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日展 - Wikipedia

日展にってん

かんてんながれを日本にっぽん最大さいだい総合そうごう美術びじゅつ展覧てんらんかい

日展にってん(にってん)は、かんてんながれを日本にっぽん最大さいだい総合そうごう美術びじゅつ展覧てんらんかいである[1]開催かいさい団体だんたい定款ていかんでは「日本にっぽん美術びじゅつ展覧てんらんかい」が正式せいしき名称めいしょうであるが[1]日展にってん呼称こしょうひろられる。

公益社こうえきしゃだん法人ほうじん日展にってん
設立せつりつ 1958ねん昭和しょうわ33ねん[1]後述こうじゅつ
種類しゅるい 公益社こうえきしゃだん法人ほうじん
法人ほうじん番号ばんごう 2010505002083 ウィキデータを編集
本部ほんぶ 東京とうきょう台東たいとう上野桜木うえのさくらぎ2-4-1[1]
会長かいちょう 宮田みやた亮平りょうへい理事りじちょう[1]
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また、どう展覧てんらんかいとし1かい通年つうねん主催しゅさいする開催かいさい団体だんたい名称めいしょうが、展覧てんらんかいおな公益社こうえきしゃだん法人ほうじん日展にってんである[2]ため、ここでは団体だんたい歴史れきしてき変遷へんせん美術びじゅつ展覧てんらんかい開催かいさいれきわせて解説かいせつする。

概要がいよう

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1907ねん明治めいじ40ねん)から継続けいぞくして東京とうきょう毎年まいとし11がつ公募こうぼてん開催かいさいしており、来場らいじょうしゃすうは1かげつあいだで16まんにんから18まんにんかぞえる[2]。また地方ちほう都市とし巡回じゅんかいてん開催かいさいしている。

かつては政府せいふ主催しゅさいかんてんであったが、1958ねん昭和しょうわ33ねん)に開催かいさい組織そしきである日展にってん日本にっぽん芸術げいじゅついんから独立どくりつ分離ぶんり社団しゃだん法人ほうじんしたことにともな完全かんぜん民営みんえい公募こうぼ美術びじゅつ展覧てんらんかいとなった[1][2]

2006ねんまで上野うえの東京とうきょう美術館びじゅつかん開催かいさいされてきたが、老朽ろうきゅうのためどう美術館びじゅつかん改修かいしゅう工事こうじおこなわれたことと、よりひろ展示てんじスペースを確保かくほするため、2007ねんから六本木ろっぽんぎ国立こくりつしん美術館びじゅつかん開催かいさいされている。展覧てんらんかい期間きかんちゅうの11月12にち休館きゅうかん当該とうがい週末しゅうまつたるはそのまえ平日へいじつ)には無料むりょう開放かいほうされるほか、講演こうえんかい開催かいさいされている。

2017ねん平成へいせい29ねん)の改組かいそしんだい4かい日展にってんで1907ねん明治めいじ40ねん)のだい1かい文展ぶんてんからかぞえて110ねんむかえた[1]

日展にってん正式せいしき名称めいしょう組織そしき変更へんこうおよび公募こうぼてん名称めいしょう変更へんこうわせていく変遷へんせんしており、かつては「文展ぶんてん」「しん文展ぶんてん」「みかどてん」などの公称こうしょう使用しようされていた[2]

開催かいさい経緯けいいはつ開催かいさい

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1879ねん明治めいじ12ねん)に日本にっぽん美術びじゅつ協会きょうかい創設そうせつされ、以降いこう個展こてんかく美術びじゅつ流派りゅうはごとの絵画かいが美術びじゅつ工芸こうげいひん展覧てんらんかいひろおこなわれていた[3]

明治めいじ末期まっきになると美術びじゅつかいではこれらかく美術びじゅつ流派りゅうは網羅もうらした一大いちだい展覧てんらんかい開催かいさいしたい、という機運きうんたかまり、1907ねん明治めいじ40ねん)6がつ文部省もんぶしょうが「美術びじゅつ審査しんさ委員いいんかい官制かんせい」を制定せいてい、その美術びじゅつ展覧てんらんかい規程きてい」を公布こうふとし1かい全国ぜんこく美術びじゅつ展覧てんらんかい開催かいさい決定けっていした[3]。これらにもとづいて開催かいさいされたのが1907ねん明治めいじ40ねん開催かいさいだい1かい文部省もんぶしょう美術びじゅつ展覧てんらんかい文展ぶんてん)であり、政府せいふ美術びじゅつ振興しんこうさく一環いっかんとして施行しこうされた日本にっぽんはつかんてんであり、明治めいじ時代じだい美術びじゅつかいおおきな影響えいきょうあたえた[2]

1911ねん明治めいじ44ねん)に文部省もんぶしょう文芸ぶんげい委員いいんかい官制かんせいおよび文芸ぶんげい委員いいんかい規則きそくさだめて文芸ぶんげい委員いいんかい設置せっち社会しゃかい風潮ふうちょう調整ちょうせい目的もくてき穏健おんけん優秀ゆうしゅうとされる文芸ぶんげい著作ちょさくぶつ発達はったつ目的もくてきとして文部省もんぶしょう美術びじゅつ展覧てんらんかいんだが、もり林太郎りんたろうの『ファウスト』の翻訳ほんやく坪内つぼうち逍遙しょうよう表彰ひょうしょうしたのみで企画きかくとしては失敗しっぱいわり、1913ねん大正たいしょう2ねん)6がつ文芸ぶんげい部門ぶもん廃止はいしされた[3]

最初さいしょ開催かいさい公募こうぼてん募集ぼしゅう部門ぶもんは「日本にっぽん」、「西洋せいよう」、「彫刻ちょうこく」の3部門ぶもんだった。

帝国ていこく美術びじゅついん時代じだい

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明治めいじ時代じだい国内こくない美術びじゅつかい多大ただい影響えいきょうあたえた文展ぶんてんだったが[2]末期まっきには審査しんさいん任命にんめい方式ほうしき授賞じゅしょうさいしての批判ひはん内外ないがいにあり改革かいかくこえたかまったこと、および政府せいふ美術びじゅつ行政ぎょうせいとして美術びじゅつ展覧てんらんかいのみを開催かいさいすることにたい不満ふまんこえたかかった[3]

それらの批評ひひょう反映はんえいし、文部省もんぶしょうは1919ねん大正たいしょう8ねん)9がつに「帝国ていこく美術びじゅついん規程きてい」を公布こうふ院長いんちょう1めい会員かいいん15めい以内いないからなる帝国ていこく美術びじゅついん設立せつりつされ、文展ぶんてん審査しんさいんになっていた美術びじゅつ審査しんさ委員いいんかい廃止はいしされた[3]同時どうじに、帝国ていこく美術びじゅついん文部省もんぶしょうわって美術びじゅつ展覧てんらんかい開催かいさいすることとされ(みかどてん/帝国ていこく美術びじゅつ展覧てんらんかい)、また審査しんさいん半数はんすう文部もんぶ大臣だいじん推薦すいせんのこりの半数はんすう帝国ていこく美術びじゅついん推薦すいせんによるものと制定せいてい公平こうへいせいたもった[3]。1923ねん大正たいしょう12ねん9月1にち関東大震災かんとうだいしんさい発生はっせいし、同年どうねん展覧てんらんかい中止ちゅうしとなった。

帝国ていこく美術びじゅついん末期まっきの1930ねん昭和しょうわ5ねん)には会員かいいんすう30にん増加ぞうか展覧てんらんかい開催かいさい以外いがい事業じぎょうおこなった[3]。またみかどてん時代じだい、1926ねん昭和しょうわ元年がんねん)から「美術びじゅつ工芸こうげい」がくわえられて4部門ぶもんとなっている[1][3]

1932ねん昭和しょうわ7ねん)、だい13かいみかどてんむか東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶんは「かんてん使命しめいえた」として社説しゃせつ批判ひはん審査しんさ例年れいねんして厳選げんせん主義しゅぎっている一方いっぽう鑑査かんさ出品しゅっぴんきわめておおいこと、だい一部いちぶにおいて審査しんさ主任しゅにんしゃ系統けいとうぞくする入選にゅうせんおおいことなどを指摘してきした[4]

帝国ていこく芸術げいじゅついん時代じだい

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1935ねん昭和しょうわ10ねん)にふたた帝国ていこく美術びじゅついん改革かいかく問題もんだいとなったことをけて文部もんぶ大臣だいじん松田まつだ源治げんじ[5]指示しじのもと[3]会員かいいん定数ていすうを30めいから50めい増員ぞういん在野ざいや美術びじゅつ団体だんたい代表だいひょう美術家びじゅつか全員ぜんいん一致いっち体制たいせい目指めざした。これがいわゆる「松田まつだ改組かいそ」とばれる改革かいかくである[3]

しかしこの改革かいかく美術家びじゅつかあいだ不満ふまんこり、よく1936ねん昭和しょうわ11ねん)にも再度さいど改組かいそおこなわれたが紛糾ふんきゅうまらず、政府せいふは1937ねん昭和しょうわ12ねん)6がつ芸術げいじゅつ全般ぜんぱんかかわる重要じゅうよう事項じこう審議しんぎ、それらの発達はったつ必要ひつよう不可欠ふかけつ事業じぎょうおこなうために文部もんぶ大臣だいじん意見いけん陳述ちんじゅつ可能かのう芸術げいじゅつ専門せんもん機関きかんとして帝国ていこく芸術げいじゅついん設立せつりつした[3]

帝国ていこく芸術げいじゅついん構成こうせい院長いんちょう1めい会員かいいん80めい以内いない部門ぶもん構成こうせいだい一部いちぶ美術びじゅつ絵画かいが彫塑ちょうそ工芸こうげい書道しょどう建築けんちく)、だい文芸ぶんげいだいさん音楽おんがく雅楽ががく能楽のうがくとされた[3]

また芸術げいじゅつ奨励しょうれい事業じぎょう一環いっかんとして帝国ていこく芸術げいじゅついんしょうげん日本にっぽん芸術げいじゅついんしょう)を授与じゅよすることとなり、だい1かい帝国ていこく芸術げいじゅついんしょう授賞じゅしょうは1941ねん昭和しょうわ16ねん)におこなわれた[3]

このとき、帝国ていこく芸術げいじゅついん事業じぎょうから美術びじゅつ展覧てんらんかい開催かいさいはなされ、開催かいさい所管しょかん文部省もんぶしょうへとうつり、1938ねん昭和しょうわ13ねん)のだい1かいしん文展ぶんてんしん文部省もんぶしょう美術びじゅつ展覧てんらんかい)より1944ねん昭和しょうわ19ねん)の戦時せんじ特別とくべつてんまでつづいた[3][6]

長年ながねんみかどてんにおける審査しんさ挙手きょしゅによりおこなわれてきたため、審査しんさいんあいだじょうへいしはさむという重大じゅうだい欠陥けっかんがあった。しん文展ぶんてん改組かいそするのたり、審査しんさ投票とうひょうおこなわれるようあらためられている[7]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)11月には開催かいさい見送みおくられた[6]よく1946ねん昭和しょうわ21ねんはるだい一部いちぶ日本にっぽんだい西洋せいようだいさん彫塑ちょうそだいよん美術びじゅつ工芸こうげいの4せい設定せっていだい1かい日本にっぽん美術びじゅつ展覧てんらんかい日展にってん)が開催かいさいされ、また同年どうねんあきだい2かい日展にってん開催かいさいされた[1]以降いこうふたた通年つうねん開催かいさいもどった[1][6]

1947ねん昭和しょうわ22ねん)になると帝国ていこく芸術げいじゅついん日本にっぽん芸術げいじゅついん改称かいしょうされ、よく1948ねん昭和しょうわ23ねん)より日本にっぽん美術びじゅつ展覧てんらんかい開催かいさい母体ぼたいふたた日本にっぽん芸術げいじゅついん管轄かんかつとなり、また「しょ」がくわわり5部門ぶもんとなった[1]。1949ねん昭和しょうわ24ねん)になり日本にっぽん芸術げいじゅついんれい制定せいていされるととも日本にっぽん芸術げいじゅついん会員かいいん有志ゆうしによって日展にってん運営うんえいかい組織そしきされ、同年どうねん開催かいさいだい5かい日展にってんより1957ねん昭和しょうわ32ねん開催かいさいだい13かい日展にってんまでは日本にっぽん芸術げいじゅついん日展にってん運営うんえいかい共同きょうどう開催かいさいかたちった[1]

民営みんえい

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1958ねん昭和しょうわ33ねん)4がつ26にち前述ぜんじゅつ日展にってん運営うんえいかい社団しゃだん法人ほうじん日展にってんとして日本にっぽん芸術げいじゅついんから分離ぶんりし、同年どうねん11がつ2にち-12月8にち開催かいさい展覧てんらんかいを「だい1かい日本にっぽん美術びじゅつ展覧てんらんかい」として回数かいすうをリセットし1968ねん昭和しょうわ43ねん)のだい11かい日展にってんまでつづけられた[1][6]

民営みんえいした1958ねんより東京とうきょう美術館びじゅつかんうち所在しょざいする日展にってん美術びじゅつ刊行かんこうかいよりとし5かいのペースで美術びじゅつ雑誌ざっしである「日展にってん美術びじゅつ」が刊行かんこうされている[8]

1969ねん昭和しょうわ44ねん)になり法人ほうじん組織そしきてん役員やくいん改選かいせん開催かいさい展覧てんらんかい正式せいしき名称めいしょうを「改組かいそだい1かい日本にっぽん美術びじゅつ展覧てんらんかい改組かいそ日展にってん)」とあらためたものの継続けいぞくせず、よく1970ねん昭和しょうわ45ねん)には改組かいそ文字もじのぞいただい2かい日展にってん名称めいしょうもどし、2013ねん平成へいせい25ねん)のだい45かい日展にってんまでつづいた[1][6]

学生がくせい運動うんどう影響えいきょう

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1969ねん多摩美術大学たまびじゅつだいがく学生がくせいだったほり浩哉ひろやにより結成けっせい[9]された美術家びじゅつか共闘きょうとう会議かいぎ共闘きょうとう[10]日展にってん粉砕ふんさい目的もくてきとしており[11]、これに影響えいきょうけ、1969ねん社団しゃだん法人ほうじん日展にってんとして団体だんたい人事じんじ刷新さっしんおこなわれた改組かいそだい1かい日展にってんにおいては11月1にちから12月6にちまでの通年つうねん期間きかん美術びじゅつ展覧てんらんかいおこなわれたが、共闘きょうとうおよび反戦はんせん美術家びじゅつか共闘きょうとう委員いいんかいなどの学生がくせい運動うんどう警戒けいかいし、10月13にちからはじまった作品さくひん搬入はんにゅう時点じてんから異例いれい警戒けいかい態勢たいせいおこな展示てんじ作品さくひん保護ほごした[11]

実際じっさいには、開会かいかい初日しょにち彫塑ちょうそ展示てんじ会場かいじょうにて一部いちぶ混乱こんらんまねいたものの全体ぜんたいとしては無事ぶじ終了しゅうりょうしたことがほうじられている[11]

不正ふせい審査しんさ問題もんだい

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石材せきざいなどに文字もじ篆刻てんこくの2009年度ねんど審査しんさめぐり、有力ゆうりょく会派かいは入選にゅうせんすう事前じぜんるという不正ふせいおこなわれたことが、朝日新聞あさひしんぶん調査ちょうさ報道ほうどうかった[12]関係かんけいしゃによると、流派りゅうは有力ゆうりょくしゃ日展にってん役員やくいんしょく人物じんぶつ)や上位じょうい師匠ししょう手土産てみやげ持参じさんして、入選にゅうせんしゃいちせきくわえてもらうのは日常にちじょう茶飯事さはんじだという[13]

また、書道しょどう以外いがい洋画ようが工芸こうげい部門ぶもんでも事前じぜん指導しどう慣行かんこうとしておこなわれ、事前じぜん指導しどうけた作品さくひん多数たすう入選にゅうせんしていたことがあきらかになっている[14]。この影響えいきょうにより、2013ねん日展にってんは、直前ちょくぜんになって日展にってんがわからの後援こうえん辞退じたいもうれがあり、文化庁ぶんかちょう後援こうえん中止ちゅうしした。また、文部もんぶ科学かがく大臣だいじんしょう選出せんしゅつ副賞ふくしょう賞金しょうきん支出ししゅつについてもりやめになった。

2014ねん4がつ幹部かんぶ会員かいいん減員げんいん参事さんじ参与さんよ評議ひょうぎいん廃止はいし)し、ピラミッド構造こうぞうあらためるなどの改革かいかく発表はっぴょう[15]

2014ねん9がつ日展にってん審査しんさいん経験けいけんしゃ日本にっぽん芸術げいじゅついん会員かいいんしん会員かいいん候補こうほから除外じょがいするよう、文化庁ぶんかちょうもとめていることがわかった[16]

2014ねん12月、問題もんだい関与かんよ指摘してきけた人物じんぶつが、日展にってん退会たいかい[17]

これにより改組かいそしんとして2014ねんあらためてだい1かい展覧てんらんかい開催かいさいしたが、内閣ないかく総理そうり大臣だいじんしょう文部もんぶ科学かがく大臣だいじんしょう選出せんしゅつりやめとなった。2015ねん改組かいそしんだい2かい展覧てんらんかいで2つのしょう復活ふっかつされるとともに、後援こうえんりやめていた文化庁ぶんかちょう後援こうえん復活ふっかつした。

開催かいさいれき

編集へんしゅう

1923ねん大正たいしょう12ねん)、1935ねん昭和しょうわ10ねん)、1945ねん昭和しょうわ20ねん)の3かい開催かいさい中断ちゅうだんされた[6]。また、1936ねん昭和しょうわ11ねん)、1946ねん昭和しょうわ21ねん)ははるあきとし2かい開催かいさいされ[6]、1940ねん昭和しょうわ15ねん皇紀こうき2600ねん)には紀元きげんせんろくひゃくねん記念きねん行事ぎょうじ一環いっかんとして「紀元きげんせんろくひゃくねん奉祝ほうしゅくてん」の開催かいさいされた[6]だい4かいしん文展ぶんてんよく1941ねん昭和しょうわ16ねん)に開催かいさいされている[6]

戦後せんご日展にってんは1958ねん昭和しょうわ33ねん)の民営みんえいと1969ねん昭和しょうわ44ねん)の改組かいそ、2014ねん改組かいそしんさい通算つうさん回数かいすうがリセットされている[6]

開催かいさい展覧てんらんかい名称めいしょう変遷へんせん[6]
回数かいすう 開催かいさいねん 正式せいしき名称めいしょう 備考びこう
1. 1907ねん明治めいじ40ねん だい1かい文展ぶんてん 文展ぶんてん文部省もんぶしょう美術びじゅつ展覧てんらんかい
2. 1908ねん明治めいじ41ねん だい2かい文展ぶんてん
3. 1909ねん明治めいじ42ねん だい3かい文展ぶんてん
4. 1910ねん明治めいじ43ねん だい4かい文展ぶんてん
5. 1911ねん明治めいじ44ねん だい5かい文展ぶんてん
6. 1912ねん大正たいしょう元年がんねん だい6かい文展ぶんてん
7. 1913ねん大正たいしょう2ねん だい7かい文展ぶんてん
8. 1914ねん大正たいしょう3ねん だい8かい文展ぶんてん
9. 1915ねん大正たいしょう4ねん だい9かい文展ぶんてん
10. 1916ねん大正たいしょう5ねん だい10かい文展ぶんてん
11. 1917ねん大正たいしょう6ねん だい11かい文展ぶんてん
12. 1918ねん大正たいしょう7ねん だい12かい文展ぶんてん
13. 1919ねん大正たいしょう8ねん だい1かいみかどてん みかどてん帝国ていこく美術びじゅつ展覧てんらんかい
14. 1920ねん大正たいしょう9ねん だい2かいみかどてん
15. 1921ねん大正たいしょう10ねん だい3かいみかどてん
16. 1922ねん大正たいしょう11ねん だい4かいみかどてん
-- 1923ねん大正たいしょう12ねん 開催かいさいなし 関東大震災かんとうだいしんさい[18]
17. 1924ねん大正たいしょう13ねん だい5かいみかどてん みかどてん帝国ていこく美術びじゅつ展覧てんらんかい
18. 1925ねん大正たいしょう14ねん だい6かいみかどてん
19. 1926ねん大正たいしょう15ねん だい7かいみかどてん
20. 1927ねん昭和しょうわ2ねん だい8かいみかどてん
21. 1928ねん昭和しょうわ3ねん だい9かいみかどてん
22. 1929ねん昭和しょうわ4ねん だい10かいみかどてん
23. 1930ねん昭和しょうわ5ねん だい11かいみかどてん
24. 1931ねん昭和しょうわ6ねん だい12かいみかどてん
25. 1932ねん昭和しょうわ7ねん だい13かいみかどてん
26. 1933ねん昭和しょうわ8ねん だい14かいみかどてん
27. 1934ねん昭和しょうわ9ねん だい15かいみかどてん
-- 1935ねん昭和しょうわ10ねん 開催かいさいなし 松田まつだ改組かいそにより中止ちゅうし[19]
28. 1936ねん昭和しょうわ11ねんはる 改組かいそだい1かいみかどてん みかどてん帝国ていこく美術びじゅつ展覧てんらんかい
29. 1936ねん昭和しょうわ11ねんあき 昭和しょうわ11ねん文展ぶんてん 文展ぶんてん文部省もんぶしょう美術びじゅつ展覧てんらんかい
30. 1937ねん昭和しょうわ12ねん だい1かいしん文展ぶんてん しん文展ぶんてんしん文部省もんぶしょう美術びじゅつ展覧てんらんかい
31. 1938ねん昭和しょうわ13ねん だい2かいしん文展ぶんてん
32. 1939ねん昭和しょうわ14ねん だい3かいしん文展ぶんてん
33. 1940ねん昭和しょうわ15ねん 紀元きげん2600ねん奉祝ほうしゅくてん
34. 1941ねん昭和しょうわ16ねん だい4かいしん文展ぶんてん しん文展ぶんてんしん文部省もんぶしょう美術びじゅつ展覧てんらんかい
35. 1942ねん昭和しょうわ17ねん だい5かいしん文展ぶんてん
36. 1943ねん昭和しょうわ18ねん だい6かいしん文展ぶんてん
37. 1944ねん昭和しょうわ19ねん 戦時せんじ特別とくべつてん
-- 1945ねん昭和しょうわ20ねん 開催かいさいなし 1945ねんあき企図きとしたものが準備じゅんび不足ふそく翌年よくねんはるにずれた[20]
38. 1946ねん昭和しょうわ21ねんはる だい1かい日展にってん 日展にってん日本にっぽん美術びじゅつ展覧てんらんかい
39. 1946ねん昭和しょうわ21ねんあき だい2かい日展にってん
40. 1947ねん昭和しょうわ22ねん だい3かい日展にってん
41. 1948ねん昭和しょうわ23ねん だい4かい日展にってん
42. 1949ねん昭和しょうわ24ねん だい5かい日展にってん
43. 1950ねん昭和しょうわ25ねん だい6かい日展にってん
44. 1951ねん昭和しょうわ26ねん だい7かい日展にってん
45. 1952ねん昭和しょうわ27ねん だい8かい日展にってん
46. 1953ねん昭和しょうわ28ねん だい9かい日展にってん
47. 1954ねん昭和しょうわ29ねん だい10かい日展にってん
48. 1955ねん昭和しょうわ30ねん だい11かい日展にってん
49. 1956ねん昭和しょうわ31ねん だい12かい日展にってん
50. 1957ねん昭和しょうわ32ねん だい13かい日展にってん
51. 1958ねん昭和しょうわ33ねん だい1かい日展にってん 日展にってん日本にっぽん美術びじゅつ展覧てんらんかい民営みんえい[2]
52. 1959ねん昭和しょうわ34ねん だい2かい日展にってん
53. 1960ねん昭和しょうわ35ねん だい3かい日展にってん
54. 1961ねん昭和しょうわ36ねん だい4かい日展にってん
55. 1962ねん昭和しょうわ37ねん だい5かい日展にってん
56. 1963ねん昭和しょうわ38ねん だい6かい日展にってん
57. 1964ねん昭和しょうわ39ねん だい7かい日展にってん
58. 1965ねん昭和しょうわ40ねん だい8かい日展にってん
59. 1966ねん昭和しょうわ41ねん だい9かい日展にってん
60. 1967ねん昭和しょうわ42ねん だい10かい日展にってん
61. 1968ねん昭和しょうわ43ねん だい11かい日展にってん
62. 1969ねん昭和しょうわ44ねん 改組かいそだい1かい日展にってん 日展にってん日本にっぽん美術びじゅつ展覧てんらんかい改組かいそだい1かいのみ[1]
63. 1970ねん昭和しょうわ45ねん だい2かい日展にってん
64. 1971ねん昭和しょうわ46ねん だい3かい日展にってん
65. 1972ねん昭和しょうわ47ねん だい4かい日展にってん
66. 1973ねん昭和しょうわ48ねん だい5かい日展にってん
67. 1974ねん昭和しょうわ49ねん だい6かい日展にってん
68. 1975ねん昭和しょうわ50ねん だい7かい日展にってん
69. 1976ねん昭和しょうわ51ねん だい8かい日展にってん
70. 1977ねん昭和しょうわ52ねん だい9かい日展にってん
71. 1978ねん昭和しょうわ53ねん だい10かい日展にってん
72. 1979ねん昭和しょうわ54ねん だい11かい日展にってん
73. 1980ねん昭和しょうわ55ねん だい12かい日展にってん
74. 1981ねん昭和しょうわ56ねん だい13かい日展にってん
75. 1982ねん昭和しょうわ57ねん だい14かい日展にってん
76. 1983ねん昭和しょうわ58ねん だい15かい日展にってん
77. 1984ねん昭和しょうわ59ねん だい16かい日展にってん
78. 1985ねん昭和しょうわ60ねん だい17かい日展にってん
79. 1986ねん昭和しょうわ61ねん だい18かい日展にってん
80. 1987ねん昭和しょうわ62ねん だい19かい日展にってん
81. 1988ねん昭和しょうわ63ねん だい20かい日展にってん
82. 1989ねん平成へいせい元年がんねん だい21かい日展にってん
83. 1990ねん平成へいせい2ねん だい22かい日展にってん
84. 1991ねん平成へいせい3ねん だい23かい日展にってん
85. 1992ねん平成へいせい4ねん だい24かい日展にってん
86. 1993ねん平成へいせい5ねん だい25かい日展にってん
87. 1994ねん平成へいせい6ねん だい26かい日展にってん
88. 1995ねん平成へいせい7ねん だい27かい日展にってん
89. 1996ねん平成へいせい8ねん だい28かい日展にってん
90. 1997ねん平成へいせい9ねん だい29かい日展にってん
91. 1998ねん平成へいせい10ねん だい30かい日展にってん
92. 1999ねん平成へいせい11ねん だい31かい日展にってん
93. 2000ねん平成へいせい12ねん だい32かい日展にってん
94. 2001ねん平成へいせい13ねん だい33かい日展にってん
95. 2002ねん平成へいせい14ねん だい34かい日展にってん
96. 2003ねん平成へいせい15ねん だい35かい日展にってん
97. 2004ねん平成へいせい16ねん だい36かい日展にってん
98. 2005ねん平成へいせい17ねん だい37かい日展にってん
99. 2006ねん平成へいせい18ねん だい38かい日展にってん
100. 2007ねん平成へいせい19ねん だい39かい日展にってん
101. 2008ねん平成へいせい20ねん だい40かい日展にってん
102. 2009ねん平成へいせい21ねん だい41かい日展にってん
103. 2010ねん平成へいせい22ねん だい42かい日展にってん
104. 2011ねん平成へいせい23ねん だい43かい日展にってん
105. 2012ねん平成へいせい24ねん だい44かい日展にってん
106. 2013ねん平成へいせい25ねん だい45かい日展にってん
107. 2014ねん平成へいせい26ねん 改組かいそ しん だい1かい日展にってん 改組かいそしん日展にってん改組かいそしん日本にっぽん美術びじゅつ展覧てんらんかい
108. 2015ねん平成へいせい27ねん 改組かいそ しん だい2かい日展にってん
109. 2016ねん平成へいせい28ねん 改組かいそ しん だい3かい日展にってん
110. 2017ねん平成へいせい29ねん 改組かいそ しん だい4かい日展にってん
111. 2018ねん平成へいせい30ねん 改組かいそ しん だい5かい日展にってん
112. 2019ねんれい元年がんねん 改組かいそ しん だい6かい日展にってん
113. 2020ねんれい2ねん 改組かいそ しん だい7かい日展にってん
114. 2021ねんれい3ねん だい8かい日展にってん
115. 2022ねんれい4ねん だい9かい日展にってん
116. 2023ねんれい5ねん だい10かい日展にってん
かく展覧てんらんかい名称めいしょう表記ひょうき原文げんぶんママ[6]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o "組織そしき概要がいよう沿革えんかく定款ていかんとう". 日展にってん 公式こうしきサイト. 2018ねん5がつ22にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f g コトバンク.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n "いち 芸術げいじゅつ文化ぶんか行政ぎょうせい". 文部もんぶ科学かがくしょう. 2018ねん5がつ23にち閲覧えつらん
  4. ^ かんてん使命しめいえた『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん昭和しょうわ7ねん10がつ21にち(『昭和しょうわニュース事典じてんだい4かん 昭和しょうわ6ねん-昭和しょうわ7ねん本編ほんぺんp444 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  5. ^ デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus. "松田まつだ源治げんじ まつだ-げんじ". コトバンク. 2018ねん5がつ23にち閲覧えつらん
  6. ^ a b c d e f g h i j k l "展覧てんらんかい変遷へんせん開催かいさいねん". 日展にってん 公式こうしきサイト. 2018ねん5がつ22にち閲覧えつらん
  7. ^ 審査しんさほう改革かいかくして投票とうひょうせいに『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ12ねん7がつ3にち夕刊ゆうかん(『昭和しょうわニュース事典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん本編ほんぺんp664 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  8. ^ 東京とうきょう文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょかん日本にっぽん美術びじゅつ年鑑ねんかん」より:「日展にってん美術びじゅつ刊行かんこう」(1958ねん8がつ)、2018ねん5がつ23にち閲覧えつらん
  9. ^ "ほり浩哉ひろやてん 起源きげん". 多摩美術大学たまびじゅつだいがく美術館びじゅつかん. 18 October 2014. 2018ねん5がつ23にち閲覧えつらん
  10. ^ 小学館しょうがくかん日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ). "藤枝ふじえだ晃雄てるお ふじえだてるお". コトバンク. 2018ねん5がつ23にち閲覧えつらん
  11. ^ a b c 東京とうきょう文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょかん日本にっぽん美術びじゅつ年鑑ねんかん」より:「改組かいそだい1かい日展にってん開幕かいまく」(1969ねん11月)、2018ねん5がつ23にち閲覧えつらん
  12. ^ 日展にってん書道しょどう篆刻てんこく」、入選にゅうせん事前じぜん配分はいぶん 有力ゆうりょく会派かいは独占どくせん. 朝日新聞あさひしんぶんデジタル (朝日新聞社あさひしんぶんしゃ). (2013ねん10がつ30にち). オリジナルの2013ねん10がつ30にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131030033559/http://www.asahi.com/articles/TKY201310290515.html 2013ねん10がつ30にち閲覧えつらん 
  13. ^ “「先生せんせいぶらじゃ駄目だめ日展にってんきびしい階級かいきゅう社会しゃかい. 朝日新聞あさひしんぶんデジタル (朝日新聞社あさひしんぶんしゃ). (2013ねん10がつ30にち). オリジナルの2013ねん10がつ30にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131030075524/http://www.asahi.com/articles/TKY201310300011.html 2016ねん1がつ18にち閲覧えつらん 
  14. ^ 日展にってん審査しんさいん会派かいは事前じぜん指導しどう 洋画ようが工芸こうげい多数たすう入選にゅうせん. 朝日新聞あさひしんぶんデジタル (朝日新聞社あさひしんぶんしゃ). (2013ねん11月20にち). オリジナルの2013ねん11月20にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131120034742/http://www.asahi.com/articles/TKY201311190467.html 2013ねん11月21にち閲覧えつらん 
  15. ^ “「改組かいそしん日展にってん」に名称めいしょう変更へんこう てん不正ふせい審査しんさ問題もんだいで”. 産経新聞さんけいしんぶん. (2014ねん4がつ10日とおか). https://web.archive.org/web/20140410142324/http://sankei.jp.msn.com/life/news/140410/art14041021390006-n1.htm 2016ねん1がつ18にち閲覧えつらん 
  16. ^ “「日展にってんもと審査しんさいん芸術げいじゅついん候補こうほからはずして」文化庁ぶんかちょう. 朝日新聞あさひしんぶんデジタル (朝日新聞社あさひしんぶんしゃ). (2014ねん9がつ9にち). オリジナルの2014ねん9がつ9にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140909165003/http://www.asahi.com/articles/ASG9852H8G98UCVL00Z.html 2016ねん1がつ18にち閲覧えつらん 
  17. ^ 日展にってん:顧問こもん書家しょか退会たいかい. 毎日新聞まいにちしんぶん (毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ). (2014ねん12月27にち). オリジナルの2015ねん1がつ1にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://archive.is/20150101014619/http://mainichi.jp/select/news/20141228k0000m040045000c.html 2016ねん1がつ18にち閲覧えつらん 
  18. ^ "関東大震災かんとうだいしんさい". コトバンク. 2018ねん12月14にち閲覧えつらん
  19. ^ 京都きょうと新聞しんぶんCOM. "【報告ほうこく講演こうえんかいあしる!大正たいしょう昭和しょうわ京都きょうと日本にっぽん」<後編こうへん>". 京都新聞社きょうとしんぶんしゃ. 2018ねん12月14にち閲覧えつらん
  20. ^ 東京とうきょう文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょかん日本にっぽん美術びじゅつ年鑑ねんかん」より:「文部省もんぶしょう美術びじゅつてん復活ふっかつ」(2015ねん11月20にち)、2018ねん12月14にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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へんちゅうコトバンク朝日新聞社あさひしんぶんしゃ主宰しゅさいインターネット百科ひゃっか事典じてんであり収録しゅうろく解説かいせつ既存きそん事典じてん辞典じてんあるいは発刊はっかんされた新聞紙しんぶんしめん内容ないよう集合しゅうごうであるため、以下いか収録しゅうろくかく文献ぶんけん詳細しょうさい列挙れっきょ明示めいじしておく。

小学館しょうがくかんデジタル大辞泉だいじせん(2018ねん4がつ現在げんざい』/『日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ:ニッポニカ(1984-1994かん
平凡社へいぼんしゃ百科ひゃっか事典じてんマイペディア(2009ねん』/『世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だい2はん(1936年版ねんばん
三省堂さんせいどう大辞林だいじりん だい3はん(2006年版ねんばん
朝日新聞社あさひしんぶんしゃ朝日新聞あさひしんぶん掲載けいさい「キーワード」, 2013ねん10がつ30にち 朝刊ちょうかん1めん総合そうごう

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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