古来より渇水に悩まされていた尾張丘陵・知多半島にとって、かんがい用水のいち早い確保が求められていた。さらに戦後、名古屋市を中心とした中京圏では人口が急増。また、中京工業地帯の拡大により上水道や工業用水の需要が急速に高まっていた。
こうした背景により、尾張北部・知多方面に木曽川を水源とした用水の供給を図るべく、愛知用水計画が持ち上がった。愛知用水公団(現・独立行政法人水資源機構)は、水源として旧木曽福島町付近で木曽川に合流する王滝川にダムを建設し、木曽川中流部の兼山ダム地点にて取水、幹線水路によって知多半島南端まで結ぶことを計画した。その一環として、1957年(昭和32年)、牧尾ダム建設工事は着工され、世界銀行による資金援助も受けながら4年の歳月をかけ、1961年(昭和36年)に完成した。
牧尾ダムは、しばしば渇水による貯水率の減少に悩まされている。これを受け第2・第3の水源として阿木川ダム(阿木川)・味噌川ダム(木曽川)が建設されたが、1994年(平成6年)には知多半島で1日19時間の断水が十数日間続くという記録的な大渇水に見舞われ、トヨタ自動車の自動車関連工場等が操業時間短縮を余儀なくされた。
長野県西部地震による影響
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1984年(昭和59年)、長野県西部地震が牧尾ダムを直撃した。ダム堤体は、法面の崩壊や異常漏水は認められず、致命的な被災はなかったものの、ダム天端舗装と上下流法肩のはく離及び沈下、また、流入部左岸護岸の一部等にひずみが生じた。ゲート類は点検の結果正常に稼動することが確認できた。
また、直上流部の松越地区や濁川温泉で大規模な崖崩れや土石流が発生し、大量の土砂が御岳湖へ流入。一気に堆砂が進行する事態となった。堆砂除去工事は、4期9ヵ年にわたって施工された。除去の時期は、夏期期間と冬期間に分けて行われた。夏期施工は、8月7日~10月14日の39日間、牧尾ダムの貯水位が減少するときに高位部の堆砂を除去する。冬期期間は2月1日~4月14日の落水期間等を利用して低位部の堆砂を除去した。
水資源機構は御岳湖を掘削して堆砂除去と有効貯水容量を確保する「牧尾ダム再開発事業」を計画。現在、事業を進めている。
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