太田おおた 重正しげまさ(おおた しげまさ)は、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい前期ぜんきにかけての武将ぶしょう。
父ちちは江戸えど太田おおた氏しの太田おおた康やすし資しとされる。また、妹いもうとに徳川とくがわ家康いえやすの側室そくしつの英勝ひでかつ院いんがいる。子こに正せい重じゅう、資し宗むねがいる。
重正しげまさの父ちちとされる太田おおた康やすし資しは、はじめ後こう北条ほうじょう氏しに仕つかえたが、恩賞おんしょうの不満ふまんから離反りはん(諸説しょせつある)し、第だい二に次じ国府台こうのだい合戦かっせんで大敗たいはいすると安房あわ国こくの里見さとみ氏しの下したに逃亡とうぼう。のちに里見さとみ氏しの内紛ないふんに巻まき込こまれて自害じがいしたとされている。
重正しげまさは父ちちの死後しご、佐竹さたけ義重よししげのもとへ赴おもむき、同地どうちに亡命ぼうめいしていた同族どうぞくの太田おおた資し正ただし(岩槻いわつき太田おおた氏し)を頼たよって落おち延のびたという。「重正しげまさ」の名なも義重よししげと資し正せいから1字じずつ与あたえられたものという推測すいそくもされている。のちに京都きょうとに移住いじゅうしたともいわれる。
1590年ねん(天正てんしょう18年ねん)の北条ほうじょう氏し滅亡めつぼう後ご、関東かんとうに移うつり封ふうされてきた徳川とくがわ氏しの家臣かしんとなった。翌よく1591年ねん(天正てんしょう19年ねん)、武蔵むさし国こく豊島としま郡ぐん蓮沼はすぬまにおいて500石せきを与あたえられた[3]。死後しごに子この資し宗むねが加増かぞうを重かさね、大名だいみょう(下野げや山川やまかわ藩はん)に列れつした。資し宗むねは英勝ひでかつ院いんの養子ようしとなっていたので、その引ひき立たてがあったとも考かんがえられる。
重正しげまさの父親ちちおやとされる太田おおた康やすし資しは、江戸城えどじょう築城ちくじょうで知しられる太田おおた道灌どうかんの曾孫そうそんである。しかし、重正しげまさが康かん資しの実子じっしであるかどうかは確証かくしょうがない、とする説せつがある。康かん資しの確実かくじつな実子じっしの太田おおた駒こま千せん代だいは後こう北条ほうじょう氏しの人質ひとじちとなっていたが、康かん資しが後こう北条ほうじょう氏しから離反りはんした際さいに自害じがいさせられ、墓所はかしょとされるものが現存げんそんする。また、妹いもうとの英勝ひでかつ院いんは一般いっぱん的てきには康かん資しの娘むすめとされているが、この出自しゅつじもまた確証かくしょうが無ない。太田おおた氏しの家系かけい図ずに対たいして、資し宗むねの代だいの頃ころに何なんらかの改竄かいざんが行おこなわれたとする説せつがある。