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新長谷寺 - Wikipedia

しん長谷寺はせでら

岐阜ぎふけんせきにある寺院じいん

しん長谷寺はせでら(しんちょうこくじ)は、岐阜ぎふけんせき長谷寺はせでらまち1にある真言宗しんごんしゅうさとしやま寺院じいんである。山号さんごう吉田山よしだやま[1]地元じもとでは吉田よしだ観音かんのん(きったかんのん)とばれる[1]

しん長谷寺はせでら
本堂ほんどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい
所在地しょざいち 岐阜ぎふけんせき長谷寺はせでらまち1
位置いち 北緯ほくい3529ふん6.34びょう 東経とうけい13655ふん23.92びょう / 北緯ほくい35.4850944 東経とうけい136.9233111 / 35.4850944; 136.9233111座標ざひょう: 北緯ほくい3529ふん6.34びょう 東経とうけい13655ふん23.92びょう / 北緯ほくい35.4850944 東経とうけい136.9233111 / 35.4850944; 136.9233111
山号さんごう 吉田山よしだやま
宗派しゅうは 真言宗しんごんしゅうさとしやま
本尊ほんぞん じゅういちめん観世音菩薩かんぜおんぼさつ
創建そうけんねん つてさだおう元年がんねん1222ねん
開基かいき つてまもるみとめこう堀河ほりかわ天皇てんのう勅願ちょくがん
別称べっしょう 吉田よしだ観音かんのん美濃みの法隆寺ほうりゅうじ
札所ふだしょとう 美濃みの四国しこくじゅうばん
美濃みのさんじゅうさん観音かんのんさんじゅうさんばん
美濃みの七福神しちふくじん毘沙門天びしゃもんてん
ちゅうはちじゅうはちヶ所かしょ霊場れいじょうはちじゅうはちばん
文化財ぶんかざい 三重みえとう本堂ほんどう木造もくぞうじゅういちめん観音かんのん立像りつぞうほか(重要じゅうよう文化財ぶんかざい
仁王門におうもん文化財ぶんかざい
法人ほうじん番号ばんごう 8200005007715
新長谷寺の位置(岐阜県内)
新長谷寺
しん長谷寺はせでら
しん長谷寺はせでら (岐阜ぎふけん)
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本尊ほんぞんじゅういちめん観世音菩薩かんぜおんぼさつ[2]三重みえとう本堂ほんどうなど、重要じゅうよう文化財ぶんかざいおおく、美濃みの法隆寺ほうりゅうじ別名べつめいがある。

美濃みの四国しこくだいじゅうばん美濃みのさんじゅうさん観音かんのん霊場れいじょうだいさんじゅうさんばん札所ふだしょ美濃みの七福神しちふくじん毘沙門天びしゃもんてん)。ちゅうはちじゅうはちヶ所かしょ霊場れいじょうはちじゅうはちばん

沿革えんかく

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こう堀河ほりかわ天皇てんのう勅願ちょくがんにより、さだおう元年がんねん(1222ねん)にまもるにん上人しょうにんまもる荵上じん)がひらけそうし、よしみろく2ねん(1226ねん)までのあいだ七堂伽藍しちどうがらんいんじゅうろくぼう造立ぞうりゅうされた[2][3]

正安まさやす2ねん(1300ねん)に戦火せんか伽藍がらんぼうしゃ焼失しょうしつしたが、稲葉いなば城主じょうしゅ二階堂にかいどう出羽守でわのかみぎょうふじによって再建さいけんされた[2]長禄ちょうろく元年がんねん1457ねん)にふたた戦火せんか一部いちぶ建物たてもの焼失しょうしつするが、三河みかわまもるみなもとよりゆきしゅうらがしゅううん阿闍梨あじゃりたすけて再興さいこうした[2]

かつてはおおくのいん存在そんざいしたが、明治めいじ元年がんねん1868ねん廃仏毀釈はいぶつきしゃくのため、現在げんざい規模きぼ縮小しゅくしょうされる。

現存げんそんするひのきがわ堂塔どうとう室町むろまち時代ときよ中期ちゅうきごろのものである[2]。しかし、江戸えど時代じだい度重たびかさなる修補しゅうほ明治めいじ時代じだいだい修理しゅうり様式ようしきおおきく変更へんこうされていた時代じだいもある[1]

昭和しょうわ25ねん1950ねん)に解体かいたい修理しゅうりのための調査ちょうさはじまり、昭和しょうわ28ねん1953ねん)までには明治めいじ時代じだい改変かいへんされた部分ぶぶん変更へんこうされ、桟瓦葺かわらぶき屋根やねひのきがわきに復旧ふっきゅうされた[2]昭和しょうわ35ねん1960ねん)に解体かいたい修理しゅうり完了かんりょうし、室町むろまち時代じだい様式ようしき復元ふくげんされた[1]

文化財ぶんかざい

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仁王門におうもんせき指定してい文化財ぶんかざい

重要じゅうよう文化財ぶんかざい

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  • 本堂ほんどう - かたあいだ入母屋いりもやづくりひのきがわ葺。1460ねんひろしせい元年がんねん再建さいけん。1909ねん明治めいじ42ねん指定してい
  • 三重みえとう - ひのきがわ葺。たかさ20.1m。1463ねんひろしせい4ねん再建さいけん。1909ねん明治めいじ42ねん指定してい
  • 大師堂だいしどう - かたさんあいだよせとうづくりひのきがわ葺。室町むろまち時代じだい後期こうき。1953ねん昭和しょうわ28ねん指定してい
  • 阿弥陀堂あみだどう - かたさんあいだ入母屋いりもやづくりひのきがわ葺。室町むろまち時代じだい後期こうき。1953ねん昭和しょうわ28ねん指定してい
  • 釈迦堂しゃかどう - かたさんあいだよせとうづくりひのきがわ葺。室町むろまち時代じだい後期こうき。1953ねん昭和しょうわ28ねん指定してい
  • 薬師堂やくしどう - 正面しょうめんよんあいだ側面そくめんさんあいだよせとうづくりひのきがわ葺。室町むろまち時代じだい後期こうき。1953ねん昭和しょうわ28ねん指定してい
  • 鎮守ちんじゅどう - さんあいだしゃ流造ながれづくりひのきがわ葺。室町むろまち時代じだい後期こうき。1953ねん昭和しょうわ28ねん指定してい
  • 客殿きゃくでん - よせとうづくりどう板葺いたぶき江戸えど時代じだい前期ぜんき。1953ねん昭和しょうわ28ねん指定してい
  • 木造もくぞうじゅういちめん観音かんのん立像りつぞう長谷寺はせでらじゅういちめん観音かんのんおなつくられたという秘仏ひぶつ実際じっさい制作せいさく鎌倉かまくら時代じだいとみられる。うまとし3がつ開帳かいちょう 
  • 厨子ずしにゅう木造もくぞう阿弥陀如来あみだにょらい立像りつぞう鎌倉かまくら時代じだい 秘仏ひぶつ毎年まいとし3がつ18にち開帳かいちょう[1]

せき指定してい文化財ぶんかざい

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  • 仁王門におうもんもんともいう) - たかられき3ねん徳川とくがわにより再建さいけんされる。昭和しょうわ37ねん参道さんどう中央ちゅうおうにあったものを現在げんざい位置いち移動いどうした。
    正面しょうめん金剛力士こんごうりきし仁王におうぞう運慶うんけいさくつたえるが、実際じっさい作者さくしゃ不明ふめい
    背面はいめん創建そうけん当時とうじ狛犬こまいぬまつられていた。

行事ぎょうじ

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  • 2がつ3にちほしまつり
  • 2がつ18にちはつ観音かんのん
  • 8がつ9にちきゅうまんきゅうせんにち供養くよう

基本きほん情報じょうほう

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所在地しょざいち
交通こうつうアクセス

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e 馬場ばば光子みつこ傀儡かいらいおんな延寿えんじゅ伝承でんしょう生成せいせいこう : 吉田山よしだやましん長谷寺はせでら阿弥陀如来あみだにょらい立像りつぞう伝承でんしょうをめぐって」『杉野すぎの服飾ふくしょく大学だいがく杉野すぎの服飾ふくしょく大学だいがく短期大学たんきだいがく紀要きようだい2かん杉野すぎの服飾ふくしょく大学だいがく、2003ねん、A1-A11、CRID 1050564288204274944ISSN 13483501NAID 110007025150 
  2. ^ a b c d e f しん長谷寺はせでら本堂ほんどう」(くに指定してい重要じゅうよう文化財ぶんかざい屋根やね保存ほぞん修理しゅうり現場げんば見学けんがくかいについて”. せき文化財ぶんかざい保護ほごセンター. 2023ねん9がつ24にち閲覧えつらん
  3. ^ だいしょう 北陸ほくりく岐阜ぎふ地方ちほうとう”. 建築けんちく研究けんきゅう開発かいはつコンソーシアム. 2023ねん9がつ24にち閲覧えつらん