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豊澤團平 - Wikipedia

豊澤とよさわだんたいら

義太夫ぎだゆうぶし三味線しゃみせんかた名跡みょうせき

豊澤とよさわ だんたいら(とよざわ だんぺい)は、文楽ぶんらく義太夫ぎだゆうぶし三味線しゃみせんかた名跡みょうせき豊澤とよさわ だんたいらまたは豊沢とよさわ だんたいらとも表記ひょうきする。

代目だいめ豊澤とよさわ廣助ひろすけ幼名ようみょうとしてだんたいら名乗なのるが、三味線しゃみせんきの名跡みょうせきとしては初代しょだいだいかぞえる。

高野山こうのやまおくいん初代しょだい代目だいめはかならんでてられている。

初代しょだい豊澤とよさわだんたいら代目だいめ豊澤とよさわだんたいらはか

豊澤とよさわだんひらめ幼名ようみょう

編集へんしゅう

豊澤とよさわ吉松きちまつ豊澤とよさわげんたいら豊澤とよさわけんたいら豊澤とよさわだんたいら豊澤とよさわげんけんたいら豊澤とよさわせん左衛門さえもん代目だいめ豊澤とよさわ廣助ひろすけ[1]

代目だいめ豊澤とよさわ廣助ひろすけ文化ぶんか9ねん1813ねん)1がつ~7がつあいだやく半年はんとしあいだ名乗なのった幼名ようみょう[1]

石割いしわり松太郎まつたろう調しらべによると、文化ぶんか9ねん1813ねん正月しょうがつ稲荷いなり芝居しばいはじめて「豊澤とよさわだんたいら」の番付ばんづけり、同年どうねん6がつ25にち初日しょにち稲荷いなり芝居しばい最後さいごで、同年どうねん8がつには豊澤とよさわげんたいらもともどっている。ちなみに、よく9がつ稲荷いなり芝居しばいでは「けんひらあらた豊澤とよさわせん左衛門さえもん」とせん左衛門さえもん襲名しゅうめいし、文政ぶんせい8ねん(1825ねん代目だいめ豊澤とよさわ廣助ひろすけ襲名しゅうめいした。[1]

初代しょだい

編集へんしゅう

文政ぶんせい11ねん1828ねん) - 明治めいじ31ねん1898ねん4がつ1にち

豊澤とよさわ力松りきまつ豊澤とよさわ丑之助うしのすけ初代しょだい豊澤とよさわだんたいら

本名ほんみょう加古かこ仁兵衛じんべえ通称つうしょうだいだんたいら清水しみずまち師匠ししょう

 
初代しょだい豊澤とよさわだんたいら 明治めいじ31ねん以前いぜん撮影さつえい

播磨はりまこく加古川かこがわ現在げんざい兵庫ひょうごけん)のまれ、竹本たけもと千賀ちか太夫たゆう養子ようし天保てんぽう10ねん1839ねん)にさん代目だいめ豊澤とよさわ廣助ひろすけ入門にゅうもんし、豊沢とよさわ力松りきまつ名乗なのる。天保てんぽう13ねん1842ねん)1がつ豊澤とよさわ丑之助うしのすけ改名かいめいひろし元年がんねん1844ねん豊澤とよさわだんたいらさい改名かいめい[2]さん代目だいめ竹本たけもと長門ながと太夫たゆう皮切かわきりに代目だいめ竹本たけもとはる太夫たゆう代目だいめ竹本たけもと越路こしじ太夫たゆう竹本たけもと摂津せっつだいじょう)とだたる名人めいじん文楽ぶんらくにてき、史上しじょうはつ三味線しゃみせんだん紋下もんしたとなった。明治めいじ17ねん1884ねん)8がつ文楽ぶんらくり、彦六うつり、さん代目だいめ竹本たけもと大隅おおすみ太夫たゆうあい三味線しゃみせんとなる。同年どうねん同座どうざ11がつ公演こうえんあい三味線しゃみせん披露ひろう役場やくばは『くにせいじい合戦かっせん』のさんだん目切めぎれあまてるかんだん」であったが、だんたいらのあまりの稽古けいこはげしさに大隅おおすみ太夫たゆうこえつぶしてしまい、ろく代目だいめ竹本たけもとはじめ太夫たゆう代役だいやくしたというほどであった。[3]明治めいじ31ねん1898ねん)4がつ1にち稲荷いなり興行こうぎょう初日しょにちに「志渡寺しどじ」をきながら脳溢血のういっけつこし、病院びょういんはこばれる途中とちゅう落命らくめいした。享年きょうねん72さい戒名かいみょう大達おおだちいとどう居士こじはか大阪おおさか阿倍野あべの墓地ぼち高野たかの山奥やまおくいんだんひら名跡みょうせきいだ代目だいめ豊澤とよさわだんたいら弟子でし建立こんりゅうしたはかいしぶみ)がある。

 
初代しょだい豊澤とよさわだんたいらはか
 
初代しょだい豊澤とよさわだんたいら代目だいめ豊澤とよさわだんたいらはか

浄瑠璃じょうるり長久ながひさ 初代はつよ豊澤とよさわだん平之ひらのはか

水鉢すいばち代目だいめ豊澤とよさわだんたいら

花立はなたて三味線しゃみせんいとしょう 石村いしむら吉兵衛きちべえみぎ)・堀江ほりえ座主ざす 津谷つや吉兵衛きちべえたけ本織もとおり太夫たゆう代数だいすうがいひだり

代目だいめ豊澤とよさわだん平之ひらのはか

水鉢すいばち…(ろく代目だいめ豊澤とよさわ源吉げんきち門弟もんてい

花立はなたて豊澤とよさわ良平りょうへいみぎ 門弟もんてい豊澤とよさわ助三郎すけさぶろうひだり 門弟もんてい

おも作曲さっきょくに「つぼざか観音かんのん霊験れいけん」「良弁りょうべんすぎ由来ゆらいとう作曲さっきょく

溝口みぞぐち健二けんじ監督かんとく映画えいが浪花なにわおんな』は、豊澤とよさわだんたいらをモデルとしている[4]

生國しょうごくたましい神社じんじゃ境内けいだい浄瑠璃じょうるり神社じんじゃかみごうさんいとぐち妙音みょうおんおきなしん(みつのをたえねをのかみ)」としてまつられている。

だんたいら作曲さっきょくとそのつま千賀せんがさくとしてられる『つぼざか観音かんのん霊験れいけん』の加島屋かしまや竹中たけなか清助せいすけばんゆかほん豊澤とよさわだんたいらあきら)の奥付おくづけに「校閲こうえつ 初代しょだい豊澤とよさわだんたいら 著作ちょさくしゃ 加古かこ千賀せんが」としるされている。

昭和しょうわ18ねん1943ねん)1がつよんきょう文楽ぶんらく二代目豊竹古靱太夫櫓下やぐらした披露ひろう興行こうぎょうのパンフレットない文楽ぶんらく櫓下やぐらした代々だいだい明治めいじ以降いこう―」に「(代目だいめ竹本たけもと越路こしじ太夫たゆうは)明治めいじじゅうろくねんよんがつ興行こうぎょうより文楽ぶんらく櫓下やぐらしたとなる。このとき同時どうじ初代しょだい豊澤とよさわだんたいら櫓下やぐらしたはいる」とある[5]

東京とうきょう音楽おんがく協会きょうかいへん音楽おんがく年鑑ねんかん 昭和しょうわ10年版ねんばん』の初代しょだい鶴澤つるさわ道八どうはちらんに「初代しょだい豊澤とよさわだんたいら直門じきもん」とある[6]。また、初代しょだい鶴澤つるさわ道八どうはち本人ほんにんも「わたし初代しょだいだんたいらいて修行しゅぎょうちゅうも」とかたっている[7]

みちはち芸談げいだん』にも「千賀せんがおんな離縁りえんばなし[8]」として収録しゅうろくされている乞食こじきだんたいら三味線しゃみせん所望しょもうたずねてきたが、つません一旦いったんかえしてしまったものを、だんへいうしろでいており、なかまねれ、三味線しゃみせんかせてやった(つま応対おうたいいか離縁りえんをいいだした)という逸話いつわ東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこう附属ふぞく中学校ちゅうがっこう国語こくご漢文かんぶん研究けんきゅうかい編纂へんさん新定しんじょう国文こくぶん読本とくほん参考さんこうしょとう[9]掲載けいさいされているとお教科書きょうかしょにも収録しゅうろくされ、ひろ世間せけんわたっていた[10][11][12]。それは初代しょだいどうはちむすめの「おとうさん、うちの教科書きょうかしょにお師匠ししょうさんのことがてるよ」という発言はつげんからもあきらかである[8]鈴木すずき鼓村こそんちょみみ趣味しゅみないみょうじんだんたいら」がこのはなし出典しゅってんで、「(りゃく海松みるぬののやうな着物きもの乞食こじきが、ある初代しょだい豊澤とよさわだんたいら住居じゅうきょ格子こうしさきつた[13]」というしではじまる。

 
校閲こうえつ 初代しょだい豊澤とよさわだんたいらしるされたつぼざか観音かんのん霊験れいけんゆかほん奥付おくづけ

代目だいめ

編集へんしゅう

安政あんせい5ねん7がつ5にち1858ねん8がつ13にち) - 大正たいしょう10ねん1921ねん5月5にち

豊澤とよさわきゅう鶴澤つるさわきゅう豊澤とよさわきゅう代目だいめ豊澤とよさわ源吉げんきちよん代目だいめ豊澤とよさわせん左衛門さえもん代目だいめ豊澤とよさわだんたいら

本名ほんみょう植畑うえはたきゅう安政あんせい6ねん1859ねん)7がつ5にち大阪おおさかひがし玉造たまつくり東雲あずもまちいち丁目ちょうめかさしょうである植畑うえはたゆたかなな次男じなんとしてまれる。[2]

豊澤とよさわだんたいら入門にゅうもんし、豊澤とよさわきゅう名乗なの

編集へんしゅう

きゅうさいときに、竹本たけもと太夫たゆう代目だいめゆたかちくりょ太夫たゆう)のちちである初代しょだい鶴澤つるさわしげるづくり入門にゅうもんするも、師匠ししょうじゅうづくりは、明治めいじ2ねん1869ねん代目だいめ竹本たけもとつな太夫たゆういているさいに、つな太夫たゆうめ、三味線しゃみせんしたにおいて楽屋がくやみ、それ以来いらい芝居しばいへの出勤しゅっきんことわり、自宅じたく稽古けいこつづけていたため、きゅう芝居しばいることができなかった。そこで、師匠ししょうじゅうづくりからの手紙てがみち、初代しょだい豊澤とよさわだんたいらのところへ弟子でしりした。本名ほんみょうから豊澤とよさわきゅう名乗なのる。

明治めいじ4ねん1871ねん)8がついなり文楽ぶんらく伊賀越いがごえ』で大序だいじょはつ舞台ぶたいよく9がつ番付ばんづけに「豊澤とよさわきゅう」の名前なまえ確認かくにんできる。よく明治めいじ5ねん1872ねん)1がつ松島まつしま文楽ぶんらくの杮落し『祝儀しゅうぎ三番叟さんばそう』で初代しょだいだんたいら初代しょだい新左衛門しんざえもん豊澤とよさわさるいとのツレきをする。このとし師匠ししょう鶴澤つるさわしげるづくり追善ついぜん浄瑠璃じょうるりかい北久太郎きたきゅうたろうまち北福きたふくだいいちろう)がひらかれ、そこできゅう三味線しゃみせんいたさん代目だいめ竹本たけもとひな太夫たゆう代目だいめちく本住もとすみ太夫たゆう)が「是非ぜひいてもらいたい」ということで、明治めいじ6ねん1873ねん)10がつ道頓堀どうとんぼり竹田たけだ芝居しばい大江山おおえやましゅ吞童』「蛛のだん」にてひな太夫たゆういた。よく明治めいじ7ねん1874ねん)、16さい初代しょだい竹本たけもと春子はるこ太夫たゆうさん代目だいめ竹本たけもと大隅おおすみ太夫たゆうく。明治めいじ11ねん1878ねん)10がつ堀江ほりえがわ芝居しばいにてろく代目だいめ竹本たけもとつな太夫たゆうが「いそ駅路えきろくるまつなみちはしらせあし贔屓ひいきつなをたよりに山川やまかわ難所なんしょをいとはずふたた御地おんちかえり」と番付ばんづけ口上こうじょうきをして大阪おおさかかえってきた芝居しばいで『はちじん守護しゅごじょう』がとお狂言きょうげん上演じょうえんされ、『近頃ちかごろ河原かわはら達引たてひき』がぶつとなった。

堀川ほりかわ猿回さるまわしのだん」が初代しょだい竹本たけもと春子はるこ太夫たゆう役場やくばまったため、豊澤とよさわきゅう三味線しゃみせんつとめることになったが、あまりのわかさでのきゅう抜擢ばってきに、だんれの猿回さるまわしのツレきをいてくれるものがなかった。

じゅうはちさいやそこらの青二才あおにさいぶつ三味線しゃみせんかせるような破格はかくなことはございませんので随分ずいぶん仲間なかま苦情くじょうがあったそうでおっとれがためにもだれもツレきをしてくれるひとがありません。仕方しかたいので自分じぶん一人ひとりつとめる覚悟かくごきわめてますと、當時とうじ大立者おおだてもの初代しょだい豊澤とよさわ新左衛門しんざえもんが其事をいておのれおれ)がいてるとってくだすつたじつ有難ありがたかんじました」と本人ほんにんかたるように、初代しょだい新左衛門しんざえもんがツレきをっててくれた。ツレきはその三味線しゃみせんよりも格下かくしたのものがつとめるならいであるので、かくじょう三味線しゃみせんき…ましてその芝居しばい番付ばんづけ三味線しゃみせんきのめである新左衛門しんざえもんつとめるというのは破格はかくちゅう破格はかくである。後述こうじゅつとおり、新左衛門しんざえもんからきゅうむすめ婿むこであり、きゅうかられば新左衛門しんざえもん義父ぎふにあたる。

そのきゅうまご婿むこである鶴澤つるさわ政二郎まさじろうが、代目だいめ鶴澤つるさわ徳太郎とくたろう襲名しゅうめい披露ひろうにて『本朝ほんちょう廿にじゅうよんこう』「狐火きつねびだん」にてしん徳太郎とくたろうのツレきをつとめた。これは義父ぎふしんひだりまもるもんがツレきをつとめてくれたエピソードとかさなる[2][14]

鶴澤つるさわきよしろくいえ養子ようしはい

編集へんしゅう

このとしきゅう畳屋たたみやまち師匠ししょう初代しょだい鶴澤つるさわきよしろく養子ようしとなり、鶴澤つるさわはいった。初代しょだい清六せいろくむすめである鶴澤つるさわきくと初代しょだい豊澤とよさわ新左衛門しんざえもんむすめである「おあい」と結婚けっこんしたためである(血縁けつえんじょう初代しょだい清六せいろくまご婿むこにあたる)。これは、清六せいろく養子ようしとなり、代目だいめ鶴澤つるさわきよしろくがせるというはなしだった。芸名げいめい豊澤とよさわきゅうから鶴澤つるさわきゅうあらためている。(鶴澤つるさわきゅう記載きさいされた番付ばんづけり)つまである「おあい」とのあいだに「おとく」というむすめもうける。この「おとくのむすめ」が代目だいめ徳太郎とくたろうよん代目だいめ鶴澤つるさわきよしろく最初さいしょつまとなった(前述ぜんじゅつとおり)。鶴澤つるさわはいったきゅうであったが、「きゅう清六せいろくいえへ往つてから技倆ぎりょう(うで)がしたがつた」とのうわさち、義父ぎふである新左衛門しんざえもんたの離縁りえんをとり、豊澤とよさわきゅうへとふくした。つまであった「おあい」はこののちきゅういていた初代しょだい春子はるこ太夫たゆうさん代目だいめ竹本たけもと大隅おおすみ太夫たゆうへととついだ。まさにまぼろし代目だいめ鶴澤つるさわきよしろくであった。(血縁けつえん関係かんけいについては、初代しょだい鶴澤つるさわきよしろくの「親族しんぞくらん参照さんしょう[2][14]

代目だいめ豊澤とよさわ源吉げんきち襲名しゅうめい

編集へんしゅう

明治めいじ12ねん1879ねん)3がつ大江橋おおえばし北詰きたづめせきにて、豊澤とよさわきゅうあらた代目だいめ豊澤とよさわ源吉げんきち襲名しゅうめい弱冠じゃっかんじゅうさいであった。このころ巡業じゅんぎょうさき長崎ながさき)にてちがいから春子はるこ太夫たゆう衝突しょうとつこし、春子はるこ太夫たゆうわかれる。源吉げんきちは、春子はるこ太夫たゆうよりかくじょう太夫たゆういて春子はるこ太夫たゆう鼻柱はなばしらくじいてやりたいとの一心いっしんで、京町堀きょうまちぼり千秋せんしゅうきょう近所きんじょ借宅しゃくたくをし、ひるは靱の連中れんちゅう北新地きたしんち出稽古でげいこよる清水しみずまちだんひら師匠ししょういえ稽古けいこけにくという日々ひびごし、あまりのいそがしさにじゅうにちあまりも入浴にゅうよくせず、しらみがわき、異臭いしゅうをはなったが、それにかまわず一心不乱いっしんふらん芸道げいどうはげみ、明治めいじ17ねん1884ねん)3がつ、そのとし開場かいじょうした彦ろくにて、『はちじん守護しゅごじょう』「どくしゅだん きり」でろく代目だいめ竹本たけもとぐみ太夫たゆうくことになった。このくみ太夫たゆうについて「くみ太夫たゆうといふひと音聲おんせいおおきいはらつよひとで、わたしうでによりをかけてちからくらべをいたとげちますと先方せんぽう一生懸命いっしょうけんめいで其次興行こうぎょうの『本朝ほんちょう廿にじゅうよんこう』の「勘助かんすけじゅう」のときにはわたしけて肋膜炎ろくまくえんにかかつたとき随分ずいぶん重患じゅうかん(おまけ)になま計上けいじょう(くらしむき)が困難こんなんになつて丁度ちょうどさん年間ねんかんほど芝居しばいへも出勤しゅっきんせず商業しょうぎょうしたり稽古けいこをしたりして(いた)」とかたっている。このように病気びょうき芝居しばいやすんでいたが、明治めいじ20ねん1887ねん)に師匠ししょうだんたいら大隅おおすみ太夫たゆうみなもと太夫たゆうあさ太夫たゆうともな東京とうきょう巡業じゅんぎょうをすることになりにともない、あさ太夫たゆう舞台ぶたい復帰ふっきした。さんねんかえりばん[2][14]

師匠ししょうだんたいらとのいさかいとわか

編集へんしゅう

明治めいじ23ねん1890ねん師匠ししょうだんたいら大隅おおすみ太夫たゆういちぎょう長崎ながさき巡業じゅんぎょうったおり榎津えのきづまち榎津えのきづかんにてだんへいがインフルエンザにかかったため、源吉げんきち長崎ながさきけつけ、師匠ししょう介抱かいほうかたわら、大隅おおすみ太夫たゆういた。久々ひさびさ大隅おおすみ太夫たゆういた源吉げんきちは「師匠ししょうだんたいら)の修行しゅぎょう技芸ぎげい上達じょうたつして長崎ながさき興行こうぎょうちゅうえらこえ三味線しゃみせんばされようや熊本くまもと興行こうぎょうでシックリあいふやうになりました」とかたっている。

その熊本くまもと大当おおあたりで28日間にちかん大入おおいつづきであったために、源吉げんきち師匠ししょうだんたいらへ「熊本くまもと大当おおあたりのかねかわりになまりですがなにうか斯うかつとまりましたからお欣びください」と手紙てがみしたところ、師匠ししょうだんたいらは「源吉げんきち師匠ししょう侮蔑ぶべつにする」と激怒げきどし、返事へんじもしなかった。

巡業じゅんぎょうがえばんした源吉げんきちであったが、師匠ししょうだんへいが彦六出勤しゅっきんしていたため「病気びょうきため無理むり長崎ながさきからもどつてて其方へ挨拶あいさつもなく(彦ろく)へ出勤しゅっきんするのは不都合ふつごうではありませんか」と忠告ちゅうこくしたところ「貴様きさまのやうな恩知おんしらずに言葉ことばかわすもけがれはしい」と言葉ことば言葉ことば喧嘩けんかとなり、源吉げんきち生涯しょうがい師匠ししょういえへはあしれないと決心けっしんして神戸こうべかった。

その事件じけんからねん、「綿めん蠻たる黄鳥こうちょうおかすみまるひととしてまるをらざればとりにだもわかかざらんやおや妻子さいし行年ぎょうねんなにもっつるや返答へんとうきたし」と師匠ししょうだんたいらから手紙てがみもらい、みずからのさとり、師匠ししょうだんたいら謝罪しゃざいし、ふたた師弟してい関係かんけいもどることができた。

しかし、師匠ししょうだんたいら明治めいじ31ねん1898ねん)4がつ1にち稲荷いなり興行こうぎょう初日しょにちに「志渡寺しどじ」をきながら脳溢血のういっけつこし、病院びょういんはこばれる途中とちゅう落命らくめいした。[2][14]

よん代目だいめ豊澤とよさわせん左衛門さえもん襲名しゅうめい

編集へんしゅう

明治めいじ33ねん1900ねん)1月明げつめい楽座らくざにて源吉げんきちあらたよん代目だいめ豊澤とよさわせん左衛門さえもん襲名しゅうめい盟友めいゆう大隅おおすみ太夫たゆうの『染模様そめもよう妹背いもせ門松かどまつ』「質店しちみせだん」をき、披露ひろう狂言きょうげんとした。

豊澤とよさわせん左衛門さえもん名跡みょうせきは、義父ぎふ豊澤とよさわ新左衛門しんざえもんぜんせんはち時代じだい襲名しゅうめい希望きぼうするも、名乗なのれなかった名跡みょうせきであり、そのために初代しょだいとして新左衛門しんざえもんおこしたエピソードがある。明治めいじ36ねん1903ねん)に竹本たけもと生島いくしま太夫たゆう竹本たけもと大島おおしま太夫たゆう)ととも東京とうきょうかく出勤しゅっきんし、明治めいじ38ねん(1905ねん)に堀江ほりえ開場かいじょうするにあたりかえりばんした。[2][14]

代目だいめ豊澤とよさわだんたいら襲名しゅうめい

編集へんしゅう

師匠ししょうだんたいら実家じっかである加古かこでは、だいだんたいら遺志いしもって「豊澤とよさわだんたいら」の名跡みょうせき豊澤とよさわせん左衛門さえもん相続そうぞくさせることとした。

これにともない、明治めいじ40ねん1907ねん)6がつ15にち師匠ししょうだんたいら高弟こうていである豊澤とよさわだんなな豊澤とよさわりゅうすけ豊澤とよさわしょうだんさんしゃ平等びょうどう立場たちば立会たちあいのうえ、「代目だいめだんひら名義めいぎ使用しようこう相続そうぞく借用しゃくようとの区別くべつあかりかに承諾しょうだくことめい拝借はいしゃくつかまつこうごと相違そういこう也」と代目だいめだんひら名義めいぎ貸与たいよ契約けいやくしょわした。これによりせん左衛門さえもんいちだいかぎだんたいら襲名しゅうめいすることにけっした。[1]

せん左衛門さえもんあらた代目だいめ豊澤とよさわだんひら襲名しゅうめい披露ひろう同年どうねん7がつ東京とうきょう明治めいじ仮名かめい手本てほん忠臣蔵ちゅうしんぐら』でおこなわれた。翌々月よくよくげつの9がつには大阪おおさかがわ堀江ほりえにても襲名しゅうめい披露ひろうおこなった。襲名しゅうめい披露ひろう狂言きょうげんは『しゅう合邦がっぽうつじ』「合邦がっぽうないだん きり」。太夫たゆうさん代目だいめ竹本たけもと大隅おおすみ太夫たゆうであった。晩年ばんねん舞台ぶたいから引退いんたいし、東京とうきょう日本橋にほんばしくらうつんだ。

大正たいしょう10ねん1921ねん)5がつ5にち、64さい生涯しょうがいじた。鶴澤つるさわきよしろっ豊澤とよさわだんたいらかという人生じんせいであった。戒名かいみょうは慈音いんしゃくだん平居ひらい大阪おおさか木津きづ勘助かんすけまちただせんてら墓所はかしょがあったとつたわる。

はかいしぶみ)は高野たかのさん師匠ししょう初代しょだいだんたいらならんでてられている。[2][14]

 
代目だいめ豊澤とよさわだんたいらはか

作曲さっきょく

編集へんしゅう

大江山おおえやましゅ吞童』「一条いちじょうもどりきょうだん(『増補ぞうほ大江山おおえやま』「もどきょうだん」)

明治めいじ33ねん1900ねん)3月明げつめい楽座らくざ初演しょえん[2]

配役はいやく

渡辺わたなべつな竹本たけもとなましま太夫たゆう

おうぎおりむすめさん代目だいめ竹本たけもと伊達だて太夫たゆうろく代目だいめ竹本たけもと土佐とさ太夫たゆう

三味線しゃみせんよん代目だいめ豊澤とよさわせん左衛門さえもん代目だいめ豊澤とよさわだんたいら

八雲やくも豊澤とよさわ富子とみこ鶴澤つるさわ伊之助いのすけ

大薩摩おおざつま鶴澤つるさわ友松ともまつ初代しょだい鶴澤つるさわ道八どうはち)・代目だいめ竹本たけもと太夫たゆう番付ばんづけ友松ともまつさき記載きさい[2]

このとき大薩摩おおざつまいた鶴澤つるさわ友松ともまつ初代しょだい鶴澤つるさわ道八どうはち)は、みちはち芸談げいだん に「このとき「もどきょう」のしょおろしで、節付ふしづけ植畑うえはたせん左衛門さえもん)さん、わたし植畑うえはたさんの注文ちゅうもん大薩摩おおざつまきましたら、義太夫ぎだゆう三味線しゃみせんほそざおいてはいかん、といんこう問題もんだいになりましたが、すぐ解決かいけつしました。この芝居しばいわたしさんだんのえらい(「平井保昌ひらいのやすまさ屋敷やしきだん」)をつとめてすぐ大薩摩おおざつま、また「まつ太夫たゆうじゅうだん)」のさんだんで「えらい/\」といひながらつとめました。」とにしるしている。ほそざお三味線しゃみせんはじめて義太夫ぎだゆうぶし三味線しゃみせんきにかせた作品さくひん[3]

ゆきちゅう行軍こうぐん』(『奥羽おううせつちゅう行軍こうぐん』)「やまふち大隊だいたいちょういちぎょう悲劇ひげきだん

明治めいじ35ねん1902ねん)3月明げつめい楽座らくざ初演しょえん八甲田はっこうだせつちゅう行軍こうぐん遭難そうなん事件じけん脚色きゃくしょくした新作しんさく[2]

配役はいやく

やまふち少佐しょうさゆたかちく太夫たゆう

神谷かみや少尉しょうい竹本たけもとしょうすみ太夫たゆうたけ本織もとおり太夫たゆう代数だいすうがい))

後藤ごとう伍長ごちょう竹本たけもと弥生やよい太夫たゆう

水野みずの中尉ちゅういゆたかちく此路太夫たゆう

木村きむら兵士へいし竹本たけもとこうとも太夫たゆう

兵士へいし竹本たけもとぐみだい太夫たゆう

猟人りょうじん竹本たけもとすみ太夫たゆう

三味線しゃみせんよん代目だいめ豊澤とよさわせん左衛門さえもん代目だいめ豊澤とよさわだんたいら[2]

高安たかやす月郊げっこうさくさくら時雨しぐれ

明治めいじ39ねん1906ねん)9がつがわ堀江ほりえ初演しょえん[2]

配役はいやく

ろくじょうくるわ揚屋あげやだん竹本たけもとべい太夫たゆう

おく座敷ざしきだんよん代目だいめ竹本たけもとひな太夫たゆう

だい門外もんがいだん代目だいめ竹本たけもと太夫たゆう

さくらまちわびじゅうだんさん代目だいめ竹本たけもと伊達だて太夫たゆうろく代目だいめ竹本たけもと土佐とさ太夫たゆうよん代目だいめ豊澤とよさわせん左衛門さえもん代目だいめ豊澤とよさわだんたいら[2]

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ a b c d 石割いしわり松太郎まつたろう文楽ぶんらく雑話ざつわ. おさむぶんかん. (1944.1.10) 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 義太夫ぎだゆう年表ねんぴょう明治めいじへん. 義太夫ぎだゆう年表ねんぴょう刊行かんこうかい.. (1956-5-11) 
  3. ^ a b 道八どうはち芸談げいだん”. www.ongyoku.com. 2020ねん11月12にち閲覧えつらん
  4. ^ だい5かい豊澤とよさわだんたいら生誕せいたん」 ( 加古川かこがわ加古川町寺家かこがわちょうじけまち) 「ほっとかこがわ」財団ざいだん法人ほうじん加古川かこがわコミュニティ協会きょうかい
  5. ^ あたうまとし初春しょしゅん人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり : 櫓下やぐらした披露ひろう興行こうぎょう : 文楽ぶんらく”. dl.ndl.go.jp. 2023ねん10がつ12にち閲覧えつらん
  6. ^ 音楽おんがく年鑑ねんかん 昭和しょうわ10年版ねんばん”. dl.ndl.go.jp. 2023ねん10がつ12にち閲覧えつらん
  7. ^ 三味線しゃみせんらく 5(6)”. dl.ndl.go.jp. 2023ねん10がつ12にち閲覧えつらん
  8. ^ a b 道八どうはち芸談げいだん”. ongyoku.com. 2023ねん10がつ12にち閲覧えつらん
  9. ^ 新定しんじょう国文こくぶん読本とくほん参考さんこうしょ まき2”. dl.ndl.go.jp. 2023ねん10がつ12にち閲覧えつらん
  10. ^ 現代げんだいぶん読本とくほん まき2 再版さいはん”. dl.ndl.go.jp. 2023ねん10がつ12にち閲覧えつらん
  11. ^ 吐雲ろく (大正たいしょう名著めいちょ文庫ぶんこ ; だい5へん)”. dl.ndl.go.jp. 2023ねん10がつ12にち閲覧えつらん
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