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フリスト・ストイチコフ - Wikipedia

フリスト・ストイチコフ

ブルガリアのサッカー選手せんしゅ

フリスト・ストイチコフХристо Стоичков, Hristo Stoichkov, 1966ねん2がつ8にち - )は、ブルガリアプロヴディフ出身しゅっしんもとサッカー選手せんしゅ。サッカー指導しどうしゃ現役げんえき時代じだいのポジションはフォワードミッドフィールダー

フリスト・ストイチコフ
2016ねんのストイチコフ
名前なまえ
愛称あいしょう イッツォ (Itso)[1]
ラテン文字もじ Hristo STOICHKOV
ブルガリア Христо Стоичков
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき  ブルガリア
生年月日せいねんがっぴ (1966-02-08) 1966ねん2がつ8にち(58さい
出身しゅっしん プロヴディフ
身長しんちょう 178cm[2]
体重たいじゅう 73kg[2]
選手せんしゅ情報じょうほう
ポジション FW / MF
あし 左足ひだりあし
ユース
1976-1982 ブルガリアの旗 FCマリツァ・プロヴディフ
クラブ1
とし クラブ 出場しゅつじょう (得点とくてん)
1982-1984 ブルガリアの旗 FCヘブロス 32 (14)
1984-1990 ブルガリアの旗 CSKAソフィア 119 (81)
1990-1995 スペインの旗 FCバルセロナ 151 (76)
1995-1996 イタリアの旗 パルマAC 23 (5)
1996-1998 スペインの旗 FCバルセロナ 24 (7)
1998 ブルガリアの旗 CSKAソフィア 4 (1)
1998 サウジアラビアの旗 アル・ナスル 2 (1)
1998-1999 日本の旗 かしわレイソル 27 (12)
2000-2002 アメリカ合衆国の旗 シカゴ・ファイアー 51 (17)
2003 アメリカ合衆国の旗 D.C. ユナイテッド 21 (5)
代表だいひょうれき
1987-1999[3] ブルガリアの旗 ブルガリア 83 (37[3])
監督かんとくれき
2004-2007 ブルガリアの旗 ブルガリア
2007 スペインの旗 セルタ・デ・ビーゴ
2009-2010 南アフリカ共和国の旗 マメロディ・サンダウンズ
2012-2013 ブルガリアの旗 リテックス・ロヴェチ
2013 ブルガリアの旗 CSKAソフィア
1. 国内こくないリーグせんかぎる。
■テンプレート■ノート 解説かいせつ■サッカー選手せんしゅpj

1990年代ねんだいFCバルセロナ中心ちゅうしん選手せんしゅ一人ひとりとしてリーガ・エスパニョーラ優勝ゆうしょうなどに貢献こうけん[4]ブルガリア代表だいひょうとしても1994ねんおこなわれたワールドカップ・アメリカ大会たいかいにおいて6得点とくてん得点とくてんおうとなり同国どうこくのベスト4進出しんしゅつ最終さいしゅう成績せいせきは4)に貢献こうけん[4]バロンドール欧州おうしゅう年間ねんかん最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅしょう)を受賞じゅしょう現役げんえき引退いんたいはブルガリア代表だいひょうなどで監督かんとくつとめていた。

編集へんしゅう

ブルガリア中部ちゅうぶにあるプロヴディフしゅう州都しゅうとプロヴディフまれる。幼少ようしょうころから活発かっぱつ性格せいかくで、勉強べんきょう得意とくいではなかったが運動うんどう能力のうりょくめぐまれ、小学生しょうがくせい時代じだいには陸上りくじょう競技きょうぎ学校がっこう代表だいひょうえらばれ、100mはしでブルガリアのチャンピオンとなった経験けいけん[5] など当時とうじストイチコフを指導しどうした教師きょうしから「世界せかいてき陸上りくじょう競技きょうぎ選手せんしゅになる」と太鼓判たいこばんされたほどだった[5]。また陸上りくじょう競技きょうぎだけでなく、サッカーボクシングなど様々さまざまなスポーツにしたしんでいた[6] が、10さいとき地元じもとのサッカークラブでFCマリツァ・プロヴディフのスカウトに勧誘かんゆうされてどうクラブの下部かぶ組織そしき入団にゅうだん本格ほんかくてきにサッカーをはじめることになった[6]

クラブ経歴けいれき

編集へんしゅう

CSKAソフィア

編集へんしゅう

1982ねんFCヘブロス入団にゅうだんしキャリアをスタートさせると、1984ねん国内こくない強豪きょうごうクラブであるCSKAソフィア移籍いせき。1984-85のシーズンのブルガリア・カップ決勝けっしょうレフスキ・ソフィアせん乱闘らんとうさわぎや退場たいじょうしゃすなどれた展開てんかいとなり[7]のちに8にん選手せんしゅが「コミュニストのモラルにはんする行為こうい」として出場しゅつじょう停止ていし処分しょぶんけたが[7]、このなかにストイチコフの名前なまえふくまれており乱闘らんとうさわぎにくわわったCSKAの選手せんしゅなかただ一人ひとり永久えいきゅう追放ついほう処分しょぶんけることになった[7]

10かげつ処分しょぶん解除かいじょされるとチームに復帰ふっきたし、ディミタル・ペネフ監督かんとくしたでレギュラーに定着ていちゃく。CSKAではリーグ優勝ゆうしょう3かい(1987ねん、1989ねん、1990ねん)、カップ優勝ゆうしょう4かい(1985ねん、1987ねん、1988ねん、1989ねん)、スーパーカップ優勝ゆうしょう1かい(1989ねん)、個人こじんとしても国内こくないリーグで1988-89シーズンに23得点とくてん、1989-90シーズンに38得点とくてんげ2ねん連続れんぞく得点とくてんおう獲得かくとくし1989-90シーズンにはヨーロッパのリーグでの最多さいた得点とくてんしゃあたえられるゴールデンブーツしょう受賞じゅしょうした[8]

国際こくさい試合しあいでは1988-89シーズンのUEFAカップウィナーズカップ準決勝じゅんけっしょう進出しんしゅつ貢献こうけん準決勝じゅんけっしょうではスペインのFCバルセロナやぶれたものの、このときのプレーぶりがバルセロナの監督かんとくつとめていたヨハン・クライフ関心かんしんあつめ、1989ねんなつ両者りょうしゃあいだはないがおこなわれ移籍いせききん450まんドルの5ねん契約けいやく移籍いせき合意ごういした[8]。しかし当時とうじ24さいだったストイチコフの移籍いせきかんしてブルガリア政府せいふ難色なんしょくしめし「年齢ねんれいわかいため国外こくがいでプレーすることをみとめない」として許可きょかぐにはあたえず[9]、「国外こくがいでプレーするには下部かぶ組織そしきで2年間ねんかん、プロで5年間ねんかん期間きかんまっとうする」との政府せいふ条件じょうけん[10]、バルセロナへの移籍いせきを1ねんさきばししてCSKAでプレーをすることになった[10]

FCバルセロナ

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1990ねんなつにFCバルセロナへ移籍いせき。ストイチコフを獲得かくとくした理由りゆうについてヨハン・クライフは「我々われわれのクラブにテクニシャンは大勢おおぜいいるが、かれのようなつよ個性こせいとアグレッシブさをわせる選手せんしゅ必要ひつようとしていた」とかたっている[11]。1990ねん9がつ1にち、ラリーガの開幕かいまくせんとなったエスパニョールせんでゴールをめるデビューをたすと[12]以降いこうの2試合しあいでもゴールをめて、デビューからリーグせん3試合しあい連続れんぞくゴールをめた[13]。11月18にちカステリョンせんではリーガではつのハットトリックをめたが[13][14]、12月5にちてきおこなわれたスーペルコパレアル・マドリードせん不利ふり判定はんていけたことで主審しゅしん抗議こうぎ退場たいじょう処分しょぶんけたが、この判定はんていいかりをあらわにし審判しんぱんあしみつける報復ほうふく行為こういおこなったため物議ぶつぎかもした[15]。この審判しんぱんへの暴力ぼうりょく行為こういたいし6かげつのちに2かげつ免除めんじょ)の出場しゅつじょう停止ていし処分しょぶんけた[15]処分しょぶんけるとスタメンに復帰ふっきたし、3がつ10日とおかのビルバオせんでは4ゴールをめるなど[13]ミカエル・ラウドルップロナルド・クーマンらとともに6ねんぶりのリーグ優勝ゆうしょう貢献こうけんした。

1991-92シーズンにはミシェル・プラティニ紹介しょうかいによりフランスパリ・サンジェルマンからどうシーズン終了しゅうりょう移籍いせきかんする好条件こうじょうけんのオファーをかり契約けいやくむすんだが[16]、リーグせんではだい31せつアルバセテ・バロンピエで4ゴールをめるなど、合計ごうけい17ゴールを[13]レアル・マドリードとの優勝ゆうしょうあらそいのすえ最終さいしゅうせん連覇れんぱめると「サポーターの気持きもちを裏切うらぎこと出来できない」と残留ざんりゅう決意けつい[16]同年どうねん5がつUEFAチャンピオンズカップ決勝けっしょうではイタリアUCサンプドリア延長えんちょうせんすえに1-0でくだしクラブのはつタイトル獲得かくとく貢献こうけんした。また1992ねんバロンドール欧州おうしゅう年間ねんかん最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅしょう)の選考せんこうではどうしょう受賞じゅしょうらなかったもののオランダマルコ・ファンバステン(98ひょう)に得票とくひょう獲得かくとくし(80ひょう)2えらばれた。(ファンバステンは、ストイチコフが受賞じゅしょうするのではないかとかんがえていたという[17]。)クライフは当時とうじかえ

CSKAでのかれはミッドフィールダーであり2れつから前線ぜんせんして得点とくてんねらうプレーをこのんでいたが、バルセロナ移籍いせきかれ素質そしつばすように、ひだりサイドのフォワードにコンバートしゴールにちか位置いちでプレーをさせ、それまでよりみじかいスタンスでシュートをめるように指導しどうした。またCSKAではスター選手せんしゅであり高慢こうまん態度たいど目立めだっていたがバルセロナでは選手せんしゅ特別とくべつあつかいはしない。かれ短気たんき性格せいかくかつ頑固がんこ自分じぶんのスタイルをまもろうとしたが、やがてわたしおしえにしたがった。 — ヨハン・クライフ

かたっている[18]

1992-93シーズンにはブルガリア代表だいひょう試合しあいとのいからクラブとブルガリアサッカー連盟れんめいあいだのトラブルにまれ[19] たこともあり、一時期いちじきスランプにおちいった[19]。このあいだインターコンチネンタルカップサンパウロせんでは、やく20メートルのカーブがかかったミドルシュートで先制せんせいてんうばったが、1-2とやぶれた[20][21]。リーグせんではだい2せつのレアル・マドリードせん決勝けっしょうゴール[13]だい3せつのアトレチコ・マドリードせんではハットトリックをめるなど[13] 活躍かつやくをけたが、ぜんシーズンと同様どうようにレアル・マドリードとの優勝ゆうしょうあらそいとなった。最終さいしゅうぶしまえにレアルマドリードが首位しゅい、バルセロナは2であったが、レアル・ソシエダせんではベギリスタインかえしから決勝けっしょうてんめる活躍かつやく、レアルマドリードがテネリフェとけ、逆転ぎゃくてんでの3連覇れんぱ貢献こうけん[19]。1993-94シーズンにブラジルロマーリオ加入かにゅう。チームに所属しょぞくする外国がいこくせき選手せんしゅはストイチコフ、ラウドルップ、クーマンの4にんとなりだれ試合しあい出場しゅつじょうだれひかえにまわるのかが焦点しょうてんとなったが、ストイチコフはポジションを獲得かくとくしロマーリオとのコンビで攻撃こうげきじん牽引けんいん[22]。リーグせんでは、最終さいしゅうぶしのセヴィリアせん優勝ゆうしょうためには勝利しょうり絶対ぜったい条件じょうけんなか相手あいて先制せんせいてんゆるすも、2ゴール1アシストの活躍かつやくでチームを勝利しょうりみちび[23]ラ・コルーニャとの優勝ゆうしょうあらそいにち4連覇れんぱ達成たっせいした[24]一方いっぽうでチャンピオンズリーグ決勝けっしょうではACミランに0-4と大敗たいはいした[25]。クライフ監督かんとくひきいられた当時とうじのチームの通称つうしょうエル・ドリーム・チーム」はクラブの歴史れきしじょうでももっとつよいチームのひとつとひょうされ[26]、ストイチコフ自身じしんもバルセロナサポーターの人気にんき獲得かくとくした[27]

1994ねんにブルガリア代表だいひょうでの活躍かつやく後述こうじゅつ)もありバロンドールを受賞じゅしょうしたが、その一方いっぽう監督かんとくのクライフとの関係かんけい亀裂きれつしょうじるようになり[28][29]、ラウドルップとスビサレッタ放出ほうしゅつし、クライフの息子むすこであるジョルディ・クライフをレギュラーに登用とうようしたことなどを公然こうぜん批判ひはんした[29]1995ねん3がつおこなわれたUEFAチャンピオンズリーグ 1994-95準々じゅんじゅん決勝けっしょうでパリ・サンジェルマンにやぶれると、ストイチコフは「わたしるのか、クライフをるのか」とアピールし解任かいにんもとめる行動こうどうこした[30] が、ファンやクラブ幹部かんぶ支持しじることは出来できなかった[30]。クライフとの関係かんけいについて当初とうしょはよい関係かんけいきずいていたが、徐々じょじょ悪化あっかし、とくに1994-95シーズン、チームがてなくなると自分じぶんやハジのことを左足ひだりあしでしかプレー出来できないなどと名指なざしで批判ひはんするなど、選手せんしゅ責任せきにんをなすりつけ自身じしん保身ほしんをはかっていたと批判ひはん[25]、また1993-94シーズンのチャンピオンズリーグ決勝けっしょうでミランに0-4とけたのはクライフのおごりがまねいたとも批判ひはんした[25]

1995ねんなつにイタリアのパルマへ1500まんドルの金額きんがく移籍いせき[27]開幕かいまくせんとなったアタランタせんでは直接ちょくせつFKからゴールを[31]、リーグだい5せつ終了しゅうりょうまでに4ゴールをうばうが[13]、そのリーグせんではだい19せつのインテルせんでゴールをめたのみにわった[13]おなようなポジションにはすでジャンフランコ・ゾラたこと[32]ファウスティーノ・アスプリージャ奔放ほんぽうなプレースタイルもあり[32]ネヴィオ・スカラ監督かんとく様々さまざまこころみをするも[32]ちから発揮はっき出来でき[32]前述ぜんじゅつようなチーム事情じじょうがあるにもかかわらず獲得かくとくしたチームフロントじん批判ひはんされた[32]よく1996ねんにクライフが健康けんこうじょう問題もんだいにより退任たいにんボビー・ロブソン監督かんとく就任しゅうにんしたこともありバルセロナに復帰ふっき[27]。1996-97シーズンのUEFAカップウィナーズカップでは決勝けっしょうフランスパリ・サンジェルマンFCくだしタイトル獲得かくとく貢献こうけんした。しかしロブソンが1シーズンかぎりで退団たいだんし、よく1997-98シーズンにルイ・ファン・ハール監督かんとく就任しゅうにんすると出場しゅつじょう機会きかいうしない、チャンピオンズリーグ2予選よせんスコントFCせんでのPKによる決勝けっしょうゴールがバルセロナでの最後さいごのゴールとなった[13]古巣ふるすのCSKAソフィアやサウジアラビアアル・ナスルへレンタル移籍いせきをした[27]

1998ねんJリーグかしわレイソル移籍いせき、デビューせんとなった同年どうねん7がつ29にちヴィッセル神戸こうべせんですぐにゴールをめた[33]1999ねんは4がつ浦和うらわたたかえ名古屋なごやたたかえG大阪おおさかたたかえ、5月5にち市原いちはらせんまで4試合しあい連続れんぞくゴールをめる活躍かつやくをしたが[34]UEFA欧州おうしゅう選手権せんしゅけん予選よせん出場しゅつじょうのためにチームをはなれると、ふたたびレイソルにもどることはなく退団たいだん引退いんたいつたえられた[35]

2000ねんからはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくメジャーリーグサッカー (MLS) のシカゴ・ファイアー加入かにゅうし、だい1せつダラス・バーンせんで2ゴールをめる[13] デビューをたし、USオープンカップではゴールをめて[13] 優勝ゆうしょうたし、MLSカップではじゅん優勝ゆうしょう貢献こうけんした。2003ねんおなじくMLSのD.C. ユナイテッド移籍いせきしてアシスタントコーチけん選手せんしゅつとめ、シーズン終了しゅうりょう同年どうねん12がつ現役げんえき引退いんたいした[4]

引退いんたい試合しあいは2004ねん5がつにバルセロナの本拠地ほんきょちであるカンプ・ノウおこなわれ、往年おうねんのエル・ドリーム・チームの一員いちいんとしてボビー・ロブソンとディミタル・ペネフのひきいる世界せかい選抜せんばつ対戦たいせん[36]。ストイチコフは開始かいし10分間ふんかんに2得点とくてんみずからの引退いんたい花道かどうかざった[36]

代表だいひょう経歴けいれき

編集へんしゅう

ブルガリア代表だいひょうとしては1987ねん9月23にちおこなわれたUEFA欧州おうしゅう選手権せんしゅけん1988予選よせんベルギーせんでデビュー[3]よく1988ねん1がつ22にちおこなわれたカタールとの親善しんぜん試合しあい代表だいひょうはつ得点とくてんめた[3]

1994ねんひらかれたワールドカップ・アメリカ大会たいかいではクラシミル・バラコフヨルダン・レチコフらとともにチームを牽引けんいん[37] し、グループリーグ3試合しあいで3得点とくてんげ2決勝けっしょうトーナメントへ進出しんしゅつどう1回戦かいせんでもみずから1得点とくてんめるとPKせんすえメキシコくだ準々じゅんじゅん決勝けっしょう進出しんしゅつ準々じゅんじゅん決勝けっしょうでは前回ぜんかい優勝ゆうしょうこくドイツとの対戦たいせんとなったが、この試合しあいでは、75ふんに1-1の同点どうてんいつくフリーキックを勝利しょうり貢献こうけん[37]、ワールドカップの歴史れきしにおいて1962ねんチリ大会たいかい、1966ねんイングランド大会たいかい、1970ねんメキシコ大会たいかい、1974ねん西にしドイツ大会たいかい、1986ねんメキシコ大会たいかい過去かこ5かい出場しゅつじょうしながら16試合しあいで6引分ひきわけ10はいと1しょうもあげることが出来できなかった[38] 同国どうこくはつのベスト4進出しんしゅつみちびいた。ストイチコフは準決勝じゅんけっしょうイタリアせんでも1得点とくてん大会たいかい通算つうさん6得点とくてんげ、ロシアオレグ・サレンコとも大会たいかい得点とくてんおうになった[37]。ストイチコフは当時とうじかえのようにかたっている。

ワールドカップでの1かげつあいだ仲間なかまたちと素晴すばらしい時間じかんごした。わたし得点とくてんおう獲得かくとくできたのはかれらの献身けんしんてきなハードワークがあってのものだった[37] — フリスト・ストイチコフ

1996ねんUEFA EURO '96では3得点とくてんげたもののグループリーグ敗退はいたいわり、ペネフ監督かんとく退任たいにんやブルガリアサッカー連盟れんめい内紛ないふん抗議こうぎして代表だいひょう参加さんかをボイコット[39] したが1ねん、ペネフの後任こうにんフリスト・ボネフ説得せっとくにより代表だいひょうチームに復帰ふっき[39]。1998ねんワールドカップ・フランス大会たいかい出場しゅつじょうしたがグループリーグ敗退はいたいわり、1999ねん6月9にちおこなわれたUEFA EURO 2000予選よせんイングランドせん最後さいご代表だいひょうから退しりぞいた[3]。ストイチコフは国際こくさいAマッチ83試合しあい出場しゅつじょうし37得点とくてんげた[3]

指導しどうしゃ経歴けいれき

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2004ねん7がつ15にちUEFA EURO 2004終了しゅうりょう辞任じにんしたプラメン・マルコフ後任こうにんとしてブルガリア代表だいひょう監督かんとく就任しゅうにん成績せいせき不振ふしんにより辞任じにん2006 FIFAワールドカップへの出場しゅつじょう目指めざすが、同年どうねん9がつからはじまった欧州おうしゅう予選よせんではスウェーデンに連敗れんぱいきっし、クロアチアに1ふん1はいすなど4しょう3け3はいてん15の成績せいせき予選よせん敗退はいたい。ワールドカップ出場しゅつじょうのがしたことでおおくの批判ひはんびた[40]

つづUEFA EURO 2008予選よせんでも指揮しきったが、2006ねん10月13にち主将しゅしょうスティリアン・ペトロフが「ストイチコフのしたではプレーする意思いしはない」と代表だいひょうチームからの引退いんたい発表はっぴょう[41]2007ねん3月28にちにホームのソフィアおこなわれたアルバニアせんで0-0とけ、2しょう3けの成績せいせきとなりグループ3後退こうたいするとふたた批判ひはんけた[40]。ブルガリアサッカー連盟れんめい (BFU) は、同年どうねん4がつ10日とおかにストイチコフから口頭こうとう辞意じいつたえられ承認しょうにんしたことを発表はっぴょうした[40]

同日どうじつ、スペインのセルタ・デ・ビーゴしん監督かんとく就任しゅうにん[40]就任しゅうにん降格こうかく圏内けんないの18にいたセルタはその成績せいせき上昇じょうしょうせず、2リーグへの降格こうかくまったがクラブはストイチコフの続投ぞくとう発表はっぴょうした[42]。しかし2リーグでも11低迷ていめいつづけていたこともあり、同年どうねん10がつ8にち監督かんとく解任かいにんされた[43]

2009ねん6月29にちみなみアフリカ共和きょうわこくマメロディ・サンダウンズ監督かんとく就任しゅうにんし、よく2010ねんまで指揮しきった[44]

2012ねん1がつ母国ぼこくリテックス・ロヴェチ監督かんとく就任しゅうにん[45]

2013ねん6がつ古巣ふるすCSKAソフィア監督かんとく就任しゅうにんしたが[46]、クラブ首脳しゅのうじんとのあいだ信頼しんらい関係かんけいくずれたことなどを理由りゆうに、同年どうねん7がつ8にち辞任じにんした[47]

人物じんぶつ

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左足ひだりあしでの正確せいかくプレースキックとスピードをかしたドリブル突破とっぱ特徴とくちょう[48][49]身体しんたい能力のうりょくたか緩急かんきゅう自在じざいにつけることで相手あいて守備しゅびじんのリズムをくるわせ[50]、また味方みかたかすアシスト能力のうりょく、ペナルティエリアないでの得点とくてん能力のうりょくわせており、様々さまざま攻撃こうげきてきなポジションをこなすことが可能かのうだった[50][51]一方いっぽうでバルセロナ時代じだい監督かんとくだったクライフはストイチコフのプレーを評価ひょうかしながらも[52][53]左足ひだりあしだけでしかプレー出来できない問題もんだいがあり、選手せんしゅとして限界げんかいがあったと指摘してきしている[53]

欧州おうしゅうサッカー連盟れんめい (UEFA) 創立そうりつ50周年しゅうねん記念きねんして2004ねん開催かいさいされたUEFAジュビリーアウォーズさいにはブルガリアサッカー連盟れんめいにより過去かこ50年間ねんかん(1954ねん-2004ねん)におけるブルガリア最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅえらばれた[54]。また、1999ねんにはワールドサッカー20世紀せいき偉大いだいなサッカー選手せんしゅ100にんで48選出せんしゅつ。2004ねん3がつにはペレえらぶ『偉大いだいなサッカー選手せんしゅ100にん』 (FIFA100) にブルガリアから唯一ゆいいつ選出せんしゅつされるなど同国どうこく最高さいこう選手せんしゅひょうされている[39]

感情かんじょう起伏きふくはげしい人物じんぶつとしてもられるが[18]、バルセロナ時代じだい、ロマーリオとはとも食事しょくじ外出がいしゅつするなど、良好りょうこう関係かんけいきずいた[25]審判しんぱん判定はんてい執拗しつようがり抗議こうぎする場面ばめんがしばしばみられ、ときには退場たいじょう処分しょぶんけることもあった[49]。メディアでは「審判しんぱんてき」としてあつかわれることがおおく、その言動げんどう物議ぶつぎかもした[55] が、バルセロナ時代じだいのチームメイトだったラウドルップはストイチコフの人物じんぶつぞうについてつぎのようにかたっている。

かれ他人たにんには理解りかい出来できない特異とくい個性こせいぬしだ。感情かんじょう爆発ばくはつさせたかとおもえば物事ものごときずらずわるいことはぐにわすれる。子供こどものように素直すなおひと[56] — ミカエル・ラウドルップ

また、カタルーニャしゅうやFCバルセロナへ愛着あいちゃく一方いっぽう[57]、ライバルクラブであるレアル・マドリードたいしては批判ひはんてきなことでもられる[58][59]

個人こじん成績せいせき

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クラブでの成績せいせき

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2003ねんシーズン終了しゅうりょう成績せいせき[2][60][61][62]

クラブ成績せいせき リーグ カップ リーグはい国際こくさい大会たいかい 通算つうさん
シーズンクラブリーグ 出場しゅつじょう得点とくてん出場しゅつじょう得点とくてん 出場しゅつじょう得点とくてん 出場しゅつじょう得点とくてん 出場しゅつじょう得点とくてん
1982-83 ヘブロス B PFG 11 4 - 0
1983-84 21 10 - 0
1984-85 CSKAソフィア A PFG 11 0 - 0
1985-86 0 0 0 0 - 0 0
1986-87 25 6 - 0
1987-88 27 14 - 0
1988-89 26 23 - 7
1989-90 30 38 - 2
1990-91 バルセロナ プリメーラ 24 14 6 2 - 8 5 38 21
1991-92 32 17 2 1 - 9 4 43 22
1992-93 33 20 6 2 - 6 2 45 24
1993-94 34 16 6 1 - 8 7 48 24
1994-95 26 9 4 5 - 8 3 38 17
1995-96 パルマ セリエA 23 5 2 0 - 5 2 30 7
1996-97 バルセロナ プリメーラ 22 7 6 1 - 6 0 34 8
1997-98 4 0 1 0 - 3 1 8 1
1997-98 CSKAソフィア A PFG 4 1 0 0
1997-98 アル・ナスル 0 0 0 0 - 2 1 2 1
1998 かしわ J 16 8 1 0 0 0 - 17 8
1999 J1 11 4 - 1 1 - 12 5
2000 シカゴ・ファイアー MLS 18 9 3 1 - - 21 10
2001 17 6 3 2 - - 20 8
2002 16 2 0 0 - - 16 2
2003 D.C. ユナイテッド 21 5 3 1 - - 24 6
通算つうさん ブルガリア 151 95 0 0 9
スペイン 175 83 31 12 0 0 48 12 254 127
イタリア 23 5 2 0 0 0 5 2 30 7
サウジアラビア 0 0 0 0 0 0 2 1 2 1
日本にっぽん 27 12 1 0 1 1 0 0 29 13
アメリカ 72 22 9 4 0 0 0 0 81 26
そう通算つうさん 455 218 1 1 24 457 219

代表だいひょうでの成績せいせき

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出典しゅってん[3]
ブルガリア代表だいひょう
とし 国際こくさい大会たいかい 親善しんぜん試合しあい 合計ごうけい
出場しゅつじょう 得点とくてん 出場しゅつじょう 得点とくてん 出場しゅつじょう 得点とくてん
1987 3 0 0 0 3 0
1988 2 0 10 4 12 4
1989 4 1 4 0 8 1
1990 3 0 1 0 4 0
1991 2 1 1 1 3 2
1992 3 1 2 1 5 2
1993 6 4 0 0 6 4
1994 10 9 1 0 11 9
1995 7 7 0 0 7 7
1996 3 3 2 2 5 5
1997 3 1 1 0 4 1
1998 6 0 4 1 10 1
1999 3 1 2 0 5 1
通算つうさん 55 28 28 9 83 37

代表だいひょうでの得点とくてん

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出典しゅってん[3]
# 開催かいさい 開催かいさい 対戦たいせんこく 結果けっか 大会たいかい
1 1988ねん1がつ21にち カタールドーハ   カタール 3-2 親善しんぜん試合しあい
2 1988ねん8がつ9にち ノルウェーオスロ   ノルウェー 1-1
3 1988ねん9がつ21にち ブルガリアソフィア   ソビエト連邦れんぽう 2-2
4 1988ねん9がつ24にち ポーランドビャウィストク   ポーランド 2-3
5 1989ねん10がつ11にち ブルガリア、ヴァルナ   ギリシャ 4-0 1990 FIFAワールドカップ・予選よせん
6 1991ねん9がつ25にち ブルガリア、ソフィア   イタリア 2-1 親善しんぜん試合しあい
7 1991ねん10がつ16にち   サンマリノ 4-0 UEFA EURO '92予選よせん
8 1992ねん8がつ19にち   メキシコ 1-1 親善しんぜん試合しあい
9 1968ねん9がつ9にち   フランス 2-0 1994 FIFAワールドカップ・予選よせん
10 1993ねん4がつ28にち   フィンランド 2-0
11 1993ねん5がつ12にち   イスラエル 2-2
12 1993ねん4がつ28にち   スウェーデン 1-1
13 1993ねん10がつ13にち   オーストラリア 4-1
14 1994ねん6がつ26にち アメリカシカゴ   ギリシャ 3-0 1994 FIFAワールドカップ
15
16 1994ねん6がつ30にち アメリカ、ダラス   アルゼンチン 2-0
17 1994ねん7がつ5にち アメリカ、イーストラザフォード   メキシコ 1-1
18 1994ねん7がつ10日とおか   ドイツ 2-1
19 1994ねん7がつ13にち   イタリア 1-2
20 1994ねん11月16にち ブルガリア、ソフィア   モルドバ 4-1 UEFA EURO '96予選よせん
21
22 1994ねん12月14にち ウェールズカーディフ   ウェールズ 3-0
23 1995ねん4がつ26にち モルドバキシナウ   モルドバ 3-0
24
25 1995ねん6がつ7にち ブルガリア、ソフィア   ドイツ 3-2
26
27 1994ねん9がつ6にち アルバニアティラナ   アルバニア 3-0
28 1995ねん10がつ11にち グルジアトビリシ   グルジア 1-2
29 1995ねん11月15にち ドイツベルリン   ドイツ 1-3
30 1996ねん5がつ28にち ブルガリア、ソフィア   きたマケドニア 3-0 親善しんぜん試合しあい
31 1996ねん6がつ2にち   アラブ首長しゅちょうこく連邦れんぽう 4-1
32 1996ねん6がつ9にち イングランドリーズ   スペイン 1-1 UEFA EURO '96
33 1996ねん6がつ13にち イングランド、ニューカッスル   ルーマニア 1-0
34 1996ねん6がつ18にち   スペイン 1-3
35 1997ねん6がつ8にち ブルガリア、ブルガス   ルクセンブルク 4-0 1998 FIFAワールドカップ・予選よせん
36 1998ねん6がつ5にち ブルガリア、ソフィア   アルジェリア 2-0 親善しんぜん試合しあい
37 1999ねん3がつ31にち ルクセンブルクルクセンブルク   ルクセンブルク 2-0 UEFA EURO 2000予選よせん

個人こじんタイトル

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、203ぺーじ
  2. ^ a b c 『J.League yearbook 2011』日本にっぽんプロサッカーリーグ、2011ねん、269ぺーじISBN 4-86155-812-3 
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  5. ^ a b ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、15ぺーじ
  6. ^ a b ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、16ぺーじ
  7. ^ a b c ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、10-12ぺーじ
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  9. ^ ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、20-21ぺーじ
  10. ^ a b ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、23ぺーじ
  11. ^ ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、88ぺーじ
  12. ^ かしわでもプレーしたブルガリアの英雄えいゆう、ストイチコフがめたバルセロナでのはつゴール”. news.yahoo.co.jp. 2020ねん8がつ25にち閲覧えつらん
  13. ^ a b c d e f g h i j k “Stoichkov All Goals”. www.transfermarkt.com. https://www.transfermarkt.co.uk/hristo-stoichkov/alletore/spieler/7938 3 May 2020閲覧えつらん 
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  15. ^ a b ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、34-37ぺーじ
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  17. ^ サッカーストライカー 1993ねん2がつ18にちごう p.19-21 学研がっけん
  18. ^ a b ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、91ぺーじ
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  56. ^ ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、186-189ぺーじ
  57. ^ ストイチコフ、アギラール、トーレス 1998、202-205ぺーじ
  58. ^ Stoichkov: "El Real Madrid me da asco"”. 20minutos (2010ねん10がつ1にち). 2017ねん7がつ15にち閲覧えつらん
  59. ^ Stoichkov compara a los jugadores del Real Madrid con cerdos”. marca (2016ねん5がつ16にち). 2017ねん7がつ15にち閲覧えつらん
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参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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