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源等 - Wikipedia

みなもとひとし

日本にっぽん歌人かじん

みなもと ひとし(みなもと の ひとし)は、平安へいあん時代じだい前期ぜんきから中期ちゅうきにかけての公卿くぎょう嵯峨さがはじめ中納言ちゅうなごんみなもとのぞみ次男じなん官位かんいせいよん参議さんぎ小倉おぐらひゃくにんいちしゅでは参議さんぎとう

 
みなもと ひとし
みなもとひとし
時代じだい 平安へいあん時代じだい前期ぜんき - 中期ちゅうき
生誕せいたん もとけい4ねん880ねん
死没しぼつ てんれき5ねん3がつ10日とおか951ねん4がつ18にち
別名べつめい 参議さんぎとう
官位かんい せいよん参議さんぎ
主君しゅくん 醍醐天皇だいごてんのう朱雀すざく天皇てんのう村上むらかみ天皇てんのう
氏族しぞく 嵯峨さがはじめひろりゅう
父母ちちはは ちちみなもとのぞみははしょう
兄弟きょうだい ごうひとし
つま しょう
ひとしすみまなべ、愸、藤原ふじわらあつしただししつ藤原ふじわられいしげしつ
テンプレートを表示ひょうじ

経歴けいれき

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寛平かんぺい9ねん897ねん醍醐天皇だいごてんのう践祚せんそすると、ひとしろく蔵人くろうどにんぜられる。近江おうみけんしょうじょうしゅ殿しんがりすけ兼帯けんたいて、延喜えんぎ4ねん904ねんしたがえ叙爵じょしゃくし、よく延喜えんぎ5ねん905ねん大蔵おおくらしょうにんぜられる。延喜えんぎ7ねん907ねん三河みかわまもるに遷ると、丹波たんばまもる美濃みの権守ごんもり備前びぜんもり地方ちほうかん歴任れきにんし、このあいだ治国ちこく功労こうろうにより延喜えんぎ12ねん912ねんしたがえじょう延喜えんぎ23ねん923ねんせい昇叙しょうじょされ、同年どうねん10がつにはひだりちゅうべん補任ほにんされている。醍醐だいごあさまつ延長えんちょう8ねん930ねんしたがえよん昇叙しょうじょされた。

朱雀すざくあさでは、だいおさむ大弐だいにたま正大せいだい山城やましろまもるかんかいよし長官ちょうかん歴任れきにんし、てんけい6ねん943ねんしたがえよんじょうてんけい8ねん945ねんみぎだいべん叙任じょにんされる。

村上むらかみちょう初頭しょとうてんれき元年がんねん947ねん参議さんぎにんぜられ公卿くぎょうれっす。てんれき5ねん951ねん正月しょうがつせいよん昇叙しょうじょされるが、同時どうじ政官せいかんとして兼帯けんたいしていたみぎだいべんかんかいよし長官ちょうかん讃岐さぬきもり官職かんしょくすべ辞任じにんし、同年どうねん3がつ10日とおか薨去こうきょ享年きょうねん72。最終さいしゅう官位かんい参議さんぎせいよん

人物じんぶつ

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ほん阿弥あみ光悦こうえつさく舟橋ふなばし蒔絵まきえ硯箱すずりばこ』(国宝こくほう東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん所蔵しょぞうぶた
東路あずまじの」のうた文字もじかたちりだしたぎんばんぶた全面ぜんめんらすが「舟橋ふなばし」の2をあえてはぶき、なまりばんあらわしたはしをもってしめ[1]

勅撰ちょくせん歌人かじんとして『こうせん和歌集わかしゅう』に4しゅ採録さいろくされている。そのうち「東路あずまじ佐野さの舟橋ふなばし かけてのみ おもひわたるを ひとぞなき」(こい 619)は、ほん阿弥あみ光悦こうえつさく舟橋ふなばし蒔絵まきえ硯箱すずりばこ』のぶた意匠いしょうれられたことでられる[1]

  • 小倉おぐらひゃくにんいちしゅ
    • 39ばん 浅茅生あさじゅう(あさじふ)の 小野おの篠原しのはら しのぶぶれど あまりてなどか ひとこいしき(『せん和歌集わかしゅうこいいち 577)[2]

かんれき

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公卿くぎょう補任ほにん』による。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 舟橋ふなばし蒔絵まきえ硯箱すずりばこ”. e国宝こくほう. 国立こくりつ文化財ぶんかざい機構きこう. 2022ねん3がつ25にち閲覧えつらん
  2. ^ 古今ここん和歌集わかしゅうまき十一といち浅茅生あさじゅう小野おの篠原しのはら しのぶとも ひとるらめや げんじんなしに」(よみじんしらず)を本歌ほんかしたもの。
  3. ^ 蔵人くろうど補任ほにん
  4. ^ あるいは備前びぜんもり
  5. ^ あるいは29にち
  6. ^ あるいは1にち

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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