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新律綱領 - Wikipedia

しんりつ綱領こうりょう

日本にっぽん法令ほうれい

しんりつ綱領こうりょう(しんりつこうりょう)は明治めいじ政府せいふのもとで頒布はんぷされた最初さいしょ刑法けいほうてん。1871ねん2がつ明治めいじ3ねん12がつ)に発布はっぷされ、1873ねん改定かいていりつれいにより内容ないよう補充ほじゅう体系たいけい整理せいりおこなわれたのち、1882ねん明治めいじ15ねん)のきゅう刑法けいほう施行しこうにより廃止はいしされた。

しんりつ綱領こうりょう
日本国政府国章(準)
日本にっぽん法令ほうれい
法令ほうれい番号ばんごう 明治めいじ3ねん12がつ20日はつか
種類しゅるい 刑法けいほう
効力こうりょく 廃止はいし
公布こうふ 1871ねん2がつ9にち
関連かんれん法令ほうれい 改定かいていりつれい
条文じょうぶんリンク 法令ほうれい全書ぜんしょ明治めいじ3ねんだい944】
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しんりつ綱領こうりょう表紙ひょうし

概要がいよう

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明治維新めいじいしんによりがった明治めいじ政府せいふのもと、それまでのかりけいりつわり1870ねん12月に発布はっぷされた「しんりつ綱領こうりょう」は、ぜん6かん814りつ192じょうからなる刑法けいほうてんである[1]

あきらしんりつをもとにして1870ねん11月2にち旧暦きゅうれき10がつ9にち)に「しんりつひさげつな」がり、のち「しんりつ綱領こうりょう」と改称かいしょうされ、旧暦きゅうれき12がつ20日はつか頒布はんぷ上諭じょうゆがでた[2]江戸えど幕府ばくふ公事こうじかたじょうしょ中国ちゅうごく大明だいめいりつだいせいただし参考さんこうに、当時とうじ刑部おさかべ大輔だいすけだった佐々木ささき高行たかゆきのもと、法制ほうせい官僚かんりょう水本みずもと成美まさみ鶴田つるたあきら村田むらたたもつ長野ながのぶんらによって作成さくせいされた[3]せいけいとしてけいむちざいつえざいざい流罪るざい死罪しざい)が規定きていされ、華族かぞく士族しぞくたいしてうるうけいなまけいえてせられる寛大かんだいけい)を採用さいようしていたほか、類推るいすい適用てきよう遡及そきゅうこうみとめるなど、罪刑法定ざいけいほうてい主義しゅぎのっとらない前代ぜんだいてき刑法けいほうてんであった[3][4]かりけいりつ準則じゅんそくのため刑法けいほうかん部内ぶないのみで共有きょうゆうされたが、しんりつ綱領こうりょうはんけん頒布はんぷされ、翌年よくねんには書籍しょせきとしての印刷いんさつ販売はんばい許可きょかされたため、国民こくみんひろくその内容ないようることができた[1]

1873ねん6がつ13にちに「改定かいていりつれい」が頒布はんぷ、7がつ10日とおか実施じっしされたさいには前年ぜんねん成立せいりつした懲役ちょうえきほうのっとり、けいのうちむちざいつえざい懲役ちょうえきえられた[5]。1876ねん6がつ10日とおか改定かいていりつれいだい318じょう改正かいせいされ(太政官だじょうかん布告ふこく)、断罪だんざい証拠しょうこによることが規定きていされた。しんりつ綱領こうりょうおよび改定かいていりつれいは1882ねんきゅう刑法けいほう施行しこうまで効力こうりょく発揮はっきしていた[3]

1868ねん江戸えど幕府ばくふ大政奉還たいせいほうかんけて誕生たんじょうした明治めいじ政府せいふ箇条かじょう誓文せいもんしめし、榜の掲示けいじおこなった。体系たいけいてき法律ほうりつ即座そくざ制定せいてい公布こうふすることがむずかしかった明治めいじ政府せいふ同年どうねん10がつ行政ぎょうせいかん布達ふたつおこない、刑罰けいばつについてきゅう幕府ばくふはん刑法けいほう適用てきようするむねあきらかにした。そして同時どうじに、以下いか特筆とくひつすべきつみばつについて言及げんきゅうし、内容ないよう変更へんこうとなるむね通達つうたつされた[6]

個別こべつ具体ぐたいてき内容ないようについては公布こうふはされず、124の条目じょうもくからかりけいりつとして運用うんようされた。しかしながら近代きんだいすすめたい明治めいじ政府せいふとしては旧態きゅうたい依然いぜんとしたかりけいりつからの脱却だっきゃく加速かそくさせるべく、1869ねん10がつ7にち刑部おさかべしょうたいしんりつ編纂へんさんめいじた[7]編纂へんさん水本みずもと成美まさみ鶴田つるたあきら村田むらたたもつ長野ながのぶんらが担当たんとうし、しんりつ綱領こうりょう命名めいめいされた[8]。1870ねん1がつ20日はつか太政官だじょうかんによりしんりつ綱領こうりょう公布こうふ予告よこくされ、同年どうねん12がつ27にち全国ぜんこく頒布はんぷされた[9]

1872ねん江藤えとう新平しんぺい司法しほうきょう就任しゅうにんするとフランスから法典ほうてん研究けんきゅう翻訳ほんやくがさかんにおこなわれるようになり、1873ねん6がつ13にち司法省しほうしょうよりしんりつ綱領こうりょう補足ほそく修正しゅうせいする改定かいていりつれい頒布はんぷされ(実施じっしは7がつ10日とおか)、内容ないよう条文じょうぶん形式けいしき採用さいようされるなどフランスの刑法けいほう影響えいきょうえるようになった[10]改定かいていりつれい制定せいてい大木おおき喬任たかとうのもとでギュスターヴ・エミール・ボアソナード名村なむらやすしぞう鶴田つるたあきら山田やまだあらわよしらによって刑法けいほうてん編纂へんさんつづけられ、1880ねん7がつ17にちにフランス刑法けいほうはんとした近代きんだいてき刑法けいほうてんであるきゅう刑法けいほう布告ふこくされるにいたった[11](1882ねん1がつ1にち施行しこう)。これにともなしんりつ綱領こうりょうは1882ねんきゅう刑法けいほう施行しこうにより廃止はいしとされ、その役目やくめえた[3]

内容ないよう

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しんりつ綱領こうりょうめいれいりつじょう13じょうめいれいりつ27じょう職制しょくせいりつ15じょうこんりつ11じょうぞくぬすめりつ22じょう人命じんめいりつじょう10じょう人命じんめいりつ16じょうたたかえなぐりつ14じょう罵詈ばりりつ5じょう訴訟そしょうりつ8じょう、受贓りつ10じょう詐偽さぎりつ9じょうはんかんりつ5じょうざつはんりつ10じょうほろびりつ6じょう断獄だんごくりつ11じょう合計ごうけい14りつ192じょうぜん6かん編纂へんさんされている[9]

内容ないようとして、めいれいりつ刑罰けいばつ執行しっこう方法ほうほうについて規定きていしそのりつ個別こべつ具体ぐたいてき場合ばあいについて罰則ばっそく規定きていもうけた。刑罰けいばつけいむちざいつえざいざい流罪るざい死罪しざい)およびうるうけいもうけ、身分みぶんによる刑罰けいばつ執行しっこう方法ほうほう区別くべつしている。士族しぞくうるうけい同様どうよううるうけいは、明治めいじ4ねん6がつ27にち官吏かんり僧侶そうりょ戒律かいりつやぶはなはだしき場合ばあいでない犯罪はんざい流刑りゅうけい以下いか刑罰けいばつせられた場合ばあい)において、むちざい謹慎きんしんつえざい閉門へいもんざい禁錮きんこ流罪るざい辺境へんきょう守備しゅびやく明治めいじ4ねん6月27にち以降いこう禁錮きんこけいかわけい[12])、死罪しざいたっ切腹せっぷく)で代替だいたいできるとした[13]死罪しざいについては絞首刑こうしゅけいおよび斬首ざんしゅけい基本きほんとし、梟首きょうしゅ制度せいど一部いちぶ残存ざんそんした[14]職制しょくせいりつではかん中心ちゅうしんとした刑罰けいばつ規定きていされ、公文書こうぶんしょ破損はそん棄却ききゃく誤字ごじなどの罰則ばっそく離職りしょくについての規定きていなどがまれている[14]

全体ぜんたいとしてはいえ制度せいど色濃いろこのこされた規定きていおお制定せいていされており、人命じんめいりつにおいて家族かぞく祖父母そふぼ父母ちちははしゅうとあにあねなど)の殺害さつがいすべから死刑しけいとされていたり、たたかえなぐりつにおいてつまおっとなぐり、大病たいびょういたらしめた場合ばあい死罪しざい、そのぎゃく無罪むざいといった内容ないよう規定きていされ、罵詈ばりりつでは職階しょっかい家族かぞく関係かんけいなどにおいてしたものうえものののしった場合ばあいについての罰則ばっそく規定きていされている[14]訴訟そしょうりつにおいてもまごつまわらわなどがおやおっと告訴こくそする場合ばあい造反ぞうはんとされ、処罰しょばつ対象たいしょうとなっている[14]

また、かりけいりつ存在そんざいしていた復讐ふくしゅう規定きていは1870ねん禁止きんし決定けっていされ、しんりつ綱領こうりょうからは削除さくじょされた[14]

刑罰けいばつ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 平凡社へいぼんしゃ世界せかいだい百科ひゃっか事典じてんだい2はんしんりつ綱領こうりょう-コトバンク
  2. ^ 法令ほうれい全書ぜんしょ
  3. ^ a b c d ブリタニカ『ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてんしんりつ綱領こうりょう-コトバンク
  4. ^ 小学しょうがくかん日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)』しんりつ綱領こうりょう-コトバンク
  5. ^ 小学しょうがくかん日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)』刑罰けいばつ-コトバンク
  6. ^ 北條ほうじょう.宮平みやだいら 2009, p. 23.
  7. ^ たに 2009, p. 285.
  8. ^ たに 2009, p. 286.
  9. ^ a b 北條ほうじょう.宮平みやだいら 2009, p. 34.
  10. ^ たに 2009, p. 288.
  11. ^ たに 2009, p. 292.
  12. ^ 太政官だじょうかん (1872ねん6がつ). “士族しぞくそつ犯罪はんざい戍ニしょスルしゃ年限ねんげんあきら禁錮きんこかわ” (JPEG,PDF). 国立こくりつ公文書こうぶんしょかん. 2023ねん4がつ23にち閲覧えつらん
  13. ^ 北條ほうじょう.宮平みやだいら 2009, p. 35-38.
  14. ^ a b c d e 北條ほうじょう.宮平みやだいら 2009, p. 35.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 北條ほうじょうひろし, 宮平みやだいら真弥まや日本にっぽん近代きんだい刑法けいほう成立せいりつ過程かてい」『流通経済大学りゅうつうけいざいだいがく法学部ほうがくぶりゅうけい法學ほうがくだい9かんだい1ごう流通経済大学りゅうつうけいざいだいがく、2009ねん8がつ、13-57ぺーじISSN 1347281XNAID 110010007867 
  • たに正之まさゆき弁護士べんごし誕生たんじょうとその背景はいけい(3) : 明治めいじ時代じだい前期ぜんき刑事けいじ法制ほうせい刑事けいじ裁判さいばん」『松山大学まつやまだいがく論集ろんしゅうだい21かんだい1ごう松山大学まつやまだいがく総合そうごう研究所けんきゅうじょ、2009ねん4がつ、279-361ぺーじISSN 09163298NAID 1100075792002021ねん6がつ1にち閲覧えつらん 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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