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フェレンツ・プスカシュ - Wikipedia

フェレンツ・プスカシュ

ハンガリーとスペインのサッカー選手せんしゅ (1927-2006)

フェレンツ・プスカシュ(Ferenc Puskás)、またはプシュカーシュ・フェレンツハンガリー: Puskás Ferenc [ˈpuʃkɑ̈ːʃˈfɛrɛnʦ]、1927ねん4がつ1にち - 2006ねん11月17にち)は、ハンガリーブダペスト出身しゅっしんもとサッカー選手せんしゅFW)・サッカー監督かんとく

フェレンツ・プスカシュ
名前なまえ
愛称あいしょう エチ (Öcsi)
ヒガニュ (Higany)
シュヴァーブ (Sváb)
サーグルドー・エールナジュ (Száguldó Őrnagy)
パンチョ (Pancho)
カノンほう (Cañoncito Pum)
ボス、親分おやぶん (Boss)
ラテン文字もじ Ferenc Puskás
ハンガリー Puskás Ferenc
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき  ハンガリー
スペインの旗 スペイン
生年月日せいねんがっぴ (1927-04-02) 1927ねん4がつ2にち
出身しゅっしん ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国おうこくブダペスト
ぼつ年月日ねんがっぴ (2006-11-17) 2006ねん11月17にち(79さいぼつ
 ハンガリー、ブダペスト
身長しんちょう 172cm
体重たいじゅう 75kg
選手せんしゅ情報じょうほう
ポジション FW
あし 左足ひだりあし
ユース
1940-1943 ハンガリーの旗 キスペスト・ホンヴェード
クラブ1
とし クラブ 出場しゅつじょう (得点とくてん)
1943-1956 ハンガリーの旗 ブダペスト・ホンヴェード 356 (375)
1958-1966 スペインの旗 レアル・マドリード 262 (244)
通算つうさん 618 (619)
代表だいひょうれき
1945-1956 ハンガリーの旗 ハンガリー 85 (84)
1961-1962 スペインの旗 スペイン 4 (0)
監督かんとくれき
1966-1967 スペインの旗 エルクレスCF
1967 アメリカ合衆国の旗 サンフランシスコGGG
1968 カナダの旗 バンクーバー・ロイヤルズ
1968-1969 スペインの旗 アラベス
1970-1974 ギリシャの旗 パナシナイコス
1975 スペインの旗 ムルシア
1975-1976 チリの旗 コロコロ
1976-1977 サウジアラビアの旗 サウジアラビア代表だいひょう
1978-1979 ギリシャの旗 AEKアテネ
1979-1982 エジプトの旗 アル・マスリ
1985-1986 パラグアイの旗 ソル・デ・アメリカ
1986-1989 パラグアイの旗 セロ・ポルテーニョ
1989-1992 オーストラリアの旗 サウス・メルボルンFC
1993 ハンガリーの旗 ハンガリー代表だいひょう
獲得かくとくメダル
男子だんし サッカー
オリンピック
きむ 1952 ヘルシンキ サッカー
1. 国内こくないリーグせんかぎる。
■テンプレート■ノート 解説かいせつ■サッカー選手せんしゅpj

ハンガリー代表だいひょう主将しゅしょうとして1950ねん前半ぜんはんから1954ねん1954 FIFAワールドカップ決勝けっしょうやぶれるまで4年間ねんかん無敗むはいつづけ、「マジック・マジャール」とばれたチームの中心ちゅうしん選手せんしゅとして活躍かつやく。クラブチームでもホンヴェードレアル・マドリード所属しょぞくして国内こくないリーグを合計ごうけい10UEFAチャンピオンズカップを3制覇せいはしており、史上しじょう最高さいこうのサッカー選手せんしゅ1人ひとりであるとひょうされ、スポーツ史上しじょうはじめて世界せかいてきなスター選手せんしゅになった人物じんぶつでもある[1]左足ひだりあしでの技巧ぎこうてき足技あしわざ強力きょうりょくなシュートをあじとし[1]、「疾走しっそう少佐しょうさ」(Száguldó Őrnagy, Gallopping Major)とばれた。

2009ねん以降いこうFIFA主催しゅさい大会たいかい試合しあいもっとすぐれたゴールをした選手せんしゅには、プスカシュの名前なまえかんしたFIFAプスカシュしょうあたえられる。

選手せんしゅ経歴けいれき

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ブダペスト労働ろうどうしゃ階級かいきゅう地区ちくまれ、近郊きんこうのキシュペシュトでそだった[2][3]一家いっかはドイツに起源きげんち、元々もともとはプルツェルトという苗字みょうじだったが、1930年代ねんだいにプスカシュにあらためた[4]父親ちちおやのフェレンツ(息子むすこ同名どうめい)はセミプロのサッカー選手せんしゅであり、鉄道てつどう整備せいびこう屠殺とさつじょう簿記ぼきがかりとしてはたらかたわら、ヴァシャシュキシュペシュトFCでセンターハーフとしてプレーした[4]引退いんたいはキシュペシュトで指導しどうしゃとなり、やがてトップチーム監督かんとくまかされるようになった[5]

一家いっかはキシュペシュトのホームグラウンドの隣接りんせつつアパートにんでいた[4][6]。4さいでサッカーをはじめた[7] プスカシュは、のちにクラブおよびハンガリー代表だいひょうでチームメイトとなるとなりのアパートのボジク・ヨージェフとボールをっていた[5][8]。1936ねん、9さいのときにボジクとそろってキシュペシュトのジュニアチームに入団にゅうだんした[6][9](1938ねん、11さいとする情報じょうほうげんもある[5])。プスカシュはクラブのさだめる下限かげん年齢ねんれいたなかったため、12さいになるまでコヴァーチ・ミクローシュという偽名ぎめい使つかって年齢ねんれい詐称さしょうしてプレーした[6][8]

キシュペシュト/ホンヴェード

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シュートをはなつプスカシュ(1949ねん

1943ねん12月に16さいキシュペシュトのトップチームにデビューし[10]、3試合しあいのコロズヴァールとの試合しあいはつゴールを記録きろくした[10]

だい世界せかい大戦たいせんわると、ハンガリーでは1946ねん本格ほんかくてき国内こくないリーグ再開さいかいされた[11]。キシュペシュトはプスカシュの父親ちちおや監督かんとく復帰ふっき[11]、プスカシュもキャプテンをまかされるようになっていた[6][11]。1946-47シーズンはウーイペシュトぐ2でシーズンをえた。1947-48シーズンは50ゴールではじめての得点とくてんおうかがやいた。そのは1949-50(31ゴール)、1950(25ゴール)、1953(27ゴール)シーズンにも得点とくてんおうとなった[12]

1949ねん共産党きょうさんとういちとう独裁どくさい体制たいせいとなったハンガリーで、キシュペシュトは陸軍りくぐんのクラブとして再編さいへんされ、ホンヴェード(「祖国そこく守護しゅごしゃ」の意味いみ)と改名かいめいされた[13]実態じったいほとんどプロフェッショナルでありながら名目めいもくじょうはアマチュアされ、ホンヴェードの選手せんしゅたちは軍人ぐんじん身分みぶんとなった[14]

この時期じきハンガリー代表だいひょう監督かんとく就任しゅうにんしたシェベシュ・グスターヴは、有力ゆうりょく選手せんしゅひとつのチームに集中しゅうちゅうさせることが代表だいひょうチームの強化きょうかつながるとかんが[6][15]、その強権きょうけんかして国内こくない最高さいこうのタレント、GKのグロシチ・ジュラ、FWのコチシュ・シャーンドル、ウィンガーのチボル・ゾルターンブダイ・ラースローらをぐん徴発ちょうはつしてホンヴェードの一員いちいんにした[15]。ホンヴェードは1949-50、1950、1952、1954、1955シーズンにリーグをせいした。

プスカシュはキシュペシュトおよびホンヴェードでは通算つうさん354試合しあい出場しゅつじょうして357ゴールをげた[16]

ハンガリー代表だいひょう

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ハンガリー代表だいひょうには、1945ねん8がつ20日はつかオーストリアせんでデビューをかざり、5-2で勝利しょうりしたこの試合しあい代表だいひょうはつゴールも記録きろくした[11][17]。1946ねん、アウェーのルクセンブルクたたかえ(7-2で勝利しょうり)ではつのハットトリックを達成たっせいした[17]。1947ねん5がつのイタリア遠征えんせいにて、チームは2-3でイタリアにやぶれたものの、プスカシュはユヴェントス代理人だいりにんから接触せっしょくけ、10まんドルを提示ていじされた[13]

1952ねんヘルシンキオリンピックでは、準決勝じゅんけっしょうスウェーデンに6-0で圧勝あっしょうしたのち決勝けっしょうユーゴスラビアを2-0で退しりぞけて、ハンガリーはきんメダルを獲得かくとくした。決勝けっしょうでプスカシュはペナルティキックに失敗しっぱいもしたが[18]チボルとそれぞれ1ゴールをげた。この大会たいかいよりセンターフォワードが気味ぎみ位置いちる(プスカシュをふく2人ふたりのインサイドフォワードがそのまえでプレーする)しんシステムがチームに導入どうにゅうされた[19][20][21]

1948ねんから1953ねんにかけて開催かいさいされた中央ちゅうおうヨーロッパインターナショナルカップでプスカシュは10ゴールで得点とくてんおうになり、チームは優勝ゆうしょうした[22]

1953ねん11月にロンドンのウェンブリー・スタジアム開催かいさいされたイングランドせんで、ハンガリーは6-3の有名ゆうめい勝利しょうりおさめた[23]

イングランドにとって、これがウェンブリーではじめて海外かいがいチームにやぶれた試合しあいになった。プスカシュは24ふんと27ふんにゴールをげた。イングランドのもうおうじてブダペストで再戦さいせんおこなわれたが、それにも7-1で勝利しょうりした。

1954 FIFAワールドカップ

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ポーランド辞退じたいしたため、ハンガリーは予選よせんずに1954 FIFAワールドカップほん大会たいかい出場しゅつじょうした。かれらは優勝ゆうしょう候補こうほだい本命ほんめいだった[24]。グループステージだい1試合しあい韓国かんこくに9-0(現在げんざいやぶられていない大会たいかい最多さいた得点とくてん試合しあいの1つ)、だい2試合しあいひか選手せんしゅ主体しゅたい西にしドイツに8-3と快勝かいしょうしたが、プスカシュは西にしドイツせん後半こうはんヴェルナー・リーブリッヒによって右足みぎあしいためつけられ[21][24]、その試合しあい欠場けつじょう余儀よぎなくされた[25]

 
1954ねんのプスカシュ(中央ちゅうおう)とヒデクチひだりおく

ハンガリーはプスカシュをいていたにもかかわらず、準々じゅんじゅん決勝けっしょうブラジル準決勝じゅんけっしょうウルグアイくだし、決勝けっしょうせんふたた西にしドイツと対戦たいせんした。試合しあいまえ予想よそうではハンガリーの勝利しょうり間違まちがいないとかんがえられていた[7][26]

プスカシュの状態じょうたいはまだ万全ばんぜんではなく、出場しゅつじょうあやぶまれていたが[27]準決勝じゅんけっしょうウルグアイせんはたらきをせたブダイにわって[27]つたえられるところによれば、ブダイをはずすようにみずか進言しんげんして[2])3試合しあいぶりに出場しゅつじょうメンバーにつらねた。プスカシュは6ふん味方みかたのシュートのこぼれだまんで先制せんせいてんげた[27][28]直後ちょくごチボル加点かてんしたが、西にしドイツも18ふんまでに同点どうてんき、2-2のまま試合しあい終盤しゅうばんまですすんだ。プスカシュは足首あしくび負傷ふしょうのせいでうごきがおもく、好機こうきをふいにする場面ばめん見受みうけられた[27]。84ふん西にしドイツのヘルムート・ラーン決勝けっしょうてんとなる3てんめた。その2ふんトート・ミハーイからのスルーパスをけたプスカシュのシュートが西にしドイツのゴールをやぶったが、これはウェールズじん線審せんしんマーヴィン・グリフィスとイングランドじん主審しゅしんビル・リングによってオフサイドと判定はんていされた[2][27][28]。プスカシュはこの判定はんていあやまりだったとかんがえており[2]現在げんざいでも議論ぎろんつづいている[27]わくないシュートのかずでは西にしドイツの8にたいし、ハンガリーは25と圧倒あっとうしていた[29]。1950ねんのオーストリアせん以来いらいとなったこの敗戦はいせんにより、ハンガリーの連続れんぞく無敗むはい記録きろくは31試合しあいわった[24][29]

試合しあいにプスカシュは西にしドイツの選手せんしゅたちが競技きょうぎ能力のうりょく向上こうじょうさせる禁止きんし薬物やくぶつ使用しようしていたとうったえた[30][31]ドイツサッカー連盟れんめい(DFB)は自国じこくのチームとプスカシュの対戦たいせん禁止きんしした[31]。1960ねんアイントラハト・フランクフルトとのチャンピオンズカップ決勝けっしょうまえにして、プスカシュは対戦たいせん相手あいて試合しあい放棄ほうきしないように、みずからの過去かこ言動げんどう陳謝ちんしゃする手紙てがみをDFBにおくった[30][31]

ハンガリー国民こくみん失望しつぼうおおきく、帰国きこくしたチームはおおきな批判ひはんびた[32]。プスカシュにも色々いろいろからぬうわさ流布るふされ[32]、アウェーの試合しあいではブーイングがんできた[32]

ハンガリーは西にしドイツにやぶれたのちはすぐになおし、1956ねんトルコやぶれるまで18試合しあい無敗むはいつづけた[30]。プスカシュは1956ねん10がつ14にちウィーンおこなわれたオーストリアせんがハンガリー代表だいひょうとしての最後さいご試合しあいになった[17]通算つうさん成績せいせきは85試合しあい84ゴール[17]

亡命ぼうめい

編集へんしゅう

ハンガリー動乱どうらんが1956ねん10がつ23にち勃発ぼっぱつしたとき、プスカシュはハンガリー代表だいひょう一員いちいんとして練習れんしゅうじょうにいた[33]

1956-57シーズン、ホンヴェードはじめて欧州おうしゅうチャンピオンズカップ参加さんかしていた。動乱どうらんは11月上旬じょうじゅんにはひとまずいていたが、ホンヴェードの選手せんしゅたちは11月23にちビルバオおこなわれたアスレティック・ビルバオとのだい1試合しあい(2-3でホンヴェードがやぶれる)をえてもまだハンガリーにかえろうとせず、帰国きこくもとめる本国ほんごくからのびかけを拒否きょひしてスペインで親善しんぜん試合しあいつづけた[33][34]。11月におこなわれたマドリード選抜せんばつチームとの試合しあい(プスカシュによれば、フランシスコ・フランコつま開催かいさいした試合しあい[35])はレアル・マドリード会長かいちょうサンティアゴ・ベルナベウ観戦かんせんしていた[35]。ハンガリーの国内こくない情勢じょうせいへの配慮はいりょから、だい2試合しあいベルギーブリュッセルをホンヴェードの“ホーム”として12月20にち開催かいさいされた[33][34]。GKのファラゴが負傷ふしょうしてプレーできなかったため、故障こしょうかかえたひだりウイングのチボル代役だいやくとしてゴールマウスにったホンヴェードは、3-3でアスレティックとけ、この時点じてんでトーナメントから敗退はいたいした[33][34][36]

FIFAは1957ねん1がつ3にちすべての連盟れんめいにホンヴェードとの対戦たいせん禁止きんしする通達つうたつはっしたが[34]、それからもブラジルフラメンゴからのさそいにおうじて南米なんべい遠征えんせいした[33]。2月22にちにヨーロッパへもど[34]、ホンヴェードの選手せんしゅたちがかり本拠ほんきょとしていたウィーンで、かれらはハンガリーサッカー協会きょうかい役員やくいんから、くにかえって制裁せいさいけるようにげられた[33]。プスカシュにされた制裁せいさいは18ヵ月かげつあいだ出場しゅつじょう停止ていし処分しょぶんだった[33]。プスカシュ、チボル、コチシュ自分じぶんたちに帰国きこく意志いしがないことをあきらかにした[34]。ハンガリーサッカー協会きょうかいはFIFAにかれらの処分しょぶんもとめ、その結果けっか、プスカシュはこう2ねんのあいだ世界せかいのどのクラブでもプレーできなくなった[33][34]のちにこの処分しょぶんは15ヵ月かげつ短縮たんしゅくされた[33]。プスカシュはイタリアのインテル・ミラノ練習れんしゅう参加さんかしていたが、この処分しょぶんによってインテルりはなくなった[33]

 
プスカシュのプレイヤーライセンス

1958ねん7がつ出場しゅつじょう停止ていし期間きかん終了しゅうりょうちかづいても、プスカシュはまだなおスイスのアマチュアクラブでトレーニングをしているような状況じょうきょうだったが[33]、かつてのホンヴェード財務ざいむ部長ぶちょうにして当時とうじはレアル・マドリードの技術ぎじゅつ部長ぶちょういていたかれ旧友きゅうゆうエミル・エステライヒャーが、プスカシュとの契約けいやくむすぶように現在げんざい上司じょうし説得せっとくした。

レアル・マドリード

編集へんしゅう
 
レアル・マドリードでのプスカシュ(1965ねん

プスカシュは1958-59シーズンよりレアル・マドリードに加入かにゅうした。おおくの人々ひとびとは31さいふとったプスカシュとの契約けいやくには懐疑かいぎてきであり[37]、スペインのプレスは、ニックネームである“ギャロッピング・メジャー(疾走しっそうする少佐しょうさ)”をもじり“太鼓腹たいこばら少佐しょうさ”とんで揶揄やゆした[38]当初とうしょこそブランクに苦労くろうしたが[35]、1959ねん1がつラス・パルマスせんではアルフレッド・ディ・ステファノそろってハットトリックを達成たっせいし、10-1で圧勝あっしょうした[35]。プスカシュはすでにチームに君臨くんりんしていたディ・ステファノのやくえんじることをいとわず[39][40]2人ふたりのコンビネーションは抜群ばつぐんだった[9]。スペインではかれに「ちいさなキャノン」というニックネームがけられた[37]

マドリードでの最初さいしょ監督かんとくだったアルゼンチンじんルイス・カルニグリアとはいがわる[39][40]1959ねんのチャンピオンズカップでは準決勝じゅんけっしょうでの活躍かつやくにもかかわらず、プスカシュは決勝けっしょうスタッド・ランスせん出場しゅつじょうメンバーからはずされた[39]。カルニグリアは1959ねんなつにチームをり、以降いこう監督かんとくとはより関係かんけいきずいた[39]

加入かにゅう2ねんの1959-60シーズン、チームはリーグでバルセロナぐ2だったが、プスカシュは24試合しあい出場しゅつじょうして試合しあいすう上回うわまわる26ゴールをげ、スペインでははじめての得点とくてんおうかがやいた[41]ハムデン・パークおこなわれた同年どうねんのチャンピオンズカップ決勝けっしょうアイントラハト・フランクフルトせんで、プスカシュは左足ひだりあしで2てん、PKで1てん、ヘディングで1てんけい4ゴールをげた[39]。これは現在げんざい最多さいた得点とくてん記録きろくとしてのこっている。ディ・ステファノも3ゴールをげて7-3で勝利しょうりおさめ、マドリードは大会たいかい5連覇れんぱたした[42]。このとしからヨーロッパと南米なんべいのチャンピオンクラブが対戦たいせんするインターコンチネンタルカップはじまり、マドリードはウルグアイのペニャロール対戦たいせんした。アウェーの1stレグを0-0でけたのち、サンティアゴ・ベルナベウでの2ndレグでプスカシュは、試合しあい開始かいしから8分間ふんかんに2てんうばい、5-1で勝利しょうりした[43]。1960ねんバロンドールはプスカシュが受賞じゅしょう本命ほんめい候補こうほだったが、亡命ぼうめいしゃかれ共産きょうさん主義しゅぎ諸国しょこく審査しんさいんたちからこのまれなかったため、ルイス・スアレス・ミラモンテス受賞じゅしょうした[44]当時とうじフランス・フットボールレキップ編集へんしゅうちょうつとめたジャック・フェランはのちに、バロンドールについて「もっとおおきな後悔こうかいは、プスカシュを受賞じゅしょうさせることができなかったことだ」とかたったという[38]

 
ボールにサインをするプスカシュ(1965ねん

1962ねんのチャンピオンズカップ決勝けっしょうベンフィカせんかれ前半ぜんはんにハットトリックを達成たっせいしたが、その逆転ぎゃくてんされて3-5でやぶれた[39][45]1964ねん決勝けっしょうではインテルに1-3でやぶれた。マドリードは1966ねんふたたびチャンピオンズカップに優勝ゆうしょうしたが、このころにはすでわか選手せんしゅ主体しゅたいとするチーム(当時とうじ若者わかもの風俗ふうぞくから「イエイエ」とばれた)に変貌へんぼうしており、プスカシュは登録とうろくされてはいたがたまに試合しあい程度ていどになっていた[46]。それでも1回戦かいせんフェイエノールトせんでは、2試合しあいで5ゴール(2ndレグに4ゴール)をげている[47]

1967ねん6がつ30にち[37] にプスカシュは引退いんたいした。その2ねんエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ開催かいさいされたかれのための記念きねん試合しあいには、8まんにん観客かんきゃくあつまった[48]。レアル・マドリードでは528試合しあい出場しゅつじょうして512ゴールを[16]ピチーチしょう(リーグ得点とくてんおうに4受賞じゅしょうした。1かいのインターコンチネンタルカップ優勝ゆうしょう、3かいチャンピオンズカップ優勝ゆうしょう、5かい国内こくないリーグ優勝ゆうしょう、1かい国内こくないカップ優勝ゆうしょうといったタイトルをチームにもたらした[37]

スペイン代表だいひょう

編集へんしゅう

プスカシュは1961ねんにスペイン国籍こくせき取得しゅとく[37][42]、1961ねん11月12にち1962 FIFAワールドカップ予選よせんヨーロッパ=アフリカあいだプレーオフのスペインたいモロッコせんでスペイン代表だいひょうにデビューした[17][49]翌年よくねんにはチリで開催かいさいされたFIFAワールドカップほん大会たいかいの3試合しあいすべてに出場しゅつじょうした。スペインはグループ最下位さいかいでワールドカップをえた。

監督かんとくとして

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引退いんたいはマドリードにバル[50]ひらいたが[51]、すぐにみせめる[50][51]以後いご指導しどうしゃとしてのみちあゆみ、エルクレスアラベスなどのクラブチームのほかサウジアラビア代表だいひょうハンガリー代表だいひょうなどで監督かんとく歴任れきにん。1970年代ねんだい前半ぜんはんにはギリシャのパナシナイコスを1971ねんチャンピオンズカップじゅん優勝ゆうしょうみちびいた[51]ウェンブリーおこなわれた決勝けっしょうでは、ヨハン・クライフようするアヤックスに1-2でやぶれた[51]ギリシャ国内こくないリーグでは1970-71と1971-72シーズンを連覇れんぱした。1978ねんにはAEKアテネを1978-79シーズンのリーグ優勝ゆうしょうみちびいた。

監督かんとくとしてのプスカシュはスペインでキャリアをスタートし、そのアメリカカナダギリシャチリサウジアラビアエジプトパラグアイオーストラリア各国かっこくわたあるいた。

晩年ばんねんおよび没後ぼつご

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アル・マスリ監督かんとく時代じだい1981ねん、ハンガリー代表だいひょう黄金おうごん時代じだい終焉しゅうえんから四半世紀しはんせいき記念きねんした祝典しゅくてんまねかれたプスカシュは、25ねんぶりにハンガリーへの帰国きこくたし[51]大勢おおぜい人々ひとびとから歓迎かんげいされた[51]。そのはしばしばハンガリーにかえるようになり、サウス・メルボルンFC監督かんとく時代じだい1992ねんブダペストへの定住ていじゅう決意けついした[51]1993ねんに4試合しあいだけハンガリー代表だいひょう指揮しきしたのちかれハンガリーサッカー協会きょうかいから名誉めいよしょくてき地位ちいあたえられた[51]

ブダペストでひらかれたプスカシュの70さいいわ誕生たんじょうさいには、IOC会長かいちょうフアン・アントニオ・サマランチUEFA会長かいちょうレナート・ヨハンソンディ・ステファノヘントといったレアル・マドリードでの同僚どうりょうたち、さらにプスカシュによる西にしドイツのドーピング指摘してき以来いらい険悪けんあく関係かんけいにあった当時とうじ西にしドイツの主将しゅしょうフリッツ・ヴァルターおとずれ、たがいにけた[44]

ワールドサッカー選出せんしゅつの「20世紀せいき偉大いだいなサッカー選手せんしゅ100にん」7選出せんしゅつされた。また、国際こくさいサッカー歴史れきし統計とうけい連盟れんめい(IFFHS)には20世紀せいきもっと偉大いだい選手せんしゅの6えらばれた[52]

 
ブダペスト、オーブダ設置せっちされているプスカシュのぞう

2000ねんホンヴェードはプスカシュが背負せおった背番号せばんごう10を永久えいきゅう欠番けつばんとした[53]国際こくさいサッカー歴史れきし統計とうけい連盟れんめい(IFFHS)によってプスカシュは「20世紀せいき得点とくてんおう」に選定せんていされた[37][53]。2003ねんにプスカシュはハンガリーサッカー協会きょうかいによって同国どうこく過去かこ50年間ねんかん最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅ(ゴールデンプレイヤー)えらばれた[9][54]。2002ねん、ハンガリー代表だいひょうのホームスタジアムでもある国立こくりつのネープシュタディオンが、かれ功績こうせきとなえてプシュカーシュ・フェレンツ・シュタディオン改名かいめいされた。

晩年ばんねんアルツハイマーびょうわずらい、6年間ねんかん病院びょういんごした[42]晩年ばんねん経済けいざいてき困窮こんきゅう[53][55]家族かぞくかれ治療ちりょう捻出ねんしゅつするためにワールドカップじゅん優勝ゆうしょうメダルやゴールデンブーツをふくむ100以上いじょう品々しなじな競売きょうばいにかけた[53][56][57]。2005ねん10がつFIFA会長かいちょうゼップ・ブラッターは、プスカシュとかれつまへの財政ざいせい援助えんじょ発表はっぴょうした[57]

2006ねん11月17にち肺炎はいえんのためブダペストで死去しきょした[9][58] [59]。79さいであった。その遺体いたいせいイシュトバーンだい聖堂せいどう安置あんちされた[60]

2007ねん4がつ政治せいじオルバーン・ヴィクトルによってプスカシュの名前なまえいたサッカークラブ、プスカシュ・アカデーミアFC設立せつりつされた。翌年よくねんには、プスカシュ・アカデーミアはマジャールスズキともプスカシュ=スズキ・クパという国際こくさいユース大会たいかい創設そうせつした。

2009ねん、FIFAはいち年間ねんかん世界せかいまれたもっとうつくしいゴールにあたえられるあらたなしょう名前なまえFIFAプスカシュしょう名付なづけた[61][62]

2013ねん10がつ、レアル・マドリードの練習れんしゅうじょうであるシウダード・レアル・マドリードにプスカシュの銅像どうぞう設置せっちされた[63]

人物じんぶつ

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キックフェイントやあしうら使つかったわざからの技巧ぎこうてきなシュートを得意とくいとし、試合しあいでは一切いっさい右足みぎあしにボールがれない試合しあいもあったほどあしである左足ひだりあし多用たようした[64]。ハンガリー代表だいひょうなどでともたたかったチボル・ゾルターンからは「1ボールをけっただけで2てんうばった」とひょうされ[65]おなじくグロシチ・ジュラは「たんにワールドクラスではなく、ゆめ世界せかい選手せんしゅだった」とひょうした[65]アルフレッド・ディ・ステファノはそのボールコントロールを「その左足ひだりあしで、わたしでボールをあつか以上いじょう自在じざいにボールをあやつる」と賞賛しょうさんした[66]。また、マジック・マジャール時代じだいはプレーメーカーけんゴールゲッターだったが、レアル・マドリードではよりゴールゲッターに比重ひじゅうき、30だいにして2度目どめのピークをむかえた。このため、プスカシュは「2きたおとこ」とばれた[67]。ハンガリー代表だいひょう通算つうさん84試合しあい出場しゅつじょう83得点とくてん記録きろくつ。代表だいひょう通算つうさん83得点とくてんはハンガリー歴代れきだい最多さいた得点とくてん記録きろくであるとともに、21世紀せいきいたるまでながあいだ世界せかい記録きろくであった。

ちち同姓どうせい同名どうめいのプスカシュ・フェレンツ(1903-1952)でキシュペシュト・サッカー・クラブの選手せんしゅで、のちにブダペシュティ・ホンヴェード(ブダペスト国防こくぼうぐん)のコーチとなった。母親ははおやビーロー・マルギットBíró Margit [ˈbiːroːˈmɒrɡit]) (1904-1976) で縫製ほうせい工場こうじょうはたらいていた。プスカシュはドイツけい少数しょうすう民族みんぞく家庭かていで、父親ちちおやも、息子むすこ最初さいしょはフランツ・プルツェルト (Franz Purzeld [ˈfʀanʦˈpʊʀʦld̥]) であったが、一家いっかは1937ねんせいをプルツェルトからハンガリーふうのプスカシュ(「じゅうへい」の意味いみ)に改姓かいせいした。なお、ハンガリーのファンたちからはしたしみをめてプスカシュ・エチPuskás Öcsi [ˈpuʃkɑ̈ːʃˈøʧi]、エチはハンガリーで「おとうと」の愛称あいしょうがた) とばれていた。

個人こじん成績せいせき

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トップリーグ成績せいせき

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シーズン クラブ 国内こくないリーグ 国内こくないカップ UEFA 通算つうさん
所属しょぞくリーグ 試合しあいすう 得点とくてんすう 試合しあいすう 得点とくてんすう 試合しあいすう 得点とくてんすう 試合しあいすう 得点とくてんすう
1943-44 キシュペシュト ネムゼティ・バイノクシャーグI 18 7 - - - - 18 7
1944-45 2 1 - - - - 2 1
1944 11 6 - - - - 11 6
1945 20 10 - - - - 20 10
1945-46 34 36 - - - - 34 36
1946-47 29 32 - - - - 29 32
1947-48 31 50 - - - - 31 50
1948-49 28 46 - - - - 28 46
1949-50 ブダペスト・ホンヴェードFC 30 31 - - - - 30 31
1950 15 25 - - - - 15 25
1951 21 21 2 1 - - 23 22
1952 26 22 - - - - 26 22
1953 26 27 3 12 - - 29 39
1954 20 21 - - - - 20 21
1955 26 18 6 4 4 3 36 25
1956 13 5 - - 2 1 15 6
ブダペスト・ホンヴェードFC通算つうさん 350 358 11 17 6 4 367 380
1958-59 レアル・マドリード プリメーラ・ディビシオン 24 21 5 2 5 2 34 25
1959-60 24 25 5 10 7 12 36 47
1960-61 28 28 9 14 4 2 41 44
1961-62 23 20 8 13 9 7 40 40
1962-63 30 26 7 5 2 0 39 31
1963-64 25 21 0 0 8 7 33 28
1964-65 18 11 4 4 3 2 25 17
1965-66 8 4 3 1 3 5 14 10
レアル・マドリード通算つうさん 180 156 41 49 41 37 262 242
通算つうさん 530 514 52 66 47 41 629 622

代表だいひょう

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1953ねんのハンガリー代表だいひょう。プスカシュは前列ぜんれつ中央ちゅうおう
ハンガリー代表だいひょう[68]
とし 試合しあいすう 得点とくてんすう
1945 2 3
1946 3 3
1947 5 5
1948 6 7
1949 8 11
1950 6 12
1951 3 4
1952 12 10
1953 7 6
1954 11 8
1955 12 10
1956 10 5
通算つうさん 85 84
スペイン代表だいひょう[68]
とし 試合しあいすう 得点とくてんすう
1961 1 0
1962 3 0
通算つうさん 4 0

獲得かくとくタイトル

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プスカシュは、IFFHSより20世紀せいき得点とくてんおうえらばれた

チームタイトル

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個人こじんタイトル

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監督かんとくとしてのタイトル

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脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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