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伊藤整一 - Wikipedia

伊藤いとう 整一せいいち(いとう せいいち、1890ねん明治めいじ23ねん7がつ26にち - 1945ねん昭和しょうわ20ねん4がつ7にち)は、日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじん海軍兵学校かいぐんへいがっこう39最終さいしゅう階級かいきゅう海軍かいぐん大将たいしょう

伊藤いとう 整一せいいち
いとう せいいち
軍令ぐんれい次長じちょう時代じだい伊藤いとう中将ちゅうじょう
生誕せいたん 1890ねん7がつ26にち
日本の旗 日本にっぽん 福岡ふくおかけん三池みいけぐん高田たかだまち
現在げんざい福岡ふくおかけんみやま
死没しぼつ 1945ねん4がつ7にちまん54さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん 鹿児島かごしまけん坊ノ岬ぼうのみさきおき
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
ぐんれき 1911ねん - 1945ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 海軍かいぐん大将たいしょう
墓所はかしょ 大牟田おおむた金助きんすけざか墓地ぼち
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生涯しょうがい

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永野ながの修身しゅうしんれつ元帥げんすい祝賀しゅくがかい記念きねん写真しゃしん前列ぜんれつひだりから4にん伊藤いとう整一せいいち

1890ねん明治めいじ23ねん)7がつ26にち福岡ふくおかけん三池みいけぐん高田たかだまちげんみやま)にちちうめ太郎たろう長男ちょうなんとしてまれる。1911ねん明治めいじ44ねん)7がつ海軍兵学校かいぐんへいがっこう39を15ばん卒業そつぎょう海軍兵学校かいぐんへいがっこう同期どうき遠藤えんどう喜一きいち高木たかぎ武雄たけお山県やまがたただしきょうおか敬純たかずみ角田つのださとしはら忠一ただかずなどがいる。

1927ねん昭和しょうわ2ねん)5がつ少佐しょうさアメリカ派遣はけん。アメリカに滞在たいざいしていたときレイモンド・スプルーアンスふか親交しんこうむすんだ。伊藤いとう戦死せんしした坊ノ岬ぼうのみさきおき海戦かいせんさいべい指揮しきかんとして攻撃こうげき命令めいれいくだしたのはスプルーアンスであった。

太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせん直前ちょくぜん1941ねん昭和しょうわ16ねん)8がつ11にち軍令ぐんれい次長じちょう就任しゅうにんし、開戦かいせんまえ国策こくさく会議かいぎ参画さんかく開戦かいせん日米にちべい交換こうかんせん帰国きこくした海軍かいぐん駐米ちゅうべい大使館たいしかん武官ぶかん横山よこやま一郎いちろうたいしてアメリカの最新さいしん動向どうこうかんする質問しつもん伊藤いとう自身じしんおこなったというエピソードがのこる。最初さいしょ、アメリカの太平洋たいへいよう方面ほうめん日本にっぽんへの反攻はんこう経路けいろ横山よこやま質問しつもんし、横山よこやまはサイパン・硫黄いおうとうとう回答かいとうした。そして、伊藤いとうは、この戦争せんそうがどのように終結しゅうけつするかを検討けんとうするように、横山よこやま依頼いらいした。横山よこやまは、じっくり検討けんとうしたすえ、どのようにしても日本にっぽん敗戦はいせんけられず、うまくいってもにちしん戦争せんそう以前いぜん日本にっぽん状況じょうきょうもどると、伊藤いとう報告ほうこくした。その報告ほうこく結果けっかいても伊藤いとうおこることはなかったので、横山よこやま伊藤いとう人格じんかく感心かんしんした[1]

1944ねん昭和しょうわ19ねん)6がつマリアナおき海戦かいせん敗北はいぼくだいさんよんいち海軍かいぐん航空こうくうたい岡村おかむらはじめはる大佐たいさから航空こうくう特攻とっこう決行けっこう意見いけん具申ぐしんけただい航空こうくう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん福留ふくとめしげる中将ちゅうじょう上京じょうきょうして、岡村おかむら上申じょうしん伊藤いとうつたえるとともに中央ちゅうおうにおける研究けんきゅう進言しんげんした。伊藤いとう総長そうちょうへの本件ほんけん報告ほうこく中央ちゅうおうにおける研究けんきゅう約束やくそくしたが、まだ体当たいあたり攻撃こうげきめいずる時期じきではないというかんがえをべた[2]

12月23にちだい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんされる。1945ねん昭和しょうわ20ねん)4がつ5にち伊藤いとう戦艦せんかん大和やまと」による海上かいじょう特攻とっこうであるてんいちごう作戦さくせん参加さんか命令めいれいされる。伊藤いとう無謀むぼう作戦さくせんになかなか納得なっとくしなかったが、伊藤いとう海軍兵学校かいぐんへいがっこう時代じだい後輩こうはいである連合れんごう艦隊かんたい参謀さんぼうちょうくさ鹿しか龍之介りゅうのすけ中将ちゅうじょうから「いちおくそう特攻とっこうさきがけとなっていただきたい」とわれると「そうか、それならわかった」と即座そくざ納得なっとくした[3]くさ鹿しか元々もともと大和やまと海上かいじょう特攻とっこう反対はんたいしていたが、首席しゅせき参謀さんぼうかみ重徳しげのり大佐たいさ連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん豊田とよだふく勝手かって決裁けっさいをとったために、くさ鹿しか伊藤いとう説得せっとくをしなければならない状態じょうたいだったのである。この作戦さくせん実行じっこうするにあたり、伊藤いとうくさ鹿しかたいし『作戦さくせん行動こうどう不可ふか判断はんだんした場合ばあい現場げんば司令しれいかん判断はんだん作戦さくせん中止ちゅうしする』という確約かくやくり、くさ鹿しかもそれを了承りょうしょうしている[4]伊藤いとう連合れんごう艦隊かんたいおよ軍令ぐんれい指示しじけずに、現場げんば司令しれい長官ちょうかん判断はんだん作戦さくせん中止ちゅうししたほぼ唯一ゆいいつ司令しれい長官ちょうかんである。

作戦さくせんさいだい航空こうくう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんであった宇垣うがきまとい中将ちゅうじょうは、出撃しゅつげきちゅうだい艦隊かんたいたいして途中とちゅうまで護衛ごえい戦闘せんとうたい出撃しゅつげきさせたが、その護衛ごえい戦闘せんとうたいなか伊藤いとう長男ちょうなんである伊藤いとうあきら(あきら)中尉ちゅういへい72[5]搭乗とうじょうれいしき艦上かんじょう戦闘せんとうふくまれており、父親ちちおや最期さいごそらから見送みおくった[ちゅう 1][6]伊藤いとう愛妻あいさいであり、のこされるつま子供こどもに「親愛しんあいなるおまえさま後事こうじたくして何事なにごとうれいなきは此のうえもなき仕合しあわせと衷心ちゅうしんより感謝かんしゃ致候 いとしき最愛さいあいのちとせ殿どの」という遺書いしょのこしていた。

栄典えいてん

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えんじた人物じんぶつ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 伊藤いとうあきら中尉ちゅういは4がつ28にち沖縄おきなわ海域かいいきにおける特攻とっこう戦死せんし

出典しゅってん

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  1. ^ 提督ていとく 伊藤いとう整一せいいち生涯しょうがい吉田よしだみつる 文芸春秋ぶんげいしゅんじゅうしゃ(1977ねん
  2. ^ 戦史せんし叢書そうしょ45大本営だいほんえい海軍かいぐん聯合れんごう艦隊かんたい(6)だいさんだん作戦さくせん後期こうき p333
  3. ^ 戦史せんし叢書そうしょ93大本営だいほんえい海軍かいぐん聯合れんごう艦隊かんたい(7)戦争せんそう最終さいしゅうp274-275
  4. ^ 2001ねん双葉社ふたばしゃかんちょう精密せいみつ連合れんごう艦隊かんたい沖縄おきなわ特攻とっこう記述きじゅつより
  5. ^ はた 2005, pp. 182–183, だい1 主要しゅよう陸海りくかい軍人ぐんじん履歴りれき海軍かいぐん伊藤いとう整一せいいち
  6. ^ 宝島社たからじましゃかんぼくたちのきな戦艦せんかん大和やまと』2006ねんより
  7. ^ 中野なかの文庫ぶんこ - きゅう金鵄勲章きんしくんしょう受章じゅしょうしゃ一覧いちらん

関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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先代せんだい
栗田くりた健男たけお
だい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん
だい34だい:1944(昭和しょうわ19)ねん12月13にち - 1945(昭和しょうわ20)ねん4がつ7にち
次代じだい
かいたい