(Translated by https://www.hiragana.jp/)
松本楼 - Wikipedia

松本まつもとろう

日本にっぽん東京とうきょう千代田ちよだ日比谷公園ひびやこうえんないにある洋風ようふうレストラン

座標ざひょう: 北緯ほくい3540ふん25.54びょう 東経とうけい13945ふん20.64びょう / 北緯ほくい35.6737611 東経とうけい139.7557333 / 35.6737611; 139.7557333

松本まつもとろう(まつもとろう)は、株式会社かぶしきがいしゃ日比谷ひびや松本まつもとろう運営うんえいする日本にっぽん東京とうきょう千代田ちよだ日比谷公園ひびやこうえんうちにある洋風ようふうレストランである。

松本まつもとろう

概要がいよう

編集へんしゅう

1903ねん東京とうきょう現在げんざい日比谷公園ひびやこうえん開園かいえんするにあたり、銀座ぎんざ食堂しょくどう経営けいえいしていた小坂こさか梅吉うめきち落札らくさつ日比谷ひびや松本まつもとろうとして6月1にちにオープンした。当時とうじとしてはめずらしい洋風ようふうレストラン人気にんきあつまり、1906ねんあきには「東京とうきょう料理りょうりてん番付ばんづけ」で"西にし関脇せきわけ"にえらばれたほどだった。その日比谷公園ひびやこうえんとともに数々かずかず歴史れきし舞台ぶたいとなり、現在げんざいいたる。

明治めいじ初期しょき信州しんしゅう伊那いな出身しゅっしん小坂こさか駒吉こまきち銀座ぎんざ6丁目ちょうめにあった松本まつもと出身しゅっしんしゃ飲食いんしょくてんゆずけていちぜんめしはじめたのが松本まつもとろう端緒たんしょとなる[1]。1872ねん銀座ぎんざ大火たいかにより、銀座ぎんざ煉瓦れんががい造成ぞうせいされることになり、完成かんせいそこで料理りょうり松本まつもと」を開業かいぎょう、そのてんひろげて「松本まつもとろう」と改称かいしょう[1]駒吉こまきち二男じなん小坂こさか梅吉うめきち東京とうきょう会議かいぎいんだったときに、日比谷公園ひびやこうえん改装かいそうまり、西洋せいよう公園こうえんならって飲食いんしょくてん設置せっちされることとなり、梅吉うめきち入札にゅうさつ予定よてい価格かかくをはるかに上回うわまわつぼ3えん50ぜにで150つぼ落札らくさつし、1904ねん洋風ようふう喫茶店きっさてん松本まつもとろう日比谷ひびやてん」として開業かいぎょうした[1][2]

にち戦争せんそう講和こうわ条約じょうやくポーツマス条約じょうやく抗議こうぎする国民こくみん集会しゅうかい日比谷ひびや焼打やきうち事件じけん)がひらかれたさいに、松本まつもとろう国士こくし集合しゅうごう場所ばしょになって以降いこう日比谷公園ひびやこうえん度々たびたび政治せいじ活動かつどう舞台ぶたいとなり、松本まつもとろうはその会場かいじょうとしてられるようになった[3][4]大正たいしょう初期しょきだいいち護憲ごけん運動うんどうではバルコニーから憲政けんせい擁護ようご演説えんぜつおこなわれた[5]

1923ねん関東大震災かんとうだいしんさいにより焼失しょうしつ。そのバラック住宅じゅうたくから復活ふっかつし、これを梅吉うめきち庶子しょし小坂こさか光雄みつおが2代目だいめ社長しゃちょうとなる。1932ねんには光雄みつおまるうち飲食いんしょくぎょう組合くみあいいん有志ゆうし発案はつあんにより、まるうち音頭おんど制作せいさくされ、日比谷公園ひびやこうえん盆踊ぼんおど大会たいかいはじめられた[6]梅吉うめきちはその1936ねん衆議院しゅうぎいん議員ぎいん(のちに貴族きぞくいん多額たがく納税のうぜいしゃ議員ぎいん)に当選とうせんしている。だい東亜とうあ戦争せんそう太平洋戦争たいへいようせんそう)に突入とつにゅうするまで、つづ人気にんきのあるレストランとして日比谷公園ひびやこうえんかおになった。

しかし1942ねん東京とうきょう空襲くうしゅうはじまると日比谷公園ひびやこうえんぐん陣地じんちとなり、1945ねん2がつつい松本まつもとろう海軍かいぐんしょう将校しょうこう宿舎しゅくしゃとなった。終戦しゅうせんのちには進駐しんちゅうしてきたGHQ宿舎しゅくしゃとして接収せっしゅうされ、やく7ねんにわたり営業えいぎょうできない日々ひびつづいた。1951ねん11月にようやく接収せっしゅうかれ、松本まつもとろうさいスタートをる。

その日比谷公園ひびやこうえん営業えいぎょうつづけていたが、1971ねん11月19にち沖縄おきなわ返還へんかん協定きょうてい反対はんたいデモが日比谷公園ひびやこうえんない激化げきかし(日比谷ひびや暴動ぼうどう事件じけん)、そのなか中核ちゅうかくげた火炎瓶かえんびん直撃ちょくげきけ、2代目だいめ建物たてもの焼失しょうしつにあう。3代目だいめ松本まつもとろうのオープンは1973ねん9月26にち再建さいけんやく2ねんようした。これを10えんカレーはじまる(後述こうじゅつ)。

3代目だいめ建物たてものには結婚けっこん披露宴ひろうえん会場かいじょう大小だいしょう宴会えんかいじょうフランス料理りょうりコースの個室こしつなど、様々さまざまなニーズにこたえた設備せつび登場とうじょう。2焼失しょうしつにあいながらも1983ねんには創業そうぎょう80ねん記念きねんに1にち店長てんちょうとして森繁もりしげ久弥ひさやむかえ、2003ねんには創業そうぎょう100ねんむかえ、現在げんざいいたっている。

だい世界せかい大戦たいせんまえには、日本にっぽん亡命ぼうめいしていた中華民国ちゅうかみんこく初代しょだい総統そうとうまごぶんインド独立どくりつ活動かつどうラース・ビハーリー・ボース、また2008ねんには中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく胡錦濤こきんとう国家こっか主席しゅせき来店らいてんした。文学ぶんがくめんでは高村たかむら光太郎こうたろう智恵子ちえこしょうをはじめ、夏目なつめ漱石そうせき松本まつもと清張せいちょうなどの作品さくひんにも松本まつもとろう舞台ぶたいとして登場とうじょうし、時代じだいえて公園こうえん象徴しょうちょうてき存在そんざいひとつでありつづけている。毎年まいとし4がつ2にちには高村たかむら光太郎こうたろう忌日きじつ連翹れんぎょう」のつどいがおこなわれている(1999ねんだい43かいから、松本まつもとろう会場かいじょううつされた)。

3代目だいめ社長しゃちょう光雄みつお二男じなん小坂こさかあきらが、4代目だいめ社長しゃちょうにその二女じじょ小坂こさか文乃あやのいている[7]

10えんカレー(カレーチャリティー)

編集へんしゅう

1971ねんの2度目どめ焼失しょうしつでは、警備けいびいん1人ひとり犠牲ぎせいになるなど被害ひがいおおきかった。歴史れきしあるレストランが焼失しょうしつしたこのらせに全国ぜんこくから再興さいこうねがいがあつまり、3代目だいめ松本まつもとろうがオープンできた。これに感謝かんしゃしめ記念きねん行事ぎょうじとして、松本まつもとろうは「10えんカレー」セールをはじめた。通常つうじょうは1250えん(2023ねん現在げんざい)のハイカラビーフカレーが、1973ねん以来いらい毎年まいとし9月25にちかぎり、先着せんちゃく1500めいかぎ10えんわれ、現在げんざい毎年まいとしこのには大勢おおぜい来客らいきゃくがあり、度々たびたびニュースでもげられている。10えんるのは「無料むりょうではお客様きゃくさまとしてもてなすことにならない」という趣旨しゅしであり、代金だいきん以外いがい寄付きふきんいていくひとおお[8]。カレーの売上うりあげ寄付きふきん交通こうつう遺児いじ育英いくえいかい日本にっぽんユニセフ協会きょうかいなどにわたされ、1995ねんには阪神はんしん淡路あわじ大震災だいしんさい義援金ぎえんきんとしておくられた。2003ねんは、創業そうぎょう100周年しゅうねんわせて「100えんカレー」として実施じっししていた。「10えんカレー」はあき季語きごにもなっている。

なお、1988ねん昭和しょうわ天皇てんのう病状びょうじょう悪化あっかによりはじめて中止ちゅうしとなり、2020ねん2021ねん新型しんがたコロナウイルス感染かんせんしょう(COVID-19)流行りゅうこう拡大かくだい防止ぼうしのため中止ちゅうしとなったが、「日比谷ひびや松本まつもとろう 感謝かんしゃ」として実施じっしされた。

2023ねんからは、先着せんちゃく来場らいじょうしゃ創業そうぎょう経過けいかねんわせた金額きんがく以上いじょう寄付きふしてわれる「カレーチャリティー」として実施じっししている。

本店ほんてん

編集へんしゅう

1かい洋食ようしょくレストラン「グリル&ガーデンテラス」、3かいはコース料理りょうりおも仏蘭西ふらんす料理りょうりレストラン「ボア・ド・ブローニュ」、2かいと3かい個室こしつ宴会えんかいじょうとして営業えいぎょう

東京とうきょうで6てん営業えいぎょうちゅう

有明ありあけ東京とうきょうビッグサイトきたコンコース1かい)- カフェテリアしき
本郷ほんごう東京大学とうきょうだいがく工学部こうがくぶ2号館ごうかん1かい
西池袋にしいけぶくろ立教大学りっきょうだいがく池袋いけぶくろキャンパスないセントポールズ会館かいかん1かい
若松わかまつ河田かわた東京女子医科大学とうきょうじょしいかだいがく病院びょういん総合そうごう外来がいらいセンター3かい
三鷹みたか杏林大学きょうりんだいがく医学部いがくぶ付属ふぞく病院びょういん外来がいらいとう6かい
浦安うらやす順天堂大学じゅんてんどうだいがく医学部いがくぶ附属ふぞく浦安うらやす病院びょういん1かい

現在げんざい取締役とりしまりやく社長しゃちょうである小坂こさか文乃あやの曾祖父そうそふ梅屋うめや庄吉しょうきち日活にっかつ前身ぜんしんのひとつであるM・パテー商会しょうかい創業そうぎょうしゃ)がまごぶん交流こうりゅうがあった(外部がいぶリンクの松本まつもとろう公式こうしきサイトない詳細しょうさいあり)。

脚注きゃくちゅう出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ a b c 銀座ぎんざきて』小坂こさかたかし財界ざいかい研究所けんきゅうじょ、2016、p14-15
  2. ^ 都市とし公園こうえん制度せいど変遷へんせん公民こうみん連携れんけい課題かだい塚田つかだひろし (国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん, 2020-05) レファレンス. (832)
  3. ^ 小坂こさか梅吉うめきちくん大正たいしょう東京とうきょう名鑑めいかん牛田うしだ義三郎ぎさぶろう へん (大正たいしょう東京とうきょう名鑑めいかん編纂へんさんかい, 1914)
  4. ^ 小坂こさか梅吉うめきち空拳くうけん努力どりょく信濃しなの立志伝りっしでん
  5. ^ 日比谷ひびや松本まつもとろう歴史れきし”. 2018ねん7がつ2にち閲覧えつらん
  6. ^ 東京とうきょう音頭おんど創出そうしゅつ影響えいきょう音頭おんどのメディア効果こうか刑部おさかべ芳則よしのり商学しょうがく研究けんきゅうだい31ごう
  7. ^ 小坂こさかあきら瑯氏が死去しきょ 日比谷ひびや松本まつもとろう会長かいちょう日本経済新聞にほんけいざいしんぶん、2018ねん6がつ5にち
  8. ^ 追悼ついとうしょう小坂こさかあきら瑯さん(日比谷ひびや松本まつもとろう会長かいちょう)「10えんカレー」の心意気こころいき読売新聞よみうりしんぶん朝刊ちょうかん2018ねん7がつ1にち

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう

外部がいぶリンク

編集へんしゅう