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陳琳 - Wikipedia

ちん(ちん りん)は、中国ちゅうごくこうかん末期まっき文官ぶんかんけんやすなな一人ひとりあなあきらじょしゅう広陵こうりょうぐんけん出身しゅっしん

ちん
こうかん
つかさ空軍くうぐんさいしゅ
出生しゅっしょう 生年せいねんしょう
じょしゅう広陵こうりょうぐんけん
死去しきょ たてやすし22ねん217ねん
拼音 Chén Lín
あなあきら
主君しゅくん なんしん袁紹曹操そうそう
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生涯しょうがい

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はじめなんしんつかえ、おも簿つとめた。ひかり元年がんねん189ねん)、なんしん宦官かんがん誅滅ちゅうめつのため諸国しょこく豪雄ひでお上洛じょうらくうながすことをはかるとこれに反対はんたいしたが、れられなかった。

なんしん死後しご冀州なんけ、袁紹幕僚ばくりょうとなる。袁紹は臧洪包囲ほういすると、帰順きじゅんせま書簡しょかんひね琳にかせる。臧洪はその返書へんしょひね琳のことを「とも」などとしるしながら、帰順きじゅん勧告かんこく拒否きょひし、ちん琳と決別けつべつした[1]

けんやす5ねん200ねん)、かんわたりたたか先立さきだち、袁紹が中原なかはら全土ぜんどはいした曹操そうそう打倒だとう檄文げきぶんしるした[2]曹操そうそうはこの檄文げきぶんみ「ここにかれた曹操そうそうという人物じんぶつぞうかんがえると、んだ自分じぶんでさえいか心頭しんとうはっする」とひょうしている。また、この檄文げきぶん後世こうせい南朝なんちょうはりの『文選ぶんせん』に、名文めいぶんとしておさめられた。

けんやす7ねん202ねん)の袁紹没後ぼつご末子まっし袁尚つかえる。あらそう袁譚と袁尚、双方そうほう登用とうよう拒否きょひしたちぇ幽閉ゆうへいされると、その擁護ようごつとめた[3]

けんやす9ねん204ねん)、曹操そうそうしろ包囲ほういされると降伏ごうぶく使者ししゃとなるが、袁尚がゆるされることはなかった[2]。鄴が陥落かんらく曹操そうそうまえてられると、さきいた曹操そうそう批判ひはん檄文げきぶんまされる。その内容ないよう曹操そうそうのみならず、そのちち曹嵩祖父そふ曹騰までをも痛烈つうれつ批判ひはんするものだったが、曹操そうそうはこの檄文げきぶんめたうえで「なぜわしの祖父そふちちまではずかしめたか」とたずねた。ひね琳は「しぼったぬわけにはいきませぬ」とこたえたため、曹操そうそうからゆるされたという。

以降いこう曹操そうそうつかえ、つかさ空軍くうぐんさいしゅ、のち門下もんかとくとなる。阮瑀とともに軍事ぐんじ国政こくせいかんするおおくの文書ぶんしょしるした。けんやす22ねん(217ねん)、疫病えきびょうかかって病死びょうしした。

評価ひょうか

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曹丕著書ちょしょてんろん』のなかで「現代げんだい文学ぶんがくしゃななにん」の一人ひとりとしてをあげ、ちん琳はけんやすなな一員いちいんとして高名こうみょうせる。曹丕はただしおくった手紙てがみなかでは「文章ぶんしょうはとりわけけんだが、やや繁雑はんざつ」とひょうしている。また、曹植楊修おくった手紙てがみなかで「には熟達じゅくたつしておらず、うぬぼれから自分じぶんでは司馬しばしょうおな風格ふうかくがあるとおもいこんでいる」[4]ひょうした。

同郷どうきょうちょうひろしとは、文人ぶんじんとしておたがいを称賛しょうさんっている[5]

後世こうせいではとうとおるが「ひね琳墓」なるつく[6]、「筆先ふでさきをほしいままにし自分じぶん利益りえきたが、あのでどのめんげて袁公にまみえるのか」と、その変節へんせつ非難ひなんしている。

出典しゅってん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 三国志さんごくししょ臧洪でん
  2. ^ a b 三国志さんごくししょ袁紹でん
  3. ^ 三国志さんごくししょちぇ琰伝。
  4. ^ 三国志さんごくししょひねおもえおううえでんちゅうく『てんりゃく』。
  5. ^ 三国志さんごくししょちょうひろしでんちゅうく『くれしょ』。
  6. ^ ぜんから詩巻しかん685。