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谷口弥三郎 - Wikipedia

谷口たにぐち弥三郎やさぶろう

日本にっぽん政治せいじ医師いし

谷口たにぐち 弥三郎やさぶろう(たにぐち やさぶろう、1883ねん明治めいじ16ねん8がつ13にち - 1963ねん昭和しょうわ36ねん8がつ19にち)は、日本にっぽん政治せいじ産婦人科さんふじんか医師いし医学いがくしゃ熊本くまもと県立けんりつ医学いがく専門せんもん学校がっこうげん熊本大学くまもとだいがく教授きょうじゅ久留米大学くるめだいがくちょう日本にっぽん医師いしかい会長かいちょう参議院さんぎいん議員ぎいん(3)。「不良ふりょう子孫しそん出生しゅっしょう防止ぼうしする」として、太田おおた典礼てんれい加藤かとうシヅエ一時いちじ提携ていけいをもちかけながらその影響えいきょう排除はいじょしつつ、福田ふくだ昌子まさこらととも優生ゆうせい保護ほごほう成立せいりつふかかかわった。また、熊本くまもとけんにおけるハンセン病はんせんびょう患者かんじゃ隔離かくり政策せいさく中心ちゅうしん人物じんぶつである[1]

谷口たにぐち 弥三郎やさぶろう
生誕せいたん (1883-08-13) 1883ねん8がつ13にち
日本の旗 日本にっぽん 香川かがわけん三豊みとよぐん大野原おおのはらまち
死没しぼつ (1963-08-19) 1963ねん8がつ19にち(80さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
研究けんきゅう機関きかん 熊本くまもと医学いがく専門せんもん学校がっこう
出身しゅっしんこう 私立しりつ熊本くまもと学校がっこう
おも受賞じゅしょうれき したがえよん
くんとう瑞宝章ずいほうしょう
プロジェクト:人物じんぶつでん
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生涯しょうがい

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1883ねん明治めいじ16ねん8がつ13にち香川かがわけん三豊みとよぐん大野原おおのはらまちげん観音寺かんおんじ)にうまれる。1902ねん明治めいじ35ねん)に私立しりつ熊本くまもと学校がっこうげん熊本大学くまもとだいがく医学部いがくぶ)を卒業そつぎょう県立けんりつ熊本くまもと病院びょういん産婦人科さんふじんか勤務きんむしたのち陸軍りくぐんさんとう軍医ぐんいとしてにち戦争せんそう従軍じゅうぐんする。熊本くまもと病院びょういん復職ふくしょくしたのち1909ねん明治めいじ42ねん)に母校ぼこう熊本くまもと医学いがく専門せんもん学校がっこう助教授じょきょうじゅとなる。ドイツへの留学りゅうがくて、1915ねん大正たいしょう4ねん)に教授きょうじゅ昇進しょうしんし、医学いがく博士はかせとなる。1931ねんから熊本くまもと医師いし会長かいちょう翌年よくねんから熊本くまもとけん医師いし会長かいちょうつとめ、1939ねん熊本くまもとけん婦人ふじん中心ちゅうしん詳細しょうさい人的じんてき資源しげん調査ちょうさおこなうなど、人口じんこう増強ぞうきょう理念りねん根付ねついた人口じんこう政策せいさくにも影響えいきょうおよぼした[2]

戦後せんご一転いってんして優生ゆうせいがくもとづいた産児さんじ制限せいげん立場たちばったため、反対はんたいからは二枚舌にまいじた使つかうと批判ひはんされた[3]1947ねん昭和しょうわ22ねん)にはだい1かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょ日本にっぽん進歩しんぽとうから出馬しゅつばして当選とうせんし、参議院さんぎいん議員ぎいんとして、社会党しゃかいとう議員ぎいんから立法りっぽう主導しゅどうけんうばうかたちで優生ゆうせい保護ほごほうげん母体ぼたい保護ほごほう)を提案ていあんした。谷口たにぐち国会こっかいにおいて、精神病せいしんびょう患者かんじゃ先天せんてんせい視覚しかく障害しょうがいしゃ増加ぞうか、さらには浮浪ふろうの8わりが「ていのう」であるとして「ぎゃく淘汰とうた」の脅威きょういうったえ、防止ぼうしさくとして「先天せんてんせい遺伝いでん病者びょうしゃ出生しゅっしょう抑制よくせいする」ことを主張しゅちょうした[4]ぎゃく淘汰とうたについて谷口たにぐちは、1939ねん1がつ発行はっこうの『医事いじ公論こうろんにおいて「避妊ひにんほう一般いっぱん経費けいひ関係かんけいじょう下級かきゅうしゃ貧困ひんこんしゃくだりはれずして却て中流ちゅうりゅう以上いじょう有識者ゆうしきしゃ濫用らんようせられ、いては国力こくりょく減退げんたいきたすにいたる」と主張しゅちょうし、優生ゆうせいてき出産しゅっさん管理かんりをしなければ「下級かきゅうしゃ貧困ひんこんしゃ」の人口じんこうばかりがえるとべている[5]優生ゆうせい保護ほごほうハンセン病はんせんびょう感染かんせんしょうではなく遺伝いでんびょうとするあやまった理解りかいうえに、患者かんじゃについて「かったい収容しゅうようしょ」の所長しょちょうが「その収容しゅうようしゃたいして子孫しそんへの遺伝いでんふせぐために、そのもの生殖せいしょく不能ふのうとする必要ひつようみとめたとき」には強制きょうせい断種だんしゅ対象たいしょうとし、さらに「悪質あくしつ病的びょうてき性格せいかく酒精しゅせい中毒ちゅうどく病弱びょうじゃくしゃ多産たさんしゃ貧困ひんこんしゃ」を任意にんい断種だんしゅ対象たいしょうとした[5]

哲学てつがくしゃ森岡もりおか正博まさひろによると谷口たにぐちには「はっきりした優生ゆうせい思想しそう」があり、優生ゆうせい思想しそう母体ぼたい保護ほごむすびついて提案ていあんいたった[6]。また熊本くまもとにちにち新聞しんぶん論説ろんせつ委員いいんいずみじゅんは、ナチス・ドイツによる優生ゆうせい思想しそう影響えいきょう指摘してきしている[1]

なお谷口たにぐち自身じしん優生ゆうせい保護ほごほう提案ていあん理由りゆう以下いかのように説明せつめいしている。

(前略ぜんりゃく)だいさん対策たいさくとしてかんがえらるることは産兒さんじ制限せいげん問題もんだいであります。併しこれは余程よほど注意ちゅういせんと、子供こども將來しょうらいかんがえるような比較的ひかくてき優秀ゆうしゅう階級かいきゅう人々ひとびと普通ふつう産兒さんじ制限せいげんおこない、無自覺むじかくしゃていのうしゃなどはこれをおこなわんために、國民こくみん素質そしつ低下ていかすなわ民族みんぞくぎゃくすえ汰があらわれておそれがあります。げんくににおいてはすでにぎゃくすえ汰の傾向けいこうあらわれはじめておるのであります。 — [7]

優生ゆうせい保護ほごほう成立せいりつ優生ゆうせい保護ほごほう指定してい医師いし団体だんたい日本にっぽん母性ぼせい保護ほご協会きょうかいを1949ねん結成けっせいし、谷口たにぐちどうほう改訂かいていにもふかかかわることになる。1949ねん昭和しょうわ24ねんがつには、谷口たにぐち優生ゆうせい保護ほごほう経済けいざいてき要因よういんあらたにくわえたあん提出ていしゅつした[8]

1950ねん昭和しょうわ25ねん)に参議院さんぎいん決算けっさん委員いいんかい委員いいんとなる。だい2かいだい4かい参議院さんぎいん選挙せんきょでも当選とうせんし、1952ねん昭和しょうわ27ねん)に厚生こうせい委員いいんかい母子ぼし福祉ふくしかんするしょう委員いいんかい委員いいんとなる。1955ねん昭和しょうわ30ねん)に参議院さんぎいん社会しゃかい労働ろうどう委員いいんかい委員いいん1961ねん昭和しょうわ36ねん)にはどう委員いいんかい委員いいんちょう就任しゅうにんした。また、1950ねんから1952ねんまで日本にっぽん医師いしかい会長かいちょうつとめる[9]1953ねん昭和しょうわ28ねん)、久留米大学くるめだいがくだいだい学長がくちょう就任しゅうにんした[10]

1963ねん昭和しょうわ36ねん)8がつ19にち死去しきょ、80さい死没しぼつをもってくんとう瑞宝章ずいほうしょう追贈ついぞうくんろくとうからの昇叙しょうじょ)、せいはちからしたがえよんじょされる[11]墓所はかしょ小峰こみね墓地ぼち

学長がくちょうだった久留米大学くるめだいがくうちには谷口たにぐち弥三郎やさぶろう銅像どうぞうがある。

親族しんぞく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b だい3かい検証けんしょう委員いいんかい 2011.
  2. ^ 横山よこやまたかし日本にっぽん優生ゆうせい社会しゃかいになるまで』勁草書房しょぼう、2015ねん(8しょう
  3. ^ 荒木あらききよし谷口たにぐち弥三郎やさぶろうでん谷口たにぐち弥三郎やさぶろう伝記でんき編集へんしゅう委員いいんかい、1964ねん、282ページ
  4. ^ 山本やまもと 2016, p. 14.
  5. ^ a b 優生ゆうせい保護ほごほう」の制定せいてい.
  6. ^ 森岡もりおか 1998.
  7. ^ 参議院さんぎいん厚生こうせい委員いいんかい13ごう 昭和しょうわ23ねん06がつ19にち
  8. ^ 参議院さんぎいんほん会議かいぎ26ごう 昭和しょうわ24ねん05がつ13にち
  9. ^ 日本にっぽん医師いしかい通史つうし』p18,p33日本にっぽん医師いしかい公式こうしきwebページ、2009ねん2がつ27にち閲覧えつらん
  10. ^ 久留米大学くるめだいがく歴代れきだい理事りじちょう学長がくちょう久留米大学くるめだいがく公式こうしきwebページ、2009ねん2がつ27にち閲覧えつらん
  11. ^ 官報かんぽうだい11005ごう11ぺーじ 昭和しょうわ38ねん11月18にちごう
  12. ^ 谷口たにぐち長雄ながお」『愛媛えひめけん 人物じんぶつ愛媛えひめけん編纂へんさん委員いいんかい、1989ねん、397ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん書籍しょせき

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  • 荒木あらききよし谷口たにぐち弥三郎やさぶろうでん谷口たにぐち弥三郎やさぶろう伝記でんき編集へんしゅう委員いいんかい、1964ねん
  • 横山よこやまたかし日本にっぽん優生ゆうせい社会しゃかいになるまで—科学かがく啓蒙けいもう、メディア、生殖せいしょく政治せいじ勁草書房しょぼう、2015ねん(8しょう人的じんてき資源しげん調査ちょうさから優生ゆうせい保護ほごほうへ:谷口たにぐち弥三郎やさぶろう戦中せんちゅう戦後せんご」)

関連かんれん項目こうもく

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議会ぎかい
先代せんだい
吉武よしたけ恵市けいいち
  参議院さんぎいん社会しゃかい労働ろうどう委員いいんちょう
1961ねん - 1962ねん
次代じだい
高野たかの一夫かずお
先代せんだい
おく主一しゅいちろう
  参議院さんぎいん決算けっさん委員いいんちょう
1950ねん
次代じだい
前之まえのえん喜一郎きいちろう
その役職やくしょく
先代せんだい
田宮たみや猛雄たけお
日本にっぽん医師いしかい会長かいちょう
だい7だい:1950ねん - 1952ねん
次代じだい
田宮たみや猛雄たけお