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人文主義者 - Wikipedia

人文じんぶん主義しゅぎしゃ

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人文じんぶん主義しゅぎしゃ(じんぶんしゅぎしゃ、えい:Renaissance humanists、なか:文藝ぶんげい復興ふっこう人文じんぶん主義しゅぎしゃ)とは、ギリシアローマ古典こてん文芸ぶんげい聖書せいしょ原典げんてん研究けんきゅうもとに、かみ人間にんげん本質ほんしつ考察こうさつした、ルネサンス(14世紀せいき - 16世紀せいき)の知識ちしきじんのこと。とくに、15世紀せいき - 16世紀せいき活動かつどうしたフランスじん影響えいきょうおおきいため、日本にっぽんではフランス語ふらんすごのまま「ユマニスト」(ふつ: humaniste)と表現ひょうげんされたりもする[1]

英語えいごでは「ヒューマニスト」(えい: humanist)、イタリアで「ウマニスタ」(: Umanista)など、かく言語げんごでもルネサンス無関係むかんけい意味いみもちいるさいにと区別くべつするために、「ルネサンス・ヒューマニスト」(Renaissance humanist)などと表記ひょうきされたりもする[2]日本語にほんごではhumanismを「人道じんどう主義しゅぎ」「博愛はくあい主義しゅぎ」の意味いみ誤訳ごやくしがちだが、この意味いみでの実際じっさい該当がいとう英語えいごhumanitarianismである[3]。「ヒューマニスト」(えい: humanist)とは、「人間にんげん精神せいしんてき感情かんじょうてきなニーズをたすことにかみ宗教しゅうきょう必要ひつようとしない、というかんがえをひと」を意味いみする[4]


概要がいよう 編集へんしゅう

人文じんぶん主義しゅぎしゃ古代こだいギリシア・ローマの古典こてんまなぶことによって人格じんかく形成けいせい目指めざした。古典こてん人文じんぶんがく研究けんきゅう(Studia humanitatis)は人文じんぶん主義しゅぎしゃちちばれるペトラルカはじまる。ペトラルカは、古代こだい文献ぶんけん写本しゃほん収集しゅうしゅうし、ラテン語らてんご文法ぶんぽう整備せいびおこなった。人間にんげん学問がくもん中心ちゅうしんにすえ、人間にんげんきるみち探求たんきゅうするため、本来ほんらい相容あいいれない古典こてん文化ぶんかキリスト教きりすときょう折衷せっちゅう融合ゆうごうさせようとした[5]

中世ちゅうせいスコラがく神学しんがくてき概念がいねん中心ちゅうしん学問がくもんであり、神学しんがく法学ほうがくひとししょ学問がくもんにおける研究けんきゅう議論ぎろん枝葉えだは末節まっせつおちいり、その本質ほんしつから逸脱いつだつすることがられたのにたいし、人文じんぶん主義しゅぎしゃ古典こてん研究けんきゅうとおして、かみ人間にんげん本質ほんしつ本道ほんどう理解りかい実践じっせんかえることをもとめ、より自由じゆう思考しこうができたてん特色とくしょくがある。

澤井さわい繁男しげおはペトラルカ以後いご人文じんぶん主義しゅぎながれを(1)市民しみんてき人文じんぶん主義しゅぎ(1378ねん教会きょうかい大分おおいたきれ - 1453ねんコンスタンティノープルの陥落かんらく)、(2)文人ぶんじんてき人文じんぶん主義しゅぎ(1454 - 1494ねんイタリア戦争せんそう)、(3)宮廷きゅうていふう人文じんぶん主義しゅぎ(1494 - 1544ねん)と整理せいりしている。[6]

  • 初期しょきにはラテン語らてんご文献ぶんけんさい発見はっけんおもであった。修道院しゅうどういん写本しゃほんからキケロの書簡しょかんしゅうなどがつかり、ペトラルカを感激かんげきさせた。なお、ペトラルカはホメロスのギリシア写本しゃほんれたが、めなかった。
  • ひがしマ帝国まていこく知識ちしきじんらをかいしてプラトン文献ぶんけんいくつかられていたが、メディチ支援しえんけたフィチーノがプラトン全集ぜんしゅうラテン語らてんご翻訳ほんやくし、プラトン・アカデミー形成けいせいされた。ネオプラトニズムはルネサンスいろど重要じゅうよう思想しそうになった。
  • 16世紀せいきはじめにはイタリア・ルネサンスを代表だいひょうする著作ちょさく君主くんしゅろん』(マキアベリ)、『宮廷きゅうていじん』(カスティリオーネ)などが執筆しっぴつされた。

源泉げんせんへ」という人文じんぶん主義しゅぎ原則げんそく[7]したがって 旧約きゅうやく新約しんやく聖書せいしょ本文ほんぶんについて、ヘブライおよびギリシア原文げんぶんさかのぼっての研究けんきゅうすすめられ、カトリック教会きょうかい公式こうしきラテン語らてんごやく聖書せいしょとされていたヴルガータ聖書せいしょ訳文やくぶん問題もんだいがあることもられるようになった。ギリシア原文げんぶんむことは聖書せいしょ解釈かいしゃくさい検討けんとう、ひいてはカトリック批判ひはんにつながるとして、問題もんだいされる場合ばあいもあった。 また、旧約きゅうやく聖書せいしょめることでかみてき啓示けいじろうと、ユダヤきょう書物しょもつカバラタルムード研究けんきゅうおこなわれた[7]。1510年代ねんだい改宗かいしゅうユダヤじんのプフェファールコンおよドミニコかいとドイツの人文じんぶん主義しゅぎしゃヨハネス・ロイヒリンのあいだでユダヤ教書きょうしょぶつ没収ぼっしゅうめぐ論争ろんそうこり、おおくの人文じんぶん主義しゅぎ知識ちしきじんがロイヒリンのがわってたたかった[7]

人文じんぶん主義しゅぎしゃ思想しそうには、宗教しゅうきょう改革かいかくむすびつく要素ようそがあり、既成きせい権威けんい反抗はんこうして弾圧だんあつけた人物じんぶつられる。ただし人文じんぶん主義しゅぎしゃおおくは穏健おんけん思想しそうち、ほとんどの場合ばあいカトリックの信仰しんこうたもっていた。学識がくしきによって宮廷きゅうていつかえ、権力けんりょくしゃのブレーンとして活動かつどうした人物じんぶつおおかった。したがって、カトリックがわ宗教しゅうきょう改革かいかく運動うんどうがわ対立たいりつはげしくなると、人文じんぶん主義しゅぎしゃ渦中かちゅうから場合ばあいおおかった。「エラスムスがんだたまごをルターがかえした」とわれるように、宗教しゅうきょう改革かいかく初期しょき、エラスムスはルターを支持しじしていたが、まもなく両者りょうしゃ決別けつべつした。こうしたてん人文じんぶん主義しゅぎしゃ限界げんかい指摘してきされることもある。しかし、かみ人間にんげん本質ほんしつ本道ほんどうへの理解りかい実践じっせんかえることをもとめた人文じんぶん主義しゅぎしゃが、ユグノー戦争せんそうれいるような、かみ本質ほんしつ理解りかい相容あいいれがたい狂信きょうしんてき宗教しゅうきょう対立たいりつむことは当然とうぜん帰着きちゃくであり、むしろ人文じんぶん主義しゅぎしゃのそうしたこえ宗教しゅうきょう改革かいかくにおいて無視むしされたともいえる。

そうしたなかかれたモンテーニュの『エセー』は、宗教しゅうきょう改革かいかく人文じんぶん主義しゅぎしゃが「本道ほんどう」をいた作品さくひんといえる。ユグノー戦争せんそう最中さいちゅう、モンテーニュは「寛容かんよう」をき、ヨーロッパじん人食ひとく人種じんしゅのどちらが野蛮やばんかをうた。その思想しそう今日きょうでも有効ゆうこうせいうしなっておらず、人文じんぶん主義しゅぎしゃひとつの達成たっせいといえる。

人文じんぶん主義しゅぎしゃれい 編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく 編集へんしゅう

  1. ^ ユマニストとは - ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん/世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん/コトバンク
  2. ^ ユマニストとは - 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょニッポニカ)/コトバンク
  3. ^ 「ユマニスム」について(ほうえん196ごう) | 記事きじ”. しん日本にっぽん法規ほうきWEBサイト. 2024ねん4がつ18にち閲覧えつらん
  4. ^ https://dictionary.cambridge.org/ja/dictionary/english/humanist
  5. ^ 澤井さわい繁男しげお『イタリア・ルネサンス』講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょP84。
  6. ^ 澤井さわい繁男しげお『イタリア・ルネサンス』講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょP86-87。
  7. ^ a b c ベルント・レック『歴史れきしのアウトサイダー』中谷なかたに博幸ひろゆき山中さんちゅう叔江やく 昭和堂しょうわどう 2001ねんISBN 4812200210 pp.27-28.

関連かんれん項目こうもく 編集へんしゅう