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太田重正 - Wikipedia

太田おおた重正しげまさ

戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい前期ぜんき武将ぶしょう太田おおたただしじゅう水戸みと徳川とくがわ家臣かしん)、橋本はしもとせん遠山とおやまため旗本はたもと9ひゃくせき)、荒尾あらお久成くなりつま

太田おおた 重正しげまさ(おおた しげまさ)は、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい前期ぜんきにかけての武将ぶしょう

 
太田おおた 重正しげまさ
時代じだい 戦国せんごく時代じだい江戸えど時代じだい
生誕せいたん えいろく4ねん1561ねん
死没しぼつ 慶長けいちょう15ねん8がつ2にち1610ねん9月18にち
戒名かいみょう さとしりんいん
墓所はかしょ 静岡しずおかけん三島みしまみょう法華寺ほっけじ
主君しゅくん 徳川とくがわ家康いえやす
氏族しぞく 太田おおた
父母ちちはは ちち太田おおたやすし
高祖父こうそふ太田おおた道灌どうかん
兄弟きょうだい いもうと英勝ひでかついん
つま 都築つづきしげるつなむすめ太田おおたむねはは
せいじゅう[1]井上いのうえ政重まさしげしつむね橋本はしもとせん遠山とおやまため[2]荒尾あらお久成くなりしつ
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一族いちぞく

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ちち江戸えど太田おおた太田おおたやすしとされる。また、いもうと徳川とくがわ家康いえやす側室そくしつ英勝ひでかついんがいる。せいじゅうむねがいる。

経歴けいれき

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重正しげまさちちとされる太田おおたやすしは、はじめこう北条ほうじょうつかえたが、恩賞おんしょう不満ふまんから離反りはん諸説しょせつある)し、だい国府台こうのだい合戦かっせん大敗たいはいすると安房あわこく里見さとみした逃亡とうぼう。のちに里見さとみ内紛ないふんまれて自害じがいしたとされている。

重正しげまさちち死後しご佐竹さたけ義重よししげのもとへおもむき、同地どうち亡命ぼうめいしていた同族どうぞく太田おおたただし岩槻いわつき太田おおた)をたよってびたという。「重正しげまさ」の義重よししげせいから1ずつあたえられたものという推測すいそくもされている。のちに京都きょうと移住いじゅうしたともいわれる。

1590ねん天正てんしょう18ねん)の北条ほうじょう滅亡めつぼう関東かんとううつりふうされてきた徳川とくがわ家臣かしんとなった。よく1591ねん天正てんしょう19ねん)、武蔵むさしこく豊島としまぐん蓮沼はすぬまにおいて500せきあたえられた[3]死後しごむね加増かぞうかさね、大名だいみょう下野げや山川やまかわはん)にれつした。むね英勝ひでかついん養子ようしとなっていたので、そのてがあったともかんがえられる。

重正しげまさ出自しゅつじ疑義ぎぎ

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重正しげまさ父親ちちおやとされる太田おおたやすしは、江戸城えどじょう築城ちくじょうられる太田おおた道灌どうかん曾孫そうそんである。しかし、重正しげまさかん実子じっしであるかどうかは確証かくしょうがない、とするせつがある。かん確実かくじつ実子じっし太田おおたこませんだいこう北条ほうじょう人質ひとじちとなっていたが、かんこう北条ほうじょうから離反りはんしたさい自害じがいさせられ、墓所はかしょとされるものが現存げんそんする。また、いもうと英勝ひでかついん一般いっぱんてきにはかんむすめとされているが、この出自しゅつじもまた確証かくしょうい。太田おおた家系かけいたいして、むねだいころなんらかの改竄かいざんおこなわれたとするせつがある。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 水戸みと徳川とくがわ家臣かしん
  2. ^ 旗本はたもと9ひゃくせき
  3. ^ はんふみだい事典じてん だい2かん 関東かんとうへん