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小劇場 - Wikipedia

しょう劇場げきじょう(しょうげきじょう)とは、ちいさな劇場げきじょうのことで、演劇えんげき分野ぶんやにおいては日本にっぽんで1960年代ねんだい後半こうはん誕生たんじょうした演劇えんげきの1ジャンル(しょう劇場げきじょう演劇えんげき)を[1]本稿ほんこうでは、しょう劇場げきじょう演劇えんげき歴史れきしとともに、劇場げきじょうとしてのしょう劇場げきじょうについてべる。

しょう劇場げきじょう演劇えんげき

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しょう劇場げきじょうちいさな劇場げきじょう拠点きょてんとする演劇えんげき集団しゅうだん劇団げきだんおよびその演劇えんげきしょう劇場げきじょう演劇えんげき)である。

日本にっぽん演劇えんげきかい明治めいじ以降いこうつねに、ふる演劇えんげき手法しゅほうたいするかたちあたらしい表現ひょうげん手法しゅほうされてきた。歌舞伎かぶきたいして新派しんぱや、新劇しんげきされてきた[2]。1960年代ねんだい新劇しんげき主流しゅりゅうだった演劇えんげきかい反発はんぱつし、若者わかものみずからのかんがえを発信はっしんするとしてしょう劇団げきだん旗揚はたあげしていった。

1960ねんには俳優座はいゆうざ付属ふぞく俳優はいゆう養成ようせいしょ出身しゅっしんしゃである早野はやの寿郎としお小沢おざわ昭一しょういちらによって劇団げきだん俳優はいゆうしょう劇場げきじょう結成けっせいされている。千田せんだ是也これや田中たなかせん禾夫影響えいきょうしょう劇場げきじょう運動うんどう先駆せんくてき活動かつどうになった。また、翌年よくねんの1961ねんには学生がくせい演劇えんげき出身しゅっしん鈴木すずき忠志ただし別役べつやくみのるらにより新劇しんげきだん自由じゆう舞台ぶたい早稲田わせだしょう劇場げきじょう結成けっせいされている。

1960年代ねんだい後半こうはんには、寺山てらやま修司しゅうじから十郎じゅうろう蜷川にながわ幸雄ゆきおなどの「しょう劇場げきじょうだいいち世代せだいアングラ演劇えんげき」によってしょう劇場げきじょう演劇えんげき確立かくりつされた[1][2]。こうしただいいち世代せだいしょう劇場げきじょう演劇えんげきは、はん新劇しんげき闘争とうそうリアリズム演劇えんげき破壊はかい運動うんどうという色合いろあいがく、思想しそうせい実践じっせんせいつよいものだった[2][3]

なお、しょう劇場げきじょう演劇えんげき打倒だとう克服こくふくおも対象たいしょうとした新劇しんげきも、築地つきじしょう劇場げきじょう代表だいひょうされるように、拠点きょてん劇場げきじょう規模きぼからえばおおくはしょう劇場げきじょうだった。しかし一般いっぱんにはしょう劇場げきじょう演劇えんげきには新劇しんげきふくまれない[4]毛利もうり三彌みつやは、日本にっぽん新劇しんげきなどを創出そうしゅつした国際こくさいてきなリアリズム演劇えんげき創出そうしゅつ運動うんどうを、その出発しゅっぱつてんがフランス・自由じゆう劇場げきじょう (演劇えんげき運動うんどう)にあるところから、自由じゆう劇場げきじょう運動うんどうんでいる[5]

その、1970年代ねんだいにはつかこうへいら「だい世代せだい」が台頭たいとうし、コメディ・パロディ要素ようそ演劇えんげきれ、演劇えんげきをエンターテイメントとして観客かんきゃく提示ていじする契機けいきとなった。1980年代ねんだいには野田のだ秀樹ひできおおとりうえ尚史ひさし横内よこうち謙介けんすけら「だいさん世代せだい」の登場とうじょうにより、"言葉ことばあそび"や"時間じかん空間くうかん超越ちょうえつする技法ぎほう"などのコンセプトがれられ、演劇えんげきそのものにたいする変化へんかしょうじた[1][2]。こうした技法ぎほうが1980年代ねんだいしょう劇場げきじょうブームをび、野田のだゆめゆうねむりしゃおおとりじょうだいさん舞台ぶたい善人ぜんにん会議かいぎ好評こうひょうはくした。

しかし1990年代ねんだいはいると、おおくのしょう劇団げきだん解散かいさん活動かつどう休止きゅうし[ちゅう 1]おおくの演劇えんげきじんテレビ映画えいが商業しょうぎょう演劇えんげき活動かつどうするようになる。こうした状況じょうきょうのなかで台頭たいとうしたのが「だいよん世代せだい」とばれる東京とうきょうサンシャインボーイズ三谷幸喜みたにこうきや、劇団げきだんしんかんせんいのうえひでのり中島なかじまかずき演劇えんげき集団しゅうだんキャラメルボックス成井なるいゆたからである[ちゅう 2]かれらはおおきな劇場げきじょう商業しょうぎょう劇場げきじょう)でも公演こうえんち、マスメディアでの露出ろしゅつえたことから、しょう劇場げきじょう商業しょうぎょう演劇えんげき垣根かきねはなくなっていった[2]

また、1990年代ねんだいには平田ひらたオリザにより「しずかな演劇えんげき」が提唱ていしょうされた。これは80年代ねんだいまで、日常にちじょうてきなイメージがりばめられたにぎやかな演劇えんげきとは対照たいしょうに、日常にちじょう生活せいかつ主眼しゅがんき、演者えんじゃ日常にちじょう生活せいかつはっするレベルのこえうごきでえんじるという手法しゅほうであった[6]平田ひらた影響えいきょうけ、会話かいわげきなどのコンセプトがしょう劇場げきじょう演劇えんげきにもれられるようになる。

だいよん世代せだい」までのしょう劇場げきじょう演劇えんげき特徴とくちょうは、集団しゅうだん創作そうさく強調きょうちょう連帯れんたいかん重要じゅうようにあるとされる[7]たとえば東京とうきょうサンシャインボーイズ舞台ぶたい12にんやさしい日本人にっぽんじん』は三谷幸喜みたにこうきろした作品さくひん(1990ねん初演しょえん)であるが公演こうえんパンフレットには「さく演出えんしゅつ 東京とうきょうサンシャインボーイズ」とのみ記載きさいされていた[7][ちゅう 3]。しかし、60年代ねんだい~70年代ねんだいまれの「だい世代せだい」(長塚ながつか圭史けいし本谷ほんや有希子ゆきこ村上むらかみ大樹だいきなど)以降いこう共通きょうつうしていることは、その集団しゅうだんせいうしなわれつつあることだ[2]げんに、ひとつの劇団げきだん固執こしつせず、プロデュース公演こうえんったアーティスト同士どうしによるユニット形式けいしきによる公演こうえんおおくなっている[2]。たとえば前述ぜんじゅつ野田のだゆめゆうねむりしゃ解散かいさんNODA MAP旗揚はたあげし、プロデュース公演こうえんおこなうようになり、藤田ふじたたかだいなど劇団げきだん自前じまえ俳優はいゆうたない演劇えんげきじんおおい。

こうして1960年代ねんだいから現代げんだいいたるまでしょう劇場げきじょう演劇えんげき系譜けいふつづいており、その表現ひょうげん技法ぎほうつね変化へんかつづけている。

劇場げきじょうとしてのしょう劇場げきじょう

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なにをもってしょう劇場げきじょうとするかの明確めいかく基準きじゅんはない。だい規模きぼ演劇えんげきおおおこなわれる市民しみん会館かいかん文化ぶんか会館かいかんなどについては、固定こていせきすう300せき以上いじょう500せき未満みまんのホールが全体ぜんたい半数はんすう以上いじょうめており[8]、およそ固定こてい座席ざせきすう300せき未満みまん劇場げきじょうしょう劇場げきじょうべるだろう。

また、前述ぜんじゅつ野田のだは、ゆめゆうねむりしゃ時代じだい駒場こまばしょう劇場げきじょう閉館へいかん)、本多劇場ほんだげきじょうなどで公演こうえんおこなっていた。本多劇場ほんだげきじょうグループしょう劇場げきじょうしょう劇場げきじょう演劇えんげき拠点きょてんとなったこともあり、代表だいひょうてきしょう劇場げきじょうぐんうことができるだろう。

おもしょう劇場げきじょう

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2021ねん7がつ現在げんざい営業えいぎょうしている劇場げきじょう記載きさいしている。

北海道ほっかいどう

札幌さっぽろ

コンカリーニョ系列けいれつ

その

青森あおもりけん

弘前ひろさき

八戸はちのへ

宮城みやぎけん

仙台せんだい

東京とうきょう23

下北沢しもきたざわエリア下北沢しもきたざわ

本多劇場ほんだげきじょうグループ

その

新宿しんじゅくエリア新宿しんじゅく新宿しんじゅくさん丁目ちょうめ新宿しんじゅく御苑ぎょえんまえ西武せいぶ新宿しんじゅく西新宿にししんじゅく都庁とちょうまえ代々木よよぎ

王子おうじエリア王子おうじ

神楽坂かぐらざかエリア神楽坂かぐらざか

北千住きたせんじゅエリア北千住きたせんじゅ

高田馬場たかだのばば早稲田わせだエリア高田馬場たかだのばば早稲田わせだ西早稲田にしわせだ

池袋いけぶくろエリア池袋いけぶくろ東池袋ひがしいけぶくろひがし長崎ながさき

三軒茶屋さんげんぢゃやエリア三軒茶屋さんげんぢゃや

中央ちゅうおうせん沿線えんせん

中野なかの

高円寺こうえんじ

阿佐谷あさがや

荻窪おぎくぼ

吉祥寺きちじょうじ

三鷹みたか

下北沢しもきたざわのぞ小田急おだきゅうせん沿線えんせん

京王線けいおうせん頭線かしらせん沿線えんせん

その都内とない

恵比寿えびす

銀座ぎんざ

両国りょうこく

上野うえの

西東京にしとうきょう

神奈川かながわけん

横浜よこはま

川崎かわさき

相模原さがみはら

静岡しずおかけん

愛知あいちけん

京都きょうと

大阪おおさか

兵庫ひょうごけん

  • AI・HALL伊丹いたみ市立しりつ演劇えんげきホール)

福岡ふくおかけん

閉館へいかんしたしょう劇場げきじょう

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青森あおもりけん

東京とうきょう

神奈川かながわけん

京都きょうと

大阪おおさか

福岡ふくおかけん

  • ゆめ工房こうぼう

沖縄おきなわけん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ゆめゆうねむりしゃは1992ねん解散かいさんだいさん舞台ぶたいは2001ねん活動かつどう休止きゅうし、2012ねん解散かいさん
  2. ^ 東京とうきょうサンシャインボーイズは1994ねん活動かつどう休止きゅうし。キャラメルボックスは2019ねん経営けいえい破綻はたん
  3. ^ なおほん作品さくひんはのちに三谷みたに脚本きゃくほん作品さくひんとして映画えいがされている。
  4. ^ 劇場げきじょうとしての一般いっぱん利用りようは2020ねん5がつもっ終了しゅうりょう[11]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c 風間かざまけんしょう劇場げきじょう、みんながヒーローの世界せかいあおゆみしゃ、1993ねん、10ぺーじ
  2. ^ a b c d e f g "しょう劇場げきじょう演劇えんげきながれと最新さいしん動向どうこう". つぼいけ栄子えいこ, 国際こくさい交流こうりゅう基金ききんPerforming Arts Network Japan. 2018ねん2がつ4にち閲覧えつらん
  3. ^ りゅうゆめ如「しょう劇場げきじょうだいいち世代せだい言語げんごろん台本だいほん:はじめげん言葉ことば」『昭和しょうわ文学ぶんがく研究けんきゅうだい81かん昭和しょうわ文学ぶんがくかい、2020ねん、17-31ぺーじdoi:10.50863/showabungaku.81.0_17_2ISSN 0388-3884NAID 130008061269 
  4. ^ かん孝行たかゆき戦後せんご演劇えんげき:新劇しんげきえられたか』(社会しゃかい評論ひょうろんしゃ 2003.3)
  5. ^ 毛利もうり三彌みつや『イプセンの世紀せいきまつ 後期こうき作品さくひん研究けんきゅう』(しろ凰社 1995)
  6. ^ "しずかな演劇えんげき現代げんだい美術びじゅつ用語ようご" 木村きむらさとし, DNP Museum Information Japan artscape 「アートワード」, 2018ねん2がつ4にち閲覧えつらん
  7. ^ a b 風間かざまけんしょう劇場げきじょう、みんながヒーローの世界せかいあおゆみしゃ、1993ねん、12ぺーじ
  8. ^ "劇場げきじょう音楽おんがくどうとうかんする基礎きそデータ" 文部もんぶ科学かがくしょう
  9. ^ スフィアメックス”. LaSensしょう劇場げきじょうデータベース. lasens.com. 2022ねん8がつ27にち閲覧えつらん。 “2006ねん3がつ末日まつじつをもって閉館へいかん
  10. ^ 「アートスフィア」「スフィアメックスホール」劇場げきじょう運営うんえい管理かんり終了しゅうりょうのおらせ - ウェイバックマシン(2006ねん4がつ22にちアーカイブぶん)このうち「アートスフィア」は「天王てんのうしゅう 銀河ぎんが劇場げきじょう」となった。
  11. ^ 大阪おおさかおうてんいん来年らいねん2020ねん6がつ1にち一般いっぱん利用りよう終了しゅうりょう. 舞台ぶたい制作せいさくPLUS+ (ネビュラエンタープライズ). (2019ねん10がつ16にち). http://seisakuplus.com/news/?p=47454 2023ねん7がつ31にち閲覧えつらん 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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