企救半島(きくはんとう)は北九州市北東部、関門海峡に突き出た半島。半島東部は周防灘に面する。海峡を挟んで本州に接するため一見半島だと分かりにくいが、九州を一つの島として見た場合、半島のように突出していることが分かる。行政上では半島の殆どが北九州市門司区に属する。
下の九州から突き出たのが企救半島
企救半島の歴史は門司の歴史でもある。門司は古くから九州と本州を結ぶ交通の要衝として栄え、門司の関が置かれていた。しかし、海峡対岸の下関側に置かれた赤間関によって客を奪われたため、半漁半宿の寒村に過ぎなかった。
門司発展の契機となったのは近代からで、1889年に石炭などの特別輸出港として指定、第二次世界大戦前までは神戸や横浜に次ぐ日本国内No.4の貿易港であった。また、1891年には九州鉄道(現JR鹿児島本線)が開通し、その基点となったため、海陸の玄関口として地位を高め、金融業や商社が立ち並び、同市(当時は門司市)の経済を牽引した。
しかし、門司は空襲の被害に遭い、それに加え、戦時中の1942年に関門トンネルが開通したことにより、交通の拠点を奪われ、門司市街は大きく衰退する。1973年には関門橋が開通し、陸の孤島となっていた状態は解消されるが、老朽化が進んだ市街からは却って人口流出を助長させただけであった。更に山陽新幹線の開通により、交通拠点が小倉駅周辺へとシフトしたことが追い打ちをかけた。一方、それまで田舎に過ぎなかった半島東部(新門司)には新門司港が整備され、巨大なコンテナターミナルや工業地に転換、フェリーの発着なども行われるようになった。
今日、門司は門司港レトロ事業の整備により、観光地として人気がある。契機は1988年、JR門司港駅が駅舎建築として、日本国内で初めて重要文化財に指定されたことである。それに伴い、駅周辺にある歴史的建造物に着目、函館や神戸のようなレトロ地区を作るという計画は平成になってから始められ、北九州市旧門司三井倶楽部(同じく重要文化財)の移築などを経て、1995年に完成した。レトロ地区誕生後は年間200万人以上が訪れ、夜間はイルミネーションがライトアップされたり、数多くのイベントが開催されたりするなど、県下有数の観光スポットに成長している。