(Translated by https://www.hiragana.jp/)
間部詮勝 - Wikipedia

間部まべ 詮勝あきかつ(まなべ あきかつ)は、江戸えど時代じだい後期こうき大名だいみょう越前えちぜん鯖江さばえはんだい7だい藩主はんしゅあいだ8だい幕末ばくまつ老中ろうじゅう首座しゅざつとめた。

 
間部まべ 詮勝あきかつ
時代じだい 江戸えど時代じだい末期まっき - 明治めいじ時代じだい
生誕せいたん 文化ぶんか元年がんねん2がつ19にち1804ねん3月30にち
死没しぼつ 明治めいじ17ねん1884ねん11月28にち
改名かいめい 鉞之すすむかいりょう詮勝あきかつまつどう
別名べつめい あいだあおおに、慈郷
戒名かいみょう あらわかちいん殿どのほんことぶきかいりょう勝大かつおお居士こじ
墓所はかしょ せい中山法華経寺なかやまほけきょうじ千葉ちばけん市川いちかわ
官位かんい したがえ下総しもうさまもるしたがえよん侍従じじゅう
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ奏者そうしゃばん寺社じしゃ奉行ぶぎょう大坂おおさか城代じょうだい京都きょうと所司代しょしだい西丸にしまる老中ろうじゅう老中ろうじゅう勝手かってかけ老中ろうじゅう
主君しゅくん 徳川とくがわ家斉いえなり家慶いえよし家定いえさだ家茂いえもち
はん 越前えちぜんこく鯖江さばえはんあるじ
氏族しぞく 間部まべ
父母ちちはは ちち間部まべかいはは永田ながた
兄弟きょうだい 間部まべかいまこと間部まべかいつつみ間部まべ詮勝あきかつみね水野みずの忠篤ただあつしつ)、けい中西なかにししゅみずしつ)、けい米倉よねくら昌寿よしかずしつ)、せんじゅうわたるぶん
つま すだれ松平まつだいらやすしにんむすめ
右京うきょうかい大河内おおこうちしんいにしえかいぜん虎之助とらのすけ大河内おおこうちただししつ菅沼すがぬまじょうちょう杉浦すぎうらただしいんかいどう室賀むろがただしさち松平まつだいらただしただしつねつう市橋いちはし長和おさわしつ)、ただしやすし、鉚(板倉いたくら勝弘かつひろしつ)、ぶく聚(大沢おおさわはじめ寿ことぶきしつのち浅野あさの友三郎ともさぶろうしつ)、くすりひろし太田おおたしつ)、まこと
テンプレートを表示ひょうじ
間部まべ詮勝あきかつ寓居ぐうきょあと京都きょうと中京ちゅうきょう寺町てらまちどおりじょうくだ東側ひがしがわ

生涯しょうがい

編集へんしゅう

文化ぶんか元年がんねん(1804ねん)2がつ19にち間部まべかいおとことして江戸えど鯖江さばえ藩邸はんていまれる。幼名ようみょう鉞之すすむ(えつのしん)。

文化ぶんか11ねん(1814ねん)に鯖江さばえ藩主はんしゅとなり、11だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家斉いえなり側近そっきんとして奏者そうしゃばん寺社じしゃ奉行ぶぎょう大坂おおさか城代じょうだい京都きょうと所司代しょしだいなどを歴任れきにんする。天保てんぽう11ねん(1840ねん)、家斉いえなり推薦すいせん西丸にしまる老中ろうじゅうとなったが、天保てんぽう改革かいかくおこなった水野みずの忠邦ただくにに、奢侈しゃしこのみだった家斉いえなりさい晩年ばんねん側近そっきんだったとうとまれ、天保てんぽう14ねん(1843ねん)に老中ろうじゅう辞任じにんした。

その安政あんせい5ねん(1858ねん)6がつ南紀なんき大老たいろう井伊いい直弼なおすけしたふたた老中ろうじゅう復帰ふっきし、財政ざいせい担当たんとうする勝手かって入用いりようかけ外交がいこう担当たんとうする外国がいこく御用ごよう取扱とりあつかい兼務けんむする。その勝手かってかけ老中ろうじゅうのぼった。同年どうねん9がつには上洛じょうらくし、朝廷ちょうていから日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく調印ちょういん勅許ちょっきょるとともに、京都きょうと所司代しょしだい酒井さかい忠義ただよしとともにいちきょう尊皇そんのう攘夷じょうい弾圧だんあつする安政あんせい大獄たいごく奔走ほんそうする。こうしたうごきにたいし、吉田よしだ松陰しょういん間部まべ詮勝あきかつ暗殺あんさつくわだてた。「井伊いいあかおに」にたいして「あいだあおおに」といわれたが、粛々しゅくしゅく政敵せいてきとの対話たいわすすめた姿勢しせい評価ひょうかされている[よう出典しゅってん]

しかし、安政あんせい6ねん(1859ねん)3がつ江戸えどもどると井伊いい直弼なおすけ対立たいりつするようになる。条約じょうやく勅許ちょっきょるといった成果せいかをあげたことで、幕政ばくせい主導しゅどうけんにぎろうとしたようである。その結果けっか同年どうねん12がつ免職めんしょくとなる。また、徳川とくがわ慶喜よしのぶらの復権ふっけんにともない、詮勝あきかつ老中ろうじゅう在任ざいにんちゅう失政しっせいありとして、文久ぶんきゅう2ねん(1862ねん)11月に隠居いんきょ謹慎きんしんとともに1まんせきげんふうこうむった。慶応けいおう元年がんねん(1865ねん)5がつ謹慎きんしんかれた。

明治めいじ元年がんねん(1868ねん)10がつ明治めいじ政府せいふから会津あいづはんとの内通ないつううたがわれて国許くにもとでの謹慎きんしんめいじられる。同年どうねん12がつ謹慎きんしんかれる。明治めいじ2ねん11月、東京とうきょうおよ京都きょうとることを許可きょかされる。

明治めいじ17ねん(1884ねん)11月28にち死去しきょ享年きょうねん81(まん80さいぼつ)。その4かげつまえあいだ(あいだかいどう隠居いんきょしていたため当主とうしゅまごかいしん)は子爵ししゃくたまわっている。

経歴けいれき

編集へんしゅう

日付ひづけ旧暦きゅうれき

  • 文化ぶんか11ねん(1814ねん
    • 7がつ継嗣けいしとなる。 
    • 9月、家督かとく相続そうぞくし、鯖江さばえ藩主はんしゅとなる。
  • 文政ぶんせい元年がんねん(1818ねん)11月16にちしたがえ下総しもうさまもる叙任じょにん
  • 文政ぶんせい9ねん(1826ねん)6がつ17にち奏者そうしゃばんとなる。
  • 天保てんぽう2ねん(1831ねん)5がつ28にち寺社じしゃ奉行ぶぎょう兼帯けんたい
  • 天保てんぽう8ねん(1837ねん)7がつ20日はつか大坂おおさか城代じょうだい異動いどう同日どうじつしたがえよん昇叙しょうじょ下総しもうさまもるもとごとし。
  • 天保てんぽう9ねん(1838ねん)4がつ11にち京都きょうと所司代しょしだい異動いどう同日どうじつ侍従じじゅう兼任けんにん
  • 天保てんぽう11ねん(1840ねん)1がつ13にち西丸にしまる大御所おおごしょ徳川とくがわ家斉いえなり老中ろうじゅう異動いどう城主じょうしゅ待遇たいぐうとなる。
  • 天保てんぽう12ねん(1841ねん)3がつ23にち将軍しょうぐん世子せいし徳川とくがわさち(のちの家定いえさだづけ老中ろうじゅう異動いどう
  • 天保てんぽう14ねん(1843ねんうるう9がつ21にち西丸にしまるいえさちづけ老中ろうじゅう辞職じしょく
  • 安政あんせい3ねん(1856ねん
    • 達山たつやまげん鯖江さばえ長泉寺ちょうせんじまち)に「嚮陽けい」を造成ぞうせい
  • 安政あんせい5ねん(1858ねん
    • 6 がつ23にちかりあいだせきより老中ろうじゅう勝手かって入用いりようかけ外国がいこく御用ごよう取扱とりあつかい兼帯けんたい。 
    • 6月26にち幕府ばくふ使者ししゃとして上洛じょうらく
  • 安政あんせい6ねん(1859ねん
    • 7がつ20日はつか勝手かってかけやく御免ごめん外国がいこく御用ごよう取扱とりあつかい多忙たぼうき)。 
    • 7がつ23にち老中ろうじゅう首座しゅざとなる。
    • 11月28にち外国がいこく御用ごよう取扱とりあつかい兼帯けんたいく。 
    • 12月24にち老中ろうじゅうやく御免ごめん
  • 文久ぶんきゅう2ねん(1862ねん)11がつ20日はつか石高こくだか1まんせきげんふうし、隠居いんきょ。4まんせきとなる。

父母ちちはは

正室せいしつ

側室そくしつ

  • 田子たつこ

子女しじょ

ペリー来航らいこう日本にっぽんがわ狼狽ろうばいんだ狂歌きょうか泰平たいへいねむりをますうええらべ たつたよんはいよるられず』の作者さくしゃ間部まべ詮勝あきかつとするせつがある(「久里浜くりはまむら」1917ねん大正たいしょう6ねんかんごうの「まつどう」で記載きさい[1]

登場とうじょうする作品さくひん

編集へんしゅう

テレビドラマ

編集へんしゅう
NHK大河たいがドラマ

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう
  • 福井ふくいけん鯖江さばえ教育きょういく委員いいんかい文化ぶんか編集へんしゅう発行はっこう間部まべ詮勝あきかつ幕末ばくまつ維新いしん軌跡きせき』 2015ねん3がつ

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう