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弁慶橋 - Wikipedia

弁慶橋べんけいばし

東京とうきょうはし

弁慶橋べんけいばし(べんけいばし)は、現在げんざい東京とうきょう千代田ちよだ紀尾井町きおいちょうみなともと赤坂あかさかいち丁目ちょうめにある弁慶べんけいほりうえかるコンクリートはし

弁慶橋べんけいばし

地図
基本きほん情報じょうほう
くに 日本の旗 日本にっぽん
所在地しょざいち 東京とうきょう千代田ちよだ紀尾井町きおいちょう - 東京とうきょうみなともと赤坂あかさかいち丁目ちょうめあいだ
座標ざひょう 北緯ほくい3540ふん44びょう 東経とうけい13944ふん11びょう / 北緯ほくい35.6788130 東経とうけい139.7362968 / 35.6788130; 139.7362968座標ざひょう: 北緯ほくい3540ふん44びょう 東経とうけい13944ふん11びょう / 北緯ほくい35.6788130 東経とうけい139.7362968 / 35.6788130; 139.7362968
構造こうぞうしょもと
材料ざいりょう コンクリート
全長ぜんちょう 44.75m
はば 22.0m
関連かんれん項目こうもく
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弁慶べんけいきょう昭和しょうわ初期しょき

当初とうしょ神田かんだ松枝まつえまち岩本いわもとまちあいだながれる藍染あいぞめかわけられていたが、のち現在地げんざいち移動いどうされた。

弁慶べんけいきょう江戸城えどじょう普請ふしんたずさわった大工だいく棟梁とうりょうであった弁慶べんけい小左衛門こざえもんけたはしはじまり、かれから「弁慶橋べんけいばし」と名付なづけられたとつたえられる。

かつては神田かんだ松枝まつえまち岩本いわもとまちとのあいだにある藍染あいぞめ川下かわしもりゅうかっていたが、1885ねん明治めいじ18ねん)に藍染あいぞめかわ下水道げすいどう工事こうじめられると弁慶橋べんけいばし不要ふようとなり、撤去てっきょされた。しかし、このままきょううしなわれるのはしいということで、1889ねん明治めいじ22ねん)に紀尾井町きおいちょうからもと赤坂あかさかいち丁目ちょうめつうじる道筋みちすじにある江戸城えどじょう外堀そとぼりへ、もと弁慶橋べんけいばし廃材はいざい利用りようして架橋かきょうされ、はしくてこまっていたりょうきし住民じゅうみんおおいによろこんだという[1]擬宝珠ぎぼうしゅには江戸えど筋違橋すじかいばし浅草橋あさくさばしなどで使つかわれたものが利用りようされた[2]

関東大震災かんとうだいしんさい震災しんさい復興ふっこう橋梁きょうりょうとして1927ねん昭和しょうわ2ねん)に鉄筋てっきんコンクリートはしあらためされた(竣工しゅんこう大正たいしょう15ねん12月)[3]上部じょうぶ構造こうぞう従来じゅうらいおなじく木造もくぞうとし、擬宝珠ぎぼうしゅ一部いちぶ神田かんだきょうのものにえられた[2]

はし戦災せんさいにより被害ひがいけ、しばらく欄干らんかんがないまま使つかわれていたが、1951ねん10月に修復しゅうふく工事こうじえた。あたらしい欄干らんかん木曽きそヒノキもちいられ、被災ひさい以前いぜん姿すがた再現さいげんされた[4]

さらに1985ねん改築かいちくされたのが、現在げんざい弁慶橋べんけいばしである。本体ほんたいはコンクリートせいであるものの、木製もくせい欄干らんかん古風こふう擬宝珠ぎぼうしゅから、外国がいこくじんふく観光かんこうきゃく人気にんきがある。太平洋戦争たいへいようせんそうのち荒廃こうはいしていた弁慶べんけいほりを、小林こばやし義光よしみつ費用ひよう負担ふたんして清掃せいそうし、千代田ちよだ許可きょかボートひらいた。平成へいせい時代じだいになってからはぼり併設へいせつされた[5]

2007ねん千代田ちよだ景観けいかんまちづくり重要じゅうよう物件ぶっけん指定していされた[6]

藍染あいぞめかわ

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藍染あいぞめかわは、江戸えど時代じだいには現在げんざい神田かんだ金物かなものどおりの一本いっぽんきた道筋みちすじながれていた、川幅かわはば1あいだ(1.8m)ほどの小川おがわであった。谷戸たんどがわからながし、下流かりゅうにんながれていた。名前なまえ由来ゆらいは、かわ周辺しゅうへん紺屋こんやあつまっており、そのみず使つかってあいをしていたからというせつ有力ゆうりょくである。

1884ねん明治めいじ17ねん)、人家じんかえたことで下水げすいとおりが悪化あっかした東京とうきょうで、衛生えいせい状態じょうたい改善かいぜんするためにはじめて近代きんだい下水道げすいどう建設けんせつされることになると藍染あいぞめかわもその対象たいしょうとなり、工事こうじ結果けっかかわやそこにかっていたはし姿すがたした。弁慶橋べんけいばしのほかには新橋しんばし紺屋こんやきょう汐見橋しおみばし白壁しらかべきょう、掃部きょうなどがあったというが、詳細しょうさいについてはあまりかっていない。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 弁慶橋べんけいばし - 千代田ちよだ観光かんこう協会きょうかい
  2. ^ a b きょうじゅんぐり 160ぺーじ畑中はたなか健三けんぞう太陽たいようどう書店しょてん昭和しょうわ4。国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 2024ねん5がつ21にち閲覧えつらん
  3. ^ [https://dl.ndl.go.jp/pid/1178423 本邦ほんぽう道路どうろきょう輯覧増補ぞうほばん 9ぺーじ内務省ないむしょう土木どぼく試験しけんしょ昭和しょうわ3。国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション 2024ねん5がつ21にち閲覧えつらん
  4. ^ 弁慶橋べんけいばしできあがる」『朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ26ねん10がつ6にち
  5. ^ 今昔こんじゃくまちばなし弁慶橋べんけいばし東京とうきょう千代田ちよだ都心としん次元じげん空間くうかん一服いっぷくりょう日本経済新聞にほんけいざいしんぶん夕刊ゆうかん2018ねん8がつ18にち社会しゃかいめん)2018ねん8がつ24にち閲覧えつらん
  6. ^ 千代田ちよだ景観けいかんまちづくり重要じゅうよう物件ぶっけん 58 弁慶橋べんけいばし”. 千代田ちよだ. 2022ねん10がつ5にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 新撰しんせん東京とうきょう名所めいしょ図会ずえ 図会ずえ日本にっぽんひゃくねん だい3かん明治めいじ文献ぶんけん、1976ねん9がつ
  • 江戸えど東京とうきょう歴史れきしをたずねて 千代田ちよだまち辞典じてん千代田ちよだ区民くみん生活せいかつ、2005ねん3がつ15にち
  • 北原きたはらすすむ監修かんしゅう大江戸おおえどとおる絵図えず - 千代田ちよだから江戸えどえる(全国ぜんこくばん)』江戸えど開府かいふ400ねん記念きねん事業じぎょう実行じっこう委員いいんかい、2003ねん10がつ1にち ISBN 9784902272000

関連かんれん文献ぶんけん

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  • 斎藤さいとうちょうあき へんまき てんくるる 弁慶橋べんけいばし」『江戸えど名所めいしょ図会ずえいち有朋ありともどう書店しょてん有朋ありともどう文庫ぶんこ〉、1927ねん、103,106ぺーじNDLJP:1174130/57 
  • 斎藤さいとうちょうあき へんまき てんくるる 藍染あいぞめがわ」『江戸えど名所めいしょ図会ずえいち有朋ありともどう書店しょてん有朋ありともどう文庫ぶんこ〉、1927ねん、99,102ぺーじNDLJP:1174130/55 

外部がいぶリンク

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