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ミネアポリス (重巡洋艦) - Wikipedia

ミネアポリス (じゅう巡洋艦じゅんようかん)

ニューオリンズきゅうじゅう巡洋艦じゅんようかん

ミネアポリス (USS Minneapolis, CA-36) は、アメリカ海軍かいぐんじゅう巡洋艦じゅんようかんニューオーリンズきゅうじゅう巡洋艦じゅんようかんの3ばんかんかんめいミネソタしゅうミネアポリスちなむ。そのかんとしては2せき

ミネアポリス
USS ミネアポリス(1943年4月11日)
USS ミネアポリス(1943ねん4がつ11にち
基本きほん情報じょうほう
建造けんぞうしょ フィラデルフィア海軍かいぐん造船ぞうせんしょ
運用うんようしゃ アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍かいぐん
きゅうめい ニューオーリンズきゅうじゅう巡洋艦じゅんようかん
愛称あいしょう ミニー (Minnie)[1]
かんれき
発注はっちゅう 1929ねん2がつ13にち
起工きこう 1931ねん6がつ27にち
進水しんすい 1933ねん9がつ6にち
就役しゅうえき 1934ねん5がつ19にち
退役たいえき 1947ねん2がつ10日とおか
除籍じょせき 1959ねん3がつ1にち
その 1960ねん7がつペンシルベニアしゅうチェスターにて解体かいたい
要目ようもく
基準きじゅん排水はいすいりょう 9,950 トン
全長ぜんちょう 588 ft (179 m)
最大さいだいはば 61 ft 9 in (18.82 m)
吃水きっすい 19 ft 5 in (5.92 m)
しゅかん B&Wせいみずかんボイラー×8
おも ウェスティグハウスせいギアードタービン×4
推進すいしん スクリュープロペラ×4じく
出力しゅつりょく 107,000 hp (80,000 kW)
最大さいだい速力そくりょく 32.7 kn (60.6 km/h; 37.6 mph)
乗員じょういん 士官しかん102めい兵員へいいん817めい
搭載とうさい能力のうりょく 重油じゅうゆ:1,650 トン
へいそう
装甲そうこう
  • 水線すいせん:3 - 5 インチ (76 - 127 mm
  • 甲板かんぱん:1.25 - 2.25 インチ (32 - 57 mm)
  • 砲塔ほうとう:1.5 - 8 インチ (38 - 203 mm)
  • バーベット:5 インチ (127mm)
  • 司令塔しれいとう:5 インチ (127mm)
搭載とうさい 水上すいじょう×4
その カタパルト×2→1[注釈ちゅうしゃく 3]
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かんれき

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ミネアポリスは1931ねん6がつ27にちフィラデルフィア海軍かいぐん造船ぞうせんしょ起工きこうした。1933ねん9がつ6にちにグレース・L・ニュートンによって命名めいめい進水しんすいし、1934ねん5がつ19にち艦長かんちょうゴードン・W・ヘインズ大佐たいさ指揮しき就役しゅうえきした。

1934ねん7がつから9がつにかけてヨーロッパ水域すいいきおこなわれた整調せいちょう、ミネアポリスはフィラデルフィア海軍かいぐん工廠こうしょう修理しゅうり変更へんこうおこなわれ、1935ねん4がつ4にち出航しゅっこうパナマ運河うんが経由けいゆして4がつ18にちサンディエゴ到着とうちゃく偵察ていさつ部隊ぶたいだい7巡洋艦じゅんようかんぶん艦隊かんたい合流ごうりゅうした。ミネアポリスは西海岸にしかいがん沿いに作戦さくせん活動かつどう従事じゅうじし、1939ねんはじめにはカリブ海かりぶかい巡航じゅんこう、1940ねん真珠湾しんじゅわん到着とうちゃくした。

だい世界せかい大戦たいせん

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1941ねん - 1942ねん

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1941ねん12月7にち真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき当日とうじつ、ミネアポリスは砲術ほうじゅつ訓練くんれんのため真珠湾しんじゅわんから32キロはなれた海域かいいき航行こうこうちゅうだった。ミネアポリスは1942ねん1がつまで哨戒しょうかいおこなったのち空母くうぼレキシントン (USS Lexington, CV-2) 」基幹きかんだい11任務にんむ部隊ぶたいウィルソン・ブラウン中将ちゅうじょう)にくわわった。ギルバート諸島しょとうマーシャル諸島しょとう攻撃こうげきするだい8任務にんむ部隊ぶたいウィリアム・ハルゼー中将ちゅうじょう)およびだい17任務にんむ部隊ぶたいフランク・J・フレッチャー少将しょうしょう)に呼応こおうして打撃だげきあたえるため、だい11任務にんむ部隊ぶたい当初とうしょウェークとうかう予定よていだった。しかし、1がつ23にち真珠湾しんじゅわん出撃しゅつげきした直後ちょくご給油きゅうゆかんナチェス (USS Neches, AO–5) 」が潜水せんすいかん72」に撃沈げきちんされ、燃料ねんりょう不足ふそく懸念けねんされたこととわりのタンカーがいなかったこともあって、だい11任務にんむ部隊ぶたいのウェークとうへの奇襲きしゅう作戦さくせん中止ちゅうしされた[3][4]よく1がつ24にちだい11任務にんむ部隊ぶたい真珠湾しんじゅわん帰投きとうした。2月1にちだい11任務にんむ部隊ぶたいあらためてラバウルけて出撃しゅつげきした。2がつ20日はつか、ミネアポリスは「レキシントン」を護衛ごえいちゅうに3一式いっしきりくおさむ空襲くうしゅうけたが、これを撃退げきたいした(ニューギニアおき海戦かいせん)。ミネアポリスは3がつ10日とおかに、だい17任務にんむ部隊ぶたい合同ごうどうおこなわれた奇襲きしゅう参加さんかし、オーエンスタンレー山脈さんみゃくえた艦載かんさい攻撃こうげきラエサラモア日本にっぽんぐん混乱こんらんさせ、補給ほきゅうおどかした。

ミネアポリスは、5月4にちから8にちにかけてひろげられた珊瑚さんごうみ海戦かいせんでも、「レキシントン」の直衛なおえにあたった。3日本にっぽん撃墜げきついしたものの、「レキシントン」は被弾ひだんしてうしなわれた。しかし、オーストラリアおよびニュージーランド方面ほうめんへの日本にっぽんぐん勢力せいりょく拡大かくだいうごきを阻止そしした。ミネアポリスは「レキシントン」の生存せいぞんしゃ救助きゅうじょした。つづミッドウェー海戦かいせんにも参加さんかした。ミネアポリスは真珠湾しんじゅわん補給ほきゅう修理しゅうりおこない、ソロモン諸島しょとう方面ほうめんかった。8月7にちからのガダルカナルとうたたかでは機動きどう部隊ぶたい護衛ごえいし、ガダルカナルとうツラギとうへの上陸じょうりく援護えんごした。8月30にち空母くうぼサラトガ (USS Saratoga, CV-3) 」が潜水せんすいかん26」の雷撃らいげきにより損傷そんしょうし、ミネアポリスはサラトガを曳航えいこうして後方こうほう地域ちいきかった。9月から10がつにかけてはルンガ・ポイントフナフティとうあいだ陸上りくじょう部隊ぶたい輸送ゆそう護衛ごえいおこなった。

ルンガおき夜戦やせん(タサファロングおき海戦かいせん

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ルンガおき夜戦やせん損傷そんしょうしたミネアポリス
 
ヤシのやネットでカモフラージュされたミネアポリス
 
かりかんくびけたミネアポリス

11月29にち、ミネアポリスはだい67任務にんむ部隊ぶたい英語えいごばんカールトン・H・ライト少将しょうしょう)の旗艦きかんとして、「東京とうきょう急行きゅうこう」をふうじるべくガダルカナルとうおき急行きゅうこうした。11月30にちわろうとするそのすこまえ田中たなかよりゆきさん少将しょうしょうひきいるだい水雷すいらい戦隊せんたいいちたいサボとう西南せいなんかたからアイアンボトム・サウンド進入しんにゅうだい67任務にんむ部隊ぶたいはレンゴ水道すいどうからヘンダーソン飛行場ひこうじょうりのコースで進入しんにゅうした。

深夜しんやたがいの部隊ぶたい相手あいて探知たんちしたことからルンガおき夜戦やせんはじまった。だい67任務にんむ部隊ぶたい攻撃こうげきは、ミネアポリスの砲撃ほうげきにより警戒けいかいたい駆逐くちくかん高波たかなみ爆発ばくはつ炎上えんじょうさせた。しかし、高波たかなみたれつづけているあいだだい水雷すいらい戦隊せんたい発射はっしゃした酸素さんそ魚雷ぎょらいだい67任務にんむ部隊ぶたいおそかった。ミネアポリスには魚雷ぎょらい左舷さげんかんくびに2ほん命中めいちゅうし、一番いちばん砲塔ほうとうより前部ぜんぶがもぎられ、ボイラーしつ発電はつでんしつおおきく損傷そんしょうした。とくにボイラーしつ海水かいすいひたるほどの被害ひがいであったが、応急おうきゅう措置そちたくみな操艦そうかんじゅつにより沈没ちんぼつまぬかれ、ミネアポリスはツラギとう後退こうたいした。うしろを航行こうこうしていた姉妹しまいかんニューオーリンズ (USS New Orleans, CA-32) 」も魚雷ぎょらい命中めいちゅうかんくびをもぎられたが、こちらは一番いちばん砲塔ほうとうをもうしなった。じゅうじゅんペンサコーラ (USS Pensacola, CA-24) 」もかん後部こうぶ魚雷ぎょらい命中めいちゅうしておおきく損傷そんしょうし、巡洋艦じゅんようかんぐん最後さいご航行こうこうしていたじゅうじゅんノーザンプトン (USS Northampton, CA-26) 」は沈没ちんぼつした。ツラギとう到着とうちゃくすると、ミネアポリスはてきあざむくためヤシ低木ていぼくでカムフラージュされ、「ニューオーリンズ」もこれにならった。また、ツラギとうにいたシービーによって必要ひつよう最小限さいしょうげん修理しゅうりおこなわれ、ミネアポリスはメア・アイランド海軍かいぐん造船ぞうせんしょ回航かいこうすることが可能かのうとなった。歴史れきしサミュエル・エリオット・モリソンいわく、ルンガおき夜戦やせんは「優勢ゆうせい巡洋艦じゅんようかんたい劣勢れっせい日本にっぽん駆逐くちくかんいためつけられて敗北はいぼくした海戦かいせん」だった。

1943ねん - 1944ねん

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ミネアポリスは1943ねん8がつ戦線せんせん復帰ふっきし、以後いご20ヵ月かげつおよんで太平洋たいへいよう戦線せんせん主要しゅようたたかいに参加さんかつづけた。復帰ふっき、10月5にちと7にちおこなわれたウェークとうへの攻撃こうげき参加さんか。11月20にちから12月4にちまでのブタリタリへの攻撃こうげきと、1944ねん2がつ中旬ちゅうじゅんまでのクェゼリンのたたかおよびマジュロ占領せんりょう作戦さくせんさいしては、だい58任務にんむ部隊ぶたいマーク・ミッチャー中将ちゅうじょう)の護衛ごえいにあたった。2月17にちから18にちおこなわれたトラックとう空襲くうしゅうにも参加さんかした。

だい5艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんであるスプルーアンス大将たいしょうは、トラック諸島しょとううちにいまだ有力ゆうりょく艦船かんせん多数たすうのこっているとかんがえ、空襲くうしゅうにはそとてくるだろうと推測すいそくした[5]。どうしても先頭せんとうってたたかいたかった[5]スプルーアンス大将たいしょうは、脱出だっしゅつしてきた有力ゆうりょく艦船かんせんとの砲戦ほうせん念頭ねんとうに、これまでのだい5艦隊かんたい旗艦きかんインディアナポリス (USS Indianapolis, CA-35) 」からえ、配属はいぞくされたばかりの戦艦せんかんニュージャージー (USS New Jersey, BB-62) 」をあらたなだい5艦隊かんたい旗艦きかんにしたのである[5]。ミネアポリスは、タサファロングおきでともに舳先へさきをもぎられ、ともに復帰ふっきしてきたニューオーリンズとともにロバート・C・ギッフェン少将しょうしょうひきいられ[6]、スプルーアンス大将たいしょうじきりつ戦艦せんかん「ニュージャージー」および「アイオワ (USS Iowa, BB-61) 」、駆逐くちくかん4せきとともにトラック諸島しょとうそと一周いっしゅう午後ごごもだいぶったころ部隊ぶたい艦載かんさい空襲くうしゅうにより航行こうこう不能ふのうになっていたけい巡洋艦じゅんようかん香取かとり」と駆逐くちくかんまいふう」、および脱出だっしゅつはか駆逐くちくかん野分のわけ」を発見はっけん。スプルーアンスは戦艦せんかん目標もくひょうを「野分のわけ」に、ミネアポリスと「ニューオーリンズ」の目標もくひょう香取かとりにとった[6]。「野分のわけ」は脱出だっしゅつ成功せいこうしたが、「香取かとり」と「まいふう」は射撃しゃげきつづけながら沈没ちんぼつしていった。また、このたたかいの前後ぜんご特設とくせつ駆潜艇くせんていおよび駆潜艇くせんてい砲火ほうか撃沈げきちんした。

だい58任務にんむ部隊ぶたいはトラック攻撃こうげきのちマリアナ諸島しょとう攻撃こうげき休息きゅうそく整備せいびはさんで3がつから4がつにかけてカロリン諸島しょとうパラオ、トラックおよびサタワン環礁かんしょうポンペイとう攻撃こうげきした。これらの攻撃こうげきは、4がつホーランディアへの上陸じょうりく作戦さくせん援護えんごねたものだった。ミネアポリスは5月にマジュロに帰投きとうし、休養きゅうようマリアナ諸島しょとうへの攻撃こうげき参加さんか、6月14にちサイパンとうたいしてかんほう射撃しゃげきおこなった。日本にっぽん艦隊かんたい接近せっきんしつつあるというほうせっし、ミネアポリスはだい58任務にんむ部隊ぶたいさい合流ごうりゅう。6月19にちから20日はつかにかけてのマリアナおき海戦かいせんでは、ミネアポリスはだい7戦艦せんかん部隊ぶたいウィリス・A・リー中将ちゅうじょう)の指揮しきにあり、至近しきんだん投下とうかされたがたいした損傷そんしょうではなかった[7]海戦かいせんはアメリカがわだい勝利しょうりわった。7月8にちから8がつ9にちにかけては、ミネアポリスはグアムのたたか参加さんかし、昼夜ちゅうやかたぬかんほう射撃しゃげきによりだい3海兵かいへい師団しだんながから「上手うまおこなわれた任務にんむ」と賞賛しょうさんされた。9月6にちから10がつ14にちにパラオへの攻撃こうげき参加さんかしたのちいきつくひまなくレイテ島れいてとうかい、10月17にちレイテわんはいって事前じぜん砲撃ほうげきおこない、反撃はんげきしてきた5日本にっぽん撃墜げきついした。

スリガオ海峡かいきょう夜戦やせん

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日本にっぽん艦隊かんたいは、3方向ほうこうから艦隊かんたい進撃しんげきさせてレイテわん目指めざした。レイテおき海戦かいせんである。ミネアポリスはだい77部隊ぶたいジェシー・B・オルデンドルフ少将しょうしょう)のいちかんとして、南方なんぽうからのてき侵入しんにゅうふせぐため、スリガオ海峡かいきょう展開てんかいした。やがて、西村にしむら祥治しょうじ中将ちゅうじょう艦隊かんたい接近せっきん。10月25にち未明みめい魚雷ぎょらいていたい西村にしむら艦隊かんたい接触せっしょくいで駆逐くちくかんぐん突撃とつげきして戦艦せんかん扶桑ふそう」と駆逐くちくかんあさくも」「やまくも」「満潮まんちょう」を撃沈げきちんした[8]のこるは戦艦せんかん山城やましろ」、じゅう巡洋艦じゅんようかん最上さいじょう」、駆逐くちくかん時雨しぐれ」だけになっていた。この時点じてんでオルデンドルフは、だい77部隊ぶたい弾薬だんやく事情じじょう多少たしょう心細こころぼそいことをり、効果こうかてき弾薬だんやく使つかうため戦艦せんかん巡洋艦じゅんようかん部隊ぶたいさんふんした。ミネアポリスはオルデンドルフの旗艦きかんルイビル (USS Louisville, CA-28) 」らとともにだん配備はいびされた。背後はいごさんだんには真珠湾しんじゅわんからよみがえった戦艦せんかんぐんがおり、オルデンドルフ少将しょうしょう丁字ていじ戦法せんぽう採用さいようして一気いっき砲撃ほうげき決着けっちゃくをつけようとした[9]。「ルイビル」のレーダー探知たんちもと一斉いっせい砲撃ほうげきはじまった[10]西村にしむら艦隊かんたい残存ざんそんかん袋叩ふくろだたきにされ、「山城やましろ」は西村にしむらとともにうみえ、「最上さいじょう」は脱出だっしゅつ成功せいこうしたが最終さいしゅうてきには撃沈げきちんされた。「時雨しぐれ」のみ生還せいかんして西村にしむら艦隊かんたい全滅ぜんめつ戦艦せんかん同士どうし最後さいご砲戦ほうせん[10]はオルデンドルフの完勝かんしょうわった。スリガオの夜戦やせんのちのミネアポリスは、フィリピン水域すいいきだい38任務にんむ部隊ぶたい(ミッチャー中将ちゅうじょう)の護衛ごえいかんほう射撃しゃげき交互こうごった。

ミネアポリスは1945ねん1がつ4にちから18にちにかけておこなわれたルソン島るそんとうリンガエンわんへの上陸じょうりく支援しえん、2がつ13にちから18にちにかけておこなわれたバターンコレヒドールとう上陸じょうりくへの支援しえんおこない、3月は沖縄おきなわせん準備じゅんびおこなう。沖縄諸島おきなわしょとう海域かいいきには25にち到着とうちゃくし、かんほう射撃しゃげき開始かいしした。慶良間列島けらまれっとうへの砲撃ほうげきでミネアポリスは地上ちじょう部隊ぶたい支援しえんおこない、4がつ1にちはじまった侵攻しんこうでは沖縄おきなわ本島ほんとう那覇なは飛行場ひこうじょう砲撃ほうげきした。地上ちじょう部隊ぶたい無線むせん目標もくひょう位置いち正確せいかく報告ほうこくし、ミネアポリスはその情報じょうほうもと精密せいみつ射撃しゃげきおこなった。

数ヶ月すうかげつあいだにおよぶ支援しえん任務にんむのち、ミネアポリスの砲身ほうしん摩耗まもうすす交換こうかん必要ひつようとなった。4月12にち航海こうかい準備じゅんびおこなったが、出発しゅっぱつ沖縄おきなわせんにおける最大さいだい航空こうくう攻撃こうげき菊水きくすいごう作戦さくせんによりおくれた。戦闘せんとうでミネアポリスは4特攻とっこう撃墜げきついし、3うみ墜落ついらくするのを目撃もくげきした。夕方ゆうがたにミネアポリスは出航しゅっこうワシントンしゅうブレマートンかう。ブレマートンでは修理しゅうり砲身ほうしん交換こうかんおこない、作業さぎょう完了かんりょう戦場せんじょう復帰ふっきした。終戦しゅうせんミネアポリスはフィリピンのスービックわんにあった。

ミネアポリスはだい世界せかい大戦たいせん戦功せんこうで16従軍じゅうぐん星章せいしょう受章じゅしょうした。

ミネアポリスにはだい7艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんトーマス・C・キンケイド中将ちゅうじょう座乗ざじょうし、朝鮮半島ちょうせんはんとうで9がつ9にち日本にっぽんぐん降伏ごうぶく受諾じゅだくした。その黄海こうかい偵察ていさつ巡航じゅんこうおこない、海兵かいへいたい中国ちゅうごくだい沽砲だいおよび秦皇島しんのうとう上陸じょうりくするのを支援しえんした。西海岸にしかいがん帰還きかんへいはこんだのち、ミネアポリスは1946ねん1がつ14にちにパナマ運河うんがおよびフィラデルフィアへけて出航しゅっこうした。フィラデルフィアで5がつ21にち予備よびやくとなり、1947ねん2がつ10日とおか退役たいえきする。ミネアポリスは1959ねん8がつ14にちにユニオン・メタルズ・アンド・アロイズしゃにスクラップとして売却ばいきゃくされた。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 1942ねん改装かいそう撤去てっきょ
  2. ^ a b 1942ねん改装かいそう装備そうび[2]
  3. ^ 1942ねん改装かいそう撤去てっきょ[2]

出典しゅってん

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  1. ^ Ship Nicknames”. zuzuray.com. 5 October 2015閲覧えつらん
  2. ^ a b Rickard, J (19 December 2014). “USS Minneapolis (CA-36)”. Historyofwar.org. 8 October 2015閲覧えつらん
  3. ^ 戦史せんし叢書そうしょ38』pp.377, 414。石橋いしばし p.244。
  4. ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II--1942”. www.ibiblio.org. 2022ねん7がつ20日はつか閲覧えつらん
  5. ^ a b c ブュエル, 358ページ
  6. ^ a b ブュエル, 363ページ
  7. ^ 木俣きまた日本にっぽん空母くうぼ戦史せんし』627ページ
  8. ^ 木俣きまた日本にっぽん水雷すいらい戦史せんし』503、504ページ
  9. ^ 木俣きまた日本にっぽん戦艦せんかん戦史せんし』563、564ページ
  10. ^ a b 木俣きまた日本にっぽん戦艦せんかん戦史せんし』564ページ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ戦史せんししつへん戦史せんし叢書そうしょ38 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん(1)昭和しょうわじゅうななねんがつまであさくも新聞しんぶんしゃ、1970ねん
  • 防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ戦史せんししつへん戦史せんし叢書そうしょ62 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん(2)昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこうちょうくも新聞しんぶんしゃ、1970ねん
  • 木俣きまたしげるろう日本にっぽん空母くうぼ戦史せんし図書としょ出版しゅっぱんしゃ、1977ねん
  • 木俣きまたしげるろう日本にっぽん戦艦せんかん戦史せんし図書としょ出版しゅっぱんしゃ、1983ねん
  • 木俣きまたしげるろう日本にっぽん水雷すいらい戦史せんし図書としょ出版しゅっぱんしゃ、1986ねん
  • 石橋いしばし孝夫たかおべい空母くうぼ機動きどう部隊ぶたい反撃はんげき」『写真しゃしん太平洋戦争たいへいようせんそう(1)』光人みつひとしゃ、1988ねんISBN 4-7698-0413-X
  • E・B・ポッター/秋山あきやま信雄のぶおわけ)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督ていとく太平洋たいへいよう海戦かいせん光人みつひとしゃ、1991ねんISBN 4-7698-0576-4
  • 世界せかい艦船かんせん増刊ぞうかんだい36しゅう アメリカ巡洋艦じゅんようかん海人あましゃ、1993ねん
  • トーマス・B・ブュエル/小城おぎただしやく提督ていとくスプルーアンス』学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、2000ねんISBN 4-05-401144-6
  • 世界せかい艦船かんせん増刊ぞうかんだい57しゅう だい2大戦たいせんのアメリカ巡洋艦じゅんようかん海人あましゃ、2001ねん

外部がいぶリンク

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