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松崎啓次 - Wikipedia

松崎まつざき あきら(まつざき けいじ、1905ねん12月15にち - 1974ねん10がつ10日とおか)は、日本にっぽん映画えいがプロデューサー脚本きゃくほん作詞さくし本名ほんみょう青木あおき 義久よしひさでも活躍かつやくした。梶井かじい基次郎もとじろうらの『青空あおぞら』にも参加さんかした。

人物じんぶつ

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京都きょうとまれ[1]京都府立医科大学きょうとふりついかだいがく出身しゅっしん[2]ソ連それんロシア文学ぶんがく翻訳ほんやくとして活躍かつやくし、1929ねん結成けっせいされたプロキノ(日本にっぽんプロレタリア映画えいが同盟どうめい)に参加さんかしていたが、次第しだい商業しょうぎょう映画えいがとのかかわりをつよめ、PCLから東宝とうほう中華ちゅうかでんかげ公司こうしでプロデューサーをつとめた。

戦後せんご東映とうえいみずか設立せつりつした独立どくりつプロの「松崎まつざきプロダクション」(前身ぜんしん内外ないがい映画えいがしゃ)で、劇場げきじょう劇映画げきえいがや『鉄腕てつわんアトム』、『鉄人てつじん28ごう』(いずれも実写じっしゃドラマ)などのテレビ番組ばんぐみ記録きろく映画えいがなどを制作せいさくした。特撮とくさつ監督かんとく円谷つぶらや英二えいじとは旧知きゅうちなかで、実写じっしゃばん鉄腕てつわんアトムの企画きかく松崎まつざきみずか円谷つぶらやんで制作せいさく実現じつげんした。

また、本名ほんみょう青木あおき義久よしひさで、劇映画げきえいが原作げんさく脚本きゃくほん脚色きゃくしょく担当たんとうした。自社じしゃ作品さくひんの『鉄腕てつわんアトム』では、主題歌しゅだいか鉄腕てつわんアトムのうた』を作詞さくし作曲さっきょく益田ますだ克幸かつゆき)し、『鉄人てつじん28ごう』でも主題歌しゅだいか作詞さくし作曲さっきょく宇野うの誠一郎せいいちろう)を担当たんとうした。

おも経歴けいれき作品さくひん

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左翼さよく映画えいがから関西かんさい商業しょうぎょう映画えいが

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1929ねん昭和しょうわ4ねん)、ソ連それん・ロシア文学ぶんがく翻訳ほんやくとして活動かつどう。 『労農ろうのうロシヤ文学ぶんがく叢書そうしょ だい1輯』(マルクス書房しょぼう)、『ゴルキー全集ぜんしゅう』(共生きょうせいかく)、『プロレタリア移動いどう劇場げきじょう脚本きゃくほんしゅうだい1輯』(共生きょうせいかく)を刊行かんこう同年どうねん結成けっせいされたプロキノ(日本にっぽんプロレタリア映画えいが同盟どうめい)に参加さんか

1930ねん昭和しょうわ5ねん)、プロレタリア雑誌ざっし戦旗せんき』7がつごうに「催涙さいるいガスのはなし発表はっぴょう

1931ねん昭和しょうわ6ねん)、奈良ならのあやめいけほとりにあった市川いちかわみぎふと衛門えもんプロダクション製作せいさくの『じゅうさん番目ばんめ同志どうし』の脚本きゃくほん

1932ねん昭和しょうわ7ねん)、奈良ならけん生駒いこま月形つきがたプロ製作せいさくの『あかつき市街しがいせん』で脚本きゃくほん。『阿片あへん戦争せんそう』を小国おぐに英雄ひでおとともに高山たかやま書院しょいんから刊行かんこう

PCLから東宝とうほう

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1933ねん昭和しょうわ8ねん)、このころ、アパート乃木坂のぎざか倶楽部くらぶんでいた瀧口たきぐち修造しゅうぞう[3]木村きむら荘十二そとじ大村おおむら英之助えいのすけとともに、独立どくりつプロ「おと芸術げいじゅつ研究所けんきゅうじょ」を設立せつりつ[3]おと芸術げいじゅつ研究所けんきゅうじょの『かわこうふの青春せいしゅん原作げんさく。『音楽おんがく喜劇きげき ほろよひ人生じんせい』(PCL)、『純情じゅんじょう』(PCL)、『只野ただの凡児ぼんじ 人生じんせい勉強べんきょう』(PCL)、『ぞく只野ただの凡児ぼんじ』(PCL)、『あるぷす大将たいしょう』(PCL)の脚本きゃくほん以後いご、PCL文芸ぶんげい課長かちょうから東宝とうほう文化ぶんか映画えいが課長かちょうとなる[3]

戦争せんそう記録きろく映画えいが製作せいさくから中華ちゅうかでんかげ公司こうし時代じだい

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劇映画げきえいが阿片あへん戦争せんそう』のポスター

1938ねん昭和しょうわ13ねん)、『南京なんきん』、『北京ぺきん』(東宝とうほう映画えいが製作せいさく

1939ねん昭和しょうわ14ねん)、『戦友せんゆううた』、『揚子江ようすこう艦隊かんたい』(東宝とうほう映画えいが)、亀井かめい文夫ふみお監督かんとくたたか兵隊へいたい』(東宝とうほう映画えいが文化ぶんか映画えいが製作せいさく同年どうねん6がつ中華ちゅうかでんかげ公司こうし上海しゃんはい設立せつりつ製作せいさく部長ぶちょう

1940ねん昭和しょうわ15ねん)、中国ちゅうごく南部なんぶ大河たいが題材だいざいにした記録きろく映画えいが珠江たまえ』(石本いしもとみつるきち亀田かめだ利喜夫りきお八名やなただし共同きょうどう演出えんしゅつ芸術げいじゅつ映画えいがしゃ中華ちゅうかでんかげ公司こうし)を芸術げいじゅつ映画えいがしゃ社長しゃちょう大村おおむら英之助えいのすけとともに製作せいさく。ロケちゅう中華ちゅうかでんかげ公司こうし製作せいさく次長じちょう台湾たいわん出身しゅっしん文学ぶんがくしゃりゅう吶鴎が上海しゃんはい暗殺あんさつされる[4]

1941ねん昭和しょうわ16ねん)、『上海しゃんはいつき』(東宝とうほう映画えいが東京とうきょう中華ちゅうかでんかげ公司こうし製作せいさく。『上海しゃんはい人文じんぶん』を高山たかやま書院しょいんから刊行かんこう

1942ねん昭和しょうわ17ねん)、『青春せいしゅん気流きりゅう』(東宝とうほう映画えいが製作せいさく同年どうねん記録きろく映画えいが珠江たまえ』が完成かんせいする。同年どうねん小国おぐに英雄ひでお共著きょうちょの『阿片あへん戦争せんそう』を高山たかやま書院しょいんから再刊さいかん

1943ねん昭和しょうわ18ねん)、『阿片あへん戦争せんそう』(東宝とうほう映画えいが)の原作げんさく製作せいさく。『姿すがた三四郎さんしろう』(東宝とうほう映画えいが)の企画きかく。『熱風ねっぷう』(東宝とうほう映画えいが)の製作せいさく

1945ねん昭和しょうわ20ねん)、『あいだ諜海の薔薇ばら』(東宝とうほう製作せいさく

戦後せんご民主みんしゅ主義しゅぎ映画えいがから娯楽ごらく映画えいが

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1946ねん昭和しょうわ21ねん)、だい1だい2東宝とうほう争議そうぎ最中さいちゅう山本やまもと嘉次郎かじろう黒澤くろさわあきら関川せきかわ秀雄ひでおのオムニバス映画えいが明日あしたつく人々ひとびと』、黒澤くろさわあきらわが青春せいしゅんに悔なし』を製作せいさく

1947ねん昭和しょうわ22ねん)、『女優じょゆう』、『よっつのこい物語ものがたり』を製作せいさく

1949ねん昭和しょうわ24ねん)、松崎まつざきプロと東宝とうほう提携ていけい作品さくひんとして、小田おだ基義もとよし監督かんとくの『地獄じごく貴婦人きふじん』を製作せいさく

独立どくりつプロ経営けいえいしゃ脚本きゃくほんとして

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1946ねん昭和しょうわ21ねん)、秋元あきもとけんらと内外ないがい映画えいがしゃ設立せつりつ[5]1948ねん昭和しょうわ23ねん8がつ5にち内外ないがい映画えいがしゃスタッフが広島ひろしま復興ふっこう記録きろく映画えいが「ノーモア・ヒロシマズ」(1949ねん2がつぜん3かん完成かんせい間近まぢか地元じもと新聞しんぶんほうじた[6]が、GHQの検閲けんえつによって公開こうかいきんじられた[7])の撮影さつえいのため広島ひろしま[8]した。

1951ねん昭和しょうわ26ねん)、内外ないがい映画えいがしゃ製作せいさくした樋口ひぐち源一郎げんいちろう監督かんとく教育きょういく映画えいが社會しゃかい教材きょうざい映画えいが体系たいけい ゆうびん』公開こうかい

1952ねん昭和しょうわ27ねん)、内外ないがい映画えいがしゃ製作せいさくした田口たぐちあきら監督かんとくの『森林しんりん泥棒どろぼう』が公開こうかいされる。内外ないがい映画えいがしゃ教育きょういく映画えいが鉄道てつどうひとたち』、『氷雪ひょうせついどむ~かん地保じほせん人々ひとびと~』製作せいさく

1954ねん昭和しょうわ29ねん)から1957ねん昭和しょうわ32ねん)まで、『少年しょうねん姿すがたさんよんろう だい一部いちぶ 山岳さんがくけつ』、『少年しょうねん姿すがたさんよんろう だい一部いちぶ 山岳さんがくけつ』、『ウッカリ夫人ふじんとチャッカリ夫人ふじん やりくり算段さんだんまき』、『爆笑ばくしょう天国てんごく とんち教室きょうしつ』、『さいざんす二刀流にとうりゅう』、『姿すがたさんよんろう だい一部いちぶ 』、『姿すがたさんよんろう だい』、『柔道じゅうどう流転るてん』、『柔道じゅうどう流転るてん くろたい無双むそう』(以上いじょう東映とうえい)、『おれ犯人はんにんじゃない』、『地獄じごく札束さつたば』、『復讐ふくしゅうだれがやる』(以上いじょう日活にっかつ)など様々さまざま娯楽ごらく映画えいが製作せいさく企画きかく脚本きゃくほんかかわる。

1956ねん昭和しょうわ31ねん)、しん東宝とうほうの『おんな真珠しんじゅおう復讐ふくしゅう』の原案げんあん。 

テレビかいへの挑戦ちょうせん

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1957ねん昭和しょうわ32ねん)、大阪おおさかテレビ放送ほうそう開局かいきょく記念きねん番組ばんぐみをもとに制作せいさくされた『これがOTVだ~OTVフィルムパンフレット』制作せいさく

1959ねん昭和しょうわ34ねん)、3月7にちから放送ほうそうの『鉄腕てつわんアトム実写じっしゃばん』を毎日放送まいにちほうそう製作せいさく

1960ねん昭和しょうわ35ねん)、2がつ1にちから放送ほうそうの『鉄人てつじん28ごう実写じっしゃばん』を日本にほんテレビ製作せいさく

1963ねん昭和しょうわ38ねん)、11月30にち青木あおき義久よしひさ名義めいぎ脚本きゃくほん担当たんとうした『うみきる』(文部省もんぶしょう芸術げいじゅつさい参加さんか作品さくひん)を毎日まいにち放送ほうそう放送ほうそう

1967ねん昭和しょうわ42ねん)、記録きろく映画えいが利根川とねがわ河口かこうせき』(松崎まつざきプロダクション、水資源開発公団みずしげんかいはつこうだん企画きかく製作せいさく土木どぼく学会がっかい映画えいがコンクール優秀ゆうしゅうしょう

出典しゅってん

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