桑原くわばら城しろ(くわばらじょう)は、信濃しなの国こく諏訪すわ郡ぐん(現在げんざいの長野ながの県けん諏訪すわ市し四賀しが桑原くわばら)にあった中世ちゅうせいの日本にっぽんの城しろ(山城やましろ)。別名べつめいを高こう鳥屋とりや城じょう(たかとやじょう)、水晶すいしょう城じょう(すいしょうじょう)など呼よばれる。上原うえはら城しろと併あわせて長野ながの県けん指定してい史跡しせき「諏訪すわ氏し城跡じょうせき」に指定してい[1]。
築城ちくじょう年ねんは不ふ詳しょうであるが、諏訪すわ総領そうりょう家かの本拠ほんきょ・上原うえはら城しろの支ささえ城じょうとしての役割やくわりを果はたしていた。
天文てんもん11年ねん(1542年ねん)武田たけだ晴信はるのぶ(信玄しんげん)は、諏訪すわに攻せめ入いり、諏訪すわ頼よりゆき重じゅうの本拠地ほんきょち上原うえはら城しろを攻せめた。頼よりゆき重じゅうは上原うえはら城しろを支ささえきれず,桑原くわばら城じょうに逃のがれ籠城ろうじょうした。しかし、家臣かしんの多おおくは逃亡とうぼうしてしまったため、降伏ごうぶくし、頼よりゆき重じゅうは弟おとうとの大だい祝しゅく諏訪すわ頼よりゆき高だからとともに甲斐かい府中ふちゅうに連行れんこうされた。頼よりゆき重じゅうは頼よりゆき高だかと共ともに東光寺とうこうじで自刃じじんさせられ、戦国せんごく大名だいみょうの諏訪すわ氏しは滅亡めつぼうした。
桑原くわばら城じょうは上原うえはら城しろとともに武田たけだ氏しに接収せっしゅうされた。
現在げんざいは、標高ひょうこう981メートル(比ひ高だか差さ約やく190メートル)の山頂さんちょうや尾根おねに、本丸ほんまる跡あと、二にの丸まる跡あと、東ひがし郭かく、西にし郭かく、土ど塁るい、空そら堀ほりなどの遺構いこうが残のこる。城跡じょうせきからは諏訪湖すわこが一望いちぼうできる。