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土山宿 - Wikipedia

土山つちやま宿やど

東海道とうかいどうじゅうさんの49番目ばんめ宿場しゅくば

土山つちやま宿やど(つちやましゅく、 きゅう字体じたい𡈽やま・圡山)は、近江おうみこく甲賀こうがぐんにあった東海道とうかいどうじゅうさんの49番目ばんめ宿場しゅくばである。現在げんざい滋賀しがけん甲賀こうが土山つちやままち北土山きたつちやまおよび土山つちやままち南土山みなみつちやまにあたる。

歌川うたがわ広重ひろしげ東海道とうかいどうじゅうさん・圡山」

概要がいよう

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平安へいあん時代じだい伊勢いせ参宮さんぐうどう鈴鹿峠すずかとうげえるきゅう東海道とうかいどうすじとおるようになって以来いらい土山つちやま難所なんしょひかえる宿駅しゅくえきとして発展はってんしてきた[1]

鎌倉かまくら時代ときよ京都きょうと鎌倉かまくらむす東西とうざい交通こうつうがさらに重要じゅうようされ、武士ぶしだけでなく商人しょうにん庶民しょみん通行つうこうさかんになった[1]

江戸えど幕府ばくふ土山つちやま宿駅しゅくえき指定していしてから、宿場しゅくばまちとしてしん隆盛りゅうせいしはじめた[1]宿場しゅくば中心ちゅうしんやくまちで、そこに問屋場とんやば本陣ほんじん脇本わきもとじんがあり、その周囲しゅうい旅籠はたごみせ茶屋ちゃやなどがあり、細長ほそなが宿場しゅくばまち形成けいせいしていた[1]。また、幕府ばくふやくまち保護ほごのため、地子じし免除めんじょその特権とっけんあたえていた[1]

1843ねんの「東海道とうかいどう宿やどむら大概たいがいちょう」によると、家数やかず351けん人口じんこう1,505にん本陣ほんじん2けん旅籠はたご44けんかぞえた[2]

鈴鹿すずか馬子まごうたに「さか鈴鹿すずかくもる あいの土山つちやまる」とうたわれる[3]

明治めいじ元年がんねん9月22にち新暦しんれき1868ねん11月6にち)、明治天皇めいじてんのうまん16さい誕生たんじょう[4]最初さいしょ東京とうきょう行幸ぎょうこうなかむかえ、土山つちやま宿やど宿泊しゅくはくした。明治めいじしん政府せいふはこれに先立さきだ同年どうねん8がつ26にち(1868ねん10がつ11にち)に太政官だじょうかん布告ふこく天皇てんのう誕生たんじょう天長節てんちょうせつとしていわうことをめていたため、宿所しゅくしょとなった本陣ほんじんだい1かい天長節てんちょうせつ祝賀しゅくが行事ぎょうじおこなった[5]

明治めいじ鉄道てつどう交通こうつうでは、さか下宿げしゅく同様どうよう鈴鹿峠すずかとうげきゅう勾配こうばい蒸気じょうき機関きかんしゃかたきとなり、西にしりの寺庄てらしょう経由けいゆとなった。

史跡しせき・みどころ

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のきつらねた家並いえなみや格子戸こうしど薄茶うすちゃしょく舗装ほそう松並まつなみなどきゅう街道かいどうらしい雰囲気ふんいきかんじられる。また、旅籠はたごあと石碑せきひおおっている。

  • 田村たむら神社じんじゃ
  • みちえきあいの土山つちやま
  • 扇屋おうぎや伝承でんしょう文化ぶんかかん - おうぎくし販売はんばいしていた商家しょうかのおたから地元じもと工芸こうげいひん展示てんじ土山つちやま宿やど特産とくさんひん販売はんばいがされている。
  • 東海道とうかいどう一里塚いちりづかあと
  • 旅籠はたご井筒屋いづつやあと - もり鷗外祖父そふもりはくせんくなったところ[6]遺骸いがいかわ沿いの墓地ぼち埋葬まいそうされた[7]
  • 旅籠はたご平野屋ひらのやあと - もり鷗外が1900ねん3月2にち宿泊しゅくはくした[6]
  • 民芸みんげい茶房さぼううかい
  • かい脇本わきもとじんあと
  • 東海道とうかいどう伝馬てんまかん - 問屋場とんやば様子ようす復元ふくげんした展示てんじほか東海道とうかいどう土山つちやま宿やどかんする展示てんじ充実じゅうじつしている。
  • 文豪ぶんごうもり鷗外来訪らいほう - 東海道とうかいどう伝馬てんまかんむかい。
  • 問屋場とんやばあと
  • 本陣ほんじんあと - 1634ねん徳川とくがわ家光いえみつ上洛じょうらくさい本陣ほんじんとなった。大名だいみょうとう宿泊しゅくはくした上段じょうだんあいだ庭園ていえんのこされ、宿帳やどちょうせきさつ工芸こうげい品等ひんとう展示てんじされている。
  • 大黒屋だいこくや本陣ほんじんあと
  • 常明寺じょうみょうじ - 土山つちやまちゃはじまりとつたえられる。もり鷗外がもりはくせん改葬かいそうおこな[6]現在げんざい1988ねん整備せいびされたもり供養くようとうがある。長屋王ながやおうねがいけい国宝こくほう)27かん所蔵しょぞう松尾まつお芭蕉ばしょう句碑くひがある。
  • 高札こうさつじょうあと
  • 代参だいさん街道かいどう分岐ぶんきてん 石碑せきひ

水口みずぐち宿やどまでの史跡しせき・みどころ

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  • かぶと雲宮くもみやあと
  • 垂水たるみひとしおう頓宮とんぐうあと - くに史跡しせき頓宮とんぐう天皇てんのう名代なだいとして伊勢神宮いせじんぐうつかわされたときおう一夜いちやだけ宿泊しゅくはくしたかりみやのこと。毎年まいとし3がつ往時おうじ行列ぎょうれつ再現さいげんしたときおうぐんぎょうではここまであるく。
  • たきいつき神社じんじゃ - 毎年まいとし5がつ3にちくに選択せんたく無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい選択せんたくされているケンケトおどりが奉納ほうのうされる。当日とうじつはなだつ神事しんじ神輿しんよ渡御とぎょおこなわれる。
  • 垂水たるみ頓宮とんぐう御殿ごてんあと
  • 一里塚いちりづかあと
  • 旅籠はたご 松坂屋まつざかやあと
  • 三好みよしあかはじめ句碑くひ
  • 東海道とうかいどう土山つちやま今宿いましゅくいしぶみ
  • 岩神やがみしゃ - 国道こくどう敷設ふせつとう風景ふうけいわったが、かつては奇岩きがんおおく、野洲川やすがわ清流せいりゅうながれる景勝けいしょうとして、またどもの成長せいちょう神様かみさまとしてられた。

宿場しゅくば名物めいぶつ

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  • ろくくし - むかし伊勢いせ参宮さんぐうがえりの木曽きそ旅人たびびと土山つちやまやまいにかかり、村人むらびと手厚てあつ看護かんご回復かいふくした。そのおれいくし製造せいぞうほうつたえに再度さいどたが、材料ざいりょうかったので木曽きそくしおくるからそれをればよいというはなしになったらしい[8]土産みやげひんとして人気にんきがあったが、明治めいじ20年代ねんだいにはほとんどのみせがなくなった[8]
  • あけぼのちゃ土山つちやまちゃ
  • かにざかあめ

交通こうつう手段しゅだん

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近江おうみ鉄道てつどうJR草津線くさつせん貴生川きぶかわえきより甲賀こうがコミュニティバス(あいくる)

田村たむら神社じんじゃ祭礼さいれいのみ、JR関西本線かんさいほんせん亀山かめやまえきから鈴鹿峠すずかとうげえる臨時りんじバスが運行うんこうされる。

となり宿やど

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東海道とうかいどう
さか下宿げしゅく - 土山つちやま宿やど - 水口みずぐち宿やど

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e 郷土きょうど文化財ぶんかざい史蹟しせきへん. 土山つちやままち教育きょういく委員いいんかい. (1985ねん11月30にち). p. 51 
  2. ^ 近江おうみ東海道とうかいどうある. サンライズ出版しゅっぱん. (2010ねん5がつ10日とおか) 
  3. ^ もり於菟おと父親ちちおやとしてのもり鷗外』大雅たいが新書しんしょ、1955ねん、87pぺーじ 
  4. ^ 当時とうじ旧暦きゅうれき太陰暦たいいんれき)を使用しようしたため、明治天皇めいじてんのう誕生たんじょう新暦しんれきの11月3にちではなく旧暦きゅうれきの9がつ22にちさだめられた。
  5. ^ 1914ねん大正たいしょう3ねん)、講演こうえんのため同地どうちおとずれた井上いのうえ円了えんりょうがこのはなしき、これを題材だいざいとした漢詩かんし掛軸かけじくのこした。この掛軸かけじく現存げんそんし、また2001ねんには土山つちやままち当時とうじ)の委託いたくによりこの漢詩かんし石碑せきひとして建立こんりゅうされた。一連いちれん経緯けいい事物じぶつ井上いのうえ設立せつりつした東洋大学とうようだいがく公式こうしきサイトで紹介しょうかいされている(外部がいぶサイト参照さんしょう)。
  6. ^ a b c もり鷗外『小倉こくら日記にっき明治めいじ33ねん3がつ2にち・3月3にち記事きじ
  7. ^ あいの土山つちやま 歴史れきしガイドブック. あいの土山つちやまふるさとガイドのかい. (2015ねん3がつ1にち). p. 12 
  8. ^ a b あいの土山つちやま 歴史れきしガイドブック. あいの土山つちやまふるさとガイドのかい. (2015ねん3がつ1にち). p. 10 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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座標ざひょう: 北緯ほくい3456ふん05びょう 東経とうけい13616ふん56びょう / 北緯ほくい34.934838 東経とうけい136.282336 / 34.934838; 136.282336