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花郎 - Wikipedia

はなろう(ファラン、かろう)は、朝鮮ちょうせん歴史れきしにおいて、しん時代じだいぜん57-935)に存在そんざいした青少年せいしょうねん修養しゅうよう団体だんたいのことを[1]

はなろう
各種かくしゅ表記ひょうき
ハングル 화랑
漢字かんじ はなろう
発音はつおん ファラン
日本語にほんごみ: かろう
マ字まじ Hwarang
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から閻立ほんおうかい 6世紀せいき中国ちゅうごく使臣ししん - ひだりからやまとしん百済くだら

国立こくりつ国語こくごいん定義ていぎによると[1]しん時代じだいもうけられた青少年せいしょうねん民間みんかん修養しゅうよう団体だんたいであり、門閥もんばつ学識がくしきがあり外見がいけんがきちんとしているひとつくられ、心身しんしん鍛錬たんれん社会しゃかい善導ぜんどう理念りねんとしていた。またはなろう指導しどうしゃくにせんはなぬしとされていた、とある。しん時代じだいには仏教ぶっきょう影響えいきょうもあり、はなろうは、道義どうぎうたらく山川やまかわ渉猟しょうりょうまなび、宮廷きゅうてい臣下しんか兵士へいしとしてつかえたことがつたえられている。

はなろう起源きげん

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はなろう文献ぶんけんじょう初出しょしゅつであるさん国史こくしの「しんほん きょうおう」によれば、はなろうという制度せいどはすぐれた人材じんざい朝廷ちょうてい推薦すいせんするためにもうけられたものであった[1]という。

東洋とうよう研究けんきゅうしゃ三品みしな彰英あきひでによるとはなろう制度せいどはその「戦士せんしだんてき男子だんし集会しゅうかい[2]性格せいかくから中国ちゅうごくの「帚制」や日本にっぽんの「ヒメヒコせい」とおなじく男子だんし集会しゅうかいしょ(メンズハウス)に起源きげんするとう。『こころざしかんつたえ』および『こう漢書かんしょかんつたえ』は3世紀せいき以前いぜんかんぞく男子だんし集会しゅうかいしょおよびそこにおけるイニシエーション通過つうか儀礼ぎれい)をつた[3]しんはなろうふるかんぞく制度せいど由来ゆらいすることを示唆しさしている。男子だんし集会しゅうかいしょ恒常こうじょうてき戦闘せんとう状態じょうたい社会しゃかいでしばしば発生はっせい展開てんかいすることがられているが、2世紀せいきから6世紀せいき朝鮮半島ちょうせんはんとうはそのような戦闘せんとう状態じょうたいにあったことが『こころざしかんつたえ』や『さん国史こくし』につたえられている[4]

はなろう制定せいてい

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はなろうという制度せいどきょうおう37ねん (576ねんころ)に制定せいていされたことが さん国史こくししるされている[5][ちゅう 1]。この記事きじによればはなろう集会しゅうかい下記かきのような特徴とくちょうそなえている。

  1. 歌舞かぶゆう娯をおこな社交しゃこうクラブ[6][ちゅう 2]伽耶かやからつたわったのうたのしなど
  2. 国家こっか有事ゆうじさい出征しゅっせいする青年せいねん戦士せんしだん[6][ちゅう 3]
  3. 青年せいねん国家こっかてき社会しゃかいてき教育きょういく機関きかん[6][ちゅう 4]
  4. 貴族きぞく子弟してい官吏かんり養成ようせい機関きかん[6][ちゅう 5]

である。これらの特徴とくちょううち貴族きぞく子弟していのみがその構成こうせいいんであり平民へいみんふくまれていないとかんがえられるてん[7][ちゅう 6]原始げんしかんぞく男子だんし集会しゅうかいしょとはおおきな相違そういである。

はなろう集団しゅうだん複数ふくすう存在そんざいし、ひとつの集団しゅうだんにはさんひゃくにんからせんにんろうがあったとつたえられている。きょうおうから聖王せいおういたるまでのやく350年間ねんかんひゃくにんあまりのはなろうせたとつたえられているが、文献ぶんけんじょうあきらかなのはつぎの26めいである。

王代おうだい はなろうめい 出自しゅつじ 分類ぶんるいせるろう 典拠てんきょ
だいじゅうよんだい しんきょうおう (みなみしゅんさだ) さん国史こくしさんこくのここと
斯多含 奈勿おうななせいまごほねちちきゅう飡仇なし 武官ぶかんろう さん国史こくし
白雲しらくも ちちぼうたちかん きむ 東国とうごくどおりかんさん国史こくしぶしよう
薛原ろう さんこくのここと
しかばねろう そう さんこくのここと
だいじゅうろくだい 真平まっぴらおう きむ庾信 おう裔孫、ほねちちかく舒玄 さん国史こくしさんこくのここと
きむれいたね ほねちちきゅう飡盤こごめ さん国史こくし
きんろう ほねちち飡大 けんくん さん国史こくし
たけむねろう ほねちちじゅつむね とくがらす(たに) さん国史こくしさんこくのここと
こうろう しゃくめぐみ宿やど さんこくのここと
瞿旵こう さんこくのここと
きょれつろう さんこくのここと
じつしょろう さんこくのここと
たからどうろう さんこくのここと
だいじゅうきゅうだい ふとしそうたけれつおう かんあきら ほねちち飡(将軍しょうぐん)しな さん国史こくし
ぶんつとむ きむ欽運・そうてんみつとう さん国史こくし
だいさんじゅういちだい 神文しんもんおう 宝川たからがわ ほね王子おうじ さんこくのここと
だいさんじゅうだい 孝昭たかあきおう おっとれいろう ほねちち薩飡だいげん あんつね さんこくのここと
しゅんながろう ざいしげるかん さんこくのここと
だいさんじゅうだい けい徳王とくおう 耆婆ろう さんこくのここと
だいよんじゅうななだい けん安王やすおう きむ膺廉 ほねおうまごちちおもね飡啓あきら さん国史こくしさんこくのここと
だいよんじゅうはちだい けいぶんおう 邀元ろう さんこくのここと
ほまれ昕郎 さんこくのここと
かつらはじめ さんこくのここと
叔宗ろう さんこくのここと
だいじゅういちだい しん聖王せいおう こうむねろう ほねぶん聖王せいおうの裔孫、けいじゅんおうちち さん国史こくしさんこくのここと

しん以後いごはなろう

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こううらら時代じだいはちかんかいにおいてせんろう歌舞かぶおこなわれた。はちかんかいとは、あき収穫しゅうかくさい仏教ぶっきょうぶしかい習合しゅうごうした行事ぎょうじでありこううららあさいちだいつうじておこなわれたが、極端きょくたん儒教じゅきょう政策せいさくをとるちょうにより廃止はいしされた。はちかんかい中心ちゅうしんとなるせんろうは「よんせん」ともばれ、良家りょうけからえらばれたよんにんからった。よんせん東海岸ひがしかいがん名勝めいしょうあそんだとの伝説でんせつのこよんにんはなろう由来ゆらいする。このように、はちかんかいせんろうしんはなろうとは密接みっせつ関係かんけいにあり、はなろう直接的ちょくせつてき後裔こうえいかんがえられる。

民間みんかんでは、山寺やまでらせんろうばれるもの僧俗そうぞくほうじられ、そのなか美貌びぼう少年しょうねん閔頔をちゅうれつおう (在位ざいい:1275ねん - 1308ねん) がしてくにせんとしたという。また、ただしれつ王代おうだい以後いご王家おうけ末裔まつえい免除めんじょされたやくとして「くにせん」があらわれる。このくにせん軍役ぐんえきしたとみられるが、ただしれつおう以前いぜんにはまったくられない。閔頔のれいとあわせて、ただしれつおう懐古かいこ趣味しゅみからたものとかんがえられる。

ちょう時代じだいには、はなろうおとこシャーマン、シャーマンのおっと芸人げいにんまいわらわ遊女ゆうじょなどをすようになった。ちょう時代じだいかれらはいずれも社会しゃかいさい下層かそう位置いちづけられていた。民俗みんぞくがくてき調査ちょうさによれば、おとこ覡としてのはなろう用法ようほう今日きょうでも全羅道ぜんらどう現存げんそんしているという。みこおっととしての用法ようほうけい尚道なおみち江原えばらみち確認かくにんされる。農閑期のうかんき乞食こじきそうれられてむら々をまわり、おどりをおどってぜにこくもとめるまいわらわはなろうばれた。方言ほうげんで、下賎げせん娼婦しょうふはなむすめはなろうまたははな郎女いらつめばれた。はなろう由来ゆらいする「ファニャンニョン」(화냥년) が浮気うわきおんな意味いみする単語たんごとして辞書じしょ記録きろくされている。ちょう時代じだいに、はなろう (ろうちゅう) とばれるおとこ覡が女装じょそうみだらな行為こういにおよんだという報告ほうこくもある。こうした後世こうせいはなろうしんはなろう関係かんけいあきらかではない。服飾ふくしょく歌舞かぶ共通きょうつう性質せいしつ見出みいだすことができる一方いっぽう相違そういてんとしては、しんはなろう上流じょうりゅう貴族きぞくからていることにたいして、後世こうせいはなろう差別さべつ階級かいきゅうとなっていることがげられる。

ていあんはじめ高麗こうらい大学だいがく)は、「たして民族みんぞく意識いしきすめらぎみん政策せいさくによって、そんなにもたやすく抹殺まっさつされるものなのか、についても疑問ぎもんです。じつ民族みんぞくとは、世紀せいきはつ朝鮮ちょうせんじん日本にっぽん統治とうちけるようになってから発見はっけんされた、想像そうぞう政治せいじてき共同きょうどうたいです。実体じったいせい欠如けつじょした想像そうぞう集団しゅうだん意識いしきであるため、民族みんぞくはむしろ強靭きょうじん生命せいめいりょくっています。我々われわれだんくん始祖しそとした拡大かくだい家族かぞくとしての運命うんめい共同きょうどうたいだ、という歴史れきし意識いしきがまさにそれです。朝鮮ちょうせんじんは、植民しょくみんながら民族みんぞくとしての『正体しょうたい/民族みんぞくてきアイデンティティ』を発見はっけんし、かれらの歴史れきし伝統でんとう文化ぶんかたい自負じふしんはじめました」「そのせいかいちきゅうよんねん朝鮮ちょうせん総督そうとくは、『風俗ふうぞく慣習かんしゅう言語げんご意識いしき次元じげんにまでおよ朝鮮ちょうせんじん完璧かんぺきすめらぎみんは、すくなくともさん〇〇ねん歳月さいげつようする至難しなん課題かだいだ』とっています。一朝一夕いっちょういっせき朝鮮ちょうせんじん強固きょうこ民族みんぞく意識いしきをそぎとし、日本人にっぽんじん改造かいぞうすることはできない、とたのです。それですめらぎみん政策せいさく突飛とっぴにも、おおくの朝鮮ちょうせんじんにとってまだ馴染なじみのなかっただんくん神話しんわをはじめ、しんはなろう朝鮮ちょうせん王朝おうちょう舜臣しゅんしんなどをし、朝鮮ちょうせんじん民族みんぞく意識いしき鼓吹こすいしました。民族みんぞく神話しんわ叙事じょじ英雄えいゆうとおし、すなのようにらばった朝鮮ちょうせん民衆みんしゅう帝国ていこく国民こくみん統合とうごうしようとする努力どりょくでもありました。総督そうとくすめらぎみん政策せいさく朝鮮ちょうせん民族みんぞく抹殺まっさつ政策せいさくなすことほど、歴史れきし複雑ふくざつ実態じったい矛盾むじゅん単純たんじゅんする稚気ちきはありません」とべている[8]

はなろう軍事ぐんじてき性質せいしつたいする異論いろん

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韓国かんこくでは、だい世界せかい大戦たいせんのちナショナリズム迎合げいごうしたはなろうさん大々的だいだいてきおこなわれ、はなろう軍事ぐんじ組織そしきせつ定着ていちゃくしている。

軍事ぐんじせつは、7世紀せいき中頃なかごろまでのすうにんはなろう事績じせきあやまった一般いっぱんによりまれた。実際じっさいには、記録きろくのこはなろう大半たいはん軍事ぐんじとは無関係むかんけいである。すうにん例外れいがいてき武人ぶじんてきはなろうについても、その活動かつどうと、彼等かれらはなろうないしはもとはなろうという属性ぞくせいとのあいだ明白めいはく関係かんけいつけられない。戦時せんじ勇猛ゆうもうさと自己じこ犠牲ぎせい精神せいしんはなろう限定げんていすべき理由りゆうはない。実際じっさい武人ぶじんてきはなろう出典しゅってんたる『さん国史こくし』の列伝れつでんは、はなろうであったことが確認かくにんされないおおくの勇士ゆうし記録きろくしている。よって、ごく一部いちぶはなろうが7世紀せいき統一とういつ戦争せんそうしん一時いちじてき風潮ふうちょう影響えいきょうされたにぎないとるのが合理ごうりてきである。

さん国史こくし』がはなろう簡潔かんけつ紹介しょうかいするしん本紀ほんぎきょうおう37ねん (576ねん) ののなかで、軍事ぐんじとの関係かんけいをうかがわせるのは、「けん忠臣ちゅうしんしたがえ此而しゅうはたいさむそつゆかり而生。」という『はなろう』から引用いんようされた簡単かんたん記述きじゅつだけである。史料しりょう性格せいかくじょう、『さん国史こくし』が『さんこくのここと』よりも軍事ぐんじについて詳細しょうさい記述きじゅつすることを期待きたいされるにもかかわらずである。しかも「ここからまれた(ゆかり而生)」という表現ひょうげんは、逆説ぎゃくせつてきに、はなろう自体じたいりょうしょういさむそつのなかから選抜せんばつされたもの、という性質せいしつ組織そしきではなかったことを示唆しさする。

事実じじつはなろうおよびはなろう頂点ちょうてんとするはなろうたちは、それ自体じたいぐん一翼いちよくになうものでもなければ独立どくりつした軍事ぐんじ組織そしきでもなかった。記録きろくのこ最初さいしょはなろう斯多含は、しぶおう従軍じゅうぐんねがて、武官ぶかん地位ちいあたえられて出陣しゅつじんした。斯多含のれいは、はなろう通常つうじょうぐん所属しょぞくしておらず、はなろうぐんへの編入へんにゅうがむしろ例外れいがいてきであったことをうかがわせる。また、斯多含が『さん国史こくし列伝れつでんおさめられたのは戦功せんこうげたからではなく、捕虜ほりょたいする寛大かんだいあつかいが賞賛しょうさんされたからである。その証拠しょうこに、このたたかいは、司令しれいかん斯夫伝記でんきでは言及げんきゅうされていない。しん随一ずいいち英雄えいゆうで、おそらくはなろう軍事ぐんじ組織そしきせつ確立かくりつもっと貢献こうけんしているきむ庾信(『さん国史こくしきむ庾信列伝れつでんによると、きむ庾信は中国ちゅうごくみかどしょうひろし子孫しそんである[ちゅう 7])については、ぐん指揮しきしたことが確認かくにんできるのはかれが34さいときである。きむ庾信はその時点じてんすではなろうではなかったと推測すいそくされるため、かれのその軍事ぐんじてき活躍かつやくはなろう一般いっぱんすることはできない。また、きむ庾信が剣術けんじゅつおさめたことを拡大かくだい解釈かいしゃくして、剣術けんじゅつはなろう心得こころえであると主張しゅちょうするものがいる。しかし、ぎゃくにこの記述きじゅつ剣術けんじゅつはなろうあいだでは一般いっぱんてきでなかったことを示唆しさする。また、きむ庾信の修行しゅぎょう呪術じゅじゅつてきで、一般いっぱんてき想像そうぞうされる剣術けんじゅつ修行しゅぎょうとはおおきくことなる。結局けっきょくのところ、はなろう軍事ぐんじ教練きょうれんおこなったことしる史料しりょう存在そんざいしない。

世俗せぞく五戒ごかいはなろうおきてであったという主張しゅちょうにも根拠こんきょい。世俗せぞく五戒ごかいは、中国ちゅうごくがえりの法師ほうし円光えんこうやまほうきこうという二人ふたり若者わかものさづけたおしえ、「ことくん以忠・ことおや以孝・交友こうゆう以信・臨戦りんせん退すさ殺生せっしょうゆう」である。世俗せぞく五戒ごかいよん番目ばんめが「臨戦りんせん退すさ」であり、軍事ぐんじ組織そしきせつには都合つごうがよい。しかし、やまほうきこうはなろうであったという記録きろくはなく、世俗せぞく五戒ごかいはなろうむすびつける記述きじゅつ存在そんざいしない。

はなろう軍事ぐんじ組織そしきせつひろまったのは、じつだい世界せかい大戦たいせんである。ちょう時代じだいにははなろう史家しか注目ちゅうもくびることはく、言及げんきゅうされた場合ばあいでも焦点しょうてん歌舞かぶにあてられ、軍事ぐんじてき要素ようそ欠落けつらくしていた。20世紀せいきはいると、さるさいひろしはなろう武士ぶしだんとして賞賛しょうさんしたが、あくまで高句麗こうくりさんものにすぎなかった。1930年代ねんだい日本にっぽん歴史れきし池内いけうちひろし鮎貝あゆかいぼうすすむ三品みしな彰英あきひでさんにん集中しゅうちゅうてきはなろう研究けんきゅうし、おおかれすくなかれはなろう軍事ぐんじてき性格せいかくみとめた。しかし、彼等かれら研究けんきゅう政治せいじてき利用りようされることはなかった。

韓国かんこくにおける状況じょうきょう変化へんかしたのは、承晩しょうばん大統領だいとうりょう指示しじのもとで大々的だいだいてき宣伝せんでんおこなわれてからである。1949ねん瑄根によって発表はっぴょうされた『はなろうどう研究けんきゅう』のなかで、愛国心あいこくしんをかきてる後世こうせい数々かずかず出来事できごとはなろう精神せいしん発露はつろとされた。国民こくみん国家こっか形成けいせいのためにはなろう精神せいしんなるものが創造そうぞうされ、報国ほうこく精神せいしんとして喧伝けんでんされた。はなろう政治せいじ利用りようは、しんけい尚道なおみち出身しゅっしんぼく正煕せいき政権せいけんがれた。その結果けっかはなろう武士ぶしだんだったという神話しんわ韓国かんこくではすっかり定着ていちゃくした。「はなろう部隊ぶたい」は韓国かんこく陸軍りくぐん精鋭せいえいであり、「はなろうだい」は韓国かんこく陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう別称べっしょうとなり、韓国かんこく武功ぶこう勲章くんしょうの4等級とうきゅうは「はなろう武功ぶこう勲章くんしょう」とづけられた。

皮肉ひにくなことに、尚武しょうぶ精神せいしん評価ひょうかされるようになったのは、朝鮮ちょうせん日本にっぽん支配しはいけた結果けっかである。極端きょくたんたけ蔑視べっし支配しはいてきだったちょう時代じだいにはかんがえられないことである。「はなろう精神せいしん」はある意味いみ日本にっぽん統治とうち宣伝せんでんされた武士ぶしどう精神せいしん代替だいたいであるにもかかわらず、韓国かんこくではぎゃくに「日本にっぽん武士ぶし原型げんけいしんはなろう」などとまことしやかにかたられている。

はなろう神話しんわには韓国かんこく武道ぶどうしょ団体だんたいびつき、その起源きげんひとつと主張しゅちょうするようになった。ITF(国際こくさいテコンドー連盟れんめい)は、はなろうかた(トゥル)の名前なまえとしている。「はなろうどう」という武道ぶどう団体だんたいは、それがしんはなろうによって実践じっせんされたと主張しゅちょうするが、実際じっさいにはハプキドー合気道あいきどう)の亜種あしゅである。こうしたうごきは、ぎゃく彼等かれら主張しゅちょう現代げんだい創作そうさくであることを証明しょうめいしている。

なお、「はなろうどう」なる用語ようご史料しりょうには登場とうじょうしない。「武士ぶしどう」との類推るいすいからつくられたとられる。朝鮮ちょうせん同音どうおんの「はなろう」であれば歴史れきしがく用語ようごとして許容きょよう可能かのうである。

はなろう登場とうじょうする作品さくひん史実しじつとのちが

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はなろう登場とうじょうする作品さくひんは、実際じっさいはなろう史実しじつとはかけはなれていることを指摘してきする意見いけんがある。宮脇みやわき淳子じゅんこは、「(『善徳ぜんとく女王じょおう』は)はなろうたちがひろげる戦闘せんとうシーンも、このドラマののひとつで、ふんだんにまれています。しろとすシーンなどは、なかなか迫力はくりょくある演出えんしゅつでした。しかしながら、あれは真実しんじつ韓国かんこくではありません。しん百済くだら高句麗こうくりたたかったかもしれないけれども、まずどうたたかったかはなは疑問ぎもんです。それこそ小競こぜいばっかりで、本格ほんかくてき戦争せんそうをしていない。だいたい、日本にっぽん飛鳥あすか時代ときよ相当そうとうする時代じだいに、あんなに堅固けんご城壁じょうへきがあるはずもないし、ローマぐんのような装備そうびもあったとはおもえません。再三さいさんいますが、服装ふくそうがまずウソです。ひゃくゆずってはなろうのレインボーカラーの制服せいふくエンターテインメントとしてゆるすとしても、兵隊へいたいたちがやたらと立派りっぱ弓矢ゆみやよろいにつけているのは見過みすごせません。朝鮮半島ちょうせんはんとうみなみ半分はんぶん、さらにそのひがし半分はんぶん国土こくどしかないしんにそんな立派りっぱ軍隊ぐんたいがつくれますか。後述こうじゅつしますが、1000ねん朝鮮ちょうせん時代じだいですらよろいかみでつくっているようなくになのですから(きよしの『まんぶんろう中国語ちゅうごくごばん』に記載きさいがあります)。にん製鉄せいてつ技術ぎじゅつがあったからといって、高度こうど工作こうさく技術ぎじゅつや、いち兵士へいしにまで軍刀ぐんとう支給しきゅうするほど大量たいりょう生産せいさんできる工業こうぎょうりょくがあるはずもありません。将軍しょうぐんたちはともかく、あんなした兵隊へいたいよろいやらかぶとやらを支給しきゅうされるはずはないのです[9]」「(はなろうは)その時代じだいになると、だんだんとその意味いみするものが変質へんしつしてゆき、遊女ゆうじょ、あるいはまいわらわ役者やくしゃおとこみこなどがはなろうばれるようになります。つまり、化粧けしょうをした、いわゆる中性ちゅうせいてきおとこというようなイメージになるわけです。そこから推察すいさつしても、おそらくは当初とうしょから、ドラマ(『善徳ぜんとく女王じょおう』)にてきたようないさましい軍事ぐんじ組織そしきではなかっただろうとかんがえられます。はなろう戦士せんし集団しゅうだんであるかのように、そのイメージをげようという風潮ふうちょうは、戦後せんごはじまったようです。民族みんぞく主義しゅぎしゃ承晩しょうばん大統領だいとうりょうが『はなろうどう』なるものをさかんに喧伝けんでんして、愛国心あいこくしんてて国家こっか建設けんせつ原動力げんどうりょくとしたのです。おそらくは日本にっぽん統治とうち時代じだい日本にっぽんの『武士ぶしどう』にせっして、うらやましいとおもったのではないでしょうか。それは結構けっこうですが、現在げんざいでは日本にっぽん武士ぶし源流げんりゅうはなろうにあるなどといいだ始末しまつで、剣道けんどう合気道あいきどうはなろう武術ぶじゅつから発生はっせいしたものだというのですからこまったものです[10]」と指摘してきしている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ さんじゅうななねん はる はじめたてまつみなもとはなはつ君臣くんしんびょう以知じんよく使類聚るいじゅうぐんゆう、以觀其行よししかこうきょ而用とげ簡美おんなにんいち曰南いち曰俊さだ。聚徒さんひゃく餘人よにん二女じじょそう娟相妬。しゅんさだ引南於私だいつよすすむしゅいたりよい、曳而とう河水こうすい以殺しゅんさだふく誅、じんしつやめ。其後、さら美貌びぼう男子だんし、粧飾名花めいかろう以奉しゅ雲集うんしゅうあるあいすり道義どうぎあるあい秨以らくゆう娯山すいとおいたりよし此知其人よこしまただし其善しゃこも於朝。かねだいといはなろう』曰、「けん忠臣ちゅうしんしたがえ此而しゅうはたいさむそつゆかり而生。」ちぇ致遠『鸞郞じょ』曰、「國有こくゆう玄妙げんみょうみち、曰風りゅうしつらえ敎之のりゆきげん、備詳せんじつ包含ほうがんさんきょうせっ群生ぐんせい。且如いれそくこう於家、そくちゅう於國、魯司寇之むね也。ところ無爲むいことくだり不言ふげんきょうしゅうばしらそう也。諸惡しょあく莫作、しょぜん奉行ぶぎょう、竺乾太子たいしこれ也。」とうれいきつねきよししんこく』曰、「貴人きじん子弟していしゃつて粧飾名花めいかろう國人くにびとみなみことごと也。」(『さん国史こくししん本紀ほんぎきょうおうさんじゅうななねんしんではきょうおう37ねん (576ねん) ごろにはみなもとはな(ウォヌワ)という巫女ふじょほうじていた。これは有能ゆうのう臣下しんかえらすのに若者わかものあつめるためであったとする。みなみしゅんさだという美女びじょ登用とうようしたところ300めいあまりの若者わかものあつまってきた。しかし巫女ふじょにん嫉妬しっとによるあらそいがおこりみなみころされしゅんさだ誅殺ちゅうさつされてしまう。そこであらためて容姿ようし端麗たんれい男子だんしえらし、化粧けしょうそうさせみなもとはなわりに登用とうようした。このリーダーかくものはなろうといい、はなろうのもとにあつまったものたちをはなろうんだ。
  2. ^ しゅ雲集うんしゅうあるあいすり道義どうぎあるあい秨以らくゆう娯山すいとおいたり」(『さん国史こくししん本紀ほんぎきょうおうさんじゅうななねん
  3. ^ 「且如にゅうのりこう於家、そくちゅう於國、魯司寇之むね也。」(『さん国史こくししん本紀ほんぎきょうおうさんじゅうななねん
  4. ^ あるあいすり道義どうぎ、... しつらえ敎之のりゆきげん、備詳せんじつ包含ほうがんさんきょうせっ群生ぐんせい。」(『さん国史こくししん本紀ほんぎきょうおうさんじゅうななねん
  5. ^ いん此知其人よこしまただし其善しゃこも於朝。...けん忠臣ちゅうしんしたがえ此而しゅうはたいさむそつゆかり而生。」
  6. ^ さんひん平民へいみんふくまれない根拠こんきょとして1.しんほねひんせいもとづく身分みぶんせい社会しゃかいであり、貴族きぞく以外いがい官吏かんり登用とうようしなかったこと(「しん用人ようにんろんほねひん, 苟非其族, 雖有おおとりざいすぐるこう, 不能ふのう踰越」『さん国史こくし列伝れつでんだいなな・薛罽あたま)2.歴代れきだいはなろうはすべて貴族きぞくであり、「国人くにびとみなたっとんではなろうほうじた」ことをあげている。
  7. ^
    きむ庾信,おうきょうじん也。じゅうせいくび不知ふちなんもとじん也。以後いごかんたてたけしじゅうはちねんみずのえとらのぼりひさしみねもちらくきゅうむらとげいたり其地開國かいこくごう曰加耶,あらためためきんかんこく。其子孫しそん相承そうしょういたりきゅうせいまごかたきたかしあるうんかたききゅう,於庾しんため曾祖そうそじんいいしょうひろしきむたかしこれせいきん。庾信またうん:「のきながえ裔,しょうひろしたね。」のりみなみ始祖しそくびつゆあずかしん同姓どうせい也。 — さん国史こくしまきよんじゅういち

出典しゅってん

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  1. ^ a b c ぼくあまねおおとり韓国かんこく武士ぶしどうはなろうどう創造そうぞう展開てんかい」『スポーツ人類じんるいがく研究けんきゅうだい2012かんだい14ごう日本にっぽんスポーツ人類じんるい学会がっかい、2012ねん12月、1-17ぺーじCRID 1390857844453805824doi:10.7192/santhropology.2012.14_1ISSN 1345-4358 
  2. ^ さんひん 1974, p. 21.
  3. ^ さんひん 1974, p. 23-24.
  4. ^ さんひん 1974, p. 25.
  5. ^ 瀧元たきもと 2004, p. 64.
  6. ^ a b c d さんひん 1974, p. 61.
  7. ^ さんひん 1974, p. 62.
  8. ^ 2020, p. 109-110.
  9. ^ 宮脇みやわき 2020, p. 42.
  10. ^ 宮脇みやわき 2020, p. 41.

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん書籍しょせき

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