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ビジャレアルCF - Wikipedia

ビジャレアルCF

スペインのサッカークラブ

ビジャレアル・クルブ・デ・フトボルスペイン: Villarreal Club de Fútbol, S.A.D., バレンシア: Vila-real Club de Futbol, S.A.D.)は、バレンシアしゅうカステリョンけんヴィラ=レアル本拠地ほんきょちスペインサッカークラブチーム。プリメーラ・ディビシオンぞくしている。1923ねん創設そうせつされ、24,890にん収容しゅうようエスタディオ・デ・ラ・セラミカをホームスタジアムとしている。

ビジャレアルCF
原語げんご表記ひょうき Vila-real Club de Futbol, S.A.D.
愛称あいしょう El Submarino Amarillo(黄色きいろ潜水艦せんすいかん
クラブカラー     黄色おうしょく
創設そうせつねん 1923ねん
所属しょぞくリーグ ラリーガ
所属しょぞくディビジョン 12023-24
昨季さくきリーグ順位じゅんい 52022–23
ホームタウン バレンシア州の旗 バレンシアしゅうヴィラ=レアル
ホームスタジアム
エスタディオ・デ・ラ・セラミカ
収容しゅうよう人数にんずう 24,890[1]
代表だいひょうしゃ スペインの旗 フェルナンド・ロイグ
監督かんとく スペインの旗 マルセリーノ
公式こうしきサイト 公式こうしきサイト
ホームカラー
アウェイカラー
サードカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

ビジャレアルとはスペインで「おうまち」という意味いみであり、そのとおりチームのエンブレムには王冠おうかんがあしらわれている。ただし、この場合ばあいの「レアル」とはアラゴン王国おうこくおうし、現在げんざいのスペイン王室おうしつではない。そのため王冠おうかんのデザインもに「レアル」をかんするチームのものとはことなっている[2]。しばしば、成功せいこうしたスモールクラブのれいとしていにされる[3]

 
エル・マドリガル

黎明れいめい

編集へんしゅう

1923ねん3がつ10日とおか、すべてのスポーツ、とくにサッカーを奨励しょうれいするためにビジャレアルCD(Villarreal CD)が創設そうせつされた。初代しょだい会長かいちょう化学かがくしゃのホセ・カルドゥチュ・アルメーラであり、その補佐ほさとして銀行ぎんこういんのホセ・マルティネス・アギラールが、会計かいけいとして行政ぎょうせいかんのカルロス・カタラジュー・ホルダが就任しゅうにんした。スタジアムは月額げつがく60ペセタ(やく0.36ユーロ)で借用しゃくようし、チケット金額きんがく成人せいじん男性だんせい0.5ペセタ(やく0.005ユーロ)、ども0.25ペセタに設定せっていされた。成人せいじん女性じょせい自由じゆう入場にゅうじょうみとめられた[4]同年どうねん6がつ17にち、ビジャレアルのスタジアムが竣工しゅんこうし、CDカステリョンたいセルバンテスせんがスタジアムのはつ試合しあいとなった。同年どうねん10がつ21にち、ビジャレアルはカステリョンとはつ試合しあいおこなった[4]黎明れいめいのユニフォームは白色はくしょくのシャツと黒色こくしょくのパンツであり、クラブはつのバッジのいろ反映はんえいしている[5]。1925ねんにはスタジアムがエル・マドリガル命名めいめいされた。

1929ねんスペインサッカー連盟れんめい全国ぜんこくリーグ(リーガ・エスパニョーラ)を発足ほっそくさせ、プリメーラ・ディビシオン(1)を頂点ちょうてんにするピラミッドがたのリーグシステムが構成こうせいされてからは、ビジャレアルは地域ちいきリーグに参戦さんせんした。1934-35シーズン、勝利しょうりクラブが全国ぜんこく規模きぼセグンダ・ディビシオン(2)に昇格しょうかくする可能かのうせいがあったたたかいで、ビジャレアルはカルタヘナCFやぶれた[4]よくシーズンのビジャレアルは地域ちいきリーグのさい上位じょういディビジョン(4相当そうとう)で優勝ゆうしょうしたが、そのスペイン内戦ないせん勃発ぼっぱつし、すべてのスポーツ大会たいかい中止ちゅうしされた[4]内戦ないせんは1939ねん終結しゅうけつし、1950-51シーズンに地域ちいきリーグのさい上位じょういディビジョンに昇格しょうかくするまで、クラブはふたた地域ちいきリーグの2(5相当そうとう)でプレー[4]。1942ねん、クラブはCAFビジャレアル(CAF Villarreal)に名称めいしょう変更へんこうし、バッジのいろ黄色きいろ変更へんこうされた。「F」は運動うんどうクラブでありチームのサポーターであるFoghetcazをあらわしている[5]。1954ねん現在げんざい名称めいしょうであるビジャレアルCF(Villarreal CF)に変更へんこうされ、バッジも現在げんざいのものによくたデザインが採用さいようされた[5]

1955-56シーズンに優勝ゆうしょうして全国ぜんこくリーグのテルセーラ・ディビシオン(3)に昇格しょうかくするまえには、地域ちいきリーグのさい上位じょういディビジョンで7となり、4となった。1960-61シーズンのテルセーラ・ディビシオンは14地域ちいきリーグ降格こうかくとなった[4]。1966ねんなつ現在げんざいのバッジが採用さいようされると[5]、1966-67シーズンには地域ちいきリーグで優勝ゆうしょうしてテルセーラ・ディビシオンに復帰ふっきし、1970ねんにはクラブ史上しじょうはじめてセグンダ・ディビシオンに到達とうたつした[4]。セグンダ・ディビシオンへの昇格しょうかく初年度しょねんどはなんとか降格こうかく回避かいひしたものの、1971-72シーズン終了しゅうりょうにテルセーラ・ディビシオン降格こうかくとなった。1975-76シーズン終了しゅうりょう、テルセーラ・ディビシオンから地域ちいきリーグに降格こうかくしたが、よくシーズン終了しゅうりょうにはふたたびテルセーラ・ディビシオンに昇格しょうかくした。

1986-87シーズン終了しゅうりょうにはセグンダ・ディビシオンBげん3[注釈ちゅうしゃく 1])に昇格しょうかくしたが、1990ねんには18でテルセーラ・ディビシオン降格こうかくとなった。しかし2シーズン連続れんぞく昇格しょうかくし、名称めいしょう変更へんこう[注釈ちゅうしゃく 2] はじめてセグンダ・ディビシオンに昇格しょうかくした。1992-93シーズンから1996-97シーズンはたいてい順位じゅんいひょう下位かい中位ちゅうい位置いちしたが、1997ねんフェルナンド・ロイグ会長かいちょう就任しゅうにんがクラブのおおきな転機てんきになった。ロイグ会長かいちょう就任しゅうにん会見かいけんで「3ねん以内いないにプリメーラ・ディビシオンに昇格しょうかくし、いずれはUEFAチャンピオンズリーグに出場しゅつじょうする」と公約こうやくし、1997-98シーズンには4となってプリメーラ・ディビシオン昇格しょうかくプレーオフに出場しゅつじょうした[6]昇格しょうかくプレーオフではSDコンポステーラと2レグせい試合しあいおこなった。ホームでおこなわれたファーストレグには0-0でけ、アウェーのガリシアしゅうおこなわれたセカンドレグも1-1のけであったが、アウェーゴールルールによってクラブ史上しじょうはつのプリメーラ・ディビシオン昇格しょうかく決定けっていした。

プリメーラはつ挑戦ちょうせん

編集へんしゅう

1998-99シーズンの開幕かいまくせんはリーグ覇者はしゃレアル・マドリードとの対戦たいせんとなり、1998ねん8がつ31にちエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウおこなわれた。プリメーラ・ディビシオン昇格しょうかくはつのホームゲームは、レアル・マドリードせん翌週よくしゅうおこなわれたセルタ・デ・ビーゴせんであった[6]どうシーズンは気苦労きぐろうおおいシーズンとなり、18わってセグンダ・ディビシオンに降格こうかくした。1999-2000シーズンはセグンダ・ディビシオンを3え、わずか1シーズンでプリメーラ・ディビシオンに復帰ふっきした。

欧州おうしゅうカップせん常連じょうれんとして

編集へんしゅう

2000ねん就任しゅうにんしたビクトル・ムニョス監督かんとく選手せんしゅ攻撃こうげき精神せいしんえつけた。ディフェンスラインはたかたもち、前線ぜんせんからのプレッシングとオフサイドトラップ駆使くしし、ボールをうばったらすぐさまカウンターにてんじた。昇格しょうかく初年度しょねんどながら7はいり、UEFAカップ出場しゅつじょうけんまであといち位置いちにたどりいた。2001-02シーズンはリーグせんで15だったものの、コパ・デル・レイではベスト8となった[6]。2002ねんなつにはUEFAインタートトカップ出場しゅつじょうし、FHハフナルフィヨルズゥル(アイスランド)、トリノFC(イタリア)、トロワAC(フランス)をやぶったが、決勝けっしょうマラガCF同国どうこく対決たいけつ)に2試合しあい合計ごうけい1-2でやぶれた[7]。ムニョス監督かんとく南米なんべい選手せんしゅ中心ちゅうしん積極せっきょくてき補強ほきょう敢行かんこうし、2003ねんなつFCバルセロナからフアン・ロマン・リケルメ獲得かくとくしてからは[8]かれ中心ちゅうしんとしたチームづくりを推進すいしんした。どうなつにもUEFAインタートトカップに出場しゅつじょうすると、決勝けっしょうSCヘーレンフェーン(オランダ)をやぶって優勝ゆうしょうし、2003-04シーズンのUEFAカップ出場しゅつじょうけんた。シーズン途中とちゅうには南米なんべい知将ちしょうマヌエル・ペジェグリーニ招聘しょうへい。UEFAカップが主要しゅよう欧州おうしゅうカップせんへのデビューの機会きかいとなり、ASローマ(イタリア)やセルティックFC(スコットランド)に勝利しょうりした。結果けっかてき優勝ゆうしょうするバレンシアCF同国どうこく対決たいけつ)に準決勝じゅんけっしょうやぶれたものの、はつ出場しゅつじょうでベスト4となり、リーグせんでは8となった。

2004ねんなつには3ねん連続れんぞくでUEFAインタートトカップに出場しゅつじょうし、決勝けっしょうではアトレティコ・マドリードをPKせんすえやぶって優勝ゆうしょうし、UEFAカップ出場しゅつじょうけんた。UEFAカップでは準々じゅんじゅん決勝けっしょうAZ(オランダ)に2試合しあい合計ごうけい2-3でやぶれた。どうシーズンのリーグせんは3え、UEFAチャンピオンズリーグ・プレーオフ出場しゅつじょうけん獲得かくとく。25得点とくてんげたしん戦力せんりょくディエゴ・フォルラン得点とくてんおうピチーチしょう)のタイトルを獲得かくとくした[9]。2005ねんなつにはリケルメの完全かんぜん移籍いせきでの加入かにゅうまり[10]、UEFAチャンピオンズリーグではつ出場しゅつじょうにしてベスト4までがるだい旋風せんぷうこした。2005-06シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ・プレーオフで、エヴァートンFC(イングランド)をやぶって本選ほんせんグループリーグ出場しゅつじょうめると[11]どう大会たいかい常連じょうれんクラブの居並いならぶグループリーグで、マンチェスター・ユナイテッドFC(イングランド)相手あいてには2ふんリール(フランス)とSLベンフィカ(ポルトガル)相手あいてには1しょう1ふんずつの成績せいせきのこし、グループリーグを6せん無敗むはいえた。アウェーでのベンフィカせん勝利しょうりによって、ビジャレアルが首位しゅい、ベンフィカが2決勝けっしょうトーナメント進出しんしゅつめた[12][13]決勝けっしょうトーナメント1回戦かいせんではレンジャーズFC(スコットランド)と対戦たいせんし、2試合しあい合計ごうけい3-3であったが、アウェーのアイブロックス・スタジアムで2-2とけていたことから、アウェーゴールルールでがりをめた[14]準々じゅんじゅん決勝けっしょうではインテル(イタリア)に2試合しあい合計ごうけい2-2でけ、やはりアウェーゴールルールでがりをめた[15]準決勝じゅんけっしょうではアーセナルFC(イングランド)と対戦たいせんしたが、ディフェンスじん怪我人けがにん続出ぞくしゅつしており、主審しゅしんによる疑惑ぎわく判定はんていなどもあって、ハイベリーおこなわれたファーストレグを0-1でとした。ホームでおこなわれたセカンドレグでは試合しあい終了しゅうりょう間際まぎわにPKをたが、リケルメのキックが当時とうじ10せん連続れんぞく失点しってん記録きろくというチャンピオンズリーグ史上しじょう最長さいちょう記録きろく更新こうしんしたチームの最後さいごとりででドイツ代表だいひょう守護神しゅごじん君臨くんりんするイェンス・レーマンめられ、0-0のけ(2試合しあい合計ごうけい0-1)で敗退はいたいまった[16]。アーセナルはパリでおこなわれた決勝けっしょうFCバルセロナやぶれている。ビジャレアルはリーグせんでは7わり、UEFAインタートトカップの出場しゅつじょうけんるにとどまった。

2006ねんなつのUEFAインタートトカップでは1回戦かいせんNKマリボル(スロベニア)にやぶれた。ホームでのファーストレグを1-2でとし、アウェーでのセカンドレグは1-1のけにわった[17]。2006-07シーズンはリケルメと首脳しゅのうじん対立たいりつによる混乱こんらんによって成績せいせき低迷ていめいするが、だつリケルメをはかった[18] シーズン後半こうはんからは復調ふくちょう。クラブしん記録きろくとなる8連勝れんしょう記録きろくし、リーグ5でシーズンをえた。2007-08シーズンは序盤じょばんせん暫定ざんていながら首位しゅいつなど[19] 好調こうちょう維持いじし、最終さいしゅうてきにはバルセロナをさえてクラブ史上しじょう最高さいこうの2となった。また、UEFAカップではベスト32にたっした。プレーオフではFC BATEボリソフ(ベラルーシ)をやぶり、本選ほんせんグループリーグでは、ACFフィオレンティーナ(イタリア)、ムラダー・ボレスラフ(チェコ)、IFエルフスボリ(スウェーデン)、AEKアテネFC(ギリシャ)と同居どうきょしたグループCを無敗むはい首位しゅい通過つうかした[20]決勝けっしょうトーナメント1回戦かいせんでは、結果けっかてき優勝ゆうしょうするFCゼニト・サンクトペテルブルク(ロシア)と対戦たいせんした。パヴェル・ポグレブニャクのゴールによってロシアでのファーストレグを0-1でとし、エル・マドリガルでのセカンドレグには2-1で勝利しょうりしたものの、アウェーゴールルールでゼニトががりをめた。

2008ねん、スペインサッカー史上しじょうはつ女性じょせい監督かんとくとしてヨーロッパサッカーかい話題わだいんだ日本人にっぽんじん佐伯さえきゆう利子りし育成いくせいスタッフに就任しゅうにん[21]。2008-09シーズンはCLの決勝けっしょうトーナメント1回戦かいせんパナシナイコスFCやぶるが、準々じゅんじゅん決勝けっしょうでアーセナルにやぶ[22]どう大会たいかいはベスト8、リーグせんは5えた[23]。しかし、2011-12シーズンは当時とうじ財政難ざいせいなんだったこともあり開幕かいまくまえサンティ・カソルラジョアン・カプデビラ主力しゅりょく移籍いせきした。とくにカソルラが移籍いせきしたときは2000まんユーロもたがその2000まんユーロの資金しきん活用かつようして獲得かくとくしたしん戦力せんりょくもフィットせず、さらにはジュゼッペ・ロッシみぎひざぜん十字じゅうじ靱帯じんたいだんきれでシーズンの大半たいはんぼうったのを筆頭ひっとうにマルコス・セナやニウマールとう主力しゅりょく怪我けがいた。この状況じょうきょう不運ふうんにもSSCナポリマンチェスター・シティFCバイエルン・ミュンヘンらとどうくみになる所謂いわゆるくみはいったUEFAチャンピオンズリーグ併行へいこうしてたたかわなければならずあんじょう6せん全敗ぜんぱいきっすると、国内こくないリーグでもチームはてんげること出来できず17低迷ていめいした12月まつフアン・カルロス・ガリード免職めんしょくにし、後任こうにん当時とうじBチームをひきいていたホセ・フランシスコ・モリーナ昇格しょうかくさせるが、そのの11試合しあいで3しょう(3け5はい)しかげられずにモリーナをわずか3かげつ解雇かいこ。1シーズンで2にんかれるという異常いじょう事態じたい発展はってんオサスナラ・コルーニャ残留ざんりゅうさせたことのあるミゲル・アンヘル・ロティーナ招聘しょうへいするがラスト11試合しあいで3しょう5ふん3はいさんおもようてんかせこと出来できなかった。残留ざんりゅうあらそいにくわわったこといメンバーが大半たいはんめていたチームにとって精神せいしんてきよわさは致命傷ちめいしょうとなり、試合しあい終盤しゅうばん失点しってんらってこぼしたてんおおく、アウェーで3しょうしかげられなかったのもいたかった。最終さいしゅうぶしでは残留ざんりゅうあらそっていたラージョ・バジェカーノ後半こうはんロスタイムに得点とくてんをあげて勝利しょうりし、ビジャレアルはアトレティコ・マドリードに敗戦はいせんしたために18となり、13シーズンぶりの降格こうかく決定けっていした。

2010年代ねんだい現在げんざい : 降格こうかくとヨーロッパでの戴冠たいかん

編集へんしゅう
 
2012-13シーズンの最終さいしゅうぶしUDアルメリアせんにて。勝利しょうりしてラ・リーガ昇格しょうかくめたいちまい

2012ねん5がつ13にち、このアトレティコ・マドリードせんやぶれてラ・リーガからの降格こうかくまった[24]。ラ・リーガ復帰ふっき目標もくひょうかかげたよくシーズンのはじまりには、6月12にちからしん監督かんとく就任しゅうにんしたマヌエル・プレシアード心臓しんぞう発作ほっさによって急死きゅうしした[25]。また、セグンダに降格こうかくしたことで当時とうじのチームの中心ちゅうしん選手せんしゅだったボルハ・バレロディエゴ・ロペスニウマールジュゼッペ・ロッシらがクラブをり、大幅おおはば戦力せんりょく低下ていかまねいた[26]

セグンダに降格こうかくしたビジャレアルだったが、1シーズンでふたたびラ・リーガに復帰ふっきし、復帰ふっき1シーズンとなった2013-14シーズンはだい7せつレアル・ベティスせんまで無敗むはいつづけた。このシーズンはリーグせんを6え、よくシーズンのUEFAヨーロッパリーグ出場しゅつじょうけん獲得かくとくした。

2014-15シーズン今季こんきさくシーズンとおなじく6フィニッシュで来季らいきUEFAヨーロッパリーググループステージ出場しゅつじょうけんを2シーズン連続れんぞくにした。2015-16シーズンには、だい6せつと7せつにかけて一時いちじてきにリーグ首位しゅいったが、よくふしに5へと転落てんらくした。それでもその調子ちょうしくずすことなく4でシーズンをえると、UEFAチャンピオンズリーグ 2016-17出場しゅつじょうけんをかけてフランスのASモナコとCLプレーオフをたたかうことになった。しかし、2せん合計ごうけい3-1でやぶれ、このシーズンは3シーズン連続れんぞくとなるヨーロッパリーグへ出場しゅつじょうすることとなった[27]。そのヨーロッパリーグでは決勝けっしょうトーナメントでSSCナポリバイエル・レヴァークーゼンやぶり、リヴァプールFCとの準決勝じゅんけっしょうにまで進出しんしゅつした。だい1せんをホームで1-0と勝利しょうりしたが、だい2せんのアウェーアンフィールドで3-0と完敗かんぱいし、決勝けっしょう進出しんしゅつまであといちとどかなかった[28]

2020-21シーズン開幕かいまくまえハビエル・カジェハ監督かんとく後任こうにんとしてウナイ・エメリ招聘しょうへいし、3ねん契約けいやくむすんだ[29]。ラ・リーガでは後半こうはんせん過密かみつ日程にっていにより成績せいせき安定あんていせず7フィニッシュ、コパ・デル・レイではベスト8でレバンテUD敗北はいぼくするなどるわなかったが、2シーズンぶりに出場しゅつじょうしたUEFAヨーロッパリーグでは成功せいこうおさめた。ベスト8ではFCディナモ・キーウを、ベスト4でアーセナルFCやぶって決勝けっしょう進出しんしゅつすると、マンチェスター・ユナイテッドFCとのキッカーをつとめた選手せんしゅが22にんにもおよ長丁場ながちょうばのPKせんせいして、クラブ史上しじょうはじめてヨーロッパリーグ優勝ゆうしょうたした[30]。また、クラブはつ日本人にっぽんじん選手せんしゅとして、レアル・マドリードから久保くぼけんえいが1シーズンのレンタル移籍いせきでクラブに在籍ざいせきしていたが、出場しゅつじょう機会きかいもとめてふゆ移籍いせき市場いちばヘタフェCFにレンタルさき変更へんこうした[31]

2021-2022シーズンもリーグせんでは昨年さくねんおなじく7でフィニッシュ、コパ・デル・レイもベスト32で敗退はいたいし、UEFAスーパーカップでもチェルシーやぶれたが、EL王者おうじゃとして出場しゅつじょうしたUEFAチャンピオンズリーグでは好成績こうせいせきおさめた。マンチェスターユナイテッドアタランタヤングボーイズどうくみになったグループFで、勝利しょうりしたほうがグループリーグ突破とっぱ決定けっていする最終さいしゅうぶしアタランタとのアウェいちせんで、3-0から2てんかえされるが、なにとか突破とっぱめると、ベスト16でユヴェントス対戦たいせん、ホームでの1st legはヴラホヴィッチ開始かいしわずか1ふん先制せんせいされるも、その1てんかえして1-1のドローにむと、アウェーでの2nd legでは、後半こうはんに3てんたたんで2せん合計ごうけい4-1とし、08-09以来いらいのベスト8進出しんしゅつめた。ラウンド8ではバイエルン・ミュンヘン対戦たいせん、1st legを1-0でえ、アウェーでの2nd legは、52ふんレヴァンドフスキにゴールをゆるして先制せんせいされ、2せん合計ごうけい1-1といつかれるが、88ふんチュクウェゼ同点どうてんだんめ、2せん合計ごうけい2-1で勝利しょうりし、05-06シーズン以来いらい準決勝じゅんけっしょう進出しんしゅつめた。準決勝じゅんけっしょうではリヴァプール対戦たいせん、アウェーでの1st legを2-0でとすと、ホームでの2nd legでは前半ぜんはんで2てんかえして2せん合計ごうけいいつくも、後半こうはんに3てんめられ、2せん合計ごうけい5-2で敗退はいたいとなった。

クラブカラーとユニフォーム

編集へんしゅう

だい世界せかい大戦たいせんまえのユニフォームは白色はくしょくのシャツと黒色こくしょくのパンツであり、よくられた黄色きいろいユニフォームの起源きげんは1947ねんまでさかのぼる。しんシーズンを間近まぢかひかえたある会長かいちょう息子むすこがバレンシアのスポーツてんったが、ユニフォームの在庫ざいこ黄色きいろしかなく、しかたなく黄色きいろいユニフォームをって地元じもとかえったことがユニフォームカラー変更へんこうのきっかけである。選手せんしゅたちは黄色おうしょくのシャツにかんしてはクラブにうってつけであるとしたが、黒色こくしょくのパンツはこのまず、会長かいちょう息子むすこがカステリョンまでおもむいて白色はくしょくのパンツを人数にんずうぶん購入こうにゅうした。その選手せんしゅたちの投票とうひょうによってパンツが青色あおいろめられた[32]。こののちしばらくは黄色おうしょくのシャツと青色あおいろのパンツというわせがつづいたが、2003-04シーズンに黄色おうしょくのシャツと黄色おうしょくのパンツというわせに変更へんこうされた[33]。アウェーユニフォームにはしばしば濃紺のうこんしょく使つかわれる。

2005-06シーズンから2010-11シーズンまではカステリョン空港くうこう(Aeroport Castello、アエロポルト・カステーリョ)がむねスポンサーであったが、2011-12シーズン以降いこうむねスポンサーがない状態じょうたいつづいている。かつてはプーマがユニフォームサプライヤーであったが、現在げんざいはJoma(ホマ)がユニフォームを製造せいぞうしている。

ニックネームとマスコット

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ユニフォームカラーの黄色おうしょくから、ビートルズきょくにちなんでエル・サブマリーノ・アマリーリョ(El Submarino Amarillo、イエローサブマリン)あるいはサブマリンズの愛称あいしょう[2]。この愛称あいしょうは1967ねんからもちいられている。なお、ホームスタジアムのエスタディオ・デ・ラ・セラミカ屋根やね黄色きいろられている。アンダルシアしゅうのクラブ、カディスCFもイエローサブマリンという愛称あいしょうち、どちらが本当ほんとうのイエローサブマリンであるかが話題わだいにのぼることがある。

2001ねん10がつ26にちにグロゲ(Groguet)という名前なまえのマスコットが公式こうしき発表はっぴょうされ、12月13にち地元じもとの12さい少年しょうねんによってづけられた[34]黄色きいろいユニフォームをおおきな体躯たいくと、潜水せんすいかんかたちをした水色みずいろあたまっている、ひとがたのマスコットである。グロゲという名前なまえなにかに由来ゆらいするものではないが、クラブやファンそのものの愛称あいしょうにもなっている。

地域ちいきてき理由りゆうにより、おなカステリョンけん本拠地ほんきょちCDカステリョンたいしてながあいだライバル意識いしきいている。また、2000年代ねんだい以降いこうはビジャレアルとバレンシアCFバレンシアしゅううちにおけるもっと競争きょうそうりょくたかいクラブであることから、バレンシアもまたライバルである[35]かれらとの対戦たいせん現地げんちデルビー・デ・ラ・コムニタ(Derby de la Comunitat)、日本にっぽんではとくにバレンシアしゅうダービーとばれる。

最大さいだい得点とくてん勝利しょうりは5てんであり、過去かこに3試合しあい達成たっせいしている。1998-99シーズンのセグンダ・ディビシオンにおけるUDサラマンカたたかえ、2002-03シーズンのプリメーラ・ディビシオンにおけるセルタ・デ・ビーゴたたかえ、2009-10シーズンのプリメーラにおけるCDテネリフェせんである。1試合しあい最多さいた得点とくてんは6てんであり、2003-04シーズンのプリメーラにおけるホームでのラシン・サンタンデールせん達成たっせいしている[36]。アウェーでの最大さいだい得点とくてん勝利しょうりは2000-01シーズンにプリメーラにおけるUDラス・パルマスたたかえ(5-1)と2004-05シーズンのプリメーラにおけるレアル・ソシエダたたかえ(4-0)で達成たっせいした4てんである。

国内こくないタイトル

編集へんしゅう
1969-70

国際こくさいタイトル

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2020-21

過去かこ成績せいせき

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1996ねん以降いこう

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シーズン リーグせん 国王こくおうはい 欧州おうしゅうカップ 最多さいた得点とくてんしゃ
ディビジョン 順位じゅんい ためし かち ぶん はい とく しつ てん 選手せんしゅ 得点とくてんすう
1996-97 セグンダ 10 38 13 9 16 38 52 48 3回戦かいせん敗退はいたい サリージャス 10
1997-98 4 42 19 16 7 51 38 73 1回戦かいせん敗退はいたい サリージャス 17
1998-99 プリメーラ 18 38 8 12 18 47 63 36 ベスト16 クライオヴェアヌ 13
1999-00 セグンダ 3 42 18 12 12 61 46 66 ベスト16 モイセス 17
2000-01 プリメーラ 7 38 16 9 13 58 52 57 2回戦かいせん敗退はいたい ビクトル 14
2001-02 15 38 11 10 17 46 55 43 準々じゅんじゅん決勝けっしょう敗退はいたい ビクトル 14
2002-03 15 38 11 12 15 44 53 45 1回戦かいせん敗退はいたい J・ロペス 8
2003-04 8 38 15 9 14 47 49 54 ベスト16 UC 準決勝じゅんけっしょう敗退はいたい アンデルソン 12
2004-05 3 38 18 11 9 69 37 65 3回戦かいせん敗退はいたい UC 準々じゅんじゅん決勝けっしょう敗退はいたい フォルラン 25[注釈ちゅうしゃく 3]
2005-06 7 38 14 15 9 50 39 57 ベスト16 UCL 準決勝じゅんけっしょう敗退はいたい リケルメ 12
2006-07 5 38 18 8 12 48 44 62 ベスト16 フォルラン 19
2007-08 2 38 24 5 9 63 40 77 準々じゅんじゅん決勝けっしょう敗退はいたい UC ベスト32 ニハト 18
2008-09 5 38 18 11 9 61 54 65 4回戦かいせん敗退はいたい UCL 準々じゅんじゅん決勝けっしょう敗退はいたい J・ジョレンテ 15
2009-10 7 38 16 8 14 58 57 56 ベスト16 UEL ベスト32 ニウマール 11
2010-11 4 38 18 8 12 54 55 62 準々じゅんじゅん決勝けっしょう敗退はいたい UEL 準決勝じゅんけっしょう敗退はいたい G・ロッシ 18
2011-12 18 38 9 14 15 39 53 41 4回戦かいせん敗退はいたい UCL GS敗退はいたい ルベン 9
2012-13 セグンダ 2 42 21 14 7 68 38 77 2回戦かいせん敗退はいたい ウチェ 14
2013-14 プリメーラ 6 38 17 8 13 60 44 59 ベスト16 ウチェ 14
2014-15 6 38 16 12 10 48 37 60 準決勝じゅんけっしょう敗退はいたい UEL ベスト16 ビエット 12
2015-16 4 38 18 10 10 44 35 64 ベスト16 UEL 準決勝じゅんけっしょう敗退はいたい バカンブ 22
2016-17 5 38 19 10 9 56 33 67 ベスト16 UCL プレーオフ敗退はいたい バカンブ 12
UEL ベスト32
2017-18 5 38 18 7 13 57 50 61 ベスト16 UEL ベスト32 バッカ 15
2018-19 14 38 10 14 14 49 52 44 ベスト16 UEL 準々じゅんじゅん決勝けっしょう敗退はいたい トコ・エカンビ 18
2019-20 5 38 18 6 14 63 49 60 準々じゅんじゅん決勝けっしょう敗退はいたい ジェラール・モレノ 20
2020-21 7 38 15 13 10 60 44 58 準々じゅんじゅん決勝けっしょう敗退はいたい UEL 優勝ゆうしょう ジェラール・モレノ 30
2021-22 7 38 16 11 11 63 37 59 ベスト32 USC じゅん優勝ゆうしょう アルノー・ダンジュマ 16
UCL 準決勝じゅんけっしょう敗退はいたい
2022-23 5 38 19 7 12 59 40 64 ベスト16 UECL ベスト16 ホセ・ルイス・モラレス 15
2023-24 くらい 38 UEL
優勝ゆうしょう じゅん優勝ゆうしょう 昇格しょうかく 降格こうかく

1929-96ねん

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シーズン ディビジョン 順位じゅんい 国王こくおうはい
1929-56 レヒオナレス
1956-57 テルセーラ 8
1957-58 テルセーラ 5
1958-59 テルセーラ 6
1959-60 テルセーラ 12
1960-61 テルセーラ 14
1961-62 レヒオナレス
1962-63 レヒオナレス
1963-64 レヒオナレス
1964-65 レヒオナレス
1965-66 レヒオナレス
1966-67 レヒオナレス
1967-68 テルセーラ 3
1968-69 テルセーラ 9
1969-70 テルセーラ 優勝ゆうしょう
1970-71 セグンダ 16
1971-72 セグンダ 17
1972-73 テルセーラ 12
1973-74 テルセーラ 12
1974-75 テルセーラ 8
1975-76 テルセーラ 13
シーズン ディビジョン 順位じゅんい 国王こくおうはい
1976-77 レヒオナレス
1977-78 テルセーラ 15
1978-79 テルセーラ 13
1979-80 テルセーラ 9
1980-81 テルセーラ 16
1981-82 テルセーラ 7
1982-83 テルセーラ 14
1983-84 テルセーラ 13
1984-85 テルセーラ 14
1985-86 テルセーラ 6
1986-87 テルセーラ 3
1987-88 セグンダB 2
1988-89 セグンダB 4
1989-90 セグンダB 18
1990-91 テルセーラ 2
1991-92 セグンダB 2
1992-93 セグンダ 13
1993-94 セグンダ 16
1994-95 セグンダ 10
1995-96 セグンダ 15

欧州おうしゅう成績せいせき

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げん所属しょぞくメンバー

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2024ねん1がつ19にち現在げんざい[37]

ちゅう選手せんしゅ国籍こくせき表記ひょうきFIFAのさだめた代表だいひょう資格しかくルールもとづく。

No. Pos. 選手せんしゅめい
1 GK   ペペ・レイナ
2 DF   マッテオ・ガッビア
3 DF   ラウール・アルビオル  
4 MF   サンティ・コメサーニャ
5 DF   ホルヘ・クエンカ
6 MF   エティエンヌ・カプエ ( )
7 FW   ジェラール・モレノ
8 DF   フアン・フォイス ( )
9 FW   ゴンサロ・ゲデス
10 MF   ダニ・パレホ
11 FW   アレクサンダー・セルロート
13 GK   フィリップ・ヨルゲンセン ( )
No. Pos. 選手せんしゅめい
14 MF   マヌ・トリゲロス (ふく主将しゅしょう)
15 FW   ホセ・ルイス・モラレス
16 MF   アレックス・バエナ
17 DF   キコ・フェメニア
18 DF   アルベルト・モレノ
19 MF   フランシス・コクラン ( )
20 MF   ラモン・テラッツ
21 FW   ジェレミ・ピノ
22 MF   デニス・スアレス
23 DF   アイサ・マンディ ( )
24 MF   アルフォンソ・ペドラサ

括弧かっこない国旗こっきはその保有ほゆう国籍こくせき、もしくは市民しみんけんほししるしはEU圏外けんがい選手せんしゅしめす。

リザーブチーム

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ちゅう選手せんしゅ国籍こくせき表記ひょうきFIFAのさだめた代表だいひょう資格しかくルールもとづく。

No. Pos. 選手せんしゅめい
26 DF   アドリア・アルティミラ
27 FW   イリアス・アコマシュ
29 DF   アブラハム・デル・モラル
30 FW   ホルヘ・パスクアル
No. Pos. 選手せんしゅめい
31 GK   イケル・アルバレス
37 DF   カルロス・ロメロ
39 DF   アントニオ・エスピガレス
43 MF   ディエゴ・コリャード

ローン移籍いせき

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in

ちゅう選手せんしゅ国籍こくせき表記ひょうきFIFAのさだめた代表だいひょう資格しかくルールもとづく。

No. Pos. 選手せんしゅめい
9 FW   ゴンサロ・ゲデス (ウルヴァーハンプトン)
out

ちゅう選手せんしゅ国籍こくせき表記ひょうきFIFAのさだめた代表だいひょう資格しかくルールもとづく。

No. Pos. 選手せんしゅめい
-- DF   ホアン・モヒカ (オサスナ)
-- FW   ルイス・キンテロ (アモレビエタ)
-- FW   ベン・ブレアトン (シェフィールド・ユナイテッド)
No. Pos. 選手せんしゅめい
-- FW   アルノー・ダンジュマ (エヴァートン)
-- FW   ハイセム・ハッサン (スポルティング・ヒホン)
役職やくしょく 氏名しめい
監督かんとく   マルセリーノ
アシスタント   パブロ・ビジャ
GKコーチ   ハビ・ガルシア
フィジカルコーチ   マリオ・セガラ
テクニカルコーチ   パブロ・ロドリゲス

歴代れきだい監督かんとく

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歴代れきだい所属しょぞく選手せんしゅ

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有名ゆうめい選手せんしゅ

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その歴史れきしのほとんどを下部かぶリーグでごしてきたため、代表だいひょうにおける主要しゅよう国際こくさい大会たいかい出場しゅつじょうしたビジャレアルの選手せんしゅすくない。ドイツで開催かいさいされた2006 FIFAワールドカップには、スペイン代表だいひょうにブラジル出身しゅっしんマルコス・セナが、メキシコ代表だいひょうにアルゼンチン出身しゅっしんギジェルモ・フランコが、アルゼンチン代表だいひょうフアン・パブロ・ソリンフアン・ロマン・リケルメ選出せんしゅつされて出場しゅつじょうした。スイスとオーストリアで共催きょうさいされたUEFA EURO 2008にはスペイン代表だいひょうにビジャレアルから3にん選出せんしゅつされて優勝ゆうしょうっている。セナとサンティ・カソルラジョアン・カプデビラである。そのほかにはトルコ代表だいひょうニハト・カフヴェジ選出せんしゅつされ、ベスト4にたっしている。2009ねんFIFAコンフェデレーションズカップ2009のスペイン代表だいひょうメンバーにはカプデビラ、カソルラのほかディエゴ・ロペス選出せんしゅつされた。みなみアフリカで開催かいさいされた2010 FIFAワールドカップでもスペイン代表だいひょう優勝ゆうしょうしたが、ビジャレアルからスペイン代表だいひょう選出せんしゅつされたのはカプデビラのみであった。ウルグアイ代表だいひょうディエゴ・ゴディン選出せんしゅつされてベスト4となり、ブラジル代表だいひょうニウマール選出せんしゅつされてベスト8となった。2004ねんから2007ねんまでビジャレアルに在籍ざいせきしたウルグアイ代表だいひょうディエゴ・フォルランは、どう大会たいかい最優秀さいゆうしゅうゴールしょう最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅしょう受賞じゅしょうした。UEFA EURO 2012出場しゅつじょうしたスウェーデン代表だいひょうオロフ・メルベリ大会たいかいにビジャレアルに加入かにゅうした。

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 1977ねんにセグンダ・ディビシオンBが3リーグとして創設そうせつされ、それまで3リーグであったテルセーラ・ディビシオンは4リーグとなった
  2. ^ セグンダ・ディビシオンB(3創設そうせつ、セグンダ・ディビシオン(2)はセグンダBとの区別くべつのためにセグンダ・ディビシオンAともばれる
  3. ^ フォルランはとくおうピチーチしょう)のタイトルを獲得かくとくした。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ UEFA CHAMPIONS LEAGUE SEASON 2011/12 UEFA.com
  2. ^ a b All About (2006ねん3がつ13にち). “ついに浮上ふじょうしたスペインの“イエロー・サブマリン””. 2009ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  3. ^ [1] Independent
  4. ^ a b c d e f g Villarreal C.F. - Web Oficial
  5. ^ a b c d Villarreal C.F. - Web Oficial
  6. ^ a b c Villarreal C.F. - Web Oficial
  7. ^ Villarreal C.F. - Web Oficial
  8. ^ uefa.com (2003ねん8がつ28にち). “リケルメ、ビジャレアルを選択せんたく”. 2009ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  9. ^ uefa.com (2005ねん5がつ30にち). “フォルランとアンリが得点とくてんおう”. 2009ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  10. ^ uefa.com (2005ねん6がつ10日とおか). “リケルメ、バルサにわか”. 2009ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  11. ^ uefa.com (2005ねん8がつ24にち). “ビジャレアルがエバートンを撃破げきは”. 2009ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  12. ^ Villarreal C.F. - Web Oficial
  13. ^ uefa.com (2005ねん12月7にち). “ビジャレアルが首位しゅい通過つうか”. 2009ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  14. ^ uefa.com (2006ねん3がつ7にち). “ビジャレアルが8きょう”. 2009ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  15. ^ uefa.com (2006ねん4がつ5にち). “ビジャレアル、歴史れきしてき快挙かいきょ”. 2009ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  16. ^ uefa.com (2006ねん4がつ25にち). “アーセナルが堅守けんしゅ決勝けっしょう進出しんしゅつ”. 2009ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  17. ^ Villarreal C.F. - Web Oficial
  18. ^ livedoorスポーツ (2007ねん7がつ27にち). “ビジャレアル、リケルメに背番号せばんごう剥奪はくだつ屈辱くつじょく”. 2009ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  19. ^ ニッカンスポーツ (2008ねん9がつ26にち). “ビジャレアル堅守けんしゅ暫定ざんてい首位しゅい”. 2009ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  20. ^ Villarreal C.F. - Web Oficial
  21. ^ msn産経さんけいニュース (2009ねん7がつ5にち). “スペインでサッカー選手せんしゅ育成いくせい佐伯さえきゆう利子りしさん(35) いつか代表だいひょうチーム監督かんとく”. 2009ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  22. ^ livedoorスポーツ (2009ねん4がつ16にち). “アーセナル、ビジャレアルに快勝かいしょう”. 2009ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  23. ^ スポーツナビ (2009ねん5がつ31にち). “アトレティコ・マドリーが来季らいきのCL出場しゅつじょうけん獲得かくとく、ビジャレアルはELへ”. 2009ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  24. ^ Falcao hunde al Villarreal”. Marca. 2012ねん5がつ13にち閲覧えつらん
  25. ^ “Manuel Preciado dies suddenly at 54”. ESPN.com. Associated Press. http://espn.go.com/sports/soccer/story/_/id/8019954/manuel-preciado-coach-villarreal-dies-one-day-taking-job 7 June 20127 June 2012閲覧えつらん 
  26. ^ Rossi, Nilmar, Zapata & the Villarreal players who could leave in fire sale at El Madrigal this summer - Goal.com”. Goal.com. 2012ねん7がつ30にち閲覧えつらん
  27. ^ Quand l’AS Monaco remportait son barrage contre Villarreal”. 2021ねん8がつ31にち閲覧えつらん
  28. ^ 理想りそう中小ちゅうしょうクラブ」の経営けいえい手法しゅほう。ビジャレアルの悲願ひがん、またもついえる。”. 2016ねん5がつ12にち閲覧えつらん
  29. ^ “Unai Emery: Villarreal appoint former Arsenal manager”. (2020ねん7がつ23にち). https://www.bbc.co.uk/sport/football/53513821 2020ねん7がつ23にち閲覧えつらん 
  30. ^ ビジャレアルが悲願ひがんのELはつ優勝ゆうしょう! 120分間ふんかん激闘げきとう、21にん連続れんぞく成功せいこうのPKせんすえにマンUを撃破げきは”. SoccerDigest (2021ねん5がつ27にち). 2022ねん5がつ4にち閲覧えつらん
  31. ^ 久保くぼけんえいがビジャレアルにのこっていたら…欧州おうしゅうせいした伏兵ふくへいたたかいにおも”. Sportiva (2021ねん5がつ27にち). 2022ねん5がつ4にち閲覧えつらん
  32. ^ Ball, Phil (2003). Morbo The Story of Spanish Football. London: Perseverance Works. ISBN 978-0-9540134-6-2
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  34. ^ アーカイブされたコピー”. 2011ねん10がつ24にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2012ねん10がつ1にち閲覧えつらんVillarreal公式こうしきサイト
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  36. ^ アーカイブされたコピー”. 2011ねん10がつ28にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2011ねん10がつ4にち閲覧えつらんVillarrealCF公式こうしきサイト
  37. ^ PRIMER EQUIPO”. ビジャレアルCF. 2021ねん10がつ7にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク

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