プロヴディフはマリツァ川 がわ の両 りょう 岸 きし に広 ひろ がり、ブルガリアの首都 しゅと ソフィア から南東 なんとう におよそ152キロメートルのところにある。街 まち は、上 うえ トラキア平原 へいげん 西部 せいぶ に形成 けいせい された沖積 ちゅうせき 平野 へいや であるプロヴディフ平原 へいげん の南部 なんぶ に位置 いち している。北西 ほくせい にはスレドナ・ゴラ山脈 さんみゃく がそびえ立 た ち、東 ひがし にはチルパン高地 こうち 、南 みなみ はロドピ山脈 さんみゃく があり、3方 ぽう を高地 こうち に取 と り囲 かこ まれている[5] 。街 まち ははじめマリツァ川 がわ の南岸 なんがん に形成 けいせい され、20世紀 せいき に川 かわ を超 こ えて北岸 ほくがん にまで拡大 かくだい していった。現代 げんだい のプロヴディフの市街地 しがいち は100平方 へいほう キロメートル程度 ていど であり、ブルガリアの国土 こくど の0.1%よりも小 ちい さい。プロヴディフはブルガリアの中 なか で最 もっと も人口 じんこう 密度 みつど の高 たか い街 まち となっており、人口 じんこう 密度 みつど は3,769人 にん /平方 へいほう キロメートルとなっている。
街 まち には6つの閃長岩 がん の丘 おか があり、まとめて「テペタ」と呼 よ ばれている。20世紀 せいき 初頭 しょとう までは、7つめの丘 おか が存在 そんざい していたが、マルコヴォ・テペ (Марково тепе / Markovo tepe )と呼 よ ばれていたこの丘 おか はその後 ご 取 と り壊 こわ され、街 まち の建造 けんぞう に使 つか われた。この他 ほか の6つの丘 おか は、それぞれジェンデム・テペ (Джендем тепе / Dzhendem tepe )、ブナルジク (Бунарджик / Bunardzhik )、サハト・テペ (Сахат тепе / Sahat tepe )、ネベト・テペ (Небет тепе / Nebet tepe )、ジャンバス・テペ (Джамбаз тепе / Dzhambaz tepe )、タクシム・テペ (Таксим тепе / Taksim tepe )と呼 よ ばれる。このうち最後 さいご の3つの丘 おか によってトリフルミエ (Трихълмие / Trihalmie 、「3つの丘 おか 」)地区 ちく を形成 けいせい している。この地区 ちく は街 まち の中心 ちゅうしん を形作 かたちづく っており、古代 こだい ローマ時代 じだい の都市 とし 名 めい 「トリモンティウム」の由来 ゆらい となっている[6] 。
温帯 おんたい に属 ぞく しており、地中海 ちちゅうかい からの影響 えいきょう を受 う けている。気温 きおん は夏 なつ と冬 ふゆ で開 ひら きが大 おお きい。夏 なつ は通常 つうじょう 、極 きわ めて暑 あつ く、乾燥 かんそう している。平均 へいきん 的 てき に、1年間 ねんかん に摂氏 せっし 30度 ど を超 こ える日 ひ が38日 にち 、摂氏 せっし 40度 ど を超 こ える日 ひ が7日 にち ある。冬 ふゆ は通常 つうじょう 寒 さむ いが、時折 ときおり 地中海 ちちゅうかい からの影響 えいきょう を受 う けて気温 きおん が上昇 じょうしょう することがあり、その時 とき はほんの数日 すうじつ の間 あいだ だけ突発 とっぱつ 的 てき に気温 きおん が上昇 じょうしょう する。冬 ふゆ は寒 さむ く、大陸 たいりく 性 せい 気候 きこう の特徴 とくちょう となる。年間 ねんかん 平均 へいきん 気温 きおん は12.3度 ど である。
年間 ねんかん の平均 へいきん 最高 さいこう 気温 きおん は20.6度 ど 、7月 がつ の平均 へいきん 最高 さいこう 気温 きおん は32.3度 ど であり、観測 かんそく 史上 しじょう の最高 さいこう 記録 きろく は2007年 ねん 6月 がつ に観測 かんそく された46度 ど である。平均 へいきん 最低 さいてい 気温 きおん は6.5度 ど 、1月 がつ の平均 へいきん 最低 さいてい 気温 きおん は-3度 ど であり、観測 かんそく 史上 しじょう の最低 さいてい 記録 きろく は-31.7度 ど である。平均 へいきん 湿度 しつど は73%であり、12月は最 もっと も平均 へいきん 湿度 しつど が高 たか く86%、8月 がつ は最 もっと も低 ひく く62%となる。年間 ねんかん 降水 こうすい 量 りょう は540ミリメートル であり、5月から6月 がつ が最 もっと も降水 こうすい 量 りょう が多 おお く平均 へいきん は66.2ミリメートル、8月 がつ は最 もっと も少 すく なく平均 へいきん は31ミリメートルとなる。積雪 せきせつ のある日数 にっすう は平均 へいきん で33日 にち になる。積雪 せきせつ 量 りょう の平均 へいきん は2センチメートルから4センチメートルであり、多 おお いときで6から13センチメートル程度 ていど となるが、時 とき には70センチメートルから1メートルを超 こ えることもある。街 まち の周辺 しゅうへん では風 ふう は弱 よわ く(風速 ふうそく は0から5メートル毎秒 まいびょう )、年間 ねんかん の95%は風速 ふうそく 1メートルに満 み たない。冷涼 れいりょう な季 き 節 ぶし には、特 とく にマリツァ川 かわ 沿 ぞ いで霧 きり がよく発生 はっせい する。平均 へいきん 的 てき に、年間 ねんかん 33日 にち は霧 きり あるいは靄 がかかる[7] 。
プロヴディフの気候 きこう 表 ひょう :
プロヴディフの気候 きこう
月 つき
1月 がつ
2月 がつ
3月 がつ
4月 がつ
5月
6月 がつ
7月 がつ
8月 がつ
9月
10月
11月
12月
年 とし
最高 さいこう 気温 きおん 記録 きろく °C (°F )
22 (72)
23 (73)
25 (77)
31 (88)
36 (97)
46 (115)
44 (111)
43 (109)
39 (102)
33 (91)
23 (73)
19 (66)
46 (115)
平均 へいきん 最高 さいこう 気温 きおん °C (°F )
5 (41)
7 (45)
12 (54)
18 (64)
23 (73)
29 (84)
32 (90)
30 (86)
26 (79)
21 (70)
12 (54)
6 (43)
20.6 (69.1)
平均 へいきん 最低 さいてい 気温 きおん °C (°F )
−3 (27)
−2 (28)
1 (34)
5 (41)
10 (50)
14 (57)
16 (61)
15 (59)
11 (52)
8 (46)
3 (37)
−2 (28)
10.1 (50.2)
最低 さいてい 気温 きおん 記録 きろく °C (°F )
−23 (−9)
−25 (−13)
−18 (0)
−4 (25)
0 (32)
6 (43)
8 (46)
8 (46)
0 (32)
−3 (27)
−8 (18)
−17 (1)
−25 (−13)
降水 こうすい 量 りょう mm (inch)
39 (1.54)
33 (1.3)
37 (1.46)
36 (1.42)
51 (2.01)
65 (2.56)
37 (1.46)
28 (1.1)
32 (1.26)
41 (1.61)
49 (1.93)
44 (1.73)
462 (18.19)
出典 しゅってん :Vremeto bg [8] 2010-03-07
古代 こだい ローマ時代 じだい のオデオン 。
プロヴディフにおける人 ひと の居住 きょじゅう の歴史 れきし は、紀元前 きげんぜん 4千 せん 年 ねん ごろの新 しん 石器 せっき 時代 じだい にまでさかのぼる[2] 。考古 こうこ 学者 がくしゃ たちによって、新 しん 石器 せっき 時代 じだい にさかのぼる陶磁器 とうじき やその他 た の物品 ぶっぴん が発見 はっけん されたことにより、少 すく なくとも紀元前 きげんぜん 4千年紀 せんねんき の末 すえ には既 すで にこの地 ち に集落 しゅうらく が形成 けいせい されていたことがわかっている[9] [10] [11] 。マルケリヌス・アンミアヌス によると、青銅器 せいどうき 時代 じだい 以降 いこう の、書物 しょもつ に記 しる された歴史 れきし の中 なか で、プロヴディフはトラキア人 じん の要塞 ようさい として「エウモルピアス」の名 な で記 しる されている。紀元前 きげんぜん 4世紀 せいき には交易 こうえき 市 し (パナギュレイス panegyreis と呼 よ ばれる)の拠点 きょてん となっていた[12] 。紀元前 きげんぜん 342年 ねん 、アレクサンドロス3世 せい の父 ちち であるピリッポス2世 せい に征服 せいふく され[13] 、街 まち はピリッポポリス(Φιλιππόπολις / Philippopolis 、「ピリッポスの街 まち 」の意味 いみ )と改称 かいしょう された。後 のち に再 ふたた びトラキア人 じん の手 て にわたると、この呼称 こしょう をトラキア語 ご 化 か したプルプ=デヴァ(Pulpu-deva)の名 な で呼 よ ばれるようになった[14] 。
紀元 きげん 72年 ねん 、ローマ人 じん の将軍 しょうぐん テレンティウス・ヴァロ・ルクルス(Terentius Varo Lukulus)によって征服 せいふく され、ロ ろ ーマ帝国 まていこく の版図 はんと に組 く み込 こ まれ[15] 、街 まち はトリモンティウム(Trimontium、「3つの丘 おか の街 まち 」の意味 いみ )と呼 よ ばれ、トラキア属 ぞく 州 しゅう の中心 ちゅうしん 都市 とし (メトロポリス)として機能 きのう した。1世紀 せいき 末 まつ には市 し としての地位 ちい を付与 ふよ されている[16] 。トリモンティウムはロ ろ ーマ帝国 まていこく における重要 じゅうよう な交通 こうつう の要衝 ようしょう となり、ルキアノス は「あらゆる都市 とし の中 なか で最 もっと も大 おお きく、最 もっと も美 うつく しい」と評 ひょう した。街 まち はトラキア属 ぞく 州 しゅう の州都 しゅうと とはならなかったものの、属 ぞく 州 しゅう で最大 さいだい かつ最 もっと も重要 じゅうよう な都市 とし となった[17] 。この時代 じだい 、ミリタリス街道 かいどう (Via Militaris 、あるいはディアゴナリス街道 かいどう )と呼 よ ばれた、バルカン半島 ばるかんはんとう で最 もっと も重要 じゅうよう な軍用 ぐんよう 道路 どうろ がこの街 まち を通過 つうか していた[18] [19]
これ(プロヴディフ)はあらゆる都市 とし の中 なか で最 もっと も大 おお きく、美 うつく しい。その美 び ははるか遠方 えんぽう からも輝 かがや いている
ローマの詩人 しじん ルキアノス
ローマ時代 じだい には、街 まち とその文化 ぶんか は大 おお きく発展 はってん を見 み た[20] 。こんにち残 のこ される古代 こだい 遺跡 いせき には、活気 かっき にあふれ、成長 せいちょう する街 まち の様子 ようす をうかがい知 し れる数 すう 多 おお くの公共 こうきょう 施設 しせつ や神殿 しんでん 、浴場 よくじょう 、劇場 げきじょう などがみられる。街 まち には発達 はったつ した上水道 じょうすいどう および下水道 げすいどう が整備 せいび されていた。また、街 まち は2重 じゅう の城壁 じょうへき に取 と り囲 かこ まれ、守 まも られていた。その一部 いちぶ は現在 げんざい も保存 ほぞん されており、観光 かんこう で見 み ることができる。現在 げんざい のところ、古代 こだい 都市 とし の中 なか で発掘 はっくつ されているのはごく一部 いちぶ に過 す ぎない[21] 。
スラヴ人 じん は6世紀 せいき 中葉 ちゅうよう ごろにこの地域 ちいき に住 す み着 つ き、地域 ちいき の民族 みんぞく 構成 こうせい を一変 いっぺん させた[22] 。681年 ねん に第 だい 一 いち 次 じ ブルガリア帝国 ていこく が建国 けんこく されると、フィリッポポリスは東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の最前線 さいぜんせん を守 まも る重要 じゅうよう な要塞 ようさい となった。812年 ねん にブルガリア帝国 ていこく のクルム ・ハーンによって征服 せいふく されたが、完全 かんぜん にブルガリア帝国 ていこく の領域 りょういき に組 く み込 こ まれたのは834年 ねん のマラミル ・ハーンの時代 じだい であった[23] 。その後 ご 、ブルガリアの統治 とうち 下 か に留 とど まったのはわずかのことであり、855年 ねん -856年 ねん に東 ひがし ローマによって再 さい 征服 せいふく された[24] [25] 。東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の統治 とうち 下 か で、帝国 ていこく の東部 とうぶ 国境 こっきょう から持 も ち込 こ まれたパウロ派 は が広 ひろ まり、その一大 いちだい 拠点 きょてん となった。フィリッポポリスでは、二元論 にげんろん の影響 えいきょう が広 ひろ まってボゴミル派 は が形成 けいせい される土壌 どじょう が作 つく り上 あ げられた。ブルガリアのシメオン1世 せい (893年 ねん -927年 ねん )の時代 じだい に、この街 まち をはじめとする東 ひがし ローマのバルカン半島 ばるかんはんとう の領地 りょうち はほぼ全 すべ てブルガリアの手 て に落 お ちた。シメオンの息子 むすこ ・ペタル1世 せい (927年 ねん -969年 ねん )の時代 じだい まで、この地 ち はブルガリア帝国 ていこく の統治 とうち 下 か に留 とど まった[26] [27] 。
970年 ねん 、東 ひがし ローマと一時 いちじ 的 てき な同盟 どうめい 関係 かんけい の下 した にあったペタルは、北方 ほっぽう から侵入 しんにゅう するスヴャトスラフ1世 せい と対峙 たいじ していたが、ペタル指揮 しき 下 か の東 ひがし ローマ軍 ぐん はこの地 ち で、スラブ人 じん などによって構成 こうせい されるスヴャトスラフの軍 ぐん の前 まえ に壊走した[28] 。その後 ご ブルガリアは弱体 じゃくたい 化 か し、この地 ち は再 ふたた び東 ひがし ローマの手 て に落 お ちた。街 まち は再 ふたた びフィリッポポリスと呼 よ ばれるようになり、東 ひがし ローマ的 てき 特徴 とくちょう を強 つよ めていった。
クルム ・ハーン は、プロヴディフを統治 とうち 下 か に収 おさ めた初 はつ のブルガリアの統治 とうち 者 しゃ である。
Aime de Varennesは1180年 ねん にこの街 まち で、1300年 ねん 前 まえ のアレクサンドロス大王 だいおう とその後継 こうけい 者 しゃ たちの業績 ぎょうせき を物語 ものがた る東 ひがし ローマの歌唱 かしょう に出会 であ っている[29] 。1204年 ねん には東 ひがし ローマに代 か わってラテン帝国 ていこく がこの地 ち の支配 しはい 者 しゃ となったが、ブルガリア帝国 ていこく のカロヤン・アセン が死去 しきょ する1207年 ねん までの間 あいだ 、2度 ど にわたって短期 たんき 的 てき にカロヤンによって占領 せんりょう された[30] 。1208年 ねん 、カロヤンの後継 こうけい 者 しゃ ボリル は、プロヴディフの戦 たたか い にてラテン帝国 ていこく に敗北 はいぼく している[31] 。ラテン帝国 ていこく の統治 とうち 下 か では、プロヴディフはフィリッポポリス公国 こうこく (Duchy of Philippopolis )の首都 しゅと となり、公国 こうこく はルニエ・ド・トリ (Renier de Trit )、次 つ いでジェラール・ド・ストラン (Gerard de Strem)によって治 おさ められた。ブルガリア皇帝 こうてい イヴァン・アセン2世 せい の下 した 、1225年 ねん から1229年 ねん までの間 あいだ 、再 ふたた びブルガリア統治 とうち 下 か となった。1263年 ねん 、プロヴディフは東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく に征服 せいふく され、再 ふたた びその統治 とうち 下 か となった。その後 ご 、ゲオルギ2世 せい テルテル によって征服 せいふく される1322年 ねん までの間 あいだ 、東 ひがし ローマの統治 とうち 下 か に服 ふく した[32] 。1323年 ねん には再 ふたた び東 ひがし ローマの統治 とうち 下 か となるが、ブルガリアのイヴァン・アレクサンダル が、ヨハネス6世 せい カンタクゼノス の側 がわ について東 ひがし ローマの皇帝 こうてい 内乱 ないらん に介入 かいにゅう し、その見返 みかえ りとして1344年 ねん にはプロヴディフと他 た の8つの都市 とし がブルガリアに与 あた えられた[33] 。
1364年 ねん に、ララ・シャヒン・パシャ 引 ひ きいるオスマン帝国 ていこく 軍 ぐん は、プロヴディフを制圧 せいあつ した[34] [35] 。トルコ人 じん たちは街 まち を「フィリベ」と呼 よ んだ。1382年 ねん にオスマン帝国 ていこく がソフィア を征服 せいふく するまでの間 あいだ 、この地 ち がオスマン帝国 ていこく 領 りょう ルメリアの中心 ちゅうしん 地 ち となった。プロヴディフはその後 ご も、ブルガリア人 じん の文化 ぶんか ・伝統 でんとう の拠点 きょてん として生 い き続 つづ けた。「プロヴディフ」の呼称 こしょう が初 はじ めて登場 とうじょう するのはこの頃 ころ であり、トラキア語 ご での呼称 こしょう 「プルプ=デヴァ」(プルプはピリッポス、デヴァは街 まち を意味 いみ した)に由来 ゆらい している。はじめスラヴ人 じん たちはこの街 まち を「プルディン」(Пълдин / Pəldin )あるいは「プルヴディン」(Плъвдин / Pləvdin )と呼 よ んでいた。
プロヴディフの生神 うるかみ 女 おんな 聖堂 せいどう
オスマン帝国 ていこく の統治 とうち 下 か で、プロヴディフは帝国 ていこく のルメリア 東部 とうぶ におけるブルガリア民族 みんぞく 復興 ふっこう 運動 うんどう の中心 ちゅうしん 地 ち となった。この時代 じだい 、プロヴディフはイスタンブール 、エディルネ 、テッサロニキ と並 なら ぶ帝国 ていこく の重要 じゅうよう な経済 けいざい 拠点 きょてん となっていた。この時代 じだい 、裕福 ゆうふく な市民 しみん たちは美 うつく しい家々 いえいえ を建 た てており、その多 おお くは現在 げんざい も旧 きゅう 市街 しがい に残 のこ されている。帝国 ていこく の統治 とうち 下 か では、1364年 ねん から1864年 ねん までルメリア州 しゅう 、1864年 ねん から1878年 ねん までエディルネ州 しゅう に属 ぞく し、その後 ご 東 ひがし ルメリ自治 じち 州 しゅう の州都 しゅうと となった。
この地 ち は、ブルガリアの教会 きょうかい がギリシャの教会 きょうかい からの独立 どくりつ を勝 か ち取 と るための戦 たたか いの中 なか で重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たした。ナイデン・ゲロフ (Nayden Gerov )、ゲオルギ・ヴルコヴィッチ(Georgi Valkovich )、ヨアキム・グルエフ (Joakim Gruev )などの指導 しどう 者 しゃ の下 した 、ブルガリアの文化 ぶんか 的 てき な独立 どくりつ を求 もと める闘争 とうそう が繰 く り広 ひろ げられた。1836年 ねん 、ブルガリアで初 はつ の学校 がっこう が開校 かいこう し、1850年 ねん には聖 せい キリル・メフォディイ学校 がっこう の開校 かいこう によって現代 げんだい 的 てき な世俗 せぞく 的 てき 教育 きょういく が始 はじ まった。1858年 ねん 5月11日 にち には、初 はじ めて聖 せい キリル・メフォディイの日 ひ が祝福 しゅくふく された。この日 ひ は後 のち に全国 ぜんこく 的 てき な公定 こうてい 祝日 しゅくじつ となり、現在 げんざい でも祝 いわ われている。1858年 ねん には生神 うるかみ 女 おんな 聖堂 せいどう (Church of Virgin Mary )にて、オスマン帝国 ていこく 時代 じだい 初期 しょき 以来 いらい となるブルガリア語 ご による奉 たてまつ 神 かみ 礼 あや が復活 ふっかつ した。1868年 ねん に学校 がっこう は拡張 かくちょう され、初 はつ の小学校 しょうがっこう となった。ブルガリアの著名 ちょめい な知識 ちしき 人 じん や政治 せいじ 家 か 、精神 せいしん 的 てき 指導 しどう 者 しゃ らがこの学校 がっこう を卒業 そつぎょう している[14] 。
1878年 ねん のプロヴディフの戦 たたか い (Battle of Plovdiv )によって、街 まち はオスマン帝国 ていこく の直接 ちょくせつ 支配 しはい から解放 かいほう された[35] 。
1878年 ねん 3月3日 にち のサン・ステファノ条約 じょうやく では、ブルガリア公国 こうこく の領土 りょうど にはブルガリア人 じん が多数 たすう を占 し める領土 りょうど の大 だい 部分 ぶぶん が含 ふく まれていた。プロヴディフは当時 とうじ 、最 もっと も多 おお くのブルガリア人 じん が居住 きょじゅう し、繁栄 はんえい していた都市 とし であったため、公国 こうこく の首都 しゅと 、ロシアによる暫定 ざんてい 統治 とうち の首都 しゅと として選 えら ばれた[36] 。しかし、イギリス とオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく はブルガリアの広大 こうだい な領土 りょうど を承服 しょうふく せず、露 ろ 土 ど 戦争 せんそう の最終 さいしゅう 的 てき な決着 けっちゃく はベルリン会議 かいぎ に持 も ち越 こ された。ベルリン会議 かいぎ では、ブルガリア公国 こうこく の領土 りょうど とされた領域 りょういき を複数 ふくすう の地域 ちいき に分割 ぶんかつ した。その中 なか で、ブルガリアの南部 なんぶ の領土 りょうど の多 おお くはオスマン帝国 ていこく の東 ひがし ルメリ自治 じち 州 しゅう に属 ぞく するとされ、プロヴディフは東 ひがし ルメリ自治 じち 州 しゅう の州都 しゅうと となった。オスマン帝国 ていこく は憲法 けんぽう を制定 せいてい し、知事 ちじ を任命 にんめい した[37] 。1985年 ねん 1月 がつ 1日 にち の時点 じてん で、プロヴディフの人口 じんこう は33,442人 にん であり、うち16,725人 にん はブルガリア人 じん (50%)、7,144人 にん はトルコ人 じん (21%)、5,497人 にん はギリシャ人 じん (16%)、2,168人 にん はユダヤ人 じん (6%)、1,061人 にん はアルメニア人 じん (3%)、151人 にん はイタリア人 じん 、112人 にん はドイツ人 じん 、112人 にん はロマ 、80人 にん はフランス人 じん 、61人 にん はロシア人 じん 、その他 た の民族 みんぞく に属 ぞく するのは304人 にん であった[38] 。
1885年 ねん の春 はる 、ザハリ・ストヤノフ (Zahari Stoyanov )は秘密 ひみつ ブルガリア中央 ちゅうおう 革命 かくめい 委員 いいん 会 かい をこの地 ち で創設 そうせつ し、ブルガリアと東 ひがし ルメリ自治 じち 州 しゅう の統合 とうごう を求 もと めるプロパガンダを活発 かっぱつ に行 い った。9月5日 にち には、ゴリャモ・コナレ地区 ちく (現在 げんざい のセアディネニエ地区 ちく Saedinenie )にて、数 すう 百 ひゃく 人 にん の武装 ぶそう した反乱 はんらん 軍 ぐん がプロヴディフの中心 ちゅうしん 地 ち に向 む けて行軍 こうぐん を始 はじ めた。5日 にち から6日 にち にかけての夜 よる 、ダナイル・ニコラエフ(Danail Nikolaev)指揮 しき 下 か の反乱 はんらん 軍 ぐん は、街 まち の支配 しはい 権 けん を確立 かくりつ し、庁舎 ちょうしゃ から知事 ちじ のガヴリル・クルステヴィッチ (Gavril Krastevich )を引 ひ きずり出 だ した。ゲオルギ・ストランスキ (Georgi Stranski )を首班 しゅはん とする臨時 りんじ 政府 せいふ が樹立 じゅりつ され、総動員 そうどういん が発布 はっぷ された[39] 。セルビア・ブルガリア戦争 せんそう においてセルビアが敗北 はいぼく すると、ブルガリアとオスマン帝国 ていこく との間 あいだ で合意 ごうい が成立 せいりつ し、ブルガリア公国 こうこく と東 ひがし ルメリは共通 きょうつう の政府 せいふ 、議会 ぎかい 、統治 とうち 機構 きこう 、軍 ぐん を持 も つものとされた。9月6日 にち は国家 こっか 統一 とういつ の日 ひ 、およびプロヴディフの日 ひ として祝福 しゅくふく されている。
ブルガリア統一 とういつ の後 のち 、プロヴディフはブルガリアの首都 しゅと ソフィア についで2番目 ばんめ に大 おお きな都市 とし となった。街 まち で初 はじ めての鉄道 てつどう は1874年 ねん に開通 かいつう し、1888年 ねん には鉄道 てつどう はソフィアと結 むす ばれた。1892年 ねん には第 だい 1回 かい ブルガリア・フェアの開催 かいさい 地 ち となり、多 おお くの国際 こくさい 的 てき な参加 さんか を集 あつ めた。これは後 ご の国際 こくさい プロヴディフ・フェア へと継承 けいしょう されていった。オスマン帝国 ていこく からの解放 かいほう 後 ご 、初 はつ のビール 醸造 じょうぞう 所 しょ が設立 せつりつ された。
20世紀 せいき 初頭 しょとう 、プロヴディフは製造 せいぞう 業 ぎょう 、商業 しょうぎょう の拠点 きょてん として発展 はってん を遂 と げ、軽工業 けいこうぎょう や食品 しょくひん 産業 さんぎょう が発達 はったつ した。ドイツ やフランス 、ベルギー からの資本 しほん が投入 とうにゅう され、プロヴディフは現代 げんだい 的 てき な流通 りゅうつう 、金融 きんゆう 、製造 せいぞう 業 ぎょう の拠点 きょてん へと変貌 へんぼう した。1939年 ねん の時点 じてん で、1万 まん 6千 せん 人 にん の職人 しょくにん と1万 まん 7千 せん 人 にん の工場 こうじょう 労働 ろうどう 者 しゃ が製造 せいぞう 業 ぎょう に従事 じゅうじ しており、その中心 ちゅうしん は食品 しょくひん やタバコ 加工 かこう であった。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の時代 じだい 、タバコ産業 さんぎょう は大 おお きく成長 せいちょう し、野菜 やさい や果物 くだもの の輸出 ゆしゅつ も伸 の びた。1943年 ねん 、1500人 にん のユダヤ人 じん が、プロヴディフ大 だい 主教 しゅきょう キリル によって強制 きょうせい 収容 しゅうよう 所 しょ 送 おく りを免 まぬか れた。キリルは後 のち にブルガリア総 そう 主教 しゅきょう となっている。
1956年 ねん 4月 がつ 6日 にち 、初 はつ のトロリーバス 路線 ろせん が開業 かいぎょう し、1950年代 ねんだい にはトリモンツィウム・ホテルが建造 けんぞう された。1960年代 ねんだい から1970年代 ねんだい にかけては建設 けんせつ ブームとなり、多 おお くの現代 げんだい 的 てき な郊外 こうがい 地区 ちく が形作 かたちづく られた。1970年代 ねんだい から1980年代 ねんだい にかけて、旧 きゅう 市街 しがい に残 のこ された古代 こだい の遺品 いひん の発掘 はっくつ が終 お わり、旧 きゅう 市街 しがい が復興 ふっこう された。1990年 ねん には複 ふく 合 あい 体育 たいいく 施設 しせつ 「プロヴディフ」が完成 かんせい した。同 どう 施設 しせつ には当時 とうじ 最大 さいだい の競技 きょうぎ 場 じょう や、競漕 きょうそう 用 よう の池 いけ が含 ふく まれる。この時代 じだい 、プロヴディフはブルガリアにおける民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう の発祥 はっしょう の地 ち となり、1989年 ねん 末 すえ には共産党 きょうさんとう による一 いち 党 とう 独裁 どくさい 体制 たいせい が崩壊 ほうかい した。
プロヴディフは過去 かこ に3度 ど の国際 こくさい 博覧 はくらん 会 かい の主催 しゅさい 地 ち となっている(1981年 ねん 、1985年 ねん 、1991年 ねん )。
人口 じんこう 推移 すいい 年 とし 人口 じんこう ±%
1880 1,884 — 1887 1,892 +0.4% 1900 1,910 +1.0% 1920 1,926 +0.8% 1934 1,939 +0.7%
24053 33,442 +1624.7% 33032 36,033 +7.7% 43033 47,981 +33.2% 64415 84,655 +76.4% 99883 105,643 +24.8%
プロヴディフに現住所 げんじゅうしょ を持 も つ者 もの の数 かず は、2010年 ねん 3月 がつ の時点 じてん で380,733人 にん であり、ブルガリアで2番目 ばんめ の規模 きぼ である。ブルガリア国立 こくりつ 統計 とうけい 局 きょく によると、同 どう 時点 じてん で実際 じっさい にプロヴディフに居住 きょじゅう している者 もの の数 かず は376,103人 にん と推定 すいてい されている[4] 。プロヴディフの人口 じんこう がヴァルナ に越 こ されたとする言説 げんせつ がいくつかある[40] [41] が、いずれも公的 こうてき な統計 とうけい によって確認 かくにん されたものではない
ブルガリア解放 かいほう の時代 じだい には、プロヴディフの人口 じんこう は24,053人 にん で、当時 とうじ のブルガリアでは最大 さいだい であった[42] 。ブルガリア統一 とういつ 後 ご もしばらくの間 あいだ はブルガリアで最大 さいだい の都市 とし であったが、やがてソフィアの人口 じんこう に追 お い抜 ぬ かれた。1946年 ねん の国勢調査 こくせいちょうさ では、プロヴディフの人口 じんこう は117,563人 にん であり、ソフィアは487,000人 にん であった[36] 。現在 げんざい のプロヴディフの都市 とし 圏 けん 人口 じんこう は575,298人 にん であり、これもブルガリアで2番目 ばんめ の規模 きぼ となっている[43] 。
旧 きゅう 市街 しがい に建 た つ、アルメニア教会 きょうかい の聖 せい ケヴォルク(ゲオルギ)聖堂 せいどう
カトリック教会 きょうかい の聖 ひじり ルイ大 だい 聖堂 せいどう (St Louis Catholic Cathedral )
民族 みんぞく 構成 こうせい を見 み ると、プロヴディフにはブルガリア人 じん 、トルコ人 じん 、アルメニア人 じん 、ユダヤ人 じん 、ギリシャ人 じん 、ロマ などの多様 たよう な民族 みんぞく が住 す んでいる。1884年 ねん の国勢調査 こくせいちょうさ によると、ブルガリア人 じん の人口 じんこう 比率 ひりつ は50.09%であり、以下 いか トルコ人 じん が21.36%、ギリシャ人 じん が16.44%、ユダヤ人 じん が6.48%、アルメニア人 じん が2.93%などとなっている。バルカン戦争 せんそう 、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の後 のち 、ギリシャ 領 りょう の土地 とち (マケドニア 、西 にし トラキア )から多 おお くのブルガリア人 じん が強制 きょうせい 移住 いじゅう によってブルガリア国内 こくない に流入 りゅうにゅう し、プロヴディフのブルガリア人 じん 人口 じんこう は大幅 おおはば に増加 ぞうか した。現在 げんざい のプロヴディフにも、「ヴァルダルスキ」(Вардарски / Vardarski 、「ヴァルダル の」)や「ベロモルスキ」(Беломорски / Belomorski 、「エ え ーゲ海 げかい の」)といった地名 ちめい が残 のこ されている。ユダヤ人 じん の多 おお くは、1948年 ねん のイスラエル 建国 けんこく 後 ご に街 まち を去 さ った。現代 げんだい のプロヴディフでは、ブルガリア人 じん が人口 じんこう の多数 たすう を占 し めており、次 つ いでロマとトルコ人 じん が多 おお い[44] 。
住民 じゅうみん の大 だい 多数 たすう はキリスト教徒 きりすときょうと であり、多 おお くは正教会 せいきょうかい に属 ぞく するが、少数 しょうすう のローマ・カトリック教会 きょうかい や東方 とうほう 典礼 てんれい カトリック教会 きょうかい 、プロテスタント 諸派 しょは (セブンスデー・アドベンチスト教会 きょうかい 、バプテスト教会 きょうかい など)の信徒 しんと もいる。この他 ほか にムスリム やユダヤ教徒 きょうと もいる。プロヴディフには数 すう 多 おお くのキリスト教会 きょうかい やモスク 、シナゴーグ がある。
プロヴディフはプロヴディフ州 しゅう の州都 しゅうと であり、プロヴディフ基礎 きそ 自治体 じちたい の行政府 ぎょうせいふ 所在地 しょざいち であるとともに、隣接 りんせつ するマリツァ基礎 きそ 自治体 じちたい 、ロドピ基礎 きそ 自治体 じちたい の行政府 ぎょうせいふ 所在地 しょざいち でもある。2015年 ねん 現在 げんざい のプロヴディフ自治体 じちたい の市長 しちょう はIvan Totevである。また、プロヴディフは6つの区 く (ラヨン )に分 わ かれており、それぞれの区長 くちょう が区 く の行政 ぎょうせい を担 にな っている。プロヴディフ自治体 じちたい の議会 ぎかい には51の議員 ぎいん がおり、自治体 じちたい の立法 りっぽう を担 にな っている。議員 ぎいん は比例 ひれい 代表 だいひょう 制 せい によって選出 せんしゅつ される[45] 。プロヴディフ自治体 じちたい の行政府 ぎょうせいふ は、議員 ぎいん の多数決 たすうけつ で選 えら ばれた市長 しちょう と、5人 にん の副 ふく 市長 しちょう 、1人 ひとり の行政 ぎょうせい 長官 ちょうかん からなる。副 ふく 市長 しちょう と行政 ぎょうせい 長官 ちょうかん は、それぞれ担当 たんとう する部門 ぶもん の長 ちょう となる。
「首都 しゅと 自治体 じちたい および大都市 だいとし の下位 かい 行政 ぎょうせい 区分 くぶん に関 かん する法律 ほうりつ 」[46] によって、プロヴディフ自治体 じちたい は6つの区 く (ラヨン )に分 わ けられている。それぞれの区長 くちょう は、市議会 しぎかい の議決 ぎけつ によって指名 しめい される。
プロヴディフの6つの区 く
1969年 ねん 、プロスラフ (Proslav )とコマテヴォ (Komatevo )の両 りょう 村 むら がプロヴディフの市街地 しがいち に組 く み込 こ まれた。1987年 ねん 、プロヴディフ自治体 じちたい から、市街地 しがいち に含 ふく まれない周囲 しゅうい の村 むら 々を切 き り離 はな し、マリツァ自治体 じちたい 、ロドピ自治体 じちたい が成立 せいりつ した。両 りょう 自治体 じちたい の行政府 ぎょうせいふ は、プロヴディフに置 お かれている。両 りょう 自治体 じちたい の住民 じゅうみん の間 あいだ では、プロヴディフ自治体 じちたい への復帰 ふっき を望 のぞ む声 こえ もある[47] 。
旧 きゅう 市街 しがい の家屋 かおく
オデオン(ローマ劇場 げきじょう )でのイベント
プロヴディフ劇場 げきじょう [64] は、その起源 きげん を1881年 ねん に創設 そうせつ されたブルガリア初 はつ のプロの劇団 げきだん に求 もと めることができる。プロヴディフ人形 にんぎょう 劇場 げきじょう は1948年 ねん に創設 そうせつ されたもので、ブルガリアにおけるこの分野 ぶんや の先駆 さきが けとなった機関 きかん である。プロヴディフ・オペラは1953年 ねん に創設 そうせつ された。
この他 ほか のプロヴディフの文化 ぶんか を代表 だいひょう する存在 そんざい として、プロヴディフ・フィルハーモニーがあり、これは1945年 ねん に設立 せつりつ されたものである[65] 。ドミートリイ・ショスタコーヴィチ 、スヴャトスラフ・リヒテル 、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ 、ユーリイ・ブコフ、ミンチョ・ミンチェフなどのソロイストが、プロヴディフ・フィルハーモニーと共 とも に仕事 しごと をした。楽団 がくだん はヨーロッパのほぼ全 すべ ての国 くに を訪 おとず れている。トラキヤ民俗 みんぞく 合奏 がっそう 団 だん は1974年 ねん に設立 せつりつ され、ブルガリア国内 こくない で数 すう 多 おお くのコンサートをこなしたほか、42箇国 かこく での仕事 しごと を経験 けいけん してきている[66] 。トラキア伝統 でんとう 音楽 おんがく 合唱 がっしょう 団 だん はグラミー賞 しょう にノミネートされたことがある。デツカ・キトカ合唱 がっしょう 団 だん (Detska Kitka Choir )は、古 ふる くから続 つづ く著名 ちょめい な少年 しょうねん 合唱 がっしょう 団 だん であり、数 すう 多 おお くの国際 こくさい 的 てき な合唱 がっしょう 大会 たいかい での受賞 じゅしょう 歴 れき を持 も つ。
プロヴディフは、ブルガリアで第 だい 一 いち 級 きゅう の文学 ぶんがく の拠点 きょてん となっている。1855年 ねん にフリスト・G・ダノフ (Hristo G. Danov )がブルガリアで初 はつ の出版 しゅっぱん 社 しゃ 、そして印刷 いんさつ 会社 かいしゃ をこの地 ち で興 おこ した[67] 。文学 ぶんがく 拠点 きょてん としてのプロヴディフの歴史 れきし は、国内 こくない で初 はつ の公共 こうきょう 図書館 としょかん であるイヴァン・ヴァゾフ国立 こくりつ 図書館 としょかん (Ivan Vazov National Library )や、市内 しない に19あるチタリシテ (chitalishta 、公民館 こうみんかん 施設 しせつ )、数 すう 多 おお くの書店 しょてん や出版 しゅっぱん 社 しゃ の存在 そんざい に見 み て取 と れる。図書館 としょかん は1879年 ねん に設 もう けられ[68] 、著名 ちょめい なブルガリア人 じん の作家 さっか ・詩人 しじん であるイヴァン・ヴァゾフ (Ivan Vazov )の名 な をとって命名 めいめい された。ヴァゾフはここで5年間 ねんかん を過 す ごし、彼 かれ の代表 だいひょう 的 てき な作品 さくひん を著 あらわ した[69] 。イヴァン・ヴァゾフ国立 こくりつ 図書館 としょかん は、こんにちのブルガリアにおいて2番目 ばんめ に大 おお きな国立 こくりつ の図書館 としょかん であり、150万 まん を超 こ える書籍 しょせき を収蔵 しゅうぞう し[70] 、ブルガリアやその他 た のヨーロッパ諸国 しょこく の貴重 きちょう な書物 しょもつ を保有 ほゆう している。
プロヴディフ・アート・ギャラリー
プロヴディフは中世 ちゅうせい 以来 いらい の図像 ずぞう 学 がく の伝統 でんとう を有 ゆう している。民族 みんぞく 復興 ふっこう 期 き には、数 すう 多 おお くのイコン画家 がか (ゾグラフィ、зографи / zografi )がこの地 ち に集 あつ まり、活動 かつどう した。ディミタル・ゾグラフ (Dimitar Zograf )とその息子 むすこ ザフィル・ゾグラフ (Zafir Zograf)、ザハリ・ゾグラフ (Zahari Zograf )、ゲオルギ・ダンチョフ(Georgi Danchov)らがこの地 ち で活動 かつどう を行 おこな った[35] 。ブルガリア解放 かいほう 後 ご は、チェコ人 じん の生 う まれであるブルガリアの画家 がか ・イヴァン・ムルクヴィチュカ (Ivan Mrkvička )がこの地 ち に移住 いじゅう して活動 かつどう した。1912年 ねん にはブルガリア南部 なんぶ 出身 しゅっしん の画家 がか たちによって画家 がか 協会 きょうかい が設立 せつりつ され、ズラテュ・ボヤジエフ (Zlatyu Boyadzhiev )、シラク・スキトニク (Sirak Skitnik)、ツァンコ・ラヴレノフ (Tsanko Lavrenov)らが協会 きょうかい に所属 しょぞく した。
こんにち、市内 しない には30の画廊 がろう がある。プロヴディフ・アート・ギャラリーは19世紀 せいき に設立 せつりつ されたものである[71] 。同 どう ギャラリーは4つの建物 たてもの に合 あ わせて5千 せん を超 こ える芸術 げいじゅつ 作品 さくひん を保有 ほゆう している。1981年 ねん には、ブルガリア建国 けんこく 1300年 ねん を祝 しゅく してメキシコ の画家 がか たちから作品 さくひん が寄贈 きぞう され、これを収蔵 しゅうぞう するセクションが新 あら たに設 もう けられた。
プロヴディフの新 あたら しいビジネス街 がい
豊 ゆた かな農耕 のうこう 地帯 ちたい の中央 ちゅうおう に位置 いち するプロヴディフは、20世紀 せいき 初頭 しょとう より産業 さんぎょう の拠点 きょてん として発展 はってん してきた。食品 しょくひん 加工 かこう や、タバコ 、醸造 じょうぞう 、繊維 せんい は、この地域 ちいき の産業 さんぎょう の中心 ちゅうしん を占 し めてきた[72] 。共産党 きょうさんとう 支配 しはい 下 か の時代 じだい には、市 し の産業 さんぎょう は大幅 おおはば に強化 きょうか され、その中心 ちゅうしん は重工業 じゅうこうぎょう へと移 うつ った。こんにちでもプロヴディフでは鉛 なまり や亜鉛 あえん の精錬 せいれん 、機械 きかい 、電子 でんし 機器 きき 、貨物 かもつ 自動車 じどうしゃ の製造 せいぞう 、化学 かがく 工業 こうぎょう 、化粧 けしょう 品 ひん 製造 せいぞう などの産業 さんぎょう がある。1989年 ねん の共産 きょうさん 主義 しゅぎ 体制 たいせい 終焉 しゅうえん とそれによる計画 けいかく 経済 けいざい の頓挫 とんざ によって、数 すう 多 おお くの製造 せいぞう 拠点 きょてん が閉鎖 へいさ に追 お い込 こ まれた。
プロヴディフは、ブルガリア全土 ぜんど で最 もっと も急速 きゅうそく に発展 はってん している地域 ちいき のひとつであり、域内 いきない 総 そう 生産 せいさん は年率 ねんりつ 12%-13%程度 ていど である。2005年 ねん の時点 じてん で、域内 いきない 総 そう 生産 せいさん は94億 おく レヴァ (およそ48億 おく ユーロ )であり、2001年 ねん の水準 すいじゅん の188%に相当 そうとう する。この期間 きかん に利益 りえき の大 おお きさは4.5倍 ばい にまで拡大 かくだい している[73] 。失業 しつぎょう 率 りつ は6.5%であり[74] 、国内 こくない 平均 へいきん よりも低 ひく い。ただし、自治体 じちたい の境界 きょうかい がほぼ市街地 しがいち と重 かさ なっており、自治体 じちたい の領域 りょういき が純粋 じゅんすい に都市 とし 部 ぶ のみによって形作 かたちづく られているという事情 じじょう もある。投資 とうし は順調 じゅんちょう に伸 の びで2005年 ねん には4億 おく 6500万 まん ドルに上 のぼ っており、産業 さんぎょう の一部 いちぶ は周囲 しゅうい のマリツァ あるいはロドピ 自治体 じちたい に移転 いてん し、ラディノヴォ (Radinovo )の工業 こうぎょう 地帯 ちたい などを形成 けいせい している[73] 。
1990年代 ねんだい 末 まつ になると再 ふたた び経済 けいざい は拡大 かくだい に転 てん じ、街 まち やその郊外 こうがい 、主 おも にマリツァ自治体 じちたい に工場 こうじょう が建 た つようになった。この時代 じだい には、新 あたら しい工場 こうじょう を建 た てるために総額 そうがく で5億 おく ユーロ が投資 とうし された。その中 なか には、1850人 にん を雇用 こよう し年 ねん に45万 まん 個 こ の冷蔵庫 れいぞうこ を製造 せいぞう するリープヘル の工場 こうじょう や、2000人 にん を雇用 こよう するソコタプ(Socotab)のタバコ工場 こうじょう 、500人 にん を雇用 こよう し年間 ねんかん 50万 まん 台 だい を製造 せいぞう する自転車 じてんしゃ 工場 こうじょう [75] 、シュナイダーエレクトリック の電子 でんし 工場 こうじょう [76] 、バイオディーゼル・プラント、ブルサフィル(Bulsaphil)繊維 せんい 工場 こうじょう (従業 じゅうぎょう 員 いん 790人 にん )の他 ほか 、CDプレーヤーやその他 た の電子 でんし 機器 きき の製造 せいぞう 工場 こうじょう などがある。バルカン半島 ばるかんはんとう で最大 さいだい の電子 でんし 工場 こうじょう が郊外 こうがい のヴォイヴォディノヴォ (Voivodinovo )で操業 そうぎょう を始 はじ めている[77] 。
ビジネス・オフィス需要 じゅよう に応 こた えるために、トラキヤ区 く に新 あら たにビジネス・パーク・プロヴディフ が建設 けんせつ される予定 よてい である。68百 ひゃく 万 まん ユーロが投 とう じられ、11万 まん 平方 へいほう メートルを占 し めるビジネス地区 ちく が造成 ぞうせい される予定 よてい である[78] [79] 。また、街 まち の北西 ほくせい に位置 いち するラディノヴォ (Radinovo )には、5万 まん 平方 へいほう メートルを占 し める商業 しょうぎょう ・工業 こうぎょう 地区 ちく が造成 ぞうせい される予定 よてい である[80] 。
商業 しょうぎょう 部門 ぶもん は急速 きゅうそく に発展 はってん している。中央 ちゅうおう 区 く およびトラキヤ区 く を中心 ちゅうしん に、新 あたら しいショッピング・センターが建 た てられている。代表 だいひょう 的 てき なものとして「グランド」や、カピタン・ライチョ通 どお りにある「Market Center」[81] ほか2つのショッピング・センター[81] 、トラキヤのフォーラム、エクセルシオールなどがある。また建造 けんぞう 中 ちゅう のショッピング・センターもあり、4千 せん 万 まん ユーロが投 とう じられ、4万 まん 平方 へいほう メートルの広 ひろ さち11の映画 えいが 館 かん 、700台 だい 収容 しゅうよう の駐車 ちゅうしゃ 場 じょう を持 も つ施設 しせつ の建設 けんせつ が進 すす められている。また、5千 せん 万 まん ユーロを投 とう じて建設 けんせつ が進 すす められるセントラル・モール「マルコヴォ・テペ」[82] や、6千 せん 万 まん ユーロを投 とう じてトラキヤ区 く にもショッピング・モールとホテルの複 ふく 合 あい 施設 しせつ を建設 けんせつ 中 ちゅう であり[83] [84] 、この他 ほか にも計画 けいかく 中 ちゅう や建造 けんぞう 中 ちゅう の施設 しせつ がある。
郊外 こうがい にはメトロ 、カウフラント (Kaufland )、サニ (Sani、アウトレット)、プラクティケア (Praktiker )、ビラ (Billa )、ミスター・ブリコラージュ (Mr. Bricolage )、バウマックス (Baumax )、テクノポリス(Technopolis)、テクノパーク・ヨーロッパ(Technopark Europa)などの大型 おおがた 量販 りょうはん 店 てん が出店 しゅってん している。街 まち のショッピング需要 じゅよう の中心 ちゅうしん となるのは旧 きゅう 市街 しがい などの街 まち の中心 ちゅうしん 地区 ちく であり、多 おお くの販売 はんばい 店 てん 、カフェ、レストランなどが立 た ち並 なら ぶ。旧 きゅう 市街 しがい には多 おお くのカフェや工房 こうぼう 、おみやげ物 もの 店 てん があり、中心 ちゅうしん 地区 ちく の細 ほそ い路地 ろじ は「カパナ」(Капана 、「罠 わな 」の意味 いみ )と呼 よ ばれている。
プロヴディフ国際 こくさい フェア (Plovdiv International Fair )は1892年 ねん 以降 いこう 毎年 まいとし 開催 かいさい されており、ブルガリアをはじめ南東 なんとう ヨーロッパで最 もっと も古 ふる くから続 つづ く国際 こくさい フェアである。13万 まん 8千 せん 平方 へいほう メートルの展示 てんじ 会場 かいじょう では各国 かっこく の企業 きぎょう が集 あつ まって様々 さまざま な展示 てんじ を行 おこな われる。フェアには、マリツァ川 がわ 北岸 ほくがん の35万 まん 2千 せん 平方 へいほう メートルが会場 かいじょう として利用 りよう される[85] 。フェアには各国 かっこく から60万 まん 人 にん が訪 おとず れている[86] 。
街 まち には1987年 ねん 以降 いこう 免税 めんぜい 区域 くいき が設 もう けられ、鉄道 てつどう や自動車 じどうしゃ 輸送 ゆそう の貨物 かもつ を扱 あつか う税関 ぜいかん ターミナルがある[86] 。
秋 あき のプロヴディフ・スポーツ・コンプレックス
プロヴディフ・スポーツ・コンプレックスは、東 ひがし ヨーロッパで最大 さいだい の複 ふく 合 あい 運動 うんどう 施設 しせつ である。同 どう 施設 しせつ にはプロヴディフ・スタジアム (Plovdiv Stadium )に加 くわ えて複数 ふくすう のサッカー・コート、テニス ・コート、プール、3キロメートルの長 なが さを持 も つボート競漕 きょうそう 場 じょう 、レストラン、カフェなどがある。この施設 しせつ は街 まち の西部 せいぶ 、マリツァ川 がわ のすぐ南 みなみ のところにある。また、子 こ どものための遊技 ゆうぎ 場 じょう も備 そな えている。施設 しせつ は、散歩 さんぽ やジョギング、その他 た のリラクゼーションのために、プロヴディフ市民 しみん や、市外 しがい から訪 おとず れる人々 ひとびと がよく利用 りよう している。プロヴディフ・スタジアムは5万 まん 5千 せん 人 にん を収容 しゅうよう し、ブルガリアで最大 さいだい のサッカー競技 きょうぎ 場 じょう である[91] 。
この他 ほか にプロヴディフには、フリスト・ボテフ・スタジアム (2万 まん 2千 せん 人 にん 収容 しゅうよう 、Botev Stadium )、ロコモティフ・スタジアム (1万 まん 1千 せん 人 にん 収容 しゅうよう )、マリツァ・スタジアム(5千 せん 人 にん 収容 しゅうよう )、トドル・ディエフ・スタジアム(7千 せん 人 にん 収容 しゅうよう )といった競技 きょうぎ 場 じょう がある。6つの屋内 おくない 体育館 たいいくかん (ロコモティフ、ドゥナフ、ストロイテル、チャイカ、アカデミク、トータル・スポール)もある。2006年 ねん 、街 まち の中心 ちゅうしん の近 ちか くにアクアランドという名 な のウォーター・パークが開業 かいぎょう した[92] 。この他 ほか にもいくつかの小規模 しょうきぼ なウォーター・パークが市内 しない に点在 てんざい している。
市 し 庭園 ていえん
街 まち で最 もっと も人気 にんき のあるスポーツはサッカー である。プロヴディフには4つのプロのサッカー・クラブがある。ボテフ・プロヴディフ (Botev Plovdiv )[93] は1912年 ねん に創設 そうせつ され、高名 こうみょう なブルガリアの詩人 しじん で革命 かくめい 家 か のフリスト・ボテフ にちなんで命名 めいめい された。PFCロコモティフ・プロヴディフ (PFC Lokomotiv )は1936年 ねん に創設 そうせつ された[94] 。両 りょう クラブともにブルガリアの最 さい 上位 じょうい リーグ の常連 じょうれん であり、両 りょう チーム間 あいだ のライバル意識 いしき は、ソフィア を本拠地 ほんきょち とするレフスキ・ソフィア とPFC CSKAソフィア よりも激 はげ しいと言 い われている。この他 ほか に、マリツァ・プロヴディフ (1922年 ねん 創設 そうせつ 、Maritsa Plovdiv )、スパルタク・プロヴディフ (1947年 ねん 創設 そうせつ 、Spartak Plovdiv )[95] というサッカー・クラブもある。
プロヴディフは、1949年 ねん から国際 こくさい 的 てき なボクシング のトーナメント大会 たいかい 「ストランジャ」の主催 しゅさい 地 ち となっている[96] 。2007年 ねん 大会 たいかい では、96人 にん のボクサーが20箇国 かこく からトーナメントに参加 さんか している。街 まち には競馬 けいば クラブと競馬 けいば 場 じょう もある。また、複数 ふくすう のバレーボール およびバスケットボール のチームもある。
街 まち の7つの丘 おか のうち3つは1995年 ねん 以降 いこう 、自然 しぜん 保護 ほご 区 く に設定 せってい されている。ブルガリアで最初 さいしょ 期 き の公園 こうえん のうちの2つがプロヴディフの中心 ちゅうしん 街 がい にあり、それぞれツァル・シメオン庭園 ていえん (市 し 公園 こうえん )、ドンドゥコフ庭園 ていえん と呼 よ ばれている。より大 だい 規模 きぼ な公園 こうえん としては、植物 しょくぶつ 園 えん 、ベリス・ブレジ公園 こうえん 、リブニツァ公園 こうえん 、ラウタ公園 こうえん がある。
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