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南京 (戦線後方記録映画) - Wikipedia

南京なんきん (戦線せんせん後方こうほう記録きろく映画えいが)

戦線せんせん後方こうほう記録きろく映画えいが

南京なんきん』(なんきん)は、1938ねん2がつ20日はつか東宝とうほう映画えいがにより公開こうかいされた映画えいがである。制作せいさくちゅう陸軍りくぐんしょう海軍かいぐんしょう後援こうえんたものであり、企画きかく意図いとからして,かならずしも自覚じかくてき国家こっか宣伝せんでん=プロパガンダがざされていたわけではなかったが、実際じっさいには戦争せんそう苛酷かこく現実げんじつ国家こっか宣伝せんでん=プロパガンダへのみちひらいていったというせつがある[1]にちちゅう戦争せんそうにおける南京なんきんせん終了しゅうりょう直後ちょくご南京なんきん城内きうちがい様子ようす撮影さつえいしている。

戦線せんせん後方こうほう記録きろく映画えいが 南京なんきん
負傷ふしょうへいなぐさめる看護かんご
製作せいさく 松崎まつざきあきら
音楽おんがく こう文也ふみや
撮影さつえい 白井しらいしげる
編集へんしゅう 秋元あきもとけん
公開こうかい 日本の旗 1938ねん2がつ20日はつか
上映じょうえい時間じかん やく71ふん ※1995ねんに8かんちゅう7かん発見はっけんされ59分間ふんかん映像えいぞう発見はっけんされ復刻ふっこくばんとして販売はんばいされたが現在げんざい絶版ぜっぱん。2014ねん松尾まつお一郎いちろうによってのこり10ふん発見はっけんされた。
製作せいさくこく 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
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映画えいが来歴らいれき

編集へんしゅう

この映画えいがにちちゅう戦争せんそうさんさくの1つとして製作せいさくされ、1937ねん昭和しょうわ12ねん)8がつ13にちだい上海しゃんはい事変じへん勃発ぼっぱつ同時どうじに、『上海しゃんはい』『南京なんきん』『北京ぺきん』と撮影さつえいされ、制作せいさくちゅう陸軍りくぐんしょう海軍かいぐんしょう後援こうえん[1]1938ねん昭和しょうわ13ねん)に劇場げきじょう公開こうかいされた。

  • 上海しゃんはい』 - 2がつ1にち公開こうかい
  • 南京なんきん』 - 2がつ20日はつか公開こうかい
  • 北京ぺきん』 - 8がつ23にち公開こうかい

撮影さつえいおこなった東宝とうほう映画えいが文化ぶんかは、1937ねん昭和しょうわ12ねん)9がつにPCL、写真しゃしん科学かがく研究所けんきゅうじょ東宝とうほう配給はいきゅう、J・Oの4しゃ合併がっぺいして東宝とうほう映画えいが株式会社かぶしきがいしゃない出来できだい制作せいさくである。

この映画えいがは、とおざからずおこなわれると予測よそくされた南京なんきん攻略こうりゃくせんそなえ、『上海しゃんはい』と同時どうじ準備じゅんびすすめられた企画きかくである。撮影さつえいはんいちぎょうは、『上海しゃんはい』の撮影さつえいわるのをってその機材きざいぎ、1937ねん昭和しょうわ12ねん)12月12にち未明みめい南京なんきんけて出立しゅったつ南京なんきん陥落かんらく翌日よくじつ14にち南京なんきん到着とうちゃくし、そのままとしえて1がつ4にちまで撮影さつえいつづけた[2][3]

日本にっぽん保存ほぞんしてあったフィルムは1945ねん昭和しょうわ20ねん)3がつ10日とおか東京とうきょうだい空襲くうしゅうとき消失しょうしつ1995ねん平成へいせい7ねん)、北京ぺきんに8かんのフィルムのうち7かん存在そんざいすることがわかり、仲介ちゅうかい業者ぎょうしゃつう中国ちゅうごくぐん関係かんけいしゃから日本にっぽん映画えいがしんしゃった。その時点じてんで10ふん前後ぜんこう欠落けつらく確認かくにんされている。1995ねん日本にっぽん映画えいがしんしゃからVHSが販売はんばいされ、2003ねん平成へいせい15ねん)にDVDが発売はつばいされたが、のち日本にっぽん映画えいがしんしゃ東宝とうほうステラに合併がっぺいされたため絶版ぜっぱんとなった。

2014ねん平成へいせい26ねん)、にちちゅう問題もんだい研究けんきゅう松尾まつお一郎いちろうのこりのやく10分間ふんかん映像えいぞう発見はっけんした[4]現在げんざい松尾まつお完全かんぜんばん作成さくせいしYouTubeにて公開こうかいおこなっている[5]

映画えいがのスタッフ

編集へんしゅう
  • 製作せいさく松崎まつざきあきら
  • 指導しどうぐん特務とくむ
  • 撮影さつえい白井しらいしげる
  • 現地げんち録音ろくおん藤井ふじい愼一しんいち
  • 製作せいさく事務じむ米沢よねざわ秋吉あきよし

映画えいが内容ないよう

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  • 南京なんきん攻略こうりゃくせんにおけるかく戦闘せんとう箇所かしょごとの解説かいせつ
  • 中国ちゅうごくへい捕虜ほりょにタバコをわた日本にっぽんへい
  • 1937ねん12月17にちちゅうささえ方面ほうめんぐん幕僚ばくりょうおよ陸海りくかいぐん将兵しょうへいよる南京なんきん入城にゅうじょうしき[6]
  • 1938ねん12月18にちにちちゅう戦没せんぼつしゃ合同ごうどう慰霊いれいさい[よう出典しゅってん]
  • 陥落かんらく直後ちょくご南京なんきんじょうがい様子ようすあきらこうりょうおと楽堂がくどう中国ちゅうごく戦死せんししゃ墓地ぼち運動うんどうじょうとう[よう出典しゅってん]
  • 南京なんきんにいた外国がいこくじんにより組織そしきされた国際こくさい委員いいんかい設定せっていした中立ちゅうりつ地帯ちたい南京なんきん難民なんみんという避難ひなん区域くいき[よう出典しゅってん]
  • 日本にっぽんぐん南京なんきん市民しみんによる南京なんきんせん復興ふっこう様子ようす[よう出典しゅってん]
  • 避難ひなんしていた南京なんきん市民しみん南京なんきんもどはじめた様子ようす
  • 赤十字せきじゅうじ看護かんご活動かつどう[注釈ちゅうしゃく 1]
  • 安居あんきょしょう[8]という中国人ちゅうごくじんのための通行つうこうしょう南京なんきん住民じゅうみんである身分みぶん証明しょうめいする交付こうふおこな日本にっぽんぐん様子ようす[6]
  • 日本にっぽんぐんによる正月しょうがつ準備じゅんびから新年しんねんまでの様子ようす[6]
  • 正月しょうがつばくちくあそ南京なんきん子供こどもたち[6]
  • 南京なんきん自治じち委員いいんかい発会はっかいしき
  • 戦死せんしした日本にっぽんへい戦友せんゆう火葬かそうにされる場面ばめんでは、火葬かそうにされる生々なまなましいおと同時どうじ録音ろくおんとらえられたが、1995ねん発見はっけんされたプリントではその部分ぶぶん欠落けつらくしている[9]かれらのりし姿すがたしのぶとしょうして戦闘せんとうさい現場げんばめん挿入そうにゅうされており[9]城壁じょうへきをよじのぼ日章旗にっしょうきてるシーンを再現さいげんして撮影さつえいされた[10]
  • とう映画えいが公開こうかいされたときの評論ひょうろんには、「映画えいが最期さいごに(りゃく)わが軍医ぐんい手厚てあつ治療ちりょうけるささえ負傷ふしょうへいうめごえ」とある[11]

映画えいが字幕じまく

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映画えいが字幕じまくには、つぎ言葉ことばのこされていた。

我々われわれ同胞どうほうひとつになって

 たたかった数々かずかず光輝こうきある
 歴史れきしなかでも南京なんきん入城にゅうじょう
 燦然さんぜんたるいちぺーじとして
 世界せかい歴史れきしのこるだろう
 その記憶きおくとして
 この映画えいが我々われわれ子孫しそん
 おく

 本編ほんぺん
 陸軍りくぐんしょう
 海軍かいぐんしょう
 ならびに
 現地げんち将士しょうしたち
 指導しどう援助えんじょのもとに

 完成かんせいされた

映画えいが撮影さつえい様子ようす

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この映画えいが撮影さつえい様子ようすについては、製作せいさく事務じむ米沢よねざわ秋吉あきよししるした撮影さつえい日誌にっしと、撮影さつえいした白井しらいしげる回顧かいころくべられている。

米沢よねざわ秋吉あきよし撮影さつえい日誌にっし

編集へんしゅう

南京なんきん陥落かんらくの1937ねん12月13にち以降いこう日誌にっしには、映画えいが撮影さつえいはんつぎ内容ないようしるされている。このうち、12月17にち撮影さつえいされた入城にゅうじょうしき場面ばめんは、はじめから天覧てんらんきょうすることがまっていた[12]

  • 1937ねん12月13にち - 南京なんきんはい前日ぜんじつ敗残はいざんへい便衣べんいへい参照さんしょう)の暴行ぼうこうはなしき、器材きざい掠奪りゃくだつされることをおそれていた[13]
  • 12月14にち - 南京なんきんはいる。南京なんきんは、南京なんきんじょう北部ほくぶ掃蕩そうとうちゅうであり、撮影さつえいはん掃蕩そうとうおぼしきはげしい銃声じゅうせいいた[注釈ちゅうしゃく 2]
  • 12月15にち - 城内きうち撮影さつえい開始かいしおとずれた挹江もん(ゆうこうもん)の附近ふきんではまだ掃蕩そうとうおこなわれていた[注釈ちゅうしゃく 3]
  • 12月16にち - むらさき金山かなやまふもと郊外こうがいゆう園地えんちであるちゅう山陵さんりょう附近ふきん音楽おんがくどう撮影さつえい。そのさいにはいぬ悠々ゆうゆうあるいていた[16]
  • 12月17にち - 日本にっぽんぐんによる南京なんきん入城にゅうじょうしき撮影さつえいされた。天覧てんらんきょうするため、そのフィルムはただちに空輸くうゆされている[注釈ちゅうしゃく 4]
  • 12月24にち - 30まんにん南京なんきん避難ひなんみん撮影さつえいした。非常ひじょうあわれであった。どもをさがしてキャラメルをあたえている日本にっぽんへい風景ふうけいた。うつくしい風景ふうけいであった[注釈ちゅうしゃく 5]
  • 12月31にち - 水道すいどう設備せつび建設けんせつ風景ふうけい撮影さつえいした[注釈ちゅうしゃく 6]
  • 1938ねん1がつ2にち - 中国人ちゅうごくじん捕虜ほりょたいする施療せりょう風景ふうけい撮影さつえいした[注釈ちゅうしゃく 7]

当時とうじ南京なんきんには日本にっぽん新聞しんぶん記者きしゃやカメラマンがやく120にん占領せんりょう同時どうじ入城にゅうじょうして取材しゅざいにあたっていた。そのなかでこの映画えいが撮影さつえいはんぐん特務とくむ撮影さつえいはんであったため、新聞しんぶんしゃニュースはんれないところでも自由じゆう撮影さつえいゆるされる、ということもしるされている[注釈ちゅうしゃく 8]

白井しらいしげる回顧かいころく

編集へんしゅう

撮影さつえい白井しらいしげる回顧かいころくで、たもの全部ぜんぶったわけではなく、ったなかにもられたものがあるとべている[20]

南京なんきん到着とうちゃくした12月14にちから銃殺じゅうさつのため処刑しょけい揚子江ようすこう河畔かはん連行れんこうされる長蛇ちょうだれつ目撃もくげきしたがカメラはまわせず、その目撃もくげき憔悴しょうすいいくばん悪夢あくむにうなされたとべている[21][22]

また、日本にっぽんぐん入城にゅうじょうしきでも住民じゅうみんが「しょうがない」と歓迎かんげい手旗てばたをふったことがあったとも証言しょうげんしている[23]

映画えいがめぐ評論ひょうろん

編集へんしゅう

この映画えいがは、映画えいが作品さくひんとしてさまざまな評論ひょうろんがされている。また、南京なんきん事件じけん実態じったいをあらわす史料しりょうとして、南京なんきん事件じけん論争ろんそうにおける南京なんきん虐殺ぎゃくさつ否定ひてい南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ肯定こうてい双方そうほう立場たちばからろんじられている。キネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃデータベースでは「はん世紀せいき以上いじょうとき数々かずかず歴史れきしてき映像えいぞう収録しゅうろくし、戦前せんぜん戦中せんちゅう記録きろくつたえるドキュメンタリーシリーズだい4だん昭和しょうわ12ねん12月の南京なんきん入城にゅうじょう日本にっぽんぐん荒廃こうはいした市内しないのリアルな映像えいぞう収録しゅうろくいまなおその存在そんざい有無うむあらそわれている“南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ”をめぐ話題わだいさく。」と紹介しょうかいしている[24]

映画えいが作品さくひんとしての評論ひょうろん

編集へんしゅう

ドキュメンタリー映画えいが監督かんとく野田のだ真吉しんきちは、南京なんきん陥落かんらく直後ちょくご南京なんきん状況じょうきょうはさまざまに撮影さつえいされていたが、南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつかんする撮影さつえいはすべて禁止きんしされていたので、この映画えいがはよくかけた戦勝せんしょうニュースのいきなかったと批評ひひょうしている。へい姿すがたもいつものにこやかな後方こうほう陣地じんち風景ふうけいで、沈黙ちんもくいられている中国ちゅうごく民衆みんしゅう不気味ぶきみさもかんじられない、南京なんきんふゆだまり報告ほうこくというかんじだったとべている[25]

ドキュメンタリー映画えいが監督かんとく土本どもと典昭のりあきは、白井しらいしげる回顧かいころく引用いんようしたうえで、現場げんば撮影さつえい演出えんしゅつねた白井しらいにとってほんさく戦争せんそう過酷かこくさに圧倒あっとうされあしない現場げんばだったようだが、撮影さつえい禁止きんしにされたにせよだい虐殺ぎゃくさつ目撃もくげき体験たいけんから、以後いご南京なんきん描写びょうしゃにカメラによる悲劇ひげき発見はっけんがよみがえるべきだったとしている。さらに、野田のだ真吉しんきち批評ひひょう引用いんようしつつ、だがこれは白井しらい一人ひとり責任せきにんではなく当時とうじ東宝とうほう文化ぶんか映画えいがのとった構成こうせい編集へんしゅう分業ぶんぎょうというシステムの結果けっかでもあり、当時とうじ慣例かんれいどお現地げんちにはおもむかなかった構成こうせい編集へんしゅうしゃ秋元あきもとけんはこの体験たいけんから演出えんしゅつ現場げんば主義しゅぎかんがかたをよりつよめたと指摘してきしている[26]

ドキュメンタリー映画えいが監督かんとく佐藤さとうしんは、前記ぜんき白井しらい記述きじゅつ野田のだ批評ひひょう引用いんようしつつ、南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ事実じじつ目撃もくげきしながらカメラをまわせなかった白井しらい苦闘くとうが、編集へんしゅう構成こうせいをするさい苦闘くとうにまったくつながらなかったことでほんさく凡百ぼんぴゃく国策こくさく映画えいが一本いっぽんとなった。編集へんしゅう構成こうせい秋元あきもとを『上海しゃんはい』の亀井かめい文夫ふみお比較ひかくするのはこくかもしれないとする一方いっぽうで、白井しらいほんさく失敗しっぱいしんきずとしてむねにしまっておいたきらいがあり、亀井かめい監督かんとく小林こばやし一茶いっさ』でその本領ほんりょうをいかんなく発揮はっきしたとしている[27]

映画えいが学者がくしゃ藤井ふじい仁子さとこは、この映画えいが最大さいだい特色とくしょく様式ようしきてき混乱こんらんともうつ矛盾むじゅんちた均質きんしつせいにこそあると指摘してきしている。いくらこの映画えいがつづけても都市としとしての南京なんきん映像えいぞう明瞭めいりょうさをいており、都市とし日常にちじょう徹底的てっていてきけている。日本にっぽんへいはただからつぎへと式典しきてんおこない、中国人ちゅうごくじんは「安居あんきょあかし」をもとめてあつまる場面ばめんのぞいてその姿すがた極端きょくたんすくなく、日本にっぽんへい居所きょしょいちはなれればうつされるのは無人むじん廃墟はいきょばかりだ。それはこの映画えいが撮影さつえいはんたものが到底とうていることのできないような現実げんじつだったからであり、この映画えいが均質きんしつ様式ようしきてき混乱こんらんは、その現実げんじつずにませるための悪戦苦闘あくせんくとうのドキュメントなのだとべている[28]

南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ否定ひてい評論ひょうろん

編集へんしゅう

1998ねん12月13にち産経新聞さんけいしんぶんは、おによりもこわいはずの「南京なんきん憲兵けんぺい分隊ぶんたい」のまえ平気へいきあるいている住民じゅうみんや、日本にっぽんぐん兵士へいしかよっても素知そしらぬかお正月しょうがついわってばくちくきょうじる子供こどもたち、そしてとくに「鑑札かんさつっておれば日本にっぽんぐん保護ほごけることができる」という「急告きゅうこく」をて、なんせんにんもの中国人ちゅうごくじん鑑札かんさつもとめて殺到さっとうしている場面ばめん注目ちゅうもくし、もしも南京なんきん市内しないで6週間しゅうかんあいだに20まんや30まんもの中国人ちゅうごくじん日本にっぽんぐん虐殺ぎゃくさつしていたら、このような現象げんしょうないという映画えいが評論ひょうろんせた[29]

日本にっぽん文化ぶんかチャンネルさくら代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょうなどをつと映画えいが監督かんとくでもある水島みずしまそうは、ひろ光景こうけいった場面ばめんおお映画えいがであり、られて都合つごうわるいものがあればカメラマンはせまのワンショットにするし、住民じゅうみん恐怖きょうふかんっていないかお映像えいぞう確認かくにんでき、住民じゅうみん整然せいぜんならんでいることも日本にっぽんぐんたいする恐怖きょうふがないことをしめしているとべている[30]

南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ肯定こうてい評論ひょうろん

編集へんしゅう

歴史れきし学者がくしゃ笠原かさはらじゅうきゅうつかさは、日本にっぽん陸軍りくぐん検閲けんえつ要領ようりょうの「映画えいがほん要領ようりょうじゅん検閲けんえつする」をかんがえれば日本にっぽん映画えいがカメラマンが虐殺ぎゃくさつ現場げんば撮影さつえいする可能かのうせいはゼロにちか[注釈ちゅうしゃく 9]、この映画えいが日本にっぽんぐん不利ふり場面ばめん撮影さつえい当然とうぜんけられているとした。そのうえで、それでも南京なんきん占領せんりょう直後ちょくご南京なんきん城内じょうのうち掠奪りゃくだつ破壊はかい放火ほうかされたまち様子ようす疲弊ひへい無気力むきりょく表情ひょうじょう難民なんみんなどかくしようのない南京なんきん事件じけん舞台ぶたいあと撮影さつえいされているとし、ものれば南京なんきん事件じけん物語ものがた映像えいぞう記録きろくのひとつになっているとべた[32]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 1937ねん12月28にち赤十字せきじゅうじ看護かんご南京なんきん到着とうちゃくした[7]
  2. ^ 午後ごご南京なんきん入城にゅうじょうす。銃声じゅうせいはげし。敗残はいざんへい掃蕩そうとうならん。ちゅう山路やまじ交通こうつう銀行ぎんこう特務とくむ機関きかんともに、ぐん特務とくむ設置せっちされ、我々われわれもこゝを宿舎しゅくしゃていむ。」[14]
  3. ^ しょくふことよりさき撮影さつえいだ。早朝そうちょうす。西にしひがしわからないのに挹江もんいたりつた。凄惨せいさんれいへんかたなく、戦争せんそうけたくにまちが、こんなになるんだ。掃蕩そうとういたるところでくだりはれてゐる。こゝにけないよう生々なまなましいことがやられるし、我々われわれけたら、我々われわれ兄弟きょうだいが、父母ちちはは子供こどもが、こんなみじめさに逢ふのだ。おそろしいことだ。どんな犠牲ぎせいはらえつても、どんなことをしても、戦争せんそうには絶對ぜったいけられない。蔣介せき抗日こうにち教育きょういくがこの悲劇ひげきんだのであらう」[15]
  4. ^ 聖戦せいせんよんケ月かげつ、こゝにかがや戦果せんかおさめて、今日きょうさかえある雄渾ゆうこん壮麗そうれい入城にゅうじょうしきなみ閲兵えっぺい国旗こっき掲揚けいよう皇居こうきょ遥拝ようはいひとし世界せかいに燦たる歴史れきし我々われわれによつて、永久えいきゅう記録きろくされるのだ。現在げんざいにち戦争せんそう時代じだい奉天ほうてん入城にゅうじょうしきまた乃木のぎ大将たいしょうとステツセル将軍しょうぐんみず営の会見かいけんとう同時どうじ撮影さつえいのフイルムがれば国宝こくほうてき存在そんざいである。我々われわれのそれも皇軍こうぐんかがや戦果せんかとも未来永劫みらいえいごう記念きねんされるでありませう。」[14]
  5. ^ 國民こくみん政府せいふにおいてきぼりに逢つたさんじゅうまん避難ひなんみんりにく。非常ひじょうあわれである。兵隊へいたいさんが子供こどもさがしてあるいてキヤラメルをやつてゐる。うつくしい風景ふうけいだ。皇軍こうぐん有難ありがたさがほどけつたのか、我々われわれにまで丁寧ていねいなる敬禮けいれいする」[17]
  6. ^ 経理けいり部長ぶちょう報道ほうどうはん少佐しょうさとも水道すいどうしょう建設けんせつ撮影さつえいく」[18]
  7. ^ ささえ捕虜ほりょへの施療せりょうじょうきょう軍医ぐんい部長ぶちょう指揮しきにて同時どうじ撮影さつえいす」[19]
  8. ^ 自由じゆうに、奔放ほんぽうに、よき場面ばめん同時どうじ撮影さつえい出来できる」とある[14]
  9. ^ この時期じきには「新聞しんぶん掲載けいさい事項じこう許否きょひ判定はんてい要領ようりょう」(1937ねん9がつ9にち陸軍りくぐんしょう報道ほうどう検閲けんえつがかり制定せいてい)にもとづく陸軍りくぐん検閲けんえつ制度せいど存在そんざいし、その検閲けんえつをパスしなければ報道ほうどう上映じょうえいができなかった。具体ぐたいてきには以下いかのものが「掲載けいさい許可きょかせず」となっていた。「よん ひだり列記れっきするものは掲載けいさい許可きょかせず (12)わがぐん不利ふりなる記事きじ写真しゃしん (13)ささえへいまたはささえじん逮捕たいほ尋問じんもんとう記事きじ写真しゃしんちゅう虐待ぎゃくたいかんあたえるおそれ(おそれ)あるもの (14)むごしいたげなる写真しゃしん、ただしささえへいまたはささえじんむごしいたげせいかんする記事きじつかえなし  映画えいがほん要領ようりょうじゅん検閲けんえつするものとす」[31]

出典しゅってん

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  1. ^ a b 原田はらだ健一けんいち占領せんりょうとプロパガンダ : 木村きむら伊兵衛いへえ上海しゃんはい南京なんきん」『人文じんぶん科学かがく研究けんきゅうだい142かん新潟大学にいがただいがく人文学部じんぶんがくぶ、2018ねん3がつ、80ぺーじISSN 04477332 
  2. ^ 土本どもと典昭のりあき亀井かめい文夫ふみお・『上海しゃんはい』から『たたか兵隊へいたい』まで」 『講座こうざ日本にっぽん映画えいが5 戦後せんご映画えいが展開てんかい岩波書店いわなみしょてん、1987ねん 所収しょしゅう、330ページ
  3. ^ 藤井ふじい仁子さとこ上海しゃんはい南京なんきん北京ぺきん東宝とうほう文化ぶんか映画えいが大陸たいりく都市としさんさく〉の地政学ちせいがく岩本いわもとけんへん日本にっぽん映画えいが叢書そうしょ② 映画えいがと「だい東亜とうあ共栄きょうえいけん」』もりはなししゃ、2004ねん 所収しょしゅう、111ページ
  4. ^ 松尾まつお一郎いちろう映画えいが南京なんきん」の空白くうはくの《10分間ふんかん映像えいぞうかた中国ちゅうごくだいウソ」『正論せいろん』4がつごう
  5. ^ 戦線せんせん後方こうほう記録きろく 映画えいが南京なんきん高画質こうがしつ完全かんぜんばん70ふん "Record of Battile of Nanking" 20 Feb 1938 High Quality Ver
  6. ^ a b c d 映画えいが南京なんきん真実しんじつ公式こうしきサイト
  7. ^ 米沢よねざわ秋吉あきよし南京なんきん 撮影さつえい日誌にっし」 『映画えいが演芸えんげい』15かん3ごう、1938ねん
  8. ^ 南京なんきん攻略こうりゃく戦後せんご宣撫せんぶ工作こうさく記録きろくでは「安居あんきょあかし」( 南京なんきん事件じけん資料集しりょうしゅう南京なんきん特務とくむ機関きかん
  9. ^ a b 藤井ふじい、114ページ
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  11. ^ しん映画えいがひょう 南京なんきん、『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』1938ねん2がつ23にちづけ朝刊ちょうかんめん)。
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  17. ^ 米沢よねざわ 前掲ぜんけい資料しりょう南京なんきん 撮影さつえい日誌にっし」12月24にち
  18. ^ 米沢よねざわ 前掲ぜんけい資料しりょう南京なんきん 撮影さつえい日誌にっし」12月31にち
  19. ^ 米沢よねざわ 前掲ぜんけい資料しりょう南京なんきん 撮影さつえい日誌にっし」1がつ2にち
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  24. ^ Amazon.co.jp (キネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ データベースより)
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  26. ^ 土本どもと、329 - 332ページ
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  28. ^ 藤井ふじい、113 - 116ページ
  29. ^ 産経新聞さんけいしんぶん1998ねん12月13にち
  30. ^ 下記かき外部がいぶリンク「映画えいが南京なんきん」からえるもの」
  31. ^ 許可きょか写真しゃしん1』毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1998ねん南京なんきん事件じけん調査ちょうさ研究けんきゅうかいへん南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ否定ひていろん13のウソ』柏書房かしわしょぼう、1999ねん笠原かさはらじゅうきゅうつかさ南京なんきん事件じけん論争ろんそう平凡社へいぼんしゃ新書しんしょ、2007ねん
  32. ^ 笠原かさはらじゅうきゅうつかさ南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつはニセ写真しゃしん宝庫ほうこではない」 南京なんきん事件じけん調査ちょうさ研究けんきゅうかいへん南京なんきんだい虐殺ぎゃくさつ否定ひていろん13のウソ』柏書房かしわしょぼう、1999ねん 所収しょしゅう、232 - 233ページ

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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