灯台 とうだい 船 せん (とうだいせん、英 えい :lightvessel または lightship )あるいは灯船 とうせん (とうせん)[ 1] [ 2] は、灯台 とうだい の役割 やくわり をする船 ふね である。
灯台 とうだい 船 せん Finngrundet (ストックホルムの展示 てんじ 船 せん )
ハンブルクでレストラン・ホテルとして使 つか われている灯台 とうだい 船 せん
灯台 とうだい 船 せん は、灯台 とうだい を建設 けんせつ するには水深 すいしん が深 ふか すぎる場所 ばしょ で使用 しよう され、海岸 かいがん 線 せん を示 しめ す代 か わりに、海上 かいじょう 交通 こうつう 路 ろ を示 しめ す。浮標 ふひょう (ブイ) よりも視認 しにん 性 せい が高 たか いので、海上 かいじょう 交通 こうつう の支援 しえん 手段 しゅだん としては優 すぐ れている。また、海洋 かいよう 学 がく 研究 けんきゅう のための記録 きろく 機器 きき を装備 そうび した海洋 かいよう 観測 かんそく や、気象 きしょう 観測 かんそく 所 しょ 、航行 こうこう する船舶 せんぱく の監視 かんし といった機能 きのう も有 ゆう する。
通常 つうじょう の灯台 とうだい 船 せん は錨 いかり で固定 こてい され、非 ひ 自 じ 航 こう のポンツーン (浮船)であることが多 おお い。しかし推進 すいしん 器 き を有 ゆう し自 じ 航 こう 可能 かのう な灯台 とうだい 船 せん もあり、本来 ほんらい の灯台 とうだい や灯台 とうだい 船 せん の故障 こしょう や修理 しゅうり 点検 てんけん 時 じ の代行 だいこう 、「Finngrundet」のように北極 ほっきょく 海 かい で氷 こおり の無 な い夏 なつ だけ任務 にんむ に就 つ くことがあった。
灯台 とうだい 船 せん は通常 つうじょう 、目立 めだ たせるために暖色 だんしょく 系 けい の塗装 とそう が施 ほどこ された。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく では、明 あか るい赤 あか の船体 せんたい に白 しろ の大文字 おおもじ でその場所 ばしょ の名前 なまえ を書 か き、臨時 りんじ 代替 だいたい の灯台 とうだい 船 せん の場合 ばあい は「RELIEF」と書 か かれていた。また1854年 ねん から1860年 ねん までミノッツ・レッジ (Minot's Ledge ) (マサチューセッツ州 しゅう コハセット (Cohasset ) )で使 つか われた灯台 とうだい 船 せん は、背景 はいけい となる青 あお 緑 みどり の海 うみ と緑 みどり の丘 おか に対 たい して目立 めだ つように、明 あか るい黄色 おうしょく の船体 せんたい を持 も っていた。東京 とうきょう 湾 わん 口 くち に設置 せっち されていた東京 とうきょう 燈船 とうせん も、赤 あか い船体 せんたい に上 うえ 構は白 しろ で塗装 とそう されていた[ 3] 。
例外 れいがい として、ヒューロン湖 こ にあったヒューロン灯台 とうだい 船 せん は、ヒューロン・カットの入口 いりくち の黒 くろ い浮標 ふひょう のそばに置 お かれたため、同 おな じ黒 くろ で塗 ぬ られていた。
灯台 とうだい 船 せん は霧 きり の中 なか 、および日没 にちぼつ 1時 じ 間 あいだ 前 まえ から日 ひ の出 で の1時 じ 間 あいだ 後 ご までその灯火 ともしび を点 とも した。初期 しょき の灯台 とうだい 船 せん では、マスト の先端 せんたん に赤 あか またはまれに白 しろ のデイ・マーカー(昼間 ひるま の目印 めじるし )を備 そな えていた。それは接近 せっきん してくる船 ふね から最初 さいしょ に視認 しにん されることを目的 もくてき としたもので、いろいろなデザインがあったが、最 もっと も一般 いっぱん 的 てき なものは2つの逆 ぎゃく 円錐 えんすい の間 あいだ を環 たまき または球体 きゅうたい でつないだものだった。東京 とうきょう 燈船 とうせん は、マスト頂 いただき 部 ぶ に錨 いかり 泊 はく を示 しめ す黒 くろ 球 だま を掲 かか げていた[ 3] 。
灯台 とうだい 船 せん のマッシュルームアンカー
初期 しょき の灯台 とうだい 船 せん は、今日 きょう でも広 ひろ く使 つか われている爪 つめ 型 がた 錨 いかり (フルークアンカー)を使用 しよう した。この形式 けいしき の錨 いかり は引 ひ きずられやすい傾向 けいこう があり、一般 いっぱん の船 ふね が避 さ けなければならない位置 いち を示 しめ すという任務 にんむ 上 じょう 、荒天 こうてん でも動 うご かないことが求 もと められる灯台 とうだい 船 せん にはあまり適切 てきせつ なものではなかった。
19世紀 せいき 前半 ぜんはん 、灯台 とうだい 船 せん は 3 - 4 t の重 おも さを持 も つ茸 たけ 型 がた 錨 いかり (マッシュルームアンカー)を使 つか うようになった。これはロバート・スティーブンスンによって発明 はつめい されたものであり、名前 なまえ はその形 かたち に由来 ゆらい している。これを装備 そうび した最初 さいしょ の灯台 とうだい 船 せん は82tの釣 つり 舟 ぶね を改装 かいそう したもので、「ファロス」と名 な づけられ、1807年 ねん 9月 がつ 15日 にち からベル・ロックの近 ちか くで使 つか われ始 はじ めた。錨 いかり は1.5トンの重 おも さがあった。このタイプの錨 いかり の効果 こうか は、1820年代 ねんだい に鋳鉄 ちゅうてつ の錨鎖 びょうさ が導入 どうにゅう されたことで劇的 げきてき に向上 こうじょう した(経験 けいけん 則 そく で水深 すいしん 1 ft ごとに鎖 くさり 6 ft とされた[ 注釈 ちゅうしゃく 1] )。
世界 せかい 最初 さいしょ の灯台 とうだい 船 せん は、イギリス のテムズ川 がわ の河口 かこう のノア砂州 さす に、発明 はつめい 者 しゃ ロバート・ハンプリンによって1732年 ねん に設置 せっち されたものである。イングランド とウェールズ の灯台 とうだい 船 せん は、すべてトリニティ・ハウス (英国 えいこく 水先案内 みずさきあんない 協会 きょうかい )が運営 うんえい している。ほとんどは無人 むじん だが、中 なか には最高 さいこう 9人 にん の乗組 のりくみ 員 いん がいる場合 ばあい もある。11隻 せき の灯台 とうだい 船 せん と、2隻 せき のより小 ちい さな灯台 とうだい 筏 いかだ がある。
大型 おおがた の20級 きゅう 灯台 とうだい 船 せん 以外 いがい は、1995年 ねん から順次 じゅんじ ソーラーパワー 方式 ほうしき で無人 むじん 化 か され、光 ひかり の到達 とうたつ 距離 きょり は19海 うみ 里 さと (35 km ) である。20級 きゅう 灯台 とうだい 船 せん はディーゼル 発電 はつでん 機 き を備 そな え、20海里 かいり (37 km) 以上 いじょう の到達 とうたつ 距離 きょり が求 もと められる海域 かいいき で使用 しよう される。
灯台 とうだい 船 せん にはみな船体 せんたい に番号 ばんごう が振 ふ られている。20級 きゅう 灯台 とうだい 船 せん が19、22、23、25の4隻 せき 、ソーラー式 しき 灯台 とうだい 船 せん が2、5、6、7、9、10、17の7隻 せき 、ソーラー式 しき 灯台 とうだい 筏 いかだ が LF2 と LF3 の2隻 せき である。ソーラー式 しき 灯台 とうだい 船 せん 93 と 95 は廃棄 はいき された。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 最初 さいしょ の灯台 とうだい 船 せん は、1820年 ねん にチェサピーク湾 わん に設置 せっち されたものである。その数 かず は1909年 ねん にピークに達 たっ し、沿岸 えんがん に56箇所 かしょ を数 かぞ えた。それらのうち、168隻 せき は合衆国 がっしゅうこく 灯台 とうだい サービス (United States Lighthouse Service ) 、6隻 せき はアメリカ沿岸 えんがん 警備 けいび 隊 たい によって設置 せっち された。それらは1939年 ねん に吸収 きゅうしゅう された。1820年 ねん から1983年 ねん までに179隻 せき の灯台 とうだい 船 せん が造 つく られて政府 せいふ に納 おさ められ、五大 ごだい 湖 みずうみ を含 ふく む4つの沿岸 えんがん の116箇所 かしょ に配置 はいち された。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく での灯台 とうだい 船 せん の公式 こうしき な使用 しよう は、1985年 ねん 3月 がつ 29日 にち 、沿岸 えんがん 警備 けいび 隊 たい が最後 さいご の1隻 せき となる「ナンタケット I」を退役 たいえき させることで終了 しゅうりょう した。ほとんどの灯台 とうだい 船 せん は、「テキサス・タワーズ」[ 注釈 ちゅうしゃく 2] と呼 よ ばれる沖合 おきあい の照明 しょうめい プラットフォームまたは大型 おおがた の航法 こうほう ブイと交替 こうたい した。いずれも、灯台 とうだい 船 せん より建造 けんぞう 費 ひ 、維持 いじ 費 ひ ともに安価 あんか であるというのがその理由 りゆう であった。
灯台 とうだい 船 せん は現在 げんざい 15隻 せき が残存 ざんそん していると考 かんが えられる。そのうち2隻 せき はニューヨーク港 こう にあり、「アンブローズ」号 ごう (No.87) がサウス・ストリート・シーポート に、「フライパン」号 ごう (No.115) がチェルシー の63番 ばん 埠頭 ふとう のドックにある。ニューヨーク港 こう にはもう1隻 せき 、灯台 とうだい 船 せん No.84 (683 t、長 なが さ 135 ft)が浅瀬 あさせ に沈 しず んでおり、その2本 ほん のマストは今 いま でも水面 すいめん 上 じょう に見 み えている[ 4] 。
灯台 とうだい 船 せん LV82「バッファロー」号 ごう は、1913年 ねん に五大 ごだい 湖 みずうみ を襲 おそ った嵐 あらし によって6名 めい の犠牲 ぎせい 者 しゃ とともにバッファロー付近 ふきん のエリー湖 こ で浸水 しんすい ・沈没 ちんぼつ した[ 5] 。灯台 とうだい 船 せん No.61「コルシカ・ソウルズ」号 ごう も同 おな じ嵐 あらし でヒューロン湖 こ で破壊 はかい された[ 6] 。
灯台 とうだい 船 せん No.112「ナンタケット」号 ごう はニューヨーク州 しゅう オイスター湾 わん のウォーターフロントセンターに係留 けいりゅう されている。
太平洋 たいへいよう 岸 がん で最初 さいしょ の灯台 とうだい 船 せん は「コロンビア」号 ごう で、オレゴン州 しゅう アストリアに近 ちか いコロンビア川 がわ の入口 いりくち を示 しめ していた。太平洋 たいへいよう 岸 がん のもう一 いち 隻 せき の灯台 とうだい 船 せん 「スウィフトシュア」号 ごう はシアトル のサウスレイク・ユニオン・パークで展示 てんじ されている。
バージニア州 しゅう ポーツマス 市 し は、海軍 かいぐん 工廠 こうしょう 博物館 はくぶつかん に LV-101 を展示 てんじ している。LV-101 は、ピューシー&ジョーンズによって1915年 ねん に建造 けんぞう され、まずリリーフとしてケープ・チャールズ(バージニア州 しゅう )で任務 にんむ に就 つ き、その後 ご デラウェア州 しゅう オーバーフォールズとマサチューセッツ州 しゅう ストンホース浅瀬 あさせ で就役 しゅうえき した。退役 たいえき 後 ご は、ポートランド(メイン州 しゅう )で保管 ほかん され、その後 ご 博物館 はくぶつかん に売却 ばいきゃく された。今日 きょう 、LV-101 は「ポーツマス」という文字 もじ を書 か かれて乾 いぬい ドックに置 お かれているが、実際 じっさい にはポーツマスで就役 しゅうえき した事実 じじつ は無 な い。
灯台 とうだい 船 せん 「ヒューロン」LV-103 は、五大 ごだい 湖 みずうみ で使用 しよう された多 おお くの灯台 とうだい 船 せん の1つ(五大 ごだい 湖 みずうみ 初 はつ の灯台 とうだい 船 せん は1832年 ねん に Waugoshance 浅瀬 あさせ に置 お かれた「ロイス・マクレーン」)である。灯台 とうだい 船 せん はしばしば灯台 とうだい に取 と って代 か わられた。
1940年 ねん 以後 いご は「ヒューロン」は五大 ごだい 湖 みずうみ の最後 さいご の灯台 とうだい 船 せん となり、1970年 ねん に退役 たいえき するとミシガン州 しゅう ポートヒューロン で博物館 はくぶつかん として陸揚 りくあ げされた。これは現存 げんそん する最 もっと も小型 こがた の灯台 とうだい 船 せん で、96フィート級 きゅう の典型 てんけい を示 しめ している。
LV-6 と LV-73 は両方 りょうほう とも完全 かんぜん に失 うしな われた。
日本 にっぽん で灯台 とうだい 船 せん が用 もち いられ始 はじ めたのは明治 めいじ 時代 じだい に入 はい ってからのことである。横浜 よこはま 港 こう 入口 いりくち の航路 こうろ 標識 ひょうしき 整備 せいび のため幕末 ばくまつ に江戸 えど 幕府 ばくふ が建造 けんぞう に着手 ちゃくしゅ した本牧 ほんもく 灯船 とうせん が、明治 めいじ 政府 せいふ に引 ひ き継 つ がれ、1869年 ねん (明治 めいじ 2年 ねん )11月19日 にち から稼働 かどう した[ 2] 。1883年 ねん (明治 めいじ 16年 ねん )5月 がつ 19日 にち 付 づけ 『自由 じゆう 新聞 しんぶん 』には、「前号 ぜんごう にも掲 かか げし如 ごと く横浜 よこはま 港口 こうこう の燈台 とうだい 船 せん 沈没 ちんぼつ せしにつき」という記事 きじ がある[ 7] 。明治 めいじ 期 き には同様 どうよう な灯船 とうせん が函館 はこだて 港 こう にも整備 せいび された[ 2] 。
1947年 ねん (昭和 しょうわ 22年 ねん )には、東京 とうきょう 都 と 港湾 こうわん 局 きょく によって東京 とうきょう 港 こう 口 くち に東京 とうきょう 燈船 とうせん が設置 せっち された[ 1] [ 2] [ 3] 。旧 きゅう 陸軍 りくぐん の動力 どうりょく 船 せん を改装 かいそう した125総 そう トン 、長 なが さ32mの非 ひ 自 じ 航 こう 船 せん で、北緯 ほくい 35度 ど 34分 ふん 42秒 びょう 東経 とうけい 139度 ど 48分 ふん 43秒 びょう / 北緯 ほくい 35.57833度 ど 東経 とうけい 139.81194度 ど / 35.57833; 139.81194 に係留 けいりゅう された[ 3] 。灯標 とうひょう は水面 すいめん 上 じょう 6mにあり、アセトン ガスを燃料 ねんりょう とする160燭光 しょっこう または220燭光 しょっこう の灯台 とうだい を有 ゆう し、3昼夜 ちゅうや 交代 こうたい 制 せい で2名 めい の職員 しょくいん が常駐 じょうちゅう して燈船 とうせん の維持 いじ と船舶 せんぱく の監視 かんし を行 おこな っていた[ 3] 。初代 しょだい の燈船 とうせん は、1950年 ねん 8月 がつ に海上保安庁 かいじょうほあんちょう に移管 いかん されたが、1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )3月 がつ 22日 にち に荒天 こうてん で沈没 ちんぼつ した[ 3] 。直径 ちょっけい 300mmのフレネルレンズ は「近代 きんだい 航路 こうろ 標識 ひょうしき 資料 しりょう 」に認定 にんてい され、船 ふね の科学 かがく 館 かん の屋外 おくがい に展示 てんじ されている[ 3] 。
初代 しょだい の東京 とうきょう 燈船 とうせん の沈没 ちんぼつ 後 ご 、2代目 だいめ の灯船 とうせん が配備 はいび されたが、船舶 せんぱく の大型 おおがた 化 か により目視 もくし が困難 こんなん になった。そのため、1968年 ねん (昭和 しょうわ 43年 ねん )に水面 すいめん 上 じょう 29mに120万 まん カンデラ の灯標 とうひょう を有 ゆう する東京 とうきょう 灯標 とうひょう に代替 だいたい され[ 1] [ 2] [ 8] 、日本 にっぽん から灯台 とうだい 船 せん は姿 すがた を消 け した[ 2] [ 7] 。2代目 だいめ 灯船 とうせん の灯 ひ 器 き 灯 とう 柱 ばしら も、船 ふね の科学 かがく 館 かん の屋外 おくがい に展示 てんじ されている[ 1] 。
文学 ぶんがく 等 とう に登場 とうじょう する灯台 とうだい 船 せん
編集 へんしゅう
Lightship - アーチー・ビンズ (Archie Binns) の小説 しょうせつ (1934年 ねん )
Das Feuerschiff - ジークフリート・レンツ (Siegfried Lenz) の小説 しょうせつ (1960年 ねん )
The Lightship - レンツの小説 しょうせつ に基 もと づく映画 えいが (1986年 ねん )。ロバート・デュバル (Robert Duvall)、クラウス・マリア・ブランダウアー (Klaus Maria Brandauer)
Lightship - ブライアン・フロッカの児童 じどう 向 む け絵本 えほん (2007年 ねん ) ISBN 1416924361
灯台 とうだい 船 せん リリー (リリー・ライトシップ/Lillie Lightship) - 児童 じどう 向 む けテレビシリーズ「がんばれタッグス 」に登場 とうじょう した擬人 ぎじん 化 か された灯台 とうだい 船 せん
^ 通常 つうじょう 、錨鎖 びょうさ の長 なが さは水深 すいしん の10倍 ばい から20倍 ばい とされる(錨 いかり #錨鎖 びょうさ 参照 さんしょう )。
^ テキサス沿岸 えんがん で最初 さいしょ に使用 しよう された小型 こがた の石油 せきゆ 掘削 くっさく プラットフォームをモデルにしたことに由来 ゆらい する[1]