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敦賀藩 - Wikipedia

敦賀つるがはん

日本にっぽん江戸えど時代じだいに、越前えちぜんこく所在しょざいしたはん

敦賀つるがはん(つるがはん)は、越前えちぜんこく敦賀つるがぐん現在げんざい福井ふくいけん敦賀つるが)を支配しはいしたはん別名べつめい鞠山まるやまはん(まりやまはん)という。

鞠山まるやま神社じんじゃ鞠山まるやまはん陣屋じんやあと北緯ほくい3540ふん42.6びょう 東経とうけい1364ふん39.2びょう / 北緯ほくい35.678500 東経とうけい136.077556 / 35.678500; 136.077556 (鞠山まるやま神社じんじゃ)
けんへんくえ酒井さかい家紋かもん

敦賀つるがはん前史ぜんし結城ゆうき秀康ひでやす松平まつだいら忠直ただなお越前えちぜん松平まつへい領地りょうち一部いちぶである敦賀つるがりょうであった。この敦賀つるがりょうのち松平まつだいらはなれ、若狭わかさ京極きょうごく小浜おばまはんりょうとなった。敦賀つるがはん創設そうせつ小浜おばまはんだい2だい藩主はんしゅ酒井さかい忠直ただなおのぞんで次男じなん酒井さかいただしに1まんせき分与ぶんよしていたことからはじまった。小浜おばまはんささえはんである。はんちょう敦賀つるがぐんさいひがしきずかれた鞠山まるやま陣屋じんやかれ、どう陣屋じんや千葉ちばけん飯野いいの陣屋じんや山口やまぐちけん徳山とくやま陣屋じんやともに、日本にっぽんさんだい陣屋じんやひとつにかぞえられる。

戦国せんごく時代じだい越前えちぜんこく織田おだ信長のぶなが配下はいか柴田しばた勝家かついえおさめていた。信長のぶなが死後しご勝家かついえ羽柴はしば秀吉ひでよしあらそやぶれて自害じがいし、越前えちぜん敦賀つるが5まんせき信長のぶなが配下はいかから秀吉ひでよし家臣かしんとなっていた蜂屋はちやよりゆきたかしあたえられた。天正てんしょう17ねん1589ねん)に蜂屋はちやよりゆきたかし病死びょうしした。嗣子ししがなく、蜂屋はちや断絶だんぜつとなった。

わって秀吉ひでよし近臣きんしん大谷おおやきちままし敦賀つるがおなじく5まんせき入部にゅうぶした。よしつぎ敦賀つるがじょう拡張かくちょう工事こうじなどに尽力じんりょくしたが、かれ奉行ぶぎょうとしての中央ちゅうおう政界せいかいでのはたらきや、朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい後方こうほう担当たんとうやくつとめたことなど多忙たぼうであったためか、あまり敦賀つるがかんする治績ちせきのこっていない。慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたかで、大谷おおや西にしぐんくみして奮戦ふんせんしたが、小早川こばやかわ秀秋ひであき寝返ねがえりにって大谷おおやぐん壊滅かいめつし、よしつぎ自身じしん自害じがい余儀よぎなくされ、大谷おおやほろんだ。

関ヶ原せきがはら徳川とくがわ家康いえやす次男じなん結城ゆうき秀康ひでやすが68まんせき越前えちぜん北庄きたしょうはいった。秀康ひでやす敦賀つるがじょうには城代じょうだいとして家臣かしん清水しみず孝正たかまさいた。秀康ひでやすあといだ松平まつだいら忠直ただなお時代じだい元和がんわ元年がんねん1615ねん)の一国一城いっこくいちじょうれいもとづいて敦賀つるがじょうやぶ却され、敦賀つるがりょう事実じじつじょう廃絶はいぜつとなった。

敦賀つるがはん鞠山まるやまはん)の歴史れきし

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敦賀つるがはん天和てんわ2ねん1682ねん)、小浜おばまはんだい2だい藩主はんしゅ酒井さかい忠直ただなお次男じなんちゅうが、ちち遺言ゆいごんもとづいてのこりょうのうち越前えちぜん敦賀つるがぐん近江おうみ高島たかしまぐんうちにおいて1まんせき分与ぶんよされたことにはじまる小浜おばまはんささえはんである。しかし敦賀つるがぐんのほとんどは小浜おばまはんりょうであり、敦賀つるがはんとはいっても敦賀つるがぐん一部いちぶりょうしているにすぎなかった。貞享ていきょう4ねん1687ねんはる赤崎あかさきしおこみ鞠山まるやま改称かいしょうして陣屋じんや設置せっちした。このため、このはん鞠山まるやまはんともばれている。

歴代れきだい藩主はんしゅ江戸えど定府じょうふつねであり、領国りょうごく支配しはい本家ほんけ小浜おばまはんになっていた。そのため、陣屋じんや実際じっさい利用りようしていたのは、少数しょうすう役人やくにんのみであったとわれている。だい4だい藩主はんしゅ酒井さかいただし時代じだいたかられき9ねん1759ねん)、敦賀つるがはん形式けいしき上本うえほん小浜おばまはん支配しはいから独立どくりつしたはんとなった。しかし敦賀つるがはんでは財政難ざいせいなん相次あいついだ。このためだい7だい藩主はんしゅ酒井さかいただし(ただます)時代じだい安政あんせい6ねん1859ねん)10がつ本家ほんけ小浜おばまはん所領しょりょう返還へんかんし、自主じしゅてきはいはんしようとするうごきがあったが、領民りょうみんもう反対はんたいしたために中止ちゅうしせざるをなくなった。ちゅう毗は若年寄わかどしよりつとめた功績こうせきにより文久ぶんきゅう元年がんねん1861ねん)9がつに1080せき加増かぞうされ、翌年よくねん6がつには城主じょうしゅかくあたえられるにいたった。しかしこのため、藩主はんしゅによる参勤交代さんきんこうたい義務ぎむしょうじ、さらに財政難ざいせいなん拍車はくしゃがかかった。

ちゅう毗は佐幕さばく立場たちばであったが、慶応けいおう3ねん1867ねん)6がつちゅうけい家督かとくゆずって隠居いんきょした。よく慶応けいおう4ねん明治めいじ元年がんねん1868ねん)の戊辰戦争ぼしんせんそうにおいてはしん政府せいふがわくみし、北陸ほくりくどう鎮撫ちんぶ使先鋒せんぽうやくつとめた。明治めいじ元年がんねん(1868ねん)6がつ京都きょうとにおいて藩士はんし5にん家老がろうらを殺害さつがいする事件じけん鞠山まるやま騒動そうどう)が発生はっせいした。

明治めいじ2ねん6がつ24にち(1869ねん8がつ1にち)、版籍はんせき奉還ほうかんおこなわれた。よく明治めいじ3ねん1870ねん)3がつ敦賀つるがはんはんめい正式せいしき鞠山まるやまはん改称かいしょうし、同年どうねん9がつにその所領しょりょう小浜おばまはん併合へいごうされた。ただし、小浜おばまはん知事ちじであった酒井さかいただしろくがこれを引退いんたいしたため、合併がっぺい小浜おばまはん知事ちじきゅう鞠山まるやまはん知事ちじである酒井さかいただしけいつとめることになった。

よく明治めいじ4ねん1871ねん)の廃藩置県はいはんちけん完全かんぜんはいはんとなり、その所領しょりょう小浜おばまけんとなり、その敦賀つるがけん滋賀しがけんて、明治めいじ14ねん1881ねん)2がつ福井ふくいけん編入へんにゅうされた。

名門めいもん若狭わかさ酒井さかいささえはんであっただけに、歴代れきだい藩主はんしゅおおくがだい番頭ばんがしら奏者そうしゃばん寺社じしゃ奉行ぶぎょう若年寄わかどしよりだい坂城さかきばんなどの幕府ばくふ要職ようしょくつとめるなど、しょうはんながらその存在そんざいおおきくられていた。

敦賀つるがはん以前いぜん領主りょうしゅ

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歴代れきだい藩主はんしゅ

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酒井さかい

1まんせき 譜代ふだい1682ねん - 1871ねん

  1. 酒井さかいただし(ただしげ) したがえ みぎきょうあきら
  2. 酒井さかいただしきく(ただぎく) したがえ 飛騨ひだもり
  3. 酒井さかい忠武ただたけ(ただたけ) したがえ みぎきょうあきら
  4. 酒井さかいただし(ただか) したがえ 飛騨ひだもり
  5. 酒井さかい忠言ちゅうげん(ただのぶ) したがえ 相模さがみもり
  6. 酒井さかいただし(ただえ) したがえ 飛騨ひだもり 〔えは草冠くさかんむり+つき
  7. 酒井さかいただし(ただます) したがえ みぎきょうあきら 〔ますは+
  8. 酒井さかいただしけい(ただつね) したがえ みぎきょうあきら

幕末ばくまつ領地りょうち

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きゅうこう旧領きゅうりょう取調とりしらべちょう」ではすでに小浜おばまはんりょうとなっているが、ここでは「角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん」(18・福井ふくいけん、25・滋賀しがけん)の記述きじゅつによった。

  • 越前えちぜんこく
  • 近江おうみこく
    • 高島たかしまぐんのうち - 13むら三谷みたにむら井ノ口いのくちむらべいないむら安養寺あんようじむら堀川ほりかわむら鍛冶屋かじやむら、請所むら三田みたむら仁和寺にわじむら五番領ごばんりょうむら三重みえせいむらじゅうはち川村かわむら野田のだむら

関連かんれんリンク

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先代せんだい
越前えちぜんこく
行政ぎょうせい変遷へんせん
1682ねん - 1871ねん 敦賀つるがはん鞠山まるやまはん
次代じだい
小浜おばまはん