]。ジョットは1297ねんから1300ねんにかけてローマで活動かつどうしていたが、そのころの記録きろくはほとんどのこっていない。ローマのサン・ジョバンニ・イン・ラテラノだい聖堂せいどうには、1300ねんローマ教皇きょうこうボニファティウス8せいせいとしのためにえがかれたフレスコ一部いちぶ収蔵しゅうぞうされている。どう時代じだい作品さくひんとして『バディア祭壇さいだん』がウフィツィ美術館びじゅつかん所蔵しょぞうされている[2]

当時とうじジョットの画家がかとしての名声めいせいたかまる一方いっぽうだった。パドヴァリミニといった都市としまねかれて絵画かいが制作せいさくおこなったが、現存げんそんしている作品さくひん1309ねん以前いぜんえがかれたマラテスティアーノ教会きょうかいのこる『キリスト十字架じゅうじかぞう』だけである[2]。この作品さくひんはジョヴァンニ・デ・リミニやピエトロ・デ・リミニら、リミニ成立せいりつ影響えいきょうあたえている。1301ねんから1304ねん記録きろくによれば、当時とうじのジョットはフィレンツェにだい邸宅ていたくかまえており、おおきな工房こうぼう経営けいえいしてイタリア全土ぜんどから絵画かいが制作せいさく依頼いらいけていたとかんがえられる[7]

スクロヴェーニ礼拝れいはいどう装飾そうしょく絵画かいが

編集へんしゅう
 
『カナの婚礼こんれい』, スクロヴェーニ礼拝れいはいどう

ジョットは1305ねんごろに後世こうせいもっとおおきな影響えいきょうあたえた、パドヴァのスクロヴェーニ礼拝れいはいどう内部ないぶ装飾そうしょく絵画かいが手掛てがけた。この礼拝れいはいどうは、エンリコ・デッリ・スクロヴェーニがちかくにあった自身じしん教区きょうく教会きょうかいとはべつに、一族いちぞく礼拝れいはいしょけん墓所はかしょとしててたものだった。この礼拝れいはいどう建築けんちくとなりのエレミターニ教会きょうかい聖職せいしょくしゃたちにおどろきをもってられた[15]。スクロヴェーニ礼拝れいはいどうはエンリコが家族かぞくのために修復しゅうふくしたふる邸宅ていたくとなりてられ、外観がいかんはピンクのレンガにおおわれたシンプルなものだった。このふる邸宅ていたく現存げんそんしておらず、礼拝れいはいどう古代こだいローマ競技きょうぎじょう(アレーナ (arena))の遺跡いせき敷地しきちないっているため、現在げんざいでは「アレーナ礼拝れいはいどう」とばれることがおお[7]

礼拝れいはいどうのテーマは救済きゅうさい聖母せいぼマリアが重要じゅうようされており、受胎じゅたい告知こくち聖母せいぼ慈悲じひささげられている。中世ちゅうせいイタリアの典型てんけいてき屋内おくない装飾そうしょくとしてもよくられ、西側にしがわかべには最後さいご審判しんぱんが、東側ひがしがわ内陣ないじんにはだい天使てんしガブリエル聖母せいぼマリアとの受胎じゅたい告知こくちえがかれている。受胎じゅたい告知こくちは『せい処女しょじょマリアの生涯しょうがい』と『キリストの生涯しょうがい』をえがいた一連いちれん絵画かいが一部いちぶとなっている。マリアの生涯しょうがいはジェノヴァ大司教だいしきょうヤコブス・デ・ウォラギネいた殉教者じゅんきょうしゃ列伝れつでん黄金おうごん伝説でんせつ』を、キリストの生涯しょうがい当時とうじボナヴェントゥラいたといわれていた追随ついずいしゃたち (en:Pseudo-Bonaventura) の著作ちょさくをもとにしてえがかれている。しかし一連いちれんのフレスコはこれらもとになった書物しょもつたん絵画かいがとしてあらわしただけではなく、学者がくしゃたちはこれらの絵画かいがから聖書せいしょたいするジョット独自どくじ解釈かいしゃく多数たすう見出みいだしている[16]

一連いちれんのフレスコは37の場面ばめんから構成こうせいされており、側面そくめんかべ上中かみなかさんだんかれてえがかれている。さい上段じょうだんには聖母せいぼマリアの両親りょうしんヨアキムアンナえがかれ、聖母せいぼマリアの生涯しょうがい表現ひょうげんした最初さいしょ絵画かいがになっている。しただんにはキリストの生涯しょうがいえがかれ、『最後さいご審判しんぱん』は正面しょうめん反対はんたいがわかべ全面ぜんめんえがかれている。チマブーエの作風さくふうがビザンティン様式ようしきとゴシック様式ようしきあわった明確めいかく中世ちゅうせい様式ようしきであるのにたいし、ジョットの作風さくふう彫刻ちょうこくアルノルフォ・ディ・カンビオ作品さくひんのような、立体りったいてき古典こてんてきなものだった。チマブーエやドゥッチョの作風さくふうとはことなり、ジョットがえが人物じんぶつぞう類型るいけいされたものでも過度かど細長ほそなが誇張こちょうされたものでもなく、それまでのビザンティン様式ようしき影響えいきょうられない。緻密ちみつ観察かんさつもとづいたさん次元じげんてき表情ひょうじょうとポーズでえがかれ、衣服いふくもそれまでのように規則きそくてき波打なみうってはおらず自然しぜんかたちおもさが表現ひょうげんされている。このようなあたらしい絵画かいが表現ひょうげんは、当時とうじローマで活動かつどうしていたピエトロ・カヴァリーニによってすではじめられていたが、ジョットはこれらの表現ひょうげんをさらに昇華しょうかさせたため、具象ぐしょうあたらしいスタイルをしたという名声めいせいはジョットのものとなった。

彫刻ちょうこくのようなさん次元じげんてき陰影いんえいえがかれた人物じんぶつぞう自然しぜん配置はいちされ、使用しようされている遠近えんきんほうとあいまって舞台ぶたいのセットのような印象いんしょうあたえている。ジョットによる慎重しんちょう人物じんぶつぞう配置はいちは、これらのものに、あたかも自分じぶん絵画かいがえがかれている場所ばしょ実在じつざいしているかのような効果こうかおよぼす。この劇的げきてき臨場りんじょうかんあたらしく絵画かいがにもたらされた特質とくしつで、サン・フランチェスコだい聖堂せいどうのフレスコにおいてもその萌芽ほうがることができる。

一連いちれん絵画かいがのなかで有名ゆうめい場面ばめんえがかれているものに『東方とうほうさん博士はかせ礼拝れいはい』があり、彗星すいせいのようなベツレヘムのほし夜空よぞら横切よこぎっている様子ようすえがかれている。この彗星すいせいはジョットが実際じっさいた1301ねんハレはれ彗星すいせいをもとにえがいたといわれており、1986ねんハレはれ彗星すいせい観測かんそくようげられた探査たんさジョットはこの絵画かいがにちなんで命名めいめいされた。有名ゆうめいなものは『キリストへの哀悼あいとう』で、この神聖しんせいなテーマをえがいた絵画かいがでは、作品さくひんるものに哀切あいせつ感情かんじょう惹起じゃっきさせるために、ジョットはあえて従来じゅうらいのビザンティンふう図像ずぞうがく採用さいようしている。

パドヴァでのその作品さくひん

編集へんしゅう

現存げんそんしていないが、パドヴァでえがかれたその作品さくひん収蔵しゅうぞうされていた場所ばしょとしてサンタントーニオ・ダ・パードヴァ聖堂せいどう[17]、パラッツォ・デッラ・ラジョーネ[18]があり、スクロヴェーニ礼拝れいはいどう装飾そうしょく絵画かいががけた時期じきではなく後年こうねんになってからのパドヴァ滞在たいざいちゅうえがかれたものである。パドヴァでのジョットの作品さくひんは、グアリエント (en:Guariento)、ジュスト・デ・メナブオイ (en:Giusto de' Menabuoi)、ヤコポ・ダヴァンツィ (en:Jacopo d'Avanzi)、アルティキエーロら、イタリア北部ほくぶ出身しゅっしん芸術げいじゅつたちにおおきな影響えいきょうあたえている。

壮年そうねん作品さくひん

編集へんしゅう

荘厳しょうごん聖母せいぼ

編集へんしゅう
 
オンニサンティの聖母せいぼ』(1310ねんごろ), いたにテンペラ, 325cm x 204cm, ウフィツィ美術館びじゅつかん

フィレンツェにのこっている1314ねんから1327ねん会計かいけい記録きろくによると、ジョットは『荘厳そうごん聖母せいぼ (en:Ognissanti Madonna)』というられる祭壇さいだん制作せいさくしている。この絵画かいがはチマブーエの『サンタ・トリニタの聖母せいぼ』、ドゥッチョの『ルチェライの聖母せいぼ』とならべられて、ウフィツィ美術館びじゅつかん展示てんじされている[7]。『荘厳そうごん聖母せいぼ』には来歴らいれきまったのこっていないが、おおくの学者がくしゃからジョットがえがいた唯一ゆいいついたであるとかんがえられている。この作品さくひんはフィレンツェの、現在げんざいではどういった教団きょうだん創設そうせつしたのか判然はんぜんとしないオニサンティ教会きょうかいのためにえがかれた祭壇さいだんだった[19]。『荘厳そうごん聖母せいぼ』は3メートル以上いじょう非常ひじょうおおきな作品さくひんであり、聖堂せいどうしゅ祭壇さいだんとして教団きょうだん修道しゅうどうのためにえがかれたものか、あるいは聖歌せいかたいせき仕切しきりに使用しようされて会衆かいしゅう信徒しんとれることを目的もくてきえがかれたものなのか、学者がくしゃあいだでも見解けんかいかれている[20]。また、このときジョットは現在げんざいベルリン絵画かいがかん所蔵しょぞうの『聖母せいぼマリア永眠えいみん』とオニサンティ教会きょうかい所蔵しょぞうの『キリスト磔刑たっけい』もえがいている[21]

サンタ・クローチェ聖堂せいどう

編集へんしゅう

初期しょきルネサンスの彫刻ちょうこくロレンツォ・ギベルティによると、ジョットは4家族かぞく依頼いらいおうじてフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂せいどう礼拝れいはいどう装飾そうしょくえがいたとされているが、ギベルティは聖堂せいどう存在そんざいするどの礼拝れいはいどうのことかは特定とくていしていない[22]。ヴァザーリは、ジョットががけたのはバルディ礼拝れいはいどうの『きよしフランシスの生涯しょうがい』、ペルッツィ礼拝れいはいどうの『洗礼せんれいしゃヨハネと福音ふくいん記者きしゃヨハネの生涯しょうがい』、現在げんざいアメリカノースカロライナしゅう美術館びじゅつかん所蔵しょぞう祭壇さいだん聖母せいぼ聖者せいじゃ』、現存げんそんしていないジーニ礼拝れいはいどうの『使徒しと物語ものがたり』、スピネッリ礼拝れいはいどうの『聖母せいぼ物語ものがたり』であるとしている[23]。ジョットのほか事跡じせき同様どうように、このサンタ・クローチェ礼拝れいはいどう装飾そうしょくかんしても制作せいさくねん議論ぎろんになっている。聖堂せいどうしゅ礼拝れいはいどうみぎとなりにあるバルディ礼拝れいはいどう装飾そうしょく通常つうじょう湿式しっしきフレスコ技法ぎほうえがかれており、構成こうせいがスクロヴェーニ礼拝れいはいどう壁画へきがちかい。このことから、バルディ礼拝れいはいどう装飾そうしょくはスクロヴェーニ礼拝れいはいどう壁画へきが同年代どうねんだいごろにえがかれ、一方いっぽうペルッツィ礼拝れいはいどう装飾そうしょく構成こうせいは、より複雑ふくざつなものになっているためより後年こうねんになってからえがかれたとかんがえる学者がくしゃもいる[24]。バルディ礼拝れいはいどう隣接りんせつするペルッツィ礼拝れいはいどう装飾そうしょくは、だい部分ぶぶん乾式かんしきフレスコ技法ぎほうセッコえがかれている。セッコは通常つうじょう湿式しっしきフレスコにくらべて制作せいさく時間じかんみじかくてすむ反面はんめん経年けいねん変化へんかよわく、現存げんそんしている作品さくひんのほとんどは保存ほぞん状態じょうたい非常ひじょうわるい。バルディ礼拝れいはいどう装飾そうしょくがジョットの初期しょき作品さくひんであるとする学者がくしゃたちは、アッシジのサン・フランチェスコ大聖たいせい堂上どうじょうどうえがかれた「ジョットふう壁画へきが構成こうせいがよくていることを指摘してきする一方いっぽうで、バルディ礼拝れいはいどう装飾そうしょくにはそれまでにられないいろ使づかいの繊細せんさいさがあるとする。このことは、ジョットがおそらくはシエナ芸術げいじゅつ影響えいきょうけてあたらしい芸術げいじゅつ方向ほうこうせい見出みいだしたあかしで、その自身じしん芸術げいじゅつ発展はってんにつながったとしている[25]

ペルッツィ礼拝れいはいどう洗礼せんれいしゃヨハネ生涯しょうがい題材だいざいとした『ちちザカリアへの受胎じゅたい告知こくち』、『ヨハネの誕生たんじょう』、『ヘロデのうたげ』のさんくみのフレスコは、福音ふくいん記者きしゃヨハネ生涯しょうがいみっつの場面ばめんえがいた『エフェソスでのヨハネの回想かいそう』、『ドルシアナの復活ふっかつ』、『福音ふくいん書記しょきしゃヨハネの昇天しょうてん』とともに礼拝れいはいどうひだり壁面へきめんえがかれている。これらの題材だいざいえらばれた背景はいけいには、出資しゅっししたペルッツィとフランシスコ修道院しゅうどういん両方りょうほう意向いこう反映はんえいされている[26]。これらの絵画かいが保存ほぞん状態じょうたい非常ひじょうわるく、ジョットの技法ぎほう作風さくふうについてろんじるのは困難こんなんではあるが、ジョット特有とくゆう抑制よくせいされた自然しぜん主義しゅぎ描写びょうしゃ人物じんぶつ内面ないめん描写びょうしゃかんじられる。ペルッツィ礼拝れいはいどう装飾そうしょくはルネサンスにおいて非常ひじょう著名ちょめいであり、マサッチオえがいた『みつぎぜに』をはじめとするフィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネだい聖堂せいどうブランカッチ礼拝れいはいどう壁画へきがおおきな影響えいきょうあたえ、ミケランジェロもこの装飾そうしょく研究けんきゅうしていたことがられている

 
せいフランシスコのなげき』, バルディ礼拝れいはいどう

バルディ礼拝れいはいどうえがかれているきよしフランシスコの生涯しょうがい題材だいざいにした装飾そうしょくは、これより20から30ねんまええがかれたとされるアッシジのサン・フランチェスコだい聖堂せいどう上堂かみどう壁画へきがもちいられている図像ずぞうがくとの対比たいひにおいて、とく学者がくしゃ興味きょうみをひいてきた。両所りょうしょ絵画かいがぐん比較ひかくすると、ジョットがバルディ礼拝れいはいどう装飾そうしょくえがくにあたって、人物じんぶつ表現ひょうげん画面がめん構成こうせいにいかにおおきな注意ちゅういはらっているかが明確めいかくになる。ジョットはバルディ礼拝れいはいどう装飾そうしょく題材だいざいとして聖人せいじん生涯しょうがいにおけるななつの場面ばめん選択せんたくしているが、えがかれているのは聖書せいしょそのままの物語ものがたりというわけではない。聖人せいじん一連いちれん物語ものがたりひだり壁面へきめん上部じょうぶの『せいフランシスコとちちとの絶縁ぜつえん』からはじまる。以降いこう礼拝れいはいどうひだり壁面へきめんみぎ壁面へきめんそれぞれをかこむように『フランシスコ修道しゅうどうかい認可にんか』、『せいフランシスコの試練しれん』、『アルルでの出現しゅつげん』、『せいフランシスコの』、きよしフランシスの死後しごえがいた『フラ・アゴスティーノとアッシジ司教しきょう追想ついそう』へとつづいていく。フランシスの生涯しょうがいでいうと『アルルでの出現しゅつげん』と『せいフランシスコの』のあいだ年代ねんだいにあたる『きよしこんけるせいフランチェスコ』はチャペル外側そとがわくち上部じょうぶアーチにえがかれている。このような配置はいち構成こうせい壁画へきがるものに、左右さゆう壁面へきめんごとのくみ壁画へきがとして、あるいはそれぞれの壁面へきめんにおけるさんくみ壁画へきがとして鑑賞かんしょうすることをすすめる視覚しかくてき効果こうかがある。そしてこれらの視覚しかくてき効果こうかが、鑑賞かんしょうしゃたいしてフランシスコの生涯しょうがいにおける様々さまざま出来事できごと象徴しょうちょうてきむすびつける重要じゅうよう役割やくわりたしているといえる[27]

ステファネスキ のさんれん祭壇さいだん

編集へんしゅう

1320ねんにジョットは、現在げんざいバチカン美術館びじゅつかん所蔵しょぞうする『ステファネスキのさんれん祭壇さいだん』を制作せいさくした。依頼いらいしゃ枢機卿すうききょうジャコモ・ガエターノ・ステファネスキで、ほかにもジョットにせいペテロをえがいた一連いちれんのフレスコアプスえがかせているが、こちらは16世紀せいき建物たてもの修復しゅうふく消滅しょうめつしてしまっている。ヴァザーリによるとジョットはローマに6年間ねんかん滞在たいざいし、イタリア全土ぜんどやアヴィニョンのローマ教皇きょうこうから多数たすう依頼いらいけて作品さくひんえがいたとされているが、現在げんざいではそれらの絵画かいがのなかには芸術げいじゅつ作品さくひんであると判明はんめいしているものもある。

晩年ばんねん作品さくひん

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ジョットの鐘楼しゅろう、フィレンツェ

1328ねんにバロンチェッリ礼拝れいはいどう祭壇さいだん聖母せいぼ戴冠たいかん』を完成かんせいさせたジョットはナポリおうロベルト1せいまねかれ、弟子でしたちとともに1333ねんまでナポリに滞在たいざいしている。ロベルト1せい1332ねんにジョットに年俸ねんぽうあたえ、だいいち宮廷きゅうてい画家がか任命にんめいした。ナポリ滞在たいざいのジョットの作品さくひんはほとんど現存げんそんしておらず、サンタ・キアラ教会きょうかい区内くない教会きょうかいにある『キリストの哀悼あいとう』をえがいたフレスコ断片だんぺんと、弟子でし作品さくひんではないかともかんがえられているヌオーヴォじょうのサンタ・バルバラ教会きょうかいまどえがかれた『高名こうみょうおとこ』とばれる絵画かいがのみである。

ナポリをはなれたジョットはしばらくボローニャ滞在たいざいし、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会きょうかいのために祭壇さいだんえがいている。ヴァザーリによれば、ローマ教皇きょうこう特使とくししろにあった礼拝れいはいどう装飾そうしょくがけているが現存げんそんしていない[2]

1334ねんにジョットはサンタ・マリア・デル・フィオーレだい聖堂せいどう建築けんちく責任せきにんしゃ任命にんめいされ、1334ねん7がつ18にちから自身じしんかんしてばれるジョットの鐘楼しゅろう建築けんちく着手ちゃくしゅした。しかしながらジョットが建築けんちく中途ちゅうと死去しきょしたこともあり、ジョット自身じしん設計せっけいしたデザインでは完成かんせいしていない[7]

1337ねん以前いぜんにジョットはミラノ君主くんしゅアッツォーネ・ヴィスコンティの邸宅ていたく滞在たいざいしているが、この時期じき作品さくひん記録きろくまったのこっていない。現在げんざいかれ遺作いさくとしてられているのは、弟子でしとの共同きょうどう作業さぎょうおこなった、フィレンツェのバルジェロ宮殿きゅうでんにあるポデスタ礼拝れいはいどう装飾そうしょくである[7]

さい晩年ばんねんにジョットはジョヴァンニ・ボッカッチョや、のちにジョットをあつかった物語ものがたりくサケッティと友人ゆうじん関係かんけいになっていた。ダンテは『かみきょく』のだい2煉獄れんごくへん』11しょう94せつ-96せつで、一人ひとり画家がか言葉ことばつうじてジョットがどう時代じだいきる画家がかなか偉大いだい存在そんざいであることをかたっている[3]

にてはチマーブエ、たもたんとおもへるに、いまはジオットの呼聲よびごえ(よびごゑ)たかく、かれ美名びめい(よきな)ほろ(かすか)になりぬ — ダンテ, 『かみきょくだい2煉獄れんごくへん11きょく94-96[28]

ジョットの死後しご

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サンタ・クローチェ聖堂せいどうペルッツィ礼拝れいはいどう装飾そうしょく壁画へきが一部いちぶで、ジョットの肖像しょうぞうではないかともいわれている

ジョットは1337ねん1がつ死去しきょした。ヴァザーリの著書ちょしょでは、ジョットはフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレだい聖堂せいどうくちひだり埋葬まいそうされ、しろ大理石だいりせき墓碑ぼひかれたとなっている[2]。しかしながら記録きろくもあり、それによるとフィレンツェのサンタ・レパラタ聖堂せいどう (en:Santa Reparata, Florence) の教会きょうかいほうむられたとされている。このことなるふたつのせつは、サンタ・レパラタ聖堂せいどうがサンタ・マリア・デル・フィオーレだい聖堂せいどう建築けんちく開始かいしされるまでフィレンツェの聖堂せいどうであり、サンタ・マリア・デル・フィオーレだい聖堂せいどう着工ちゃっこうだい聖堂せいどう地下ちか移築いちくされるものの、だい聖堂せいどう建築けんちくちゅうの14世紀せいき前半ぜんはんには依然いぜんとして教会きょうかいとして機能きのうしていたという事実じじつ矛盾むじゅんなく説明せつめいできる。

1970年代ねんだいにサンタ・マリア・デル・フィオーレだい聖堂せいどう周辺しゅうへん発掘はっくつされ、ヴァザーリが著書ちょしょいた墓碑ぼひはなかったが、位置いちてきちか場所ばしょであるサンタ・レパラタ聖堂せいどう舗装ほそうからほね発見はっけんされた。発掘はっくつ当初とうしょからこのほねはジョットではないかとかんがえられており、2000ねん人類じんるい学者がくしゃフランチェスコ・マッレーニと専門せんもんのチームによる法医学ほういがく調査ちょうさによってあたらしい発見はっけんがあった。当時とうじ顔料がんりょうとして使用しようされていた砒素ひそ化合かごうぶつなまり痕跡こんせきほねからつかったのである[29]

発掘はっくつされたほねは120cmをわずかにえるてい身長しんちょう男性だんせいのもので、先天的せんてんてき小人こどもしょう罹患りかんしていた可能かのうせいがある。このことは、フレスコひとつにえがかれている小人こどもがジョットの自画像じがぞうだというサンタ・クローチェ聖堂せいどう伝承でんしょう裏付うらづけている。しかしながら、スクロヴェーニ礼拝れいはいどうの『最後さいご審判しんぱん』にえがかれているしろ帽子ぼうしをかぶった男性だんせいがジョットの肖像しょうぞうだというせつもある。このしろ帽子ぼうし男性だんせいはサンタ・クローチェ聖堂せいどう伝承でんしょうとは相入あいいれない外観がいかんになっている[29]。ヴァザーリの著書ちょしょには、ジョットの友人ゆうじんだったボッカッチョは「フィレンツェにはみにく男性だんせいはいなかった」として、ジョットの子供こどもたちも普通ふつう外観がいかんをしていたとヴァザーリにかたっている。ほかにも、ダンテがスクロヴェーニ礼拝れいはいどう絵画かいが制作せいさくをしていたジョットをたずねたときに、足元あしもとにいる子供こどもたちをて「これほどうつくしい絵画かいがえがおとこ子供こどもが、どうしてこんなにも普通ふつうなんだ」と冗談じょうだんったところ「暗闇くらやみ子供こどもつくったからさ」とジョットがかえしたというはなし記載きさいされている。ヴァザーリによればジョットはいつもウィットにんだおとこだった[2]

イタリアじん研究けんきゅうしゃたちはこの発掘はっくつされたほねがジョットのものであると確信かくしんしており、調査ちょうさ終了しゅうりょうにルネサンス著名ちょめい建築けんちくフィリッポ・ブルネレスキのそばに敬意けいいめてもどされた。しかしながらイタリアじん以外いがい研究けんきゅうしゃ懐疑かいぎてき見方みかたえてはいない[30]

関連かんれん項目こうもく

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画集がしゅう解説かいせつ

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  • 『ジョット.フィレンツェ絵画かいが先駆せんくしゃ』 ルチアーノ・ベッローシ
野村のむら幸弘ゆきひろやく東京書籍とうきょうしょせき〈イタリア・ルネサンスの巨匠きょしょうたち2〉-しょう冊子さっし、1994ねん
  • 『ジョット』 サンドリーナ・バンデーラ・ビストレッティ
すそぶん一弘かずひろ監修かんしゅう尾形おがたのぞみ和子わこやく京都きょうと書院しょいん〈カンティーニ美術びじゅつ叢書そうしょ1〉、1995ねん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Bartlett, Kenneth R. (1992). The Civilization of the Italian Renaissance. Toronto: D.C. Heath and Company. ISBN 0-669-20900-7 (Paperback). Page 37.
  2. ^ a b c d e f g h i j Giorgio Vasari, Lives of the Artists, trans. George Bull, Penguin Classics, (1965)
  3. ^ a b Hartt, Frederick (1989). Art: a history of painting, sculpture, architecture. Harry N. Abrams. pp. 503–506 
  4. ^ 新建築社しんけんちくしゃ『NHK ゆめ美術館びじゅつかん 世界せかいめい建築けんちく100せん新建築社しんけんちくしゃ、2008ねん、38ぺーじISBN 978-4-7869-0219-2 
  5. ^ Sarel Eimerl, see below, cites Colle di Romagnano. However, the spelling is perhaps wrong, and the location referred to may be the site of the present Trattoria di Romignano, in a hamlet of farmhouses in the Mugello region.
  6. ^ Michael Viktor Schwartz and Pia Theis, "Giotto's Father: Old Stories and New Documents," Burlington Magazine, 141 (1999) 676-677 and idem, Giottus Pictor. Band 1: Giottos Leben, Vienna, 2004
  7. ^ a b c d e f g h i Sarel Eimerl, The World of Giotto, Time-Life Books.
  8. ^ Hayden B.J. Maginnis, "In Search of an Artist," in Anne Derbes and Mark Sandona, The Cambridge Companion to Giotto, Cambridge, 2004, 12-13.
  9. ^ Sarel. But note that Riccobaldo does not say Giotto painted the Francis Cycle. He writes: "What kind of art [Giotto] made is testified to by works done by him in the Franciscan churches at Assisi, Rimini, Padua..." A. Teresa Hankey, "Riccobaldo of Ferraro and Giotto: An Update," Journal of the Warburg and Courtauld Institutes, 54 (1991) 244.
  10. ^ Friedrich Rintelen, Giotto und die Giotto-apokryphen, (1912)
  11. ^ See, for example, Richard Offner's famous article of 1939, "Giotto, non-Giotto," conveniently collected in James Stubblebine, Giotto: The Arena Chapel Frescoes, New York, 1969 (reissued 1996), 135-155, which argues against Giotto's authorship of the frescoes. In contrast, Luciano Bellosi, La pecora di Giotto, Turin, 1985, calls each of Offner's points into question.
  12. ^ Bruno Zanardi, Giotto e Pietro Cavallini: La questione di Assisi e il cantiere medievale della pittura a fresco, Milan 2002; Zanardi provides an English synopsis of his study in Anne Derbes and Mark Sandona, The Cambridge Companion to Giotto, New York, 2004, 32-62.
  13. ^ Maginnis, "In Search of an Artist,"23-28.
  14. ^ In 1312 the will of Ricuccio Pucci leaves funds to keep a lamp burning before the crucifix "by the illustrious painter Giotto". Ghiberti also cites it as a work by Giotto.
  15. ^ See the complaint of the Eremitani monks in James Stubblebine, Giotto: The Arena Chapel Frescoes, New York, 1969, 106-107, and an analysis of the commission by Benjamin G. Kohl, "Giotto and his Lay Patrons," in Anne Derbes and Mark Sandona, The Cambridge Companion to Giotto, Cambridge, 2004, 176-193.
  16. ^ Anne Derbes and Mark Sandona, The Usurer's Heart: Giotto, Enrico Scrovegni, and the Arena Chapel in Padua, University Park, 2008; Laura Jacobus,Giotto and the Arena Chapel: Art, Architecture and Experience, London, 2008; Andrew Ladis, Giotto's O: Narrative, Figuration, and Pictorial Ingenuity in the Arena Chapel, University Park, 2009
  17. ^ The remaining parts (Stigmata of St. Francis, Martyrdom of Franciscans at Ceuta, Cruficixion and Heads of Prophets) are most likely from assistants.
  18. ^ Finished in 1309 and mentioned in a text from 1350 by Giovanni da Nono. They had an astrological theme, inspired by the Lucidator, a treatise famous in the 14th century.
  19. ^ La 'Madonna d'Ognissanti' di Giotto restaurata, Florence, 1992; Julia I. Miller and Laurie Taylor-Mitchell, "The Ognissanti Madonna and the Humiliati Order in Florence," in The Cambridge Companion to Giotto, ed. Anne Derbes and Mark Sandona, Cambridge, 2004, 157-175.
  20. ^ Julian Gardner, "Altars, Altarpieces and Art History: Legislation and Usage," in Italian Altarpieces, 1250-1500, ed. Eve Borsook and Fiorella Gioffredi, Oxford, 1994, 5-39; Irene Hueck, "Le opere di Giotto per la chiesa di Ognissanti," in La 'Madonna d'Ognissanti' di Giotto restaurata, Florence, 1992, 37-44.
  21. ^ Duncan Kennedy, Giotto's Ognissanti Crucifix brought back to life, BBC News, 2010-11-05. Accessed 2011-04-05
  22. ^ Ghiberti, I commentari, ed. O Morisani, Naples 1947, 33.
  23. ^ Giorgio Vasari, Le vite de' più eccellenti architetti, pittori, et scultori Italiani ed. G. Milanesi, Florence, 1878, I, 373-374.
  24. ^ L. Tintori and E. Borsook, The Peruzzi Chapel, Florence, 1965, 10; J. White, Art and Architecture in Italy, Baltimore, 1968, 72f.
  25. ^ C. Brandi, Giotto, Milan, 1983, 185-186; L.Bellosi, Giotto, Florence, 1981, 65, 71.
  26. ^ Tintori and Borsook; Laurie Schneider Adams, “The Iconography of the Peruzzi Chapel,” L’Arte, 1972, 1-104. (Reprinted in Andrew Ladis ed., Giotto and the World of Early Italian Art New York and London 1998, 3, 131-144); Julie F. Codell, "Giotto's Peruzzi Chapel Frescoes: Wealth, Patronage and the Earthly City," Renaissance Quarterly, 41 (1988) 583-613.
  27. ^ The concept of such linkings was first suggested for Padua by Michel Alpatoff, "The Parallelism of Giotto's Padua Frescoes," Art Bulletin, 39 (1947) 149-154. It has been tied to the Bardi Chapel by Jane C. Long, “The Program of Giotto’s Saint Francis Cycle at Santa Croce in Florence,” Franciscan Studies 52 (1992) 85-133 and William R. Cook, "Giotto and the Figure of St. Francis," in The Cambridge Companion to Giotto, ed. A. Derbes and M. Sandona, Cambridge, 2004, 135-156.
  28. ^ 青空あおぞら文庫ぶんこより引用いんよう
  29. ^ a b IOL,September 22, 2000
  30. ^ Franklin Toker, a professor of art history at the University of Pittsburgh, who was present at the original excavation in 1970, says that they are probably "the bones of some fat butcher!" [1]

出典しゅってん

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  • Eimerl, Sarel. The World of Giotto, Time-Life Books, (1967), ISBN 0-900658-15-0
  • Previtali, G. Giotto e la sua bottega (1993)
  • Vasari, Giorgio.
    • Le vite de più eccellenti pittori, scultori e architetti (1568)
    • Lives of the Artists, trans. George Bull, Penguin Classics, (1965) ISBN 0-14-044-164-6

外部がいぶリンク

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ちゅう : 以下いか外部がいぶリンクのなかには、ジョットがえがいたかどうかうたがわしい絵画かいがもジョットの作品さくひんとしている場合ばあいがある