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プロヴディフ - Wikipedia

座標ざひょう: 北緯ほくい429ふん 東経とうけい2445ふん / 北緯ほくい42.150 東経とうけい24.750 / 42.150; 24.750

プロヴディフあるいはプロブディフ[1]ブルガリア:Пло̀вдив / Plovdiv)は、ブルガリア中部ちゅうぶ位置いちするブルガリアだい2の都市とし、およびそれを中心ちゅうしんとした基礎きそ自治体じちたいであり、プロヴディフしゅう州都しゅうとである。その人口じんこうは2010ねん3がつ時点じてん推計すいけいで376,103にんであり[3]、ブルガリアでは首都しゅとソフィアいで2番目ばんめおおきい。

プロヴディフ
Пловдив
プロヴディフの市旗プロヴディフの市章
プロヴディフのはたプロヴディフのあきら
プロヴディフの位置(ブルガリア内)
プロヴディフ
プロヴディフ
ブルガリアないのプロヴディフの位置いち
くに ブルガリア
しゅう(オブラスト)プロヴディフしゅう
基礎きそ自治体じちたいプロヴディフ
自治体じちたい全域ぜんいき人口じんこう376103[1] ひと
(2010ねん03がつ15にち現在げんざい
まち人口じんこう376103[2] ひと
(2010ねん03がつ15にち現在げんざい
ナンバープレートPB
標高ひょうこう164 m
標準時ひょうじゅんじEETUTC+2
夏時間なつじかんEESTUTC+3

プロヴディフはしん石器せっき時代じだいさかのぼる、6せんねんおよ歴史れきしゆうしており、紀元前きげんぜん4せんねんごろの居住きょじゅうあとつかっている[2]

まちにはプロヴディフ基礎きそ自治体じちたいおよび隣接りんせつするロドピ基礎きそ自治体じちたいマリツァ基礎きそ自治体じちたい行政府ぎょうせいふかれている。プロヴディフはプロヴディフしゅう州都しゅうとであり、ブルガリアのNUTS-2の地域ちいき区分くぶんであるユジェン・ツェントラレンみなみ中部ちゅうぶ)の中心ちゅうしん都市としきたトラキア地方ちほう最大さいだい都市としであり、国境こっきょうえた歴史れきしてきトラキア地方ちほう中心ちゅうしん都市としである。まち経済けいざい交通こうつう文化ぶんかおよび教育きょういく重要じゅうよう拠点きょてんとなっている[3]。プロヴディフは、国際こくさいプロヴディフ・フェアInternational Fair Plovdiv)、国際こくさい演劇えんげきフェスティバル「スツェナ・ナ・クルストルト」(Сцена на кръстопът)、テレビ・フェスティバル「ズラトナタ・ラクラ」(Златната ракла)などの、国際こくさいてき文化ぶんかてき経済けいざいてきもよおもの主催しゅさいとなっている。

歴史れきしてきギリシャ呼称こしょうである「フィリッポポリス」のでもられ、古代こだいローマ征服せいふくされローマ都市としとなるまえトラキアじん居住きょじゅうしていた。中世ちゅうせいでも、その戦略せんりゃくてき重要じゅうようせいたかく、ひがしマ帝国まていこくブルガリア帝国ていこくとのあいだ度々たびたび支配しはいしゃわった。14世紀せいきにはオスマン帝国ていこくにわたる。1878ねんには、オスマン帝国ていこく一部いちぶとして新設しんせつされたひがしルメリ自治じちしゅう州都しゅうととなり、1885ねんブルガリア統一とういつによってブルガリア公国こうこく一部いちぶとなった。

プロヴディフは、マリツァがわりょうきしひろがるプロヴディフ平原へいげん南部なんぶ位置いちしている。歴史れきしてきに、7つの閃長がんおかうえきずかれ、そこから発達はったつしてきた。7つあるおかおおきいもので250メートルのたかさがある。これらのおかにちなんで、プロヴディフは「7つのおかまち」とばれる。ローマ劇場げきじょう円形えんけい競技きょうぎじょう地下ちか遺跡いせきエイレーネーをはじめとして、おおくの古代こだい遺跡いせきまちちゅうにみられる。

呼称こしょう

編集へんしゅう

プロヴディフはなが歴史れきしなか様々さまざま名前なまえばれてきた。はじめトラキアじん居住きょじゅうであったころは「エウモルピアス」(Eumolpias)とばれていた。紀元前きげんぜん342ねん-341ねんにかけてピリッポス2せいがこの地域ちいき征服せいふくしたのち、その呼称こしょうは「フィリッポポリス」(ギリシャ:Φιλιππούπολις / Philippoupolis)とあらためられた。のちにはこれをトラキアやくした「プルプ=デヴァ」(Pulpu-deva)ももちいられるようになった。やがてローマじんがこのにすると、まちは「3つのおか」を意味いみする「トリモンティウム」(ラテン語らてんご:Trimontium)へとあらためられた[4]

中世ちゅうせいには、ひがしマ帝国まていこく統治とうちでは「フィリッポポリス」とばれ、ブルガリア帝国ていこく統治とうちでは、以前いぜんのトラキア呼称こしょう古代こだいブルガリアして「プルディン」(Пълдин / Paldin)あるいは「プルヴディフ」(Плъвдив / Plavdiv)とばれるようになった。オスマン帝国ていこく統治とうちでは、「フィリッポポリス」をトルコして「フィリベ」(Filibe)とばれた。20世紀せいき初頭しょとう西にしヨーロッパではふたたび「フィリッポポリス」のられるようになった。

小惑星しょうわくせい3860 プロヴディフはこのまちにちなんで命名めいめいされた。この小惑星しょうわくせいブルガリアじん天文学てんもんがくしゃヴィオレタ・イヴァノヴァVioleta G. Ivanova)によって1986ねん8がつ8にち発見はっけんされた。サウス・シェトランド諸島しょとうリヴィングストンとうLivingston Island)のプロヴディフほうPlovdiv Peak)も、プロヴディフにちなんで命名めいめいされている。

プロヴディフはマリツァがわりょうきしひろがり、ブルガリアの首都しゅとソフィアから南東なんとうにおよそ152キロメートルのところにある。まちは、うえトラキア平原へいげん西部せいぶ形成けいせいされた沖積ちゅうせき平野へいやであるプロヴディフ平原へいげん南部なんぶ位置いちしている。北西ほくせいにはスレドナ・ゴラ山脈さんみゃくがそびえち、ひがしにはチルパン高地こうちみなみロドピ山脈さんみゃくがあり、3ぽう高地こうちかこまれている[5]まちははじめマリツァがわ南岸なんがん形成けいせいされ、20世紀せいきかわえて北岸ほくがんにまで拡大かくだいしていった。現代げんだいのプロヴディフの市街地しがいちは100平方へいほうキロメートル程度ていどであり、ブルガリアの国土こくどの0.1%よりもちいさい。プロヴディフはブルガリアのなかもっと人口じんこう密度みつどたかまちとなっており、人口じんこう密度みつどは3,769にん/平方へいほうキロメートルとなっている。

まちには6つの閃長がんおかがあり、まとめて「テペタ」とばれている。20世紀せいき初頭しょとうまでは、7つめのおか存在そんざいしていたが、マルコヴォ・テペМарково тепе / Markovo tepe)とばれていたこのおかはそのこわされ、まち建造けんぞう使つかわれた。このほかの6つのおかは、それぞれジェンデム・テペДжендем тепе / Dzhendem tepe)、ブナルジクБунарджик / Bunardzhik)、サハト・テペСахат тепе / Sahat tepe)、ネベト・テペНебет тепе / Nebet tepe)、ジャンバス・テペДжамбаз тепе / Dzhambaz tepe)、タクシム・テペТаксим тепе / Taksim tepe)とばれる。このうち最後さいごの3つのおかによってトリフルミエТрихълмие / Trihalmie、「3つのおか」)地区ちく形成けいせいしている。この地区ちくまち中心ちゅうしん形作かたちづくっており、古代こだいローマ時代じだい都市としめい「トリモンティウム」の由来ゆらいとなっている[6]

温帯おんたいぞくしており、地中海ちちゅうかいからの影響えいきょうけている。気温きおんなつふゆひらきがおおきい。なつ通常つうじょうきわめてあつく、乾燥かんそうしている。平均へいきんてきに、1年間ねんかん摂氏せっし30えるが38にち摂氏せっし40えるが7にちある。ふゆ通常つうじょうさむいが、時折ときおり地中海ちちゅうかいからの影響えいきょうけて気温きおん上昇じょうしょうすることがあり、そのときはほんの数日すうじつあいだだけ突発とっぱつてき気温きおん上昇じょうしょうする。ふゆさむく、大陸たいりくせい気候きこう特徴とくちょうとなる。年間ねんかん平均へいきん気温きおんは12.3である。

年間ねんかん平均へいきん最高さいこう気温きおんは20.6、7がつ平均へいきん最高さいこう気温きおんは32.3であり、観測かんそく史上しじょう最高さいこう記録きろくは2007ねん6がつ観測かんそくされた46である。平均へいきん最低さいてい気温きおんは6.5、1がつ平均へいきん最低さいてい気温きおんは-3であり、観測かんそく史上しじょう最低さいてい記録きろくは-31.7である。平均へいきん湿度しつどは73%であり、12月はもっと平均へいきん湿度しつどたかく86%、8がつもっとひくく62%となる。年間ねんかん降水こうすいりょうは540ミリメートルであり、5月から6がつもっと降水こうすいりょうおお平均へいきんは66.2ミリメートル、8がつもっとすくなく平均へいきんは31ミリメートルとなる。積雪せきせつのある日数にっすう平均へいきんで33にちになる。積雪せきせつりょう平均へいきんは2センチメートルから4センチメートルであり、おおいときで6から13センチメートル程度ていどとなるが、ときには70センチメートルから1メートルをえることもある。まち周辺しゅうへんではふうよわく(風速ふうそくは0から5メートル毎秒まいびょう)、年間ねんかんの95%は風速ふうそく1メートルにたない。冷涼れいりょうぶしには、とくにマリツァかわ沿いできりがよく発生はっせいする。平均へいきんてきに、年間ねんかん33にちきりあるいはがかかる[7]

プロヴディフの気候きこうひょう:

プロヴディフの気候きこう
つき 1がつ 2がつ 3がつ 4がつ 5月 6がつ 7がつ 8がつ 9月 10月 11月 12月 とし
最高さいこう気温きおん記録きろく °C°F 22
(72)
23
(73)
25
(77)
31
(88)
36
(97)
46
(115)
44
(111)
43
(109)
39
(102)
33
(91)
23
(73)
19
(66)
46
(115)
平均へいきん最高さいこう気温きおん °C°F 5
(41)
7
(45)
12
(54)
18
(64)
23
(73)
29
(84)
32
(90)
30
(86)
26
(79)
21
(70)
12
(54)
6
(43)
20.6
(69.1)
平均へいきん最低さいてい気温きおん °C°F −3
(27)
−2
(28)
1
(34)
5
(41)
10
(50)
14
(57)
16
(61)
15
(59)
11
(52)
8
(46)
3
(37)
−2
(28)
10.1
(50.2)
最低さいてい気温きおん記録きろく °C°F −23
(−9)
−25
(−13)
−18
(0)
−4
(25)
0
(32)
6
(43)
8
(46)
8
(46)
0
(32)
−3
(27)
−8
(18)
−17
(1)
−25
(−13)
降水こうすいりょう mm (inch) 39
(1.54)
33
(1.3)
37
(1.46)
36
(1.42)
51
(2.01)
65
(2.56)
37
(1.46)
28
(1.1)
32
(1.26)
41
(1.61)
49
(1.93)
44
(1.73)
462
(18.19)
出典しゅってん:Vremeto bg [8] 2010-03-07
 
古代こだいローマ時代じだいオデオン

プロヴディフにおけるひと居住きょじゅう歴史れきしは、紀元前きげんぜん4せんねんごろのしん石器せっき時代じだいにまでさかのぼる[2]考古こうこ学者がくしゃたちによって、しん石器せっき時代じだいにさかのぼる陶磁器とうじきやその物品ぶっぴん発見はっけんされたことにより、すくなくとも紀元前きげんぜん4千年紀せんねんきすえにはすでにこの集落しゅうらく形成けいせいされていたことがわかっている[9][10][11]マルケリヌス・アンミアヌスによると、青銅器せいどうき時代じだい以降いこうの、書物しょもつしるされた歴史れきしなかで、プロヴディフはトラキアじん要塞ようさいとして「エウモルピアス」のしるされている。紀元前きげんぜん4世紀せいきには交易こうえき(パナギュレイス panegyreis とばれる)の拠点きょてんとなっていた[12]紀元前きげんぜん342ねんアレクサンドロス3せいちちであるピリッポス2せい征服せいふくされ[13]まちはピリッポポリス(Φιλιππόπολις / Philippopolis、「ピリッポスのまち」の意味いみ)と改称かいしょうされた。のちふたたびトラキアじんにわたると、この呼称こしょうをトラキアしたプルプ=デヴァ(Pulpu-deva)のばれるようになった[14]

紀元きげん72ねん、ローマじん将軍しょうぐんテレンティウス・ヴァロ・ルクルス(Terentius Varo Lukulus)によって征服せいふくされ、マ帝国まていこく版図はんとまれ[15]まちはトリモンティウム(Trimontium、「3つのおかまち」の意味いみ)とばれ、トラキアぞくしゅう中心ちゅうしん都市とし(メトロポリス)として機能きのうした。1世紀せいきまつにはとしての地位ちい付与ふよされている[16]。トリモンティウムはマ帝国まていこくにおける重要じゅうよう交通こうつう要衝ようしょうとなり、ルキアノスは「あらゆる都市としなかもっとおおきく、もっとうつくしい」とひょうした。まちはトラキアぞくしゅう州都しゅうととはならなかったものの、ぞくしゅう最大さいだいかつもっと重要じゅうよう都市としとなった[17]。この時代じだいミリタリス街道かいどうVia Militaris、あるいはディアゴナリス街道かいどう)とばれた、バルカン半島ばるかんはんとうもっと重要じゅうよう軍用ぐんよう道路どうろがこのまち通過つうかしていた[18][19]

これ(プロヴディフ)はあらゆる都市としなかもっとおおきく、うつくしい。そのははるか遠方えんぽうからもかがやいている
ローマの詩人しじんルキアノス

ローマ時代じだいには、まちとその文化ぶんかおおきく発展はってん[20]。こんにちのこされる古代こだい遺跡いせきには、活気かっきにあふれ、成長せいちょうするまち様子ようすをうかがいれるすうおおくの公共こうきょう施設しせつ神殿しんでん浴場よくじょう劇場げきじょうなどがみられる。まちには発達はったつした上水道じょうすいどうおよび下水道げすいどう整備せいびされていた。また、まちは2じゅう城壁じょうへきかこまれ、まもられていた。その一部いちぶ現在げんざい保存ほぞんされており、観光かんこうることができる。現在げんざいのところ、古代こだい都市としなか発掘はっくつされているのはごく一部いちぶぎない[21]

中世ちゅうせい

編集へんしゅう

スラヴじんは6世紀せいき中葉ちゅうようごろにこの地域ちいきき、地域ちいき民族みんぞく構成こうせい一変いっぺんさせた[22]681ねんだいいちブルガリア帝国ていこく建国けんこくされると、フィリッポポリスはひがしマ帝国まていこく最前線さいぜんせんまも重要じゅうよう要塞ようさいとなった。812ねんにブルガリア帝国ていこくクルム・ハーンによって征服せいふくされたが、完全かんぜんにブルガリア帝国ていこく領域りょういきまれたのは834ねんマラミル・ハーンの時代じだいであった[23]。その、ブルガリアの統治とうちとどまったのはわずかのことであり、855ねん-856ねんひがしローマによってさい征服せいふくされた[24][25]ひがしマ帝国まていこく統治とうちで、帝国ていこく東部とうぶ国境こっきょうからまれたパウロひろまり、その一大いちだい拠点きょてんとなった。フィリッポポリスでは、二元論にげんろん影響えいきょうひろまってボゴミル形成けいせいされる土壌どじょうつくげられた。ブルガリアのシメオン1せい(893ねん-927ねん)の時代じだいに、このまちをはじめとするひがしローマのバルカン半島ばるかんはんとう領地りょうちはほぼすべてブルガリアのちた。シメオンの息子むすこペタル1せい(927ねん-969ねん)の時代じだいまで、このはブルガリア帝国ていこく統治とうちとどまった[26][27]

970ねんひがしローマと一時いちじてき同盟どうめい関係かんけいしたにあったペタルは、北方ほっぽうから侵入しんにゅうするスヴャトスラフ1せい対峙たいじしていたが、ペタル指揮しきひがしローマぐんはこので、スラブじんなどによって構成こうせいされるスヴャトスラフのぐんまえに壊走した[28]。そのブルガリアは弱体じゃくたいし、このふたたひがしローマのちた。まちふたたびフィリッポポリスとばれるようになり、ひがしローマてき特徴とくちょうつよめていった。

 
クルムハーンは、プロヴディフを統治とうちおさめたはつのブルガリアの統治とうちしゃである。

Aime de Varennesは1180ねんにこのまちで、1300ねんまえのアレクサンドロス大王だいおうとその後継こうけいしゃたちの業績ぎょうせき物語ものがたひがしローマの歌唱かしょう出会であっている[29]。1204ねんにはひがしローマにわってラテン帝国ていこくがこの支配しはいしゃとなったが、ブルガリア帝国ていこくカロヤン・アセン死去しきょする1207ねんまでのあいだ、2にわたって短期たんきてきにカロヤンによって占領せんりょうされた[30]。1208ねん、カロヤンの後継こうけいしゃボリルは、プロヴディフのたたかにてラテン帝国ていこく敗北はいぼくしている[31]。ラテン帝国ていこく統治とうちでは、プロヴディフはフィリッポポリス公国こうこくDuchy of Philippopolis)の首都しゅととなり、公国こうこくルニエ・ド・トリRenier de Trit)、いでジェラール・ド・ストラン(Gerard de Strem)によっておさめられた。ブルガリア皇帝こうていイヴァン・アセン2せいした、1225ねんから1229ねんまでのあいだふたたびブルガリア統治とうちとなった。1263ねん、プロヴディフはひがしマ帝国まていこく征服せいふくされ、ふたたびその統治とうちとなった。そのゲオルギ2せいテルテルによって征服せいふくされる1322ねんまでのあいだひがしローマの統治とうちふくした[32]。1323ねんにはふたたひがしローマの統治とうちとなるが、ブルガリアのイヴァン・アレクサンダルが、ヨハネス6せいカンタクゼノスがわについてひがしローマの皇帝こうてい内乱ないらん介入かいにゅうし、その見返みかえりとして1344ねんにはプロヴディフとの8つの都市としがブルガリアにあたえられた[33]

1364ねんに、ララ・シャヒン・パシャきいるオスマン帝国ていこくぐんは、プロヴディフを制圧せいあつした[34][35]。トルコじんたちはまちを「フィリベ」とんだ。1382ねんにオスマン帝国ていこくソフィア征服せいふくするまでのあいだ、このがオスマン帝国ていこくりょうルメリアの中心ちゅうしんとなった。プロヴディフはそのも、ブルガリアじん文化ぶんか伝統でんとう拠点きょてんとしてつづけた。「プロヴディフ」の呼称こしょうはじめて登場とうじょうするのはこのころであり、トラキアでの呼称こしょう「プルプ=デヴァ」(プルプはピリッポス、デヴァはまち意味いみした)に由来ゆらいしている。はじめスラヴじんたちはこのまちを「プルディン」(Пълдин / Pəldin)あるいは「プルヴディン」(Плъвдин / Pləvdin)とんでいた。

民族みんぞく復興ふっこう

編集へんしゅう
 
プロヴディフの生神うるかみおんな聖堂せいどう

オスマン帝国ていこく統治とうちで、プロヴディフは帝国ていこくルメリア東部とうぶにおけるブルガリア民族みんぞく復興ふっこう運動うんどう中心ちゅうしんとなった。この時代じだい、プロヴディフはイスタンブールエディルネテッサロニキなら帝国ていこく重要じゅうよう経済けいざい拠点きょてんとなっていた。この時代じだい裕福ゆうふく市民しみんたちはうつくしい家々いえいえてており、そのおおくは現在げんざいきゅう市街しがいのこされている。帝国ていこく統治とうちでは、1364ねんから1864ねんまでルメリアしゅう、1864ねんから1878ねんまでエディルネしゅうぞくし、そのひがしルメリ自治じちしゅう州都しゅうととなった。

このは、ブルガリアの教会きょうかいがギリシャの教会きょうかいからの独立どくりつるためのたたかいのなか重要じゅうよう役割やくわりたした。ナイデン・ゲロフNayden Gerov)、ゲオルギ・ヴルコヴィッチ(Georgi Valkovich)、ヨアキム・グルエフJoakim Gruev)などの指導しどうしゃした、ブルガリアの文化ぶんかてき独立どくりつもとめる闘争とうそうひろげられた。1836ねん、ブルガリアではつ学校がっこう開校かいこうし、1850ねんにはせいキリル・メフォディイ学校がっこう開校かいこうによって現代げんだいてき世俗せぞくてき教育きょういくはじまった。1858ねん5月11にちには、はじめてせいキリル・メフォディイの祝福しゅくふくされた。こののち全国ぜんこくてき公定こうてい祝日しゅくじつとなり、現在げんざいでもいわわれている。1858ねんには生神うるかみおんな聖堂せいどうChurch of Virgin Mary)にて、オスマン帝国ていこく時代じだい初期しょき以来いらいとなるブルガリアによるたてまつかみあや復活ふっかつした。1868ねん学校がっこう拡張かくちょうされ、はつ小学校しょうがっこうとなった。ブルガリアの著名ちょめい知識ちしきじん政治せいじ精神せいしんてき指導しどうしゃらがこの学校がっこう卒業そつぎょうしている[14]

1878ねんプロヴディフのたたかBattle of Plovdiv)によって、まちはオスマン帝国ていこく直接ちょくせつ支配しはいから解放かいほうされた[35]

ひがしルメリ自治じちしゅう

編集へんしゅう

1878ねん3月3にちサン・ステファノ条約じょうやくでは、ブルガリア公国こうこく領土りょうどにはブルガリアじん多数たすうめる領土りょうどだい部分ぶぶんふくまれていた。プロヴディフは当時とうじもっとおおくのブルガリアじん居住きょじゅうし、繁栄はんえいしていた都市としであったため、公国こうこく首都しゅと、ロシアによる暫定ざんてい統治とうち首都しゅととしてえらばれた[36]。しかし、イギリスオーストリア=ハンガリー帝国ていこくはブルガリアの広大こうだい領土りょうど承服しょうふくせず、戦争せんそう最終さいしゅうてき決着けっちゃくベルリン会議かいぎされた。ベルリン会議かいぎでは、ブルガリア公国こうこく領土りょうどとされた領域りょういき複数ふくすう地域ちいき分割ぶんかつした。そのなかで、ブルガリアの南部なんぶ領土りょうどおおくはオスマン帝国ていこくひがしルメリ自治じちしゅうぞくするとされ、プロヴディフはひがしルメリ自治じちしゅう州都しゅうととなった。オスマン帝国ていこく憲法けんぽう制定せいていし、知事ちじ任命にんめいした[37]。1985ねん1がつ1にち時点じてんで、プロヴディフの人口じんこうは33,442にんであり、うち16,725にんブルガリアじん(50%)、7,144にんトルコじん(21%)、5,497にんギリシャじん(16%)、2,168にんユダヤじん(6%)、1,061にんアルメニアじん(3%)、151にんイタリアじん、112にんドイツじん、112にんロマ、80にんフランスじん、61にんロシアじん、その民族みんぞくぞくするのは304にんであった[38]

1885ねんはるザハリ・ストヤノフZahari Stoyanov)は秘密ひみつブルガリア中央ちゅうおう革命かくめい委員いいんかいをこの創設そうせつし、ブルガリアとひがしルメリ自治じちしゅう統合とうごうもとめるプロパガンダを活発かっぱつった。9月5にちには、ゴリャモ・コナレ地区ちく現在げんざいセアディネニエ地区ちく Saedinenie)にて、すうひゃくにん武装ぶそうした反乱はんらんぐんがプロヴディフの中心ちゅうしんけて行軍こうぐんはじめた。5にちから6にちにかけてのよる、ダナイル・ニコラエフ(Danail Nikolaev)指揮しき反乱はんらんぐんは、まち支配しはいけん確立かくりつし、庁舎ちょうしゃから知事ちじガヴリル・クルステヴィッチGavril Krastevich)をきずりした。ゲオルギ・ストランスキGeorgi Stranski)を首班しゅはんとする臨時りんじ政府せいふ樹立じゅりつされ、総動員そうどういん発布はっぷされた[39]セルビア・ブルガリア戦争せんそうにおいてセルビアが敗北はいぼくすると、ブルガリアとオスマン帝国ていこくとのあいだ合意ごうい成立せいりつし、ブルガリア公国こうこくひがしルメリは共通きょうつう政府せいふ議会ぎかい統治とうち機構きこうぐんつものとされた。9月6にち国家こっか統一とういつ、およびプロヴディフのとして祝福しゅくふくされている。

きん現代げんだい

編集へんしゅう

ブルガリア統一とういつのち、プロヴディフはブルガリアの首都しゅとソフィアについで2番目ばんめおおきな都市としとなった。まちはじめての鉄道てつどうは1874ねん開通かいつうし、1888ねんには鉄道てつどうはソフィアとむすばれた。1892ねんにはだい1かいブルガリア・フェアの開催かいさいとなり、おおくの国際こくさいてき参加さんかあつめた。これは国際こくさいプロヴディフ・フェアへと継承けいしょうされていった。オスマン帝国ていこくからの解放かいほうはつビール醸造じょうぞうしょ設立せつりつされた。

20世紀せいき初頭しょとう、プロヴディフは製造せいぞうぎょう商業しょうぎょう拠点きょてんとして発展はってんげ、軽工業けいこうぎょう食品しょくひん産業さんぎょう発達はったつした。ドイツフランスベルギーからの資本しほん投入とうにゅうされ、プロヴディフは現代げんだいてき流通りゅうつう金融きんゆう製造せいぞうぎょう拠点きょてんへと変貌へんぼうした。1939ねん時点じてんで、1まん6せんにん職人しょくにんと1まん7せんにん工場こうじょう労働ろうどうしゃ製造せいぞうぎょう従事じゅうじしており、その中心ちゅうしん食品しょくひんタバコ加工かこうであった。だい世界せかい大戦たいせん時代じだい、タバコ産業さんぎょうおおきく成長せいちょうし、野菜やさい果物くだもの輸出ゆしゅつびた。1943ねん、1500にんユダヤじんが、プロヴディフだい主教しゅきょうキリルによって強制きょうせい収容しゅうようしょおくりをまぬかれた。キリルはのちにブルガリアそう主教しゅきょうとなっている。

1956ねん4がつ6にちはつトロリーバス路線ろせん開業かいぎょうし、1950年代ねんだいにはトリモンツィウム・ホテルが建造けんぞうされた。1960年代ねんだいから1970年代ねんだいにかけては建設けんせつブームとなり、おおくの現代げんだいてき郊外こうがい地区ちく形作かたちづくられた。1970年代ねんだいから1980年代ねんだいにかけて、きゅう市街しがいのこされた古代こだい遺品いひん発掘はっくつわり、きゅう市街しがい復興ふっこうされた。1990ねんにはふくあい体育たいいく施設しせつ「プロヴディフ」が完成かんせいした。どう施設しせつには当時とうじ最大さいだい競技きょうぎじょうや、競漕きょうそうよういけふくまれる。この時代じだい、プロヴディフはブルガリアにおける民主みんしゅ運動うんどう発祥はっしょうとなり、1989ねんすえには共産党きょうさんとうによるいちとう独裁どくさい体制たいせい崩壊ほうかいした。

プロヴディフは過去かこに3国際こくさい博覧はくらんかい主催しゅさいとなっている(1981ねん1985ねん1991ねん)。

住民じゅうみん

編集へんしゅう

人口じんこう

編集へんしゅう
人口じんこう推移すいい
とし人口じんこう±%
18801,884—    
18871,892+0.4%
19001,910+1.0%
19201,926+0.8%
19341,939+0.7%
2405333,442+1624.7%
3303236,033+7.7%
4303347,981+33.2%
6441584,655+76.4%
99883105,643+24.8%

プロヴディフに現住所げんじゅうしょものかずは、2010ねん3がつ時点じてんで380,733にんであり、ブルガリアで2番目ばんめ規模きぼである。ブルガリア国立こくりつ統計とうけいきょくによると、どう時点じてん実際じっさいにプロヴディフに居住きょじゅうしているものかずは376,103にん推定すいていされている[4]。プロヴディフの人口じんこうヴァルナされたとする言説げんせつがいくつかある[40][41]が、いずれも公的こうてき統計とうけいによって確認かくにんされたものではない

ブルガリア解放かいほう時代じだいには、プロヴディフの人口じんこうは24,053にんで、当時とうじのブルガリアでは最大さいだいであった[42]。ブルガリア統一とういつもしばらくのあいだはブルガリアで最大さいだい都市としであったが、やがてソフィアの人口じんこうかれた。1946ねん国勢調査こくせいちょうさでは、プロヴディフの人口じんこうは117,563にんであり、ソフィアは487,000にんであった[36]現在げんざいのプロヴディフの都市としけん人口じんこうは575,298にんであり、これもブルガリアで2番目ばんめ規模きぼとなっている[43]

民族みんぞく宗教しゅうきょう

編集へんしゅう
 
きゅう市街しがいつ、アルメニア教会きょうかいせいケヴォルク(ゲオルギ)聖堂せいどう
 
カトリック教会きょうかいひじりルイだい聖堂せいどうSt Louis Catholic Cathedral

民族みんぞく構成こうせいると、プロヴディフにはブルガリアじんトルコじんアルメニアじんユダヤじんギリシャじんロマなどの多様たよう民族みんぞくんでいる。1884ねん国勢調査こくせいちょうさによると、ブルガリアじん人口じんこう比率ひりつは50.09%であり、以下いかトルコじんが21.36%、ギリシャじんが16.44%、ユダヤじんが6.48%、アルメニアじんが2.93%などとなっている。バルカン戦争せんそうだいいち世界せかい大戦たいせんのちギリシャりょう土地とちマケドニア西にしトラキア)からおおくのブルガリアじん強制きょうせい移住いじゅうによってブルガリア国内こくない流入りゅうにゅうし、プロヴディフのブルガリアじん人口じんこう大幅おおはば増加ぞうかした。現在げんざいのプロヴディフにも、「ヴァルダルスキ」(Вардарски / Vardarski、「ヴァルダルの」)や「ベロモルスキ」(Беломорски / Belomorski、「ゲ海げかいの」)といった地名ちめいのこされている。ユダヤじんおおくは、1948ねんイスラエル建国けんこくまちった。現代げんだいのプロヴディフでは、ブルガリアじん人口じんこう多数たすうめており、いでロマとトルコじんおお[44]

住民じゅうみんだい多数たすうキリスト教徒きりすときょうとであり、おおくは正教会せいきょうかいぞくするが、少数しょうすうローマ・カトリック教会きょうかい東方とうほう典礼てんれいカトリック教会きょうかいプロテスタント諸派しょはセブンスデー・アドベンチスト教会きょうかいバプテスト教会きょうかいなど)の信徒しんともいる。このほかムスリムユダヤ教徒きょうともいる。プロヴディフにはすうおおくのキリスト教会きょうかいモスクシナゴーグがある。

行政ぎょうせい

編集へんしゅう

プロヴディフはプロヴディフしゅう州都しゅうとであり、プロヴディフ基礎きそ自治体じちたい行政府ぎょうせいふ所在地しょざいちであるとともに、隣接りんせつするマリツァ基礎きそ自治体じちたいロドピ基礎きそ自治体じちたい行政府ぎょうせいふ所在地しょざいちでもある。2015ねん現在げんざいのプロヴディフ自治体じちたい市長しちょうはIvan Totevである。また、プロヴディフは6つのラヨン)にかれており、それぞれの区長くちょう行政ぎょうせいになっている。プロヴディフ自治体じちたい議会ぎかいには51の議員ぎいんがおり、自治体じちたい立法りっぽうになっている。議員ぎいん比例ひれい代表だいひょうせいによって選出せんしゅつされる[45]。プロヴディフ自治体じちたい行政府ぎょうせいふは、議員ぎいん多数決たすうけつえらばれた市長しちょうと、5にんふく市長しちょう1人ひとり行政ぎょうせい長官ちょうかんからなる。ふく市長しちょう行政ぎょうせい長官ちょうかんは、それぞれ担当たんとうする部門ぶもんちょうとなる。

首都しゅと自治体じちたいおよび大都市だいとし下位かい行政ぎょうせい区分くぶんかんする法律ほうりつ[46]によって、プロヴディフ自治体じちたいは6つのラヨン)にけられている。それぞれの区長くちょうは、市議会しぎかい議決ぎけつによって指名しめいされる。

プロヴディフの6つの

1969ねんプロスラフProslav)とコマテヴォKomatevo)のりょうむらがプロヴディフの市街地しがいちまれた。1987ねん、プロヴディフ自治体じちたいから、市街地しがいちふくまれない周囲しゅういむら々をはなし、マリツァ自治体じちたいロドピ自治体じちたい成立せいりつした。りょう自治体じちたい行政府ぎょうせいふは、プロヴディフにかれている。りょう自治体じちたい住民じゅうみんあいだでは、プロヴディフ自治体じちたいへの復帰ふっきのぞこえもある[47]

プロヴディフは一大いちだい文化ぶんか拠点きょてんであり、市内しないには200をえる考古学こうこがくてき遺跡いせきがあり[48]、うち30がくに重要じゅうよう指定していをうけている。プロヴディフには2つのローマ劇場げきじょうがあり、また中世ちゅうせい城壁じょうへきあととう、オスマン帝国ていこく浴場よくじょうハマム)やモスクきゅう市街しがいなら保存ほぞん状態じょうたい民族みんぞく復興ふっこう邸宅ていたくぐん聖堂せいどうほそんだ石畳いしだたみ路地ろじのこされている。まちにはすうおおくの博物館はくぶつかん画廊がろう文化ぶんかてき機関きかんかれ、音楽おんがく演劇えんげき映画えいがなどの文化ぶんかてきもよおしを主催しゅさいしている。

またプロヴディフは、バチコヴォ修道院しゅうどういんBachkovo Monasteryみなみに30キロメートル)、スキー・リゾートパンポロヴォPamporovoみなみに90キロメートル)や、ヒサリャバニャBanya)、クラスノヴォКрасново)、ストレルチャなどの温泉おんせんへのアクセスの起点きてんとなる[49]。50をえるホテルにはわせて7000しょうえるベッドがあり、このほかにホステルとう各種かくしゅ宿泊しゅくはく施設しせつがある[49]

ローマ都市とし

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プロヴディフのローマ劇場げきじょう

プロヴディフのローマ劇場げきじょうは、ブルガリアでもっと著名ちょめい古典こてん古代こだい遺跡いせきのひとつにかぞえられる[50]。これは、マ帝国まていこく統治とうちの2世紀せいき初頭しょとうに、皇帝こうていトラヤヌスによって建造けんぞうされたものである。ローマ劇場げきじょうジャンバス・テペタクシム・テペの2つのおかのあいだにはさまれた鞍部あんぶきずかれている。客席きゃくせきは14れつあり、直交ちょっこうする階段かいだんによって区切くぎられている。この劇場げきじょう収容しゅうよう能力のうりょくは7せんにんである[51]南側みなみがわには3かいての舞台ぶたいがあり、フリーズコーニスぞうによって装飾そうしょくほどこされている。1968ねんから1984ねんにかけて、この劇場げきじょう調査ちょうさ保存ほぞん修復しゅうふくすすめられた。こんにちでは、ジュゼッペ・ヴェルディ・フェスティバルや国際こくさい民俗みんぞくフェスティバルをはじめおおくのもよおしがこの舞台ぶたいひらかれる[52]。もうひとつのローマ劇場げきじょうオデオン)は2004ねん修復しゅうふくわった[53]。これは、2世紀せいきから5世紀せいきごろにてられたもので、350せきゆうするちいさな劇場げきじょうである。これは、はじめは市議会しぎかい建物たてものとして建造けんぞうされ、のち劇場げきじょうとして改修かいしゅうされたものである。

 
プロヴディフの円形えんけい競技きょうぎじょう
 
ローマ水道すいどう

プロヴディフの円形えんけい競技きょうぎじょうRoman Stadium[54]は、ローマ劇場げきじょうならぶプロヴディフのローマ時代じだい重要じゅうよう遺跡いせきである。円形えんけい競技きょうぎじょうは、サハト・テペトリフルミエ地区ちくのあいだに位置いちしている。競技きょうぎじょうは2世紀せいき建造けんぞうされたもので、デルポイ競技きょうぎじょうならったものである。ローマ時代じだいには、3まんちかくの闘技とうぎおこなわれたとみられる[3]。その北東ほくとう一部分いちぶぶん、13れつ客席きゃくせき今日きょうもみられるが、そのだい部分ぶぶんはプロヴディフのメインストリートや周囲しゅうい建物たてもの地下ちかねむっている。

ローマ時代じだいフォルム紀元きげん1世紀せいきウェスパシアヌス時代じだい建造けんぞうはじまり、2世紀せいき完成かんせいされた。フォルムは、オデオンや現在げんざい郵便ゆうびんきょくちかくにのこされている。11ヘクタールひろさをもち、周囲しゅういみせ建物たてものかこまれ、街路がいろあつまる古代こだい都市とし中心ちゅうしんであった[3]

エイレーネー古代こだい遺跡いせきぐん(Eirene Archaeological complex)は、トリフルミエ地区ちく南側みなみがわから、こんにちのアルヘオロギチェスキ地下道ちかどうのある古代こだい街路がいろあときたにかけての一帯いったいめる古代こだい遺跡いせきぐんである。ここには、3世紀せいきから4世紀せいき富裕ふゆうそう所有しょゆうした建造けんぞうぶつあとのこされている[55]

ネベト・テペには、トリフルミエ(3つのおか地区ちく最古さいこひと居住きょじゅうである、紀元前きげんぜん12世紀せいきトラキアじん都市とし・エウモルピアスがのこされている。これはバルカン半島ばるかんはんとう全土ぜんどでもきわめてふるひと居住きょじゅうあとひとつである。神殿しんでん周囲しゅういかこ巨大きょだいかべと、宮殿きゅうでん発掘はっくつされている。この要塞ようさいもっとふる部分ぶぶんおおきな閃長がんのブロックで建造けんぞうされており、「キュクロープス建築けんちく」とばれている。

博物館はくぶつかん保存ほぞん地区ちく

編集へんしゅう

考古学こうこがく博物館はくぶつかんは1882ねんひがしルメリ人民じんみん博物館はくぶつかんとして創設そうせつされた[56]博物館はくぶつかんは、1928ねんにセアディネニエ広場ひろばめんする建物たてもの移転いてんした。この建物たてものは19世紀せいきにプロヴディフの建築けんちくヨーゼフ・シュニッターJosef Schnitter)ががけたものである。博物館はくぶつかんにはすうおおくのトラキアじん遺品いひん収蔵しゅうぞうされている。「有史ゆうし以前いぜん[57]、「古典こてん古代こだい[58]、「中世ちゅうせい[59]の3けられ、旧石器時代きゅうせっきじだいから初期しょきオスマン時代ときよ(15世紀せいき-16世紀せいきごろ)までの遺品いひんおさめられている[60]パナギュリシテの宝物ほうもつPanagyurishte treasure)としてられるトラキアじん宝物ほうもつもこの博物館はくぶつかんおさめられている[61]

 
プロヴディフ地域ちいき民族みんぞくがく博物館はくぶつかん

プロヴディフ地域ちいき歴史れきし博物館はくぶつかんPlovdiv Regional Historical Museum[62]は1951ねんもうけられた博物館はくぶつかんである。博物館はくぶつかんは、プロヴディフおよびその周辺しゅうへん地域ちいきの16世紀せいきから20世紀せいきまでの歴史れきしてき遺品いひんかんする科学かがくてき文化ぶんかてき収集しゅうしゅう保存ほぞん研究けんきゅう機関きかんとして設立せつりつされた。3つの建物たてもの展示てんじおこなわれている[60]プロヴディフ地域ちいき民族みんぞくがく博物館はくぶつかんen:Plovdiv Regional Ethnographic Museum)は1917ねん市立しりつ邸宅ていたく博物館はくぶつかんとして創設そうせつされ、1943ねん10がつ14にちきゅう市街しがい家屋かおく移転いてんした。1949ねん市立しりつ邸宅ていたく博物館はくぶつかん人民じんみん民族みんぞくがく博物館はくぶつかん改組かいそされ、1962ねん改築かいちくされた。博物館はくぶつかんには4まんてんえる収蔵しゅうぞうひんおさめられている[60]

自然しぜん科学かがく博物館はくぶつかんは1955ねんに、1880ねん建造けんぞうきゅう市役所しやくしょ建物たてもの開設かいせつされた。どう博物館はくぶつかんは、生物せいぶつがく鉱物こうぶつがく植物しょくぶつがく分野ぶんや収蔵しゅうぞうひん豊富ほうふあつめ、これらの分野ぶんやにおいてブルガリアでもっと重要じゅうよう博物館はくぶつかんのひとつにかぞえられる。博物館はくぶつかんには、野生やせい生物せいぶつかんする展示てんじや、40しゅさかなむブルガリア最大さいだい淡水たんすい水槽すいそうなどがある[60]ロドピ山脈さんみゃく鉱物こうぶつのコレクションもある。

航空こうくう博物館はくぶつかんは1991ねん9がつ21にちに、まち中心ちゅうしんから12キロメートル北東ほくとう位置いちするクルモヴォ航空こうくう基地きち敷地しきちない開設かいせつされた[63]博物館はくぶつかんには59航空機こうくうきと、屋内おくないがい展示てんじがある[60]

プロヴディフきゅう市街しがいには、ブルガリア民族みんぞく復興ふっこう建築けんちくぶつならび、地区ちく歴史れきしてき保存ほぞん地区ちく指定していされている。きゅう市街しがいトリフルミエ(「3つのおか」の意味いみネベト・テペジャンバス・テペおよびタクシム・テペ地区ちくにある。きゅう市街しがいにあるほぼすべての家屋かおくが、民族みんぞく復興ふっこう特徴とくちょうてき内装ないそう外装がいそうそなえている。

キリスト教きりすときょう聖堂せいどうとモスク

編集へんしゅう

プロヴディフには、19世紀せいきてられた、すうおおくの正教会せいきょうかい聖堂せいどうっている。せいコンスタンティン・ひじりエレナ聖堂せいどうChurch of St Constantine and Helena)、ひじりマリナ聖堂せいどうせいネデリャ聖堂せいどうせいペトカ聖堂せいどう生神うるかみおんな聖堂せいどうChurch of the Holy Mother of God)はいずれもこうした正教会せいきょうかい聖堂せいどうである。カトリック教会きょうかい聖堂せいどうであるひじりルイだい聖堂せいどうもある。このほかに、現代げんだいてきバプテスト教会きょうかいメソジスト教会きょうかい長老ちょうろう教会きょうかいやそののプロテスタント諸派しょは教会堂きょうかいどうや、ふる様式ようしきアルメニア教会きょうかい聖堂せいどうもある。オスマン帝国ていこく時代じだいてられたモスクが2つのこされており、うちジュマヤ・モスクは、ムーアじん支配しはいけたスペイン以外いがいではヨーロッパ最古さいこイスラム教いすらむきょうのモスクである。ユダヤきょうシナゴーグもある。

演劇えんげき音楽おんがく

編集へんしゅう
 
きゅう市街しがい家屋かおく
 
オデオン(ローマ劇場げきじょう)でのイベント

プロヴディフ劇場げきじょう[64]は、その起源きげんを1881ねん創設そうせつされたブルガリアはつのプロの劇団げきだんもとめることができる。プロヴディフ人形にんぎょう劇場げきじょうは1948ねん創設そうせつされたもので、ブルガリアにおけるこの分野ぶんや先駆さきがけとなった機関きかんである。プロヴディフ・オペラは1953ねん創設そうせつされた。

このほかのプロヴディフの文化ぶんか代表だいひょうする存在そんざいとして、プロヴディフ・フィルハーモニーがあり、これは1945ねん設立せつりつされたものである[65]ドミートリイ・ショスタコーヴィチスヴャトスラフ・リヒテルムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、ユーリイ・ブコフ、ミンチョ・ミンチェフなどのソロイストが、プロヴディフ・フィルハーモニーととも仕事しごとをした。楽団がくだんはヨーロッパのほぼすべてのくにおとずれている。トラキヤ民俗みんぞく合奏がっそうだんは1974ねん設立せつりつされ、ブルガリア国内こくないすうおおくのコンサートをこなしたほか、42箇国かこくでの仕事しごと経験けいけんしてきている[66]。トラキア伝統でんとう音楽おんがく合唱がっしょうだんグラミーしょうにノミネートされたことがある。デツカ・キトカ合唱がっしょうだんDetska Kitka Choir)は、ふるくからつづ著名ちょめい少年しょうねん合唱がっしょうだんであり、すうおおくの国際こくさいてき合唱がっしょう大会たいかいでの受賞じゅしょうれきつ。

文学ぶんがく

編集へんしゅう

プロヴディフは、ブルガリアでだいいちきゅう文学ぶんがく拠点きょてんとなっている。1855ねんフリスト・G・ダノフHristo G. Danov)がブルガリアではつ出版しゅっぱんしゃ、そして印刷いんさつ会社かいしゃをこのおこした[67]文学ぶんがく拠点きょてんとしてのプロヴディフの歴史れきしは、国内こくないはつ公共こうきょう図書館としょかんであるイヴァン・ヴァゾフ国立こくりつ図書館としょかんIvan Vazov National Library)や、市内しないに19あるチタリシテchitalishta公民館こうみんかん施設しせつ)、すうおおくの書店しょてん出版しゅっぱんしゃ存在そんざいれる。図書館としょかんは1879ねんもうけられ[68]著名ちょめいなブルガリアじん作家さっか詩人しじんであるイヴァン・ヴァゾフIvan Vazov)のをとって命名めいめいされた。ヴァゾフはここで5年間ねんかんごし、かれ代表だいひょうてき作品さくひんあらわした[69]。イヴァン・ヴァゾフ国立こくりつ図書館としょかんは、こんにちのブルガリアにおいて2番目ばんめおおきな国立こくりつ図書館としょかんであり、150まんえる書籍しょせき収蔵しゅうぞう[70]、ブルガリアやそののヨーロッパ諸国しょこく貴重きちょう書物しょもつ保有ほゆうしている。

芸術げいじゅつ

編集へんしゅう
 
プロヴディフ・アート・ギャラリー

プロヴディフは中世ちゅうせい以来いらい図像ずぞうがく伝統でんとうゆうしている。民族みんぞく復興ふっこうには、すうおおくのイコン画家がか(ゾグラフィ、зографи / zografi)がこのあつまり、活動かつどうした。ディミタル・ゾグラフDimitar Zograf)とその息子むすこザフィル・ゾグラフ(Zafir Zograf)、ザハリ・ゾグラフZahari Zograf)、ゲオルギ・ダンチョフ(Georgi Danchov)らがこの活動かつどうおこなった[35]。ブルガリア解放かいほうは、チェコじんまれであるブルガリアの画家がかイヴァン・ムルクヴィチュカIvan Mrkvička)がこの移住いじゅうして活動かつどうした。1912ねんにはブルガリア南部なんぶ出身しゅっしん画家がかたちによって画家がか協会きょうかい設立せつりつされ、ズラテュ・ボヤジエフZlatyu Boyadzhiev)、シラク・スキトニク(Sirak Skitnik)、ツァンコ・ラヴレノフ(Tsanko Lavrenov)らが協会きょうかい所属しょぞくした。

こんにち、市内しないには30の画廊がろうがある。プロヴディフ・アート・ギャラリーは19世紀せいき設立せつりつされたものである[71]どうギャラリーは4つの建物たてものわせて5せんえる芸術げいじゅつ作品さくひん保有ほゆうしている。1981ねんには、ブルガリア建国けんこく1300ねんしゅくしてメキシコ画家がかたちから作品さくひん寄贈きぞうされ、これを収蔵しゅうぞうするセクションがあらたにもうけられた。

経済けいざい

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プロヴディフのあたらしいビジネスがい

ゆたかな農耕のうこう地帯ちたい中央ちゅうおう位置いちするプロヴディフは、20世紀せいき初頭しょとうより産業さんぎょう拠点きょてんとして発展はってんしてきた。食品しょくひん加工かこうや、タバコ醸造じょうぞう繊維せんいは、この地域ちいき産業さんぎょう中心ちゅうしんめてきた[72]共産党きょうさんとう支配しはい時代じだいには、産業さんぎょう大幅おおはば強化きょうかされ、その中心ちゅうしん重工業じゅうこうぎょうへとうつった。こんにちでもプロヴディフではなまり亜鉛あえん精錬せいれん機械きかい電子でんし機器きき貨物かもつ自動車じどうしゃ製造せいぞう化学かがく工業こうぎょう化粧けしょうひん製造せいぞうなどの産業さんぎょうがある。1989ねん共産きょうさん主義しゅぎ体制たいせい終焉しゅうえんとそれによる計画けいかく経済けいざい頓挫とんざによって、すうおおくの製造せいぞう拠点きょてん閉鎖へいさまれた。

プロヴディフは、ブルガリア全土ぜんどもっと急速きゅうそく発展はってんしている地域ちいきのひとつであり、域内いきないそう生産せいさん年率ねんりつ12%-13%程度ていどである。2005ねん時点じてんで、域内いきないそう生産せいさんは94おくレヴァ(およそ48おくユーロ)であり、2001ねん水準すいじゅんの188%に相当そうとうする。この期間きかん利益りえきおおきさは4.5ばいにまで拡大かくだいしている[73]失業しつぎょうりつは6.5%であり[74]国内こくない平均へいきんよりもひくい。ただし、自治体じちたい境界きょうかいがほぼ市街地しがいちかさなっており、自治体じちたい領域りょういき純粋じゅんすい都市としのみによって形作かたちづくられているという事情じじょうもある。投資とうし順調じゅんちょうびで2005ねんには4おく6500まんドルにのぼっており、産業さんぎょう一部いちぶ周囲しゅういマリツァあるいはロドピ自治体じちたい移転いてんし、ラディノヴォRadinovo)の工業こうぎょう地帯ちたいなどを形成けいせいしている[73]

1990年代ねんだいまつになるとふたた経済けいざい拡大かくだいてんじ、まちやその郊外こうがいおもマリツァ自治体じちたい工場こうじょうつようになった。この時代じだいには、あたらしい工場こうじょうてるために総額そうがくで5おくユーロ投資とうしされた。そのなかには、1850にん雇用こようねんに45まん冷蔵庫れいぞうこ製造せいぞうするリープヘル工場こうじょうや、2000にん雇用こようするソコタプ(Socotab)のタバコ工場こうじょう、500にん雇用こよう年間ねんかん50まんだい製造せいぞうする自転車じてんしゃ工場こうじょう[75]シュナイダーエレクトリック電子でんし工場こうじょう[76]、バイオディーゼル・プラント、ブルサフィル(Bulsaphil)繊維せんい工場こうじょう従業じゅうぎょういん790にん)のほか、CDプレーヤーやその電子でんし機器きき製造せいぞう工場こうじょうなどがある。バルカン半島ばるかんはんとう最大さいだい電子でんし工場こうじょう郊外こうがいヴォイヴォディノヴォVoivodinovo)で操業そうぎょうはじめている[77]

ビジネス・オフィス需要じゅようこたえるために、トラキヤあらたにビジネス・パーク・プロヴディフ建設けんせつされる予定よていである。68ひゃくまんユーロがとうじられ、11まん平方へいほうメートルをめるビジネス地区ちく造成ぞうせいされる予定よていである[78][79]。また、まち北西ほくせい位置いちするラディノヴォRadinovo)には、5まん平方へいほうメートルをめる商業しょうぎょう工業こうぎょう地区ちく造成ぞうせいされる予定よていである[80]

商業しょうぎょう

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商業しょうぎょう部門ぶもん急速きゅうそく発展はってんしている。中央ちゅうおうおよびトラキヤ中心ちゅうしんに、あたらしいショッピング・センターがてられている。代表だいひょうてきなものとして「グランド」や、カピタン・ライチョどおりにある「Market Center」[81]ほか2つのショッピング・センター[81]、トラキヤのフォーラム、エクセルシオールなどがある。また建造けんぞうちゅうのショッピング・センターもあり、4せんまんユーロがとうじられ、4まん平方へいほうメートルのひろさち11の映画えいがかん、700だい収容しゅうよう駐車ちゅうしゃじょう施設しせつ建設けんせつすすめられている。また、5せんまんユーロをとうじて建設けんせつすすめられるセントラル・モール「マルコヴォ・テペ」[82]や、6せんまんユーロをとうじてトラキヤにもショッピング・モールとホテルのふくあい施設しせつ建設けんせつちゅうであり[83][84]、このほかにも計画けいかくちゅう建造けんぞうちゅう施設しせつがある。

郊外こうがいにはメトロカウフラントKaufland)、サニ(Sani、アウトレット)、プラクティケアPraktiker)、ビラBilla)、ミスター・ブリコラージュMr. Bricolage)、バウマックスBaumax)、テクノポリス(Technopolis)、テクノパーク・ヨーロッパ(Technopark Europa)などの大型おおがた量販りょうはんてん出店しゅってんしている。まちのショッピング需要じゅよう中心ちゅうしんとなるのはきゅう市街しがいなどのまち中心ちゅうしん地区ちくであり、おおくの販売はんばいてん、カフェ、レストランなどがならぶ。きゅう市街しがいにはおおくのカフェや工房こうぼう、おみやげものてんがあり、中心ちゅうしん地区ちくほそ路地ろじは「カパナ」(Капана、「わな」の意味いみ)とばれている。

プロヴディフ国際こくさいフェアPlovdiv International Fair)は1892ねん以降いこう毎年まいとし開催かいさいされており、ブルガリアをはじめ南東なんとうヨーロッパでもっとふるくからつづ国際こくさいフェアである。13まん8せん平方へいほうメートルの展示てんじ会場かいじょうでは各国かっこく企業きぎょうあつまって様々さまざま展示てんじおこなわれる。フェアには、マリツァがわ北岸ほくがんの35まん2せん平方へいほうメートルが会場かいじょうとして利用りようされる[85]。フェアには各国かっこくから60まんにんおとずれている[86]

まちには1987ねん以降いこう免税めんぜい区域くいきもうけられ、鉄道てつどう自動車じどうしゃ輸送ゆそう貨物かもつあつか税関ぜいかんターミナルがある[86]

交通こうつう

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プロヴディフ中央ちゅうおうえき
 
プロヴディフ中央ちゅうおうえき

プロヴディフは国際こくさいてき交通こうつう拠点きょてんとなる場所ばしょ位置いちしている。10ほんあるひろしヨーロッパ回廊かいろうのうち3ほんがプロヴディフのちかくをとおっている。その3ほんはそれぞれひろしヨーロッパ回廊かいろうIVドレスデン - ブカレスト - ソフィア - プロヴディフ - イスタンブール)、ひろしヨーロッパ回廊かいろうVIIIドゥラス - ソフィア - プロヴディフ - ヴァルナ/ブルガス)、ひろしヨーロッパ回廊かいろうXCorridor Xザルツブルク - ベオグラード - プロヴディフ - イスタンブール)である[87][88]。プロヴディフは地域ちいき観光かんこう拠点きょてんとして、背後はいごひろがるロドピ山脈さんみゃくおとずれる観光かんこうきゃくたちの拠点きょてんともなっている。

プロヴディフは、ブルガリアにおける道路どうろおよび鉄道てつどう交通こうつうのハブとなっている[89]トラキヤ高速こうそく道路どうろ(A1)は、まちのわずか5キロメートルきたはしっている。この道路どうろは、ソフィアからプロヴディフ、スタラ・ザゴラ港町みなとちょうブルガスとをむす重要じゅうよう路線ろせんである。このほかに、だい1きゅう幹線かんせん道路どうろ西にしにはソフィアへ、きたにはカルロヴォへ、みなみにはアセノヴグラトクルジャリへ、そしてひがしにはスタラ・ザゴラハスコヴォへとびている。都市としあいだ交通こうつうささえる長距離ちょうきょりバスは、プロヴディフから周辺しゅうへんまちむら国内こくないほか都市とし、そして国外こくがい主要しゅよう都市としへとむすばれている。プロヴディフには3つのバスステーションがあり、それぞれきたみなみ、ロドピとばれている。

 
プロヴディフ国際こくさい空港くうこう

鉄道てつどうえきは、1872ねんリュビメツベロヴォ鉄道てつどう一部いちぶとして開業かいぎょうした。現在げんざい、プロヴディフからはソフィア、パナギュリシテカルロヴォペシテラスタラ・ザゴラディミトロヴグラトアセノヴグラトなどへとむすばれている。中央ちゅうおうえきほかに、トラキヤえき、フィリポヴォえき貨物かもつえきの3えきがある[87]

プロヴディフ市内しない公共こうきょう交通こうつうシステムはよく発達はったつしており[90]、40のトロリーバス路線ろせんなどがある[87]市内しないながれるマリツァがわには、鉄道てつどうきょう屋根やねづけきょうふくめて全部ぜんぶで6つのはしがかかっている。プロヴディフは、同地どうちからみなみ南西なんせいおよびきたびる幹線かんせん道路どうろをつなぐ交点こうてんにあたる。

プロヴディフ国際こくさい空港くうこうは、まちから南東なんとうに5キロメートルのところにあるロドピ自治体じちたいクルモヴォむらKrumovo)に位置いちしている。空港くうこうについては、現代げんだい拡張かくちょう計画けいかくがある。このほかに、まちきたにあるグラフ・イグナティエヴォGraf Ignatievo)の空軍くうぐん基地きちをはじめ、複数ふくすう小規模しょうきぼ空港くうこう付近ふきんにある。

スポーツと娯楽ごらく

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あきのプロヴディフ・スポーツ・コンプレックス

プロヴディフ・スポーツ・コンプレックスは、ひがしヨーロッパで最大さいだいふくあい運動うんどう施設しせつである。どう施設しせつにはプロヴディフ・スタジアムPlovdiv Stadium)にくわえて複数ふくすうのサッカー・コート、テニス・コート、プール、3キロメートルのながさをボート競漕きょうそうじょう、レストラン、カフェなどがある。この施設しせつまち西部せいぶマリツァがわのすぐみなみのところにある。また、どものための遊技ゆうぎじょうそなえている。施設しせつは、散歩さんぽやジョギング、そののリラクゼーションのために、プロヴディフ市民しみんや、市外しがいからおとずれる人々ひとびとがよく利用りようしている。プロヴディフ・スタジアムは5まん5せんにん収容しゅうようし、ブルガリアで最大さいだいのサッカー競技きょうぎじょうである[91]

このほかにプロヴディフには、フリスト・ボテフ・スタジアム(2まん2せんにん収容しゅうようBotev Stadium)、ロコモティフ・スタジアム(1まん1せんにん収容しゅうよう)、マリツァ・スタジアム(5せんにん収容しゅうよう)、トドル・ディエフ・スタジアム(7せんにん収容しゅうよう)といった競技きょうぎじょうがある。6つの屋内おくない体育館たいいくかん(ロコモティフ、ドゥナフ、ストロイテル、チャイカ、アカデミク、トータル・スポール)もある。2006ねんまち中心ちゅうしんちかくにアクアランドというのウォーター・パークが開業かいぎょうした[92]。このほかにもいくつかの小規模しょうきぼなウォーター・パークが市内しない点在てんざいしている。

 
庭園ていえん

まちもっと人気にんきのあるスポーツはサッカーである。プロヴディフには4つのプロのサッカー・クラブがある。ボテフ・プロヴディフBotev Plovdiv[93]は1912ねん創設そうせつされ、高名こうみょうなブルガリアの詩人しじん革命かくめいフリスト・ボテフにちなんで命名めいめいされた。PFCロコモティフ・プロヴディフPFC Lokomotiv)は1936ねん創設そうせつされた[94]りょうクラブともにブルガリアのさい上位じょういリーグ常連じょうれんであり、りょうチームあいだのライバル意識いしきは、ソフィア本拠地ほんきょちとするレフスキ・ソフィアPFC CSKAソフィアよりもはげしいとわれている。このほかに、マリツァ・プロヴディフ(1922ねん創設そうせつMaritsa Plovdiv)、スパルタク・プロヴディフ(1947ねん創設そうせつSpartak Plovdiv[95]というサッカー・クラブもある。

プロヴディフは、1949ねんから国際こくさいてきボクシングのトーナメント大会たいかい「ストランジャ」の主催しゅさいとなっている[96]。2007ねん大会たいかいでは、96にんのボクサーが20箇国かこくからトーナメントに参加さんかしている。まちには競馬けいばクラブと競馬けいばじょうもある。また、複数ふくすうバレーボールおよびバスケットボールのチームもある。

まちの7つのおかのうち3つは1995ねん以降いこう自然しぜん保護ほご設定せっていされている。ブルガリアで最初さいしょ公園こうえんのうちの2つがプロヴディフの中心ちゅうしんがいにあり、それぞれツァル・シメオン庭園ていえん公園こうえん)、ドンドゥコフ庭園ていえんばれている。よりだい規模きぼ公園こうえんとしては、植物しょくぶつえん、ベリス・ブレジ公園こうえん、リブニツァ公園こうえん、ラウタ公園こうえんがある。

プロヴディフ出身しゅっしん人物じんぶつ

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姉妹しまい都市とし

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外部がいぶリンク

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脚注きゃくちゅう

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